神はサイコロを振ることができない
- 2018/10/07
- 08:22
――神はサイコロを振ることができない。
とは言え、このブログで取り扱う以上、議論したいのはもちろん物理学の話ではない※1。神と運(確率的事象)とを用いた思考実験を通じて、ゲーム現象の本質の一端(と私が思う事柄)に触れようというのが今日のテーマだ。
まずは、今回取り扱う「神」について、次のように定義する。
この定義から、神はサイコロを振る――サイコロを掌の上から机上に放り投げ、サイコロが机上を転がった後でいずれの面が上となって静止したかを確認する――に当たって、自身の掌を動かす速さや傾き加減やサイコロの掌上の位置など諸々の極めて微細で制御困難な事柄を全て意図的に制御し、かつ、その結果サイコロが机上でどのように転がってどんな出目が出るかを知っており、かつ、それを自覚している、ということになる。つまり、神によって振られるサイコロは、何の出目をもたらすかを常に神自身によって自覚的に制御されているはず、というわけだ。
サイコロを振ることは本来、その結果が確率的事象となるものである。少なくとも、アナログゲームのプレイヤーには、その主張は妥当なものとして受容されるだろう。逆に言えば、サイコロを振ることのある人間――アナログゲームのプレイヤー――にとっては、結果が確率的事象となることが、サイコロを振るということの定義または本質の一部であるはずだ、という主張が十分妥当なものとして認められることになるだろう。しかし、神によるサイコロを振る行為の結果は、常にこれに反している。
したがって、神はいくらサイコロを振ろうとしても、「サイコロを振る」という行為の持つ本質的部分を体現し得ないために、「サイコロを振る」という行為を遂行することが不能なのだ、ということが帰結される。
そして、当然のことながら、このように確率的事象として導入されている事柄を確率的事象として遂行できないプレイヤーは、通常の意味でゲームをプレイすることはできない。神は、ダイスゲームをプレイできないし、シャッフルして作った山札からカードを引くカードゲームもプレイできない。おそらく、通常の意味での確率的事象※2を伴う全てのゲームが神にはプレイできないことになるだろう。
ちなみに、神がどうしても「サイコロを振る」行為を正統に遂行したければ、神は自身の全知全能性の有効範囲外からの作用を受容しなければならない。例えて言うならば、神は当の宇宙の外部から吹いてくる風に頼る必要があるのだ。内部的に全知全能な存在者である神が、その全知全能性の及ばぬ外部の作用を受けることで、神の振るサイコロの出目は神自身にとって確率的事象となり得る。この時、はじめて神は、自身の掌を動かす速さや傾き加減やサイコロの掌上の位置など諸々の極めて微細で制御困難な事柄を全て意図的に制御できたとしても、宇宙の外から吹く風の影響について無知であることで、真に「サイコロを振る」ことが可能となるわけである。
さて、問題を現実の系に戻そう。
神のサイコロ振りの思考実験で明らかとなったことは、通常の意味でのゲームプレイの成立には、当のプレイヤーが当該ゲームセッション系の内部的に全知かつ全能ではない必要がある、ということであった。
この「全知かつ全能ではない」ということの本質を、私は「自覚と制御とが不完全である」ということなのではないかと考えている。これはつまり、プレイヤーによるプレイの「自覚と制御とが不完全である」ことをゲーム現象の本質の一端として挙げることができるのではないか、ということである。では、この「自覚と制御とが不完全である」ということが具体的にどういうことなのか、順を追って説明していこう。
まずもって、「不完全である」とは、全く自覚(または制御)することができないというのではなく、また完全に自覚(または制御)することができるのでもない、という状態のことを意味する。
