新しいゲームはなぜデザインされ続けるのか?
- 2020/10/17
- 00:18
先日(10/9)の上杉真人さんによる暗黒ゲームデザインの会を拝聴させていただきました。「専業ボードゲームデザイナー」がテーマだったので、場違いながら常々思っていたある質問を投げさせて貰いました。
この質問の背景にあったのは、次のような視点です。
ボードゲームの作り手は、出来ることなら何度も何度もプレイしてその内奥を極め味わってもらえるようなゲーム作品を作りたいと考えているはずで、その志向は究極的には、当の問いのように延々とプレイされ続けるただ1つのゲームをデザインすることに向かう。しかし、それは新しいゲームをデザインすることによって収入を得るという職業ゲームデザイナーの在り方と矛盾してしまうだろう。これはどういうことだろうか?
確かに、現実として、どんなに上手くデザインし繰り返しプレイされるようになったゲーム作品でも、多くのプレイヤー(買い手)はそれ1つだけをプレイし続けるようなことはありません。ある程度繰り返しプレイされるようなゲームでも、ある程度やりきったならそのうち別のゲーム作品もプレイされるようになる、というのが現状です。したがって、職業ゲームデザイナーはその時の候補として選ばれるような、先行ゲーム作品とは何か違った味わい(テイスト)を持ったゲームを提供し続けている、ということなのでしょう。
とは言え…
さて、このような疑問を抱えていた私にとって、冒頭の問いに対する上杉さんの次のようなお答えは目から鱗でした。
第一の個人的キーワードは「トレンド」です。上杉さんのこのお話からいくと、ボードゲームはトレンドの中で/トレンドと共に、デザインされ、プレイされるようなものである、ということになるかと思います。個々の作品とは独立な普遍的価値観に基づく良し悪しがあるのではなく、時代や環境と相互に影響し合って形作られていくような良し悪しがあり、そこではある性質を良しとする風潮が廃れたり、再燃したりしていく。つまり、現代のボードゲームは、ファッションに非常に近しい在り方をしているものだということではないでしょうか。
ファッションにおいて、時代や装う個人を超越した究極の一着を定めることは不可能です。ある時代、ある個人の格好いい装いを、全く別時代の別人にそのまま持ってきても多くの場合は格好いいものではなく、ダサい(悪い)ものにすらなるでしょう。と言って、現存するどんな服も、他のどんな服からも無関係にデザインされた、相互に独立な存在ではありません。良くデザインされた服は、それまでの歴史を踏まえ、同時代的な洗練を施されたものです。同じ種類のアイテムであっても、ディテールが変わっていたり、合わせ方や着こなし方を変えていたりして、既存のアレではなく、今現前するまさにコレである必要性がそこにはあります。先行作品(とその文脈)を踏まえつつ、新しい視点を加え、その新しい視点の下で洗練されていく。このように、常に先行作品(とその文脈)を前提として持ちつつ、それが用いられる時代や環境に合わせて洗練されていくことこそが、上杉さんのお答えの中に出てきた「進歩」に当たるものでしょう。この「進歩」が第二の個人的キーワードです。
常々、私は近年のボードゲームに関して、古典的な交渉や競りの組み込まれたゲーム作品が「洗練されていない」と評されることに釈然としないものを感じていました。交渉や競りが普遍的に劣った仕組みである、という非明示的な主張を私はそこに読み取ってしまっていたのです。しかし、現代的なボードゲームがファッションと近しい在り方をしているのだとすれば、話は全く別のものになります。
交渉や競りが広く受け入れられ強力に推進された時代のゲームから進歩してきた結果、現在のトレンドはそういうゲーム群ではなくなっています。その視点からすれば、確かに、変化してきた経緯を踏まえない古典的な交渉や競りの導入は、洗練されたものと映らないのは当然です。一方で、それは同時に、何らか形を変えて今後またそれら交渉や競りと見做すのが妥当なような新しい仕組みが生まれ、トレンドを形成する可能性もある、ということでもあります。私が、そのような新たなトレンドの中で生まれる交渉や競りを見てみたいと思うことは、他のボードゲームフリークの皆さんが、次はどんな感じのゲームが来るんだろうと胸を躍らせることと、おそらく同じことでしょう。
