保坂和志の「小説の誕生」
一休みしたり他の小説を読んだりしながら392ページまで来た。
今見てみたら本文は494ページあるので、残り102ページだ。
だいたい4/5読んだことになる。
”小説と演出”の記事を書いたのが11月19日。ほぼひと月かかってここまで読んだのだけど
本来もっと一気に読まないとボクの頭には入ってこない。
今日は249ページから392ページまで140ページ以上読んでいて、そうすると
ちょこちょこ読むよりは、読んでいる間の思考が行ったり来たりできて面白いのだ。
どうでもいいけど、これに書いてあることは時々難しくて理解できない。
ハイデッガーとかニーチェとかボルヘスとか引用されても元の本を読んでないので
(体に染み混んでいないので)続く保坂氏のフォローや解説が本当に理解できてるか不安になる。そういう不安感も含めてこの本を読んでいる時、自分に響いてくるものは何なのか気になる。
文章を読みながら、頭の中では思い当たることの方に思考が流れていく。
はっと気が付くと字は追っているのだが読んでいないことに気が付いて、意識のあるところまで戻って読み直す。
こういう読み方をしてるのでひどく時間がかかる。
だから一休みしたくなるんだけどブルックナーの一時間を超える交響曲を一気に聴く時と同じように、まとめて読むとそれなりに何か入ったり出たりしてる感じがする。…いや、どっちかいうとマーラーか?…。
結構大変だけど読み続けていられるのはやっぱり面白いからだろう。
あと100ページちょっとで終わるのかと思うと少し寂しい気がする。
で、”驚き”なんだけど
「現実とリアリティ」の章の始めで引用されている一文が特に印象的だった。
「石川忠司『現代小説のレッスン』(講談社現代新書)にこういうことが書いてあって、私は強く同意した。」
とある。ボクも同意した。
いわゆる「児童文学」にかんしてはまったく弛緩していると言っていい。そこには確かにウサギさんもカエルさんも気さくに話しかけてくるくらいフランクな風土であるにしろ、すでにそうした事態がジャンル的自明姓になってしまっていて、ウサギさんやカエルさんがフランクに話しかけてくることの有り難みが分かっていない上にそんな現象に対する根源的な驚きもない。(傍線部は元は傍点で保坂氏の強調部分)
これはアニメ(に限らず)の物語や設定作りをする際の”世界観”を、見る人にどう受け入れてもらうか。という作業の土台になる。
というか気をつけないといけないことではなかろうか?
人物への感情移入が、ただ万人にわかってもらえそうな同情心を起こすもの(ジャンル的自明姓)を土台にしたのでは、本当に感情移入し得る人物なのかどうか怪しい。
見慣れた荒唐無稽さ(ジャンル的自明姓)をいくら高い技術で羅列したところで、魅力的な世界にはならないんじゃないか。
アニメにありがちなデザインやギミックに凝ったとしても、キャラの性格をエキセントリックにしたとしてもそいうのは表面的なごまかしにしかならないと思う。
それ自体の”出来”に感心することはあっても、作品への感動には何も機能しないし時に邪魔になる、と思ってしまう。
だからといって、デザインやギミックに凝ることや、キャラの性格をエキセントリックにすることを否定する訳ではないんです。
描こうとする世界の中で、それが見る人と接点になるところにギャップがあるのかないのか。
どういうギャップがあるのか。
なぜそうなのか。
それらのことに自覚的かどうか。
出来上がった作品を観たら全く意識されないこういう作業が一番難しいし面白い。
演出のスタイル、ということにも関連してくるんだろうけど、例えばボクの演出作を観て、多くの人が「平松演出」だと指摘するようになったら危ない。
そういう自明姓のなかでボクが何かを工夫しても「平松演出」から出られなくなってしまい、驚きも感動も「平松演出」の範囲内の出来事に矮小化されてしまう。
まだスタイルなどとはほど遠いので有り得ないとは思うけど、あくまで見ている人の中で何かが広がるようでないと不味いな、と思う。
一休みしたり他の小説を読んだりしながら392ページまで来た。
今見てみたら本文は494ページあるので、残り102ページだ。
だいたい4/5読んだことになる。
”小説と演出”の記事を書いたのが11月19日。ほぼひと月かかってここまで読んだのだけど
本来もっと一気に読まないとボクの頭には入ってこない。
今日は249ページから392ページまで140ページ以上読んでいて、そうすると
ちょこちょこ読むよりは、読んでいる間の思考が行ったり来たりできて面白いのだ。
どうでもいいけど、これに書いてあることは時々難しくて理解できない。
ハイデッガーとかニーチェとかボルヘスとか引用されても元の本を読んでないので
(体に染み混んでいないので)続く保坂氏のフォローや解説が本当に理解できてるか不安になる。そういう不安感も含めてこの本を読んでいる時、自分に響いてくるものは何なのか気になる。
文章を読みながら、頭の中では思い当たることの方に思考が流れていく。
はっと気が付くと字は追っているのだが読んでいないことに気が付いて、意識のあるところまで戻って読み直す。
こういう読み方をしてるのでひどく時間がかかる。
だから一休みしたくなるんだけどブルックナーの一時間を超える交響曲を一気に聴く時と同じように、まとめて読むとそれなりに何か入ったり出たりしてる感じがする。…いや、どっちかいうとマーラーか?…。
結構大変だけど読み続けていられるのはやっぱり面白いからだろう。
あと100ページちょっとで終わるのかと思うと少し寂しい気がする。
で、”驚き”なんだけど
「現実とリアリティ」の章の始めで引用されている一文が特に印象的だった。
「石川忠司『現代小説のレッスン』(講談社現代新書)にこういうことが書いてあって、私は強く同意した。」
とある。ボクも同意した。
いわゆる「児童文学」にかんしてはまったく弛緩していると言っていい。そこには確かにウサギさんもカエルさんも気さくに話しかけてくるくらいフランクな風土であるにしろ、すでにそうした事態がジャンル的自明姓になってしまっていて、ウサギさんやカエルさんがフランクに話しかけてくることの有り難みが分かっていない上にそんな現象に対する根源的な驚きもない。(傍線部は元は傍点で保坂氏の強調部分)
これはアニメ(に限らず)の物語や設定作りをする際の”世界観”を、見る人にどう受け入れてもらうか。という作業の土台になる。
というか気をつけないといけないことではなかろうか?