制御が不完全であるとは、ある側面のあるレベルにおいては基本的に制御可能だが、別のある側面のあるレベルにおいては制御不能である、ということである。例えば、野球で上手な内野手プレイヤーは、十分な身体的・時間的余裕を与えられている状況なら、基本的に各塁に捕球可能な送球を行うことが可能だろうが、試合中に素早い走者をアウトにするために遠くの累へ送球する際のボールコントロールの精度は先のそれよりずっと劣るものになり、場合によってその送球の結果は捕球不能なものとなるかもしれない。また一方で、野球を始めたばかりの子どもであれば、どんなに十分な時間的余裕を与えられても、各塁に確実に捕球可能な送球を行うことすら制御不能かもしれない。しかし、そのような子どもであっても、ボールを(どこに飛ぶかはかなりアバウトだとしても)投げるか、投げずに持ったままでいるか、という別だけであれば、それは制御可能な側面となるだろう。
また、将棋で、ある盤面から自分のコマをどの位置に指すかは(ルールに則った動きである限り)ほとんどすべてのプレイヤーにとって完全に制御可能な事柄であるが、次の手番の盤面(つまり、相手がどのような手を指すか)を制御することは全くの初心者には不能な事柄である。とは言え、どんなプレイヤーのどんな盤面での指し手も、数手先の盤面を制御不能であるわけではない。十分に習熟したプレイヤーならば、ある特定の盤面からであれば、数手先の盤面をある特定の一手によって制御することが可能であるかもしれない。しかし、どんなに習熟したプレイヤーでも、最初の一手から決着のつく最後の盤面までを完全に制御することは神ならぬ身であれば明らかに不能な事柄であろう。
このように、ゲームプレイが成立している場合、プレイヤーの状態毎にあるレベルで制御可能な何らかの側面がある一方、制御不能な別の側面や別のレベルが常に存在している。
制御の不完全性については、特に目新しいことはなく、ごく当たり前の主張と言って良かろうと思う。
問題は、自覚の不完全性の方である。
と言うのも、おそらく、多くの人はその主張を目にしたとき「それは単に知識・認識・思考などと言った事柄の不完全性にすぎないではないのか。なぜそれらではなく『自覚』なのか?」と首を傾げただろうからだ。その説明には少しだけ回り道が必要だ。
ここで一旦、先に触れた神のサイコロ振りの思考実験の話に戻ろう。
神はその定義上、サイコロを振るという行為を正統に遂行し得ない、という結論であったが、もしかしたら、この結論に対して次のような反論を思い浮かべた人がいるかもしれない。それは次のようなものだ。
なるほど、この反論には確かに一理あるようにも見える。しかし、決定的な問題があり、正当な反論としては成立しないものと私には思われる。
振ったサイコロの出目について意識せずにいるということは、出目が決まった後の展開についても無自覚であるということである。極端な例えではあるが、この神が振ったサイコロの出目のために相手をしていた人間がゲームに負け、この人間が憤って銃を取り出し周りの人間を撃ち殺して八つ当たりするようなことがあったとしたら、神はこのゲーム会場での凄惨な殺戮を意識せずにサイコロを振っていたことになるだろうか? みすみす目の前で無残な殺戮が行われることになるのを意識しない全知全能の神などありうるだろうか? どうにも私には、この神は全知全能の存在者という定義には当てはまらないように思われる。つまり、出目を意識しないでサイコロを振ることは、さらにその先の世界の在り方を意識しないことであって、それは、冒頭で示した神の定義に反するものと思われるのだ。全知全能であるからには、神は常にあらゆる事柄について知り、かつ、その中味を自覚しているのであって、部分的にそれに反することはできないものと解されるべきと考える。
この神について思考実験は、ある事柄についての知識を自覚していないことは、当の事柄についての知識を持たないことと外から見て区別がつかない、ということを我々に気付かせてくれる。そしてそれは、知識そのものと少なくとも同等に、ある知識へ意識を向けること、ある知識を有することへの自覚が重要なものであることを示すものでもある。
