ネットのニュースに載りましたので。
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石原武龍氏死去(脚本家)・
脚本家の石原武龍氏死去 「はぐれ刑事純情派」「宇宙戦艦ヤマト 復活篇」などワタクシの先生であり、大恩人。
公私に渡って、気にかけてくれていました。
おとといの朝、訃報の連絡が来て、あまりにもショックで。
66歳。
早い、早すぎます。
先生のご両親はとても長生きされて、家系的にも、
そして先生ご自身の体が丈夫なこともあって、
ボロボロのワタクシはいつも言っていました。
「僕のほうが先に逝くので、僕の葬式に来てください」
石原先生と初めて出会ったのは、2001年10月。
当時ワタクシは30歳。
先生は49歳。
余裕と貫禄と色気があり、あとものすごく年配に見えました。
いや、今の自分と2歳しか違わないのに。
初めての時から親しくさせていただき、
その後、先生の関わるイベントに顔を出し、
フットサルチームにも加わったりしました。
花見、バーベキュー、高級餃子……いろんなことが思い起こされます。
調布の国領から、毎回、自転車で用賀に行っていました。
やがて先生が脚本塾を開くことになり、第一期の塾生として入塾。
ここでこてんぱんにやられました。
プロ、あるいはセミプロの同期の塾生たちが優秀で。
もう、すっかり自信喪失。
1年、シナリオが書けなくなり、
2年くらいでしょうか、仕事もなくなり。
先生からは「調子に乗るなよ」「奇をてらうな」「カノジョを作れ」
と、愛あるアドバイスを毎回いただきました。
いつも気にかけていただき、
というより、心配かけまくり。
先生のおかげで、テレビドラマの脚本を2本書く機会をいただきました。
なのに、結果はまったくの使い物にならない惨状でした。
2年間の脚本塾が終わり、
その後、ワタクシは先生やお仲間と距離を置くようになっていました。
完全に落ちこぼれてしまったのです。
先生やお仲間たちに対して、いかに自分が情けない存在か胸が痛いほどに。
そして、先生やお仲間たちのことを意識しないようにし、
まったく違うVシネに活路を見出しました。
ここでもがきながらも、自分に見合う世界で
水を得た魚になったような気がしました。
最後にお会いしたのは、3年前の7月、先生の誕生パーティーで。
相変わらずワタクシは卑屈気味でしたが、
先生は気さくで、「お前なんか弟子じゃねえ」と。
もちろん愛です。
最後にメールをいただいたのが、2年半前。
『
陶酔妻』の評判を人伝てに聞いたらしく、喜んでいました。
えーっと、でもその映画、
他人のチンコを移植したら、ドナーの記憶や性格が乗り移って……
という、実にくだらない話なのですけれど。
いつか面白いものを書いて、
先生に認められたい、見返してやりたい、
そういう気持ちでずっとやってきました。
エロ作品をやってきたことは1ミリも恥じてはいませんし、
むしろ誇りであり、ライフワークでもあるのですが、
そういった作品で話題、評価、ヒットさせたいと思っていました。
脚本家として一本立ちし、ちゃんと生活が送れるような姿を。
なのに、それが果たせずに終わったことが残念でなりません。
……いろいろな想いがよぎり、
いまだに整理がつきません。
このブログ記事もうまくまとまらず。
とにかくいいホンを書いて、天国の先生にご報告できるよう、
あきらめずに続けようと思います。
できそこないの弟子でも、まだまだ頑張ります。
ちなみに、この10年以上、
今月までもずっと先生のブログはこっそり覗いていました……。
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高橋祐太・脚本家ページ(仮)
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