このように、ボードゲームがファッションのようにトレンドを持ち、進歩していくようなものなのだとすれば、新しいボードゲームがデザインされ続けていくことは、新しい服がデザインされ続けることと同様に、その趣味の本質に関わった現象であった――そしてそれ故に、その点において冒頭の私の問いはナンセンスである――ということに気付かせてもらえたのでありました。ありがとうございました。
【追記】
上杉さんが私の冒頭の問いについて、「作り手がどんなに新しいゲームを提供しても、遊び手側が既存のゲームに満足して新しいゲームを求めなくなってしまったらどうする?」という意味の問題と解釈した、みたいな話をしてらしたんですが、実際そこまで深いことは全然考えていませんでした。失礼しました。
が、今考えますに、その意味での問題は、新しいゲームには既存のゲームでは味わえない新しい面白さがあるということについての、広義の啓蒙の必要性を示していると言えるんじゃないかと思います。で、その活動は、純粋な作り手側の仕事と言うよりは、理論志向の遊び手側の仕事になるんじゃないか、という気がします。
もし、世の中の全ての人が、そのタイトルだけをずっとプレイし続けたくなるような理想的なゲームを作ることができてしまったら、それでもゲームデザイナーであり続けることは可能だと思いますか?
また、この問い自体が何らかの意味でナンセンスなものだとすれば、それはどんな意味で(どんな点で)ナンセンスなものだと思いますか?
また、この問い自体が何らかの意味でナンセンスなものだとすれば、それはどんな意味で(どんな点で)ナンセンスなものだと思いますか?
この質問の背景にあったのは、次のような視点です。
ボードゲームの作り手は、出来ることなら何度も何度もプレイしてその内奥を極め味わってもらえるようなゲーム作品を作りたいと考えているはずで、その志向は究極的には、当の問いのように延々とプレイされ続けるただ1つのゲームをデザインすることに向かう。しかし、それは新しいゲームをデザインすることによって収入を得るという職業ゲームデザイナーの在り方と矛盾してしまうだろう。これはどういうことだろうか?
確かに、現実として、どんなに上手くデザインし繰り返しプレイされるようになったゲーム作品でも、多くのプレイヤー(買い手)はそれ1つだけをプレイし続けるようなことはありません。ある程度繰り返しプレイされるようなゲームでも、ある程度やりきったならそのうち別のゲーム作品もプレイされるようになる、というのが現状です。したがって、職業ゲームデザイナーはその時の候補として選ばれるような、先行ゲーム作品とは何か違った味わい(テイスト)を持ったゲームを提供し続けている、ということなのでしょう。
とは言え…
- 進行型のゲームの場合には、他のゲーム作品のプレイに移行する契機となるような「ある程度やりきった状況」が比較的容易に想定可能だが、創発型のゲーム(多くのボードゲームが当てはまるだろう)の場合にはそのように1つのゲーム作品をやりきったと十分妥当に思えるような状況の指定は困難である。
- ゲーム毎の違った味わい(テイスト)を生み出すと言っても、そこまで千差万別な違いが生じうるものだろうか。僅かな違いは無限に生み出せるとしても、味わいの大まかな分類が可能なのであれば、その分類上の各区分毎に1つの名作さえあれば他の作品は不要ということになりうるのでは無いか。
- 例え現実として問題状況が顕在化していないとしても、上で述べたような明確な矛盾が確かに存在するのであれば、その問題状況は顕在化可能性を有する(少なくともその危険を排除できず、潜在的に存在する)と考えられるわけだから、そのことを議論する意義はあるはず。
さて、このような疑問を抱えていた私にとって、冒頭の問いに対する上杉さんの次のようなお答えは目から鱗でした。