「A=B」、「B=C」、「X1=X2かつX2=X3ならば、X1=X3」という3つの知識を有する人間は、常に必ずA=Cなる知識を有しているわけではない。前者の知識状態(「A=B」、「B=C」、「X1=X2かつX2=X3ならば、X1=X3」という3つの知識を有する状態)から、A=Cなる知識を含む知識状態へ移行するには、先の3つの知識全部が一度に意識のテーブル上に載せられた上で、これら3つの知識を用いて論理的操作が行われる必要がある。逆に言えば、前者の知識状態にあっても、常にそのうちの2つずつの知識にしか意識の焦点を当てずにいれば、A=Cなる知識を含む知識状態へ移行することはできない。知っていることの中味について、つまり自身の知識状態についての自覚がなければ、当の知識状態から可能な論理的操作、推論の全てを遂行することはできないのである。
このことは、まずもって、ゲームルールが既知であることを前提とする戦略ゲームで、プレイヤーが既知のゲームルールから導きうるはずの最適解たる一手を必ずしも見つけ出せるわけではないことの説明として上手く機能するだろう。プレイヤーがゲームルールそのものの知識を十分に持っていることは明らかである。にも関わらず、このプレイヤーが最適解を導き得ないのは、自身の知識状態の中味についての意識、つまり自覚のあり方がその原因の一端であると言えるのではないだろうか。
ここまでの自覚の不完全性の問題は、プレイヤー状態の内、知識状態についてのみのものであった。しかし、自覚の不完全性が関わりを持つのは、プレイヤーの知識状態に限らず、プレイヤーの他の状態全てについても同様であり、そのことがゲームプレイ上重要な役割を担っている。
プレイヤーは論理的な信念の他に、ゲーム内部的には非論理的もしくはそれ(ゲーム、正確に言えばゲームメカニクス)から独立な様々な欲求を内部状態として持っており、プレイヤーが最終的に選び取る行動は、信念だけでなくこれら欲求との総合的な影響の下に決定される※3。欲求の中味は、基本的に自覚が不完全なものである。「然々したいと思う」と「然々するのが良いと思う」の境界は、実際にはかなり曖昧なものだ。例え、自身の特定の行動に対する積極的な傾向性が、自身のある欲求によるものだという自覚があったとしても、なぜその欲求が発生しているのかまで遡って自覚できる場合はそう多くはないだろう。してみれば、プレイヤーが自身の行動の選択について、自身の状態は然々であるから、そこから導き出される結果は然々である、という論理的推論をあらゆるレベルで完全に遂行できることは基本的にないと言える。自身の状態について自覚されない部分がある以上、常に自身の状態全体からの帰結はその中味が完全には知り得ないものとなる。例えば、将来ゲームの状況がAとなったならaをしよう、と現状で考えていて、後で実際にゲームの状況がAとなった時に「aしたい」または「aするのが良いだろう」という思いが事前の自覚上の想定どおり浮かんでくるとは限らないと思われるが、その原因には、ゲームの進行に伴って実際にプレイヤーの信念が変化した場合だけでなく、ゲームの状況Aが現前することで、それ以前には自覚されていなかった何らかの自身の状態に意識が向けられた場合もあるように思われる。
このような自身の状態に関する自覚のあり方は、野球でプレイヤーが行った送球の帰結(どこにどの速さでボールが飛ぶか)などのような、先に制御の不完全性という概念の説明で取り扱ったような側面についても関与的な事柄と考える。というのは、野球(というより正確には、手を使ってボールを操作する球技全般)をはじめたばかりで不慣れなプレイヤーは1塁の方に投げようとか2塁の方に投げようとかという意図については自覚的であったとしても、ボールを握った手をどの位置まで後ろに投げ出し、どのような軌道で体の前側に回して持ってくるか、そしてその途上におけるどの位置でボールから手を離してボールを飛ばすか、といった点について、かなりアバウトな自覚をしか持てていないことだろうと思う。しかし、習熟してくるにつれ、今の自分の動きは少し腕を回す角度が寝ているとか、ボールの握り方がまずいとか、といった不慣れなプレイヤーには自覚できていなかった側面を実際に自覚できるようになる。そして、そのことによって、プレイヤーは自身が制御を意図している行為の中味について、より精度良く制御できるような対応を取ることが可能になる。腕を回している最中にその角度がおかしいと自覚したならば、あまり直線的で速度の速い送球とならないようにボールから手を離すタイミング等を制御して暴投を防ぐ、といったように。したがって明らかに、自身の状態の自覚と、自身の行為の帰結の制御とは極めて密接な関連をしていると言えるだろう。この点がまさしく、プレイヤーの単なる知識状態の不完全性よりも、自身の知識状態を含めた全ての状態についての自覚の不完全性の方こそがゲームの本質の一端に直接に寄与する事柄であると私が考える所以である。
