ルールとフィクションと部分的仕組みについての一考察
- 2017/07/06
- 23:54
結論
ワンモアゲーム!の梶野さんが興味深い話題を振られていて、その中で交わされたやりとりからちょっと気付かされたことがあったので書き留めておきたいと思います。
今回の記事を書くきっかけとなったお話の中身は以下。
まことさんと同じ疑問を私も抱いていて、「定義によっては、クラマートラック※1を盤面に備えた全てのボードゲームが双六になって、議論がぼやけてしまいそうだなあ」などと思って傍から見ていたわけなのですが。梶野さんの「私の双六のイメージっていろんな場所に行くのが楽しい。エルフェンランド※2のそれが一番近い」という言葉に、はっとしました。ここで言う「場所」というのは、形式的システム上の意味(例えば、それが他のどの都市とつながる場所なのか、どんな地形の道でつながっている場所なのか、などといった事柄)のみを表しているのではなく、それがゲームボード上に描かれた架空の世界上のどんな土地であるのかということ(例えば、他の都市との行き来の少ない僻地の神秘的な都市であるとか、平地の真ん中の賑やかな都市であるなどという事柄)も含んでいるものと思われます。つまり、梶野さんがおっしゃっている「場所」という概念は、イェスパー・ユールが『ハーフリアル』でいうところの「ルール」と「フィクション」との両方に結びついた概念なのではないか、と。すると、そうした「場所」なる概念を前提としてイメージされている「双六」というメカニクス/システムもまた、単にルールの特定の在り方や特定の規則の集合というものではなく、そうした「ルール」に、特定の「フィクション」が結びつけられてはじめて「双六」と見做されるところのものであった、と考えることができるでしょう。
一般に、メカニクス/システムとは、純粋に形式的システムを分析する上での概念と捉えられていると思います(少なくとも、以前の私はそうでした)。しかし、実際はどうもそう単純な話ではなさそうだ、というのが上の議論の中味です。
あるゲームが、どんなメカニクス/システムによって構成されているか、言い換えれば、そのゲームがどんな部分的仕組みを持っているかということは、以前議論しましたように、その分析結果にいくらか任意性があるような事柄であると考えています(「ゲーム構造の分節化とゲームデザインについて」 - ぷらとん―マイナーゲームのために)。ただし、以前の私の議論では、どのように「ルール」を分節化するかという点に任意性があるだけで、直感的に把握されるある特定の部分的仕組み(=メカニクス/システム)が、何らかの「フィクション」と本質的関わりを持っているかもしれない、などということは全く想像もしていませんでした。しかし、梶野さんの件のお話から、「双六」という部分的仕組み(=メカニクス/システム)は、巡る順序に一定の規則を設けて並べられたマス目上を各プレイヤーが自身に対応するコマを移動させていくなどという「ルール」と、それら各々のマス目を虚構世界上のある特定の意味を持った場所と見做すような「フィクション」とが結びついたものである、という理解の仕方があり得ることに気付かされたわけです。
人によっては、「で、そう理解できたからなんなの?」と思われるでしょうから、一点、「双六」という部分的仕組み(=メカニクス/システム)を、そのように「ルール」と「フィクション」の双方から規定することの有用性について言及しておきます。
結論から言うと、そのように「双六」を定義するのに「フィクション」の中味も用いると、ゲームボード上にクラマートラックを備えているだけで、面白さのコアを双六と全然共有していないようなゲームを、「双六」という部分的仕組みを持つゲーム群(=「双六」というメカニクス/システムによって構成されたゲーム群)からわかりやすく除外することができる、という点がその有用性になります。
梶野さんは、コマがマス目上を進む量をダイスの出目で決めるという規則を「双六」の要件から外しています。これは、梶野さんが、「双六」の面白さのコアをダイスの出目の良し悪しから生まれる楽しみにではなく、もっと別の面白さにあると考え、それにこそ着目しているということでしょう。私は、この着想を慧眼と思います。それは、ダイスゲームという部分的仕組みが生み出す楽しみと必然的に結びつくような面白さとは全く異なる、「双六」に特有の面白さがあるのだということ、そしてそのような今まで吟味されてこなかった新しい面白さの中味を発見することにつながると思うからです。しかし一方で、そのようにコマがマス目上を進む量の決め方をダイスに限定せず全くの任意の仕方に広げてしまうと、ゲームの「ルール」のみから、得点表にすぎないはずのクラマートラックを備えただけのゲームを「双六」ではないものとして捉えることは困難になるものと思います。そもそも、単純にあがりまでダイスを振ってコマを進めるだけの双六は、その「ルール」上、ダイスを振って得点した結果をマス目上のコマの位置で示しているのにすぎないわけで、クラマートラックと単純な双六のマス目との間には「ルール」上の本質的な違いはありません。これに対して、「ルール」だけでなく、各マス目に虚構世界上の場所としての特定の意味が与えられているかという「フィクション」上の限定を「双六」の要件として加えるならば、クラマートラックを備えているだけのゲームを容易に「双六」から除外することができるようになります。クラマートラックの各マス目は、「ルール」上の意味しか持たない得点の量を示しているだけなのですから、その区別は明快です。