ボードゲームは進歩を続けていくし、トレンドも変化していくので、ある1つの作品しか遊ばれなくなるようなことは無いと思う。トレンドの変化は止まったことがない。
第一の個人的キーワードは「トレンド」です。上杉さんのこのお話からいくと、ボードゲームはトレンドの中で/トレンドと共に、デザインされ、プレイされるようなものである、ということになるかと思います。個々の作品とは独立な普遍的価値観に基づく良し悪しがあるのではなく、時代や環境と相互に影響し合って形作られていくような良し悪しがあり、そこではある性質を良しとする風潮が廃れたり、再燃したりしていく。つまり、現代のボードゲームは、ファッションに非常に近しい在り方をしているものだということではないでしょうか。
ファッションにおいて、時代や装う個人を超越した究極の一着を定めることは不可能です。ある時代、ある個人の格好いい装いを、全く別時代の別人にそのまま持ってきても多くの場合は格好いいものではなく、ダサい(悪い)ものにすらなるでしょう。と言って、現存するどんな服も、他のどんな服からも無関係にデザインされた、相互に独立な存在ではありません。良くデザインされた服は、それまでの歴史を踏まえ、同時代的な洗練を施されたものです。同じ種類のアイテムであっても、ディテールが変わっていたり、合わせ方や着こなし方を変えていたりして、既存のアレではなく、今現前するまさにコレである必要性がそこにはあります。先行作品(とその文脈)を踏まえつつ、新しい視点を加え、その新しい視点の下で洗練されていく。このように、常に先行作品(とその文脈)を前提として持ちつつ、それが用いられる時代や環境に合わせて洗練されていくことこそが、上杉さんのお答えの中に出てきた「進歩」に当たるものでしょう。この「進歩」が第二の個人的キーワードです。
常々、私は近年のボードゲームに関して、古典的な交渉や競りの組み込まれたゲーム作品が「洗練されていない」と評されることに釈然としないものを感じていました。交渉や競りが普遍的に劣った仕組みである、という非明示的な主張を私はそこに読み取ってしまっていたのです。しかし、現代的なボードゲームがファッションと近しい在り方をしているのだとすれば、話は全く別のものになります。
交渉や競りが広く受け入れられ強力に推進された時代のゲームから進歩してきた結果、現在のトレンドはそういうゲーム群ではなくなっています。その視点からすれば、確かに、変化してきた経緯を踏まえない古典的な交渉や競りの導入は、洗練されたものと映らないのは当然です。一方で、それは同時に、何らか形を変えて今後またそれら交渉や競りと見做すのが妥当なような新しい仕組みが生まれ、トレンドを形成する可能性もある、ということでもあります。私が、そのような新たなトレンドの中で生まれる交渉や競りを見てみたいと思うことは、他のボードゲームフリークの皆さんが、次はどんな感じのゲームが来るんだろうと胸を躍らせることと、おそらく同じことでしょう。
このように、ボードゲームがファッションのようにトレンドを持ち、進歩していくようなものなのだとすれば、新しいボードゲームがデザインされ続けていくことは、新しい服がデザインされ続けることと同様に、その趣味の本質に関わった現象であった――そしてそれ故に、その点において冒頭の私の問いはナンセンスである――ということに気付かせてもらえたのでありました。ありがとうございました。
【追記】
上杉さんが私の冒頭の問いについて、「作り手がどんなに新しいゲームを提供しても、遊び手側が既存のゲームに満足して新しいゲームを求めなくなってしまったらどうする?」という意味の問題と解釈した、みたいな話をしてらしたんですが、実際そこまで深いことは全然考えていませんでした。失礼しました。
が、今考えますに、その意味での問題は、新しいゲームには既存のゲームでは味わえない新しい面白さがあるということについての、広義の啓蒙の必要性を示していると言えるんじゃないかと思います。で、その活動は、純粋な作り手側の仕事と言うよりは、理論志向の遊び手側の仕事になるんじゃないか、という気がします。