ゲーム現象の本質に関する議論で、結果の不確実性という観点が取り上げられないことはほとんどない。それほど、この結果の不確実性という観点はゲームにとって重要なものと言える。今回の議論は、その「結果の不確実性」の由来の一端を、プレイヤーによる状態の自覚の不完全性と行為の帰結の制御の不完全性※4に帰することができるのではないか、というのがその本旨である。最後まで読んでくれた諸兄が、この議論から何かしら得るもの(必ずしも肯定的な見解だけに限らない)があったなら幸いである。
2018.10.19(Fri)追記
※1
とは言え、このブログで取り扱う以上、議論したいのはもちろん物理学の話ではない※1。神と運(確率的事象)とを用いた思考実験を通じて、ゲーム現象の本質の一端(と私が思う事柄)に触れようというのが今日のテーマだ。
まずは、今回取り扱う「神」について、次のように定義する。
神とは、全知全能の存在者である。
全知とは、全てのことを知っており、かつ、「全てのことを知っている」ことを知っている――つまり、自覚している――ということと解釈する。
全能とは、全てのことができる、したがって、あらゆる行為について、それに含まれる全ての事柄を無限に微細なレベルまで意図的に制御可能である、ということと解釈する。
全知とは、全てのことを知っており、かつ、「全てのことを知っている」ことを知っている――つまり、自覚している――ということと解釈する。
全能とは、全てのことができる、したがって、あらゆる行為について、それに含まれる全ての事柄を無限に微細なレベルまで意図的に制御可能である、ということと解釈する。
この定義から、神はサイコロを振る――サイコロを掌の上から机上に放り投げ、サイコロが机上を転がった後でいずれの面が上となって静止したかを確認する――に当たって、自身の掌を動かす速さや傾き加減やサイコロの掌上の位置など諸々の極めて微細で制御困難な事柄を全て意図的に制御し、かつ、その結果サイコロが机上でどのように転がってどんな出目が出るかを知っており、かつ、それを自覚している、ということになる。つまり、神によって振られるサイコロは、何の出目をもたらすかを常に神自身によって自覚的に制御されているはず、というわけだ。
サイコロを振ることは本来、その結果が確率的事象となるものである。少なくとも、アナログゲームのプレイヤーには、その主張は妥当なものとして受容されるだろう。逆に言えば、サイコロを振ることのある人間――アナログゲームのプレイヤー――にとっては、結果が確率的事象となることが、サイコロを振るということの定義または本質の一部であるはずだ、という主張が十分妥当なものとして認められることになるだろう。しかし、神によるサイコロを振る行為の結果は、常にこれに反している。
したがって、神はいくらサイコロを振ろうとしても、「サイコロを振る」という行為の持つ本質的部分を体現し得ないために、「サイコロを振る」という行為を遂行することが不能なのだ、ということが帰結される。
そして、当然のことながら、このように確率的事象として導入されている事柄を確率的事象として遂行できないプレイヤーは、通常の意味でゲームをプレイすることはできない。神は、ダイスゲームをプレイできないし、シャッフルして作った山札からカードを引くカードゲームもプレイできない。おそらく、通常の意味での確率的事象※2を伴う全てのゲームが神にはプレイできないことになるだろう。
ちなみに、神がどうしても「サイコロを振る」行為を正統に遂行したければ、神は自身の全知全能性の有効範囲外からの作用を受容しなければならない。例えて言うならば、神は当の宇宙の外部から吹いてくる風に頼る必要があるのだ。内部的に全知全能な存在者である神が、その全知全能性の及ばぬ外部の作用を受けることで、神の振るサイコロの出目は神自身にとって確率的事象となり得る。この時、はじめて神は、自身の掌を動かす速さや傾き加減やサイコロの掌上の位置など諸々の極めて微細で制御困難な事柄を全て意図的に制御できたとしても、宇宙の外から吹く風の影響について無知であることで、真に「サイコロを振る」ことが可能となるわけである。