このように、アナログゲーマーが一般にメカニクス/システムと呼んでいる、各々のゲームタイトルが持っている部分的仕組みの中には、純粋に「ルール」の分節化によりもたらされるものだけでなく、場合によってそれは無意識にではあるかもしれませんが、その「ルール」の部分が特定の「フィクション」と結びつけられていることを要件とするようなものがあり得る、少なくとも十分妥当にそのようなメカニクス/システムを想定しうる、ということが示されたと思います。上の議論では、その具体例として広義の「双六」が挙げられたわけですが、他にも例えば「ワーカープレイスメント」のワーカーが虚構世界上で人格を持つような主体(端的に言えば、人間に類する存在)として「フィクション」上意味づけされていなければ「ワーカープレイスメント」と認識するのを躊躇う、みたいなことはあり得るんじゃないかな、と思います。そして、このようにゲームの「ルール」構造に関わる認識が「フィクション」の中味とも無関係でないことは、ゲームプレイの在り方やゲーム体験の中味に重要な寄与を果たしているのではないか、と思うわけでして、今回またちょっと大切なことに気付かせてもらえて良かったなあ、というわけなのでした。
※1
アナログゲーマーが部分的仕組みという意味で用いるメカニクス/システムという概念は、「ルール」のみならず、それが表現する「フィクション」とも結びついた概念である(少なくとも、そのような種類のメカニクス/システムがありうる)。
ワンモアゲーム!の梶野さんが興味深い話題を振られていて、その中で交わされたやりとりからちょっと気付かされたことがあったので書き留めておきたいと思います。
今回の記事を書くきっかけとなったお話の中身は以下。
ドイツゲームって双六沢山あるな〜。ウサギとハリネズミ、カルタヘナ、アベカエサル、ブレイキングアウェイ、ヘキセンレンネン。まだまだある。エルフェンランドは双六かな?
— ワンモアゲーム! (@OnemoregameJpn) 2017年6月30日
面白いアクションがあるドイツゲームの双六を、緩くリプライ頂けると参考になります。よろしくどうぞ。
どこまでをすごろくの定義にされますか? 東海道とかはすごろくでしょうか。
— まことさん (@Man_Gan) 2017年6月30日
すごろく(雙六・双六)とは、サイコロを振って、出た目に従って升目にある駒を進めて上がりに近づける盤上遊戯(ボードゲーム)である。
— ワンモアゲーム! (@OnemoregameJpn) 2017年6月30日
ってWikiに書いてありますが、サイコロ使わなくっても全然構わないんですよ私。
東海道も双六じゃないですかね?あまり好みではないですが。
沢山のリプライありがとうございます。共通項としては、一本道の双六がドイツゲームには凄く多いんだなあと。
— ワンモアゲーム! (@OnemoregameJpn) 2017年6月30日
確かにルールで縛りやすいんですが、何というか、私の双六のイメージっていろんな場所に行くのが楽しい。エルフェンランドのそれが一番近いんですよね。ううーん。
まことさんと同じ疑問を私も抱いていて、「定義によっては、クラマートラック※1を盤面に備えた全てのボードゲームが双六になって、議論がぼやけてしまいそうだなあ」などと思って傍から見ていたわけなのですが。梶野さんの「私の双六のイメージっていろんな場所に行くのが楽しい。エルフェンランド※2のそれが一番近い」という言葉に、はっとしました。ここで言う「場所」というのは、形式的システム上の意味(例えば、それが他のどの都市とつながる場所なのか、どんな地形の道でつながっている場所なのか、などといった事柄)のみを表しているのではなく、それがゲームボード上に描かれた架空の世界上のどんな土地であるのかということ(例えば、他の都市との行き来の少ない僻地の神秘的な都市であるとか、平地の真ん中の賑やかな都市であるなどという事柄)も含んでいるものと思われます。つまり、梶野さんがおっしゃっている「場所」という概念は、イェスパー・ユールが『ハーフリアル』でいうところの「ルール」と「フィクション」との両方に結びついた概念なのではないか、と。すると、そうした「場所」なる概念を前提としてイメージされている「双六」というメカニクス/システムもまた、単にルールの特定の在り方や特定の規則の集合というものではなく、そうした「ルール」に、特定の「フィクション」が結びつけられてはじめて「双六」と見做されるところのものであった、と考えることができるでしょう。
一般に、メカニクス/システムとは、純粋に形式的システムを分析する上での概念と捉えられていると思います(少なくとも、以前の私はそうでした)。しかし、実際はどうもそう単純な話ではなさそうだ、というのが上の議論の中味です。
