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〈ある一連の出来事があるゲームメカニクスのセッションであるための条件を明確にし、かつ参加者にその条件の遵守を強力に要請する実践〉をそのゲームメカニクスの「公的制度化」と呼ぶとして、「倫理的過激派」はその条件のうちに〈プレイヤー(全員?)が楽しめること〉を含めるような立場かと思います(プレイヤーの主観を操作することはできないので、正確には〈全員が楽しめるようにルールと環境をデザインすること〉ということだと思いますが)。
伝統的なボード/カードゲームやスポーツの公式ルールは、わりとその種の立場に沿うかたちで公的に制度化されてきたように思えます。簡単に言うと、プレイヤーがつまらなくならないように少しずつ公式ルールを改訂(「改善」)してきたのではということです(観戦文化があるゲームの場合は、プレイヤーだけでなく、見る人がつまらなくならないように、みたいな基準もありそうですが)。
これが仮に正しいとして、実際のところ、いまある伝統的なゲームがそのように公的に制度化されたものだからといって、その個々のセッションの評価に「ゲームメカニクスと必然的な結びつきを持たないはずの要素」が関わることがなくなるかというと、けっこう微妙ではという気がします。「接戦で盛り上がった」とか「ワンサイドゲームになってよくなかった」とかは明らかにそういう要素ではないでしょうが、「聴牌即リーチという相手のプレイスタイルが麻雀を台無しにした」とか「小兵力士が大柄な力士に勝って爽快だった」とかはそういう要素だと言ってもいいように思います(プレイスタイルやプレイヤーの体格はゲームメカニクスにとってオプショナルなはずなので)。
言いたいポイントは2つで、
1. 上に挙げたような事例が「ゲームメカニクスと必然的な結びつきを持たないはずの要素」であるとすれば、「倫理的過激派」的な立場での公的制度化ですら、そうした要素をセッションの評価から排除しないのではないか。あるいは、既存のゲームの公的制度化が「倫理的過激派」としては不十分だからそうなっているだけということなのか。
2. 仮に「ゲームメカニクスと必然的な結びつきを持たないはずの要素」をセッションの評価から完全に排除するようなかたちでの公的制度化が達成されることがありえるとして、それは果たして「理想的」なのか。むしろプレイスタイルやプレイヤーの力関係のようなオプショナルな要素を評価する余地があったほうが批評実践としては豊かなのではないか(たとえば体重別階級のような公的制度化を定めると、そういう「体格差があるにもかかわらず~」みたいな観点での評価ができなくなる)。あるいは、上に挙げたような事例はすべて「ゲームメカニクスと必然的な結びつきを持つ要素」であり、既存の公的制度化はすでにぷらとんさんが想定している「理想」を達成しているのか。
あるいは、上に挙げたセッションの評価は、ゲームのセッションそれ自体としての評価ではなく、当のセッションが付随的に持つ物語的なドラマとしての性格を評価しているのだという考えもありえるかもしれません。とはいえ、そう考えるなら『ごきぶりポーカー』のセッションもそういうドラマとしての性格を持ちうる(そしてその側面で良し悪しを評価しうる)ということになり、おそらくぷらとんさんの懸念は解消されるんじゃないかと思います。