さて、問題を現実の系に戻そう。
神のサイコロ振りの思考実験で明らかとなったことは、通常の意味でのゲームプレイの成立には、当のプレイヤーが当該ゲームセッション系の内部的に全知かつ全能ではない必要がある、ということであった。
この「全知かつ全能ではない」ということの本質を、私は「自覚と制御とが不完全である」ということなのではないかと考えている。これはつまり、プレイヤーによるプレイの「自覚と制御とが不完全である」ことをゲーム現象の本質の一端として挙げることができるのではないか、ということである。では、この「自覚と制御とが不完全である」ということが具体的にどういうことなのか、順を追って説明していこう。
まずもって、「不完全である」とは、全く自覚(または制御)することができないというのではなく、また完全に自覚(または制御)することができるのでもない、という状態のことを意味する。
制御が不完全であるとは、ある側面のあるレベルにおいては基本的に制御可能だが、別のある側面のあるレベルにおいては制御不能である、ということである。例えば、野球で上手な内野手プレイヤーは、十分な身体的・時間的余裕を与えられている状況なら、基本的に各塁に捕球可能な送球を行うことが可能だろうが、試合中に素早い走者をアウトにするために遠くの累へ送球する際のボールコントロールの精度は先のそれよりずっと劣るものになり、場合によってその送球の結果は捕球不能なものとなるかもしれない。また一方で、野球を始めたばかりの子どもであれば、どんなに十分な時間的余裕を与えられても、各塁に確実に捕球可能な送球を行うことすら制御不能かもしれない。しかし、そのような子どもであっても、ボールを(どこに飛ぶかはかなりアバウトだとしても)投げるか、投げずに持ったままでいるか、という別だけであれば、それは制御可能な側面となるだろう。
また、将棋で、ある盤面から自分のコマをどの位置に指すかは(ルールに則った動きである限り)ほとんどすべてのプレイヤーにとって完全に制御可能な事柄であるが、次の手番の盤面(つまり、相手がどのような手を指すか)を制御することは全くの初心者には不能な事柄である。とは言え、どんなプレイヤーのどんな盤面での指し手も、数手先の盤面を制御不能であるわけではない。十分に習熟したプレイヤーならば、ある特定の盤面からであれば、数手先の盤面をある特定の一手によって制御することが可能であるかもしれない。しかし、どんなに習熟したプレイヤーでも、最初の一手から決着のつく最後の盤面までを完全に制御することは神ならぬ身であれば明らかに不能な事柄であろう。
このように、ゲームプレイが成立している場合、プレイヤーの状態毎にあるレベルで制御可能な何らかの側面がある一方、制御不能な別の側面や別のレベルが常に存在している。
制御の不完全性については、特に目新しいことはなく、ごく当たり前の主張と言って良かろうと思う。
問題は、自覚の不完全性の方である。
と言うのも、おそらく、多くの人はその主張を目にしたとき「それは単に知識・認識・思考などと言った事柄の不完全性にすぎないではないのか。なぜそれらではなく『自覚』なのか?」と首を傾げただろうからだ。その説明には少しだけ回り道が必要だ。
ここで一旦、先に触れた神のサイコロ振りの思考実験の話に戻ろう。
神はその定義上、サイコロを振るという行為を正統に遂行し得ない、という結論であったが、もしかしたら、この結論に対して次のような反論を思い浮かべた人がいるかもしれない。それは次のようなものだ。
神は、無限に微細なレベルでサイコロの振り方を制御していたとしても、必ずしもその結果に意識を向けずにサイコロを放り投げることができるのではないか。意識を向けてしまっていれば確かに結果を意図的に制御してしまっていることになるが、出目について敢えて意識することを避けたならば、どんなに振り方自体が意図的に制御されていたとしても、その制御はどの出目を出すためかが意図されずにいるのだから、この場合の神のサイコロ振りはサイコロを振る行為として正統に為されると言って良いのではないか。