あるゲームが、どんなメカニクス/システムによって構成されているか、言い換えれば、そのゲームがどんな部分的仕組みを持っているかということは、以前議論しましたように、その分析結果にいくらか任意性があるような事柄であると考えています(「ゲーム構造の分節化とゲームデザインについて」 - ぷらとん―マイナーゲームのために)。ただし、以前の私の議論では、どのように「ルール」を分節化するかという点に任意性があるだけで、直感的に把握されるある特定の部分的仕組み(=メカニクス/システム)が、何らかの「フィクション」と本質的関わりを持っているかもしれない、などということは全く想像もしていませんでした。しかし、梶野さんの件のお話から、「双六」という部分的仕組み(=メカニクス/システム)は、巡る順序に一定の規則を設けて並べられたマス目上を各プレイヤーが自身に対応するコマを移動させていくなどという「ルール」と、それら各々のマス目を虚構世界上のある特定の意味を持った場所と見做すような「フィクション」とが結びついたものである、という理解の仕方があり得ることに気付かされたわけです。
人によっては、「で、そう理解できたからなんなの?」と思われるでしょうから、一点、「双六」という部分的仕組み(=メカニクス/システム)を、そのように「ルール」と「フィクション」の双方から規定することの有用性について言及しておきます。
結論から言うと、そのように「双六」を定義するのに「フィクション」の中味も用いると、ゲームボード上にクラマートラックを備えているだけで、面白さのコアを双六と全然共有していないようなゲームを、「双六」という部分的仕組みを持つゲーム群(=「双六」というメカニクス/システムによって構成されたゲーム群)からわかりやすく除外することができる、という点がその有用性になります。
梶野さんは、コマがマス目上を進む量をダイスの出目で決めるという規則を「双六」の要件から外しています。これは、梶野さんが、「双六」の面白さのコアをダイスの出目の良し悪しから生まれる楽しみにではなく、もっと別の面白さにあると考え、それにこそ着目しているということでしょう。私は、この着想を慧眼と思います。それは、ダイスゲームという部分的仕組みが生み出す楽しみと必然的に結びつくような面白さとは全く異なる、「双六」に特有の面白さがあるのだということ、そしてそのような今まで吟味されてこなかった新しい面白さの中味を発見することにつながると思うからです。しかし一方で、そのようにコマがマス目上を進む量の決め方をダイスに限定せず全くの任意の仕方に広げてしまうと、ゲームの「ルール」のみから、得点表にすぎないはずのクラマートラックを備えただけのゲームを「双六」ではないものとして捉えることは困難になるものと思います。そもそも、単純にあがりまでダイスを振ってコマを進めるだけの双六は、その「ルール」上、ダイスを振って得点した結果をマス目上のコマの位置で示しているのにすぎないわけで、クラマートラックと単純な双六のマス目との間には「ルール」上の本質的な違いはありません。これに対して、「ルール」だけでなく、各マス目に虚構世界上の場所としての特定の意味が与えられているかという「フィクション」上の限定を「双六」の要件として加えるならば、クラマートラックを備えているだけのゲームを容易に「双六」から除外することができるようになります。クラマートラックの各マス目は、「ルール」上の意味しか持たない得点の量を示しているだけなのですから、その区別は明快です。
このように、アナログゲーマーが一般にメカニクス/システムと呼んでいる、各々のゲームタイトルが持っている部分的仕組みの中には、純粋に「ルール」の分節化によりもたらされるものだけでなく、場合によってそれは無意識にではあるかもしれませんが、その「ルール」の部分が特定の「フィクション」と結びつけられていることを要件とするようなものがあり得る、少なくとも十分妥当にそのようなメカニクス/システムを想定しうる、ということが示されたと思います。上の議論では、その具体例として広義の「双六」が挙げられたわけですが、他にも例えば「ワーカープレイスメント」のワーカーが虚構世界上で人格を持つような主体(端的に言えば、人間に類する存在)として「フィクション」上意味づけされていなければ「ワーカープレイスメント」と認識するのを躊躇う、みたいなことはあり得るんじゃないかな、と思います。そして、このようにゲームの「ルール」構造に関わる認識が「フィクション」の中味とも無関係でないことは、ゲームプレイの在り方やゲーム体験の中味に重要な寄与を果たしているのではないか、と思うわけでして、今回またちょっと大切なことに気付かせてもらえて良かったなあ、というわけなのでした。
※1
盤面の周囲をぐるりと囲ったマス目としてデザインされる、得点表。このマス目上にコマを置き、プレイヤーが得点する度に対応するコマを得点分だけ進めていく。
※2「ゲーム紹介:エルフェンランド / Elfenland」 - すごろくや など参照のこと。