人物への感情移入が、ただ万人にわかってもらえそうな同情心を起こすもの(ジャンル的自明姓)を土台にしたのでは、本当に感情移入し得る人物なのかどうか怪しい。
見慣れた荒唐無稽さ(ジャンル的自明姓)をいくら高い技術で羅列したところで、魅力的な世界にはならないんじゃないか。
アニメにありがちなデザインやギミックに凝ったとしても、キャラの性格をエキセントリックにしたとしてもそいうのは表面的なごまかしにしかならないと思う。
それ自体の”出来”に感心することはあっても、作品への感動には何も機能しないし時に邪魔になる、と思ってしまう。
だからといって、デザインやギミックに凝ることや、キャラの性格をエキセントリックにすることを否定する訳ではないんです。
描こうとする世界の中で、それが見る人と接点になるところにギャップがあるのかないのか。
どういうギャップがあるのか。
なぜそうなのか。
それらのことに自覚的かどうか。
出来上がった作品を観たら全く意識されないこういう作業が一番難しいし面白い。
演出のスタイル、ということにも関連してくるんだろうけど、例えばボクの演出作を観て、多くの人が「平松演出」だと指摘するようになったら危ない。
そういう自明姓のなかでボクが何かを工夫しても「平松演出」から出られなくなってしまい、驚きも感動も「平松演出」の範囲内の出来事に矮小化されてしまう。
まだスタイルなどとはほど遠いので有り得ないとは思うけど、あくまで見ている人の中で何かが広がるようでないと不味いな、と思う。
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コメント
感覚がマヒしちゃうのはまずいですね。
たとえばアニメの色指定って青い目とか紫の髪とか赤い目とか緑のとか、メチャ当たり前に出て来てて。
昔の日本を舞台にしてて、故にこの時代に青い目の人が不思議なんだよね、って言われてもアニメじゃ普通だから、、、、みたいな。
大友さんの昔の漫画でオズの魔法使いモチーフのがあって、これは、そんなファンタジーを逆手に取ってて、もし、現実にあったら、こんな風に見えるかも、って感じで凄く面白かった。
大友さんの絵がリアルなんで可能だったのかな?とも思うけど、かなり自覚的に古典のイメージを逆手にとってるとおもうんですよね。
やっぱ自覚的って所がキモかなと。
あんまり無自覚な作品が多過ぎる気もしますが、ゆえに自覚的な作品が目立つのかも。
でも、自覚的な作品てシニカルな味になりそうな気もするなー。
ていうか、なんかハイブロウな話しちゃう?
マーラー好き!
久しぶりに聞きたいな。
たとえばアニメの色指定って青い目とか紫の髪とか赤い目とか緑のとか、メチャ当たり前に出て来てて。
昔の日本を舞台にしてて、故にこの時代に青い目の人が不思議なんだよね、って言われてもアニメじゃ普通だから、、、、みたいな。
大友さんの昔の漫画でオズの魔法使いモチーフのがあって、これは、そんなファンタジーを逆手に取ってて、もし、現実にあったら、こんな風に見えるかも、って感じで凄く面白かった。
大友さんの絵がリアルなんで可能だったのかな?とも思うけど、かなり自覚的に古典のイメージを逆手にとってるとおもうんですよね。
やっぱ自覚的って所がキモかなと。
あんまり無自覚な作品が多過ぎる気もしますが、ゆえに自覚的な作品が目立つのかも。
でも、自覚的な作品てシニカルな味になりそうな気もするなー。
ていうか、なんかハイブロウな話しちゃう?
マーラー好き!
久しぶりに聞きたいな。
オサム
2006.12.15 08:59 | 編集
赤頭巾ちゃんとか怖かったすねー。
シニカルになるかどうかはその人の個性なのかな?
ボクの場合はひたすらふつうの出来事で、でもやっぱり盛り上がるところは
盛り上げたい。
そういう時にこの「なにがどうして」ってのが引っかかってきそう。
作り手がどこを地平として作ってるかをまずは感覚で分かってもらわないとね。
シニカルになるかどうかはその人の個性なのかな?
ボクの場合はひたすらふつうの出来事で、でもやっぱり盛り上がるところは
盛り上げたい。
そういう時にこの「なにがどうして」ってのが引っかかってきそう。
作り手がどこを地平として作ってるかをまずは感覚で分かってもらわないとね。
ヒラマツ
2006.12.16 09:42 | 編集