なるほど、この反論には確かに一理あるようにも見える。しかし、決定的な問題があり、正当な反論としては成立しないものと私には思われる。
振ったサイコロの出目について意識せずにいるということは、出目が決まった後の展開についても無自覚であるということである。極端な例えではあるが、この神が振ったサイコロの出目のために相手をしていた人間がゲームに負け、この人間が憤って銃を取り出し周りの人間を撃ち殺して八つ当たりするようなことがあったとしたら、神はこのゲーム会場での凄惨な殺戮を意識せずにサイコロを振っていたことになるだろうか? みすみす目の前で無残な殺戮が行われることになるのを意識しない全知全能の神などありうるだろうか? どうにも私には、この神は全知全能の存在者という定義には当てはまらないように思われる。つまり、出目を意識しないでサイコロを振ることは、さらにその先の世界の在り方を意識しないことであって、それは、冒頭で示した神の定義に反するものと思われるのだ。全知全能であるからには、神は常にあらゆる事柄について知り、かつ、その中味を自覚しているのであって、部分的にそれに反することはできないものと解されるべきと考える。
この神について思考実験は、ある事柄についての知識を自覚していないことは、当の事柄についての知識を持たないことと外から見て区別がつかない、ということを我々に気付かせてくれる。そしてそれは、知識そのものと少なくとも同等に、ある知識へ意識を向けること、ある知識を有することへの自覚が重要なものであることを示すものでもある。
「A=B」、「B=C」、「X1=X2かつX2=X3ならば、X1=X3」という3つの知識を有する人間は、常に必ずA=Cなる知識を有しているわけではない。前者の知識状態(「A=B」、「B=C」、「X1=X2かつX2=X3ならば、X1=X3」という3つの知識を有する状態)から、A=Cなる知識を含む知識状態へ移行するには、先の3つの知識全部が一度に意識のテーブル上に載せられた上で、これら3つの知識を用いて論理的操作が行われる必要がある。逆に言えば、前者の知識状態にあっても、常にそのうちの2つずつの知識にしか意識の焦点を当てずにいれば、A=Cなる知識を含む知識状態へ移行することはできない。知っていることの中味について、つまり自身の知識状態についての自覚がなければ、当の知識状態から可能な論理的操作、推論の全てを遂行することはできないのである。
このことは、まずもって、ゲームルールが既知であることを前提とする戦略ゲームで、プレイヤーが既知のゲームルールから導きうるはずの最適解たる一手を必ずしも見つけ出せるわけではないことの説明として上手く機能するだろう。プレイヤーがゲームルールそのものの知識を十分に持っていることは明らかである。にも関わらず、このプレイヤーが最適解を導き得ないのは、自身の知識状態の中味についての意識、つまり自覚のあり方がその原因の一端であると言えるのではないだろうか。
ここまでの自覚の不完全性の問題は、プレイヤー状態の内、知識状態についてのみのものであった。しかし、自覚の不完全性が関わりを持つのは、プレイヤーの知識状態に限らず、プレイヤーの他の状態全てについても同様であり、そのことがゲームプレイ上重要な役割を担っている。
プレイヤーは論理的な信念の他に、ゲーム内部的には非論理的もしくはそれ(ゲーム、正確に言えばゲームメカニクス)から独立な様々な欲求を内部状態として持っており、プレイヤーが最終的に選び取る行動は、信念だけでなくこれら欲求との総合的な影響の下に決定される※3。欲求の中味は、基本的に自覚が不完全なものである。「然々したいと思う」と「然々するのが良いと思う」の境界は、実際にはかなり曖昧なものだ。例え、自身の特定の行動に対する積極的な傾向性が、自身のある欲求によるものだという自覚があったとしても、なぜその欲求が発生しているのかまで遡って自覚できる場合はそう多くはないだろう。してみれば、プレイヤーが自身の行動の選択について、自身の状態は然々であるから、そこから導き出される結果は然々である、という論理的推論をあらゆるレベルで完全に遂行できることは基本的にないと言える。自身の状態について自覚されない部分がある以上、常に自身の状態全体からの帰結はその中味が完全には知り得ないものとなる。例えば、将来ゲームの状況がAとなったならaをしよう、と現状で考えていて、後で実際にゲームの状況がAとなった時に「aしたい」または「aするのが良いだろう」という思いが事前の自覚上の想定どおり浮かんでくるとは限らないと思われるが、その原因には、ゲームの進行に伴って実際にプレイヤーの信念が変化した場合だけでなく、ゲームの状況Aが現前することで、それ以前には自覚されていなかった何らかの自身の状態に意識が向けられた場合もあるように思われる。
このような自身の状態に関する自覚のあり方は、野球でプレイヤーが行った送球の帰結(どこにどの速さでボールが飛ぶか)などのような、先に制御の不完全性という概念の説明で取り扱ったような側面についても関与的な事柄と考える。というのは、野球(というより正確には、手を使ってボールを操作する球技全般)をはじめたばかりで不慣れなプレイヤーは1塁の方に投げようとか2塁の方に投げようとかという意図については自覚的であったとしても、ボールを握った手をどの位置まで後ろに投げ出し、どのような軌道で体の前側に回して持ってくるか、そしてその途上におけるどの位置でボールから手を離してボールを飛ばすか、といった点について、かなりアバウトな自覚をしか持てていないことだろうと思う。しかし、習熟してくるにつれ、今の自分の動きは少し腕を回す角度が寝ているとか、ボールの握り方がまずいとか、といった不慣れなプレイヤーには自覚できていなかった側面を実際に自覚できるようになる。そして、そのことによって、プレイヤーは自身が制御を意図している行為の中味について、より精度良く制御できるような対応を取ることが可能になる。腕を回している最中にその角度がおかしいと自覚したならば、あまり直線的で速度の速い送球とならないようにボールから手を離すタイミング等を制御して暴投を防ぐ、といったように。したがって明らかに、自身の状態の自覚と、自身の行為の帰結の制御とは極めて密接な関連をしていると言えるだろう。この点がまさしく、プレイヤーの単なる知識状態の不完全性よりも、自身の知識状態を含めた全ての状態についての自覚の不完全性の方こそがゲームの本質の一端に直接に寄与する事柄であると私が考える所以である。
ゲーム現象の本質に関する議論で、結果の不確実性という観点が取り上げられないことはほとんどない。それほど、この結果の不確実性という観点はゲームにとって重要なものと言える。今回の議論は、その「結果の不確実性」の由来の一端を、プレイヤーによる状態の自覚の不完全性と行為の帰結の制御の不完全性※4に帰することができるのではないか、というのがその本旨である。最後まで読んでくれた諸兄が、この議論から何かしら得るもの(必ずしも肯定的な見解だけに限らない)があったなら幸いである。
2018.10.19(Fri)追記
アップしてからよくよく考えてみたら、自覚の不完全性、制御の不完全性、狭義のゲームセッション系外からの作用の3者を合わせて、「自律の不完全性」と言えたかも、と思った。
— ぷらとん@ボドゲ批評理論本公開中 (@platon_dorothea) 2018年10月7日
※1
「神はサイコロを振ることができない」という本記事タイトルのフレーズは、もちろんアインシュタインが量子力学の確率論的解釈を否定した「神はサイコロを振らない」という言葉をもじったものである。が、本記事は当の発言と直接の関わりはないので、単なる文字遊びと解されたい。
※2
ここで言う通常の意味での確率的事象とは、PDFで公開中の拙著「ぷらとんとアリストくれす~ボードゲームの批評理論~」第4章における「単純な運」の概念と同義のものである。
※3
行動の由来を信念と欲求とに求めるアイデアは、フレッド・ドレツキ(Fred Dretske)の「行動を説明する 因果の世界における理由(原題:EXPLAINING BEHAVIOR : Reasons in a World of Causes)」に基づく。
※4