CLANNAD ~AFTER STORY~ 第17話「夏時間」
2009/02/06/Fri
「人の心が死ぬという言葉の意味は比喩的表現でもなんでもなくて、ただありのままに直接的に、その人の心の一部が何か人生の悲劇というべき出来事に遭遇して、大切な一部を欠落してしまうことを意味してるといっていいのでないかなって、私は思う。もちろん心の何かが死んだからって、それがそのまま肉体上の危機に直結するかといえば、それはそう断言することもできないかなって思うけど‥でも実際問題、心のトラブルで身体の不調があらわれるのは珍しくない。今回の話でいえば、ただ朋也がそうならなかったというだけ‥人が生きるということは、ただごはんを食べてしっかり眠ってというだけでないことは、まずまちがいなくいえることじゃないかなって、私はそう思うかな。‥心が死ぬ人は、けっこう多い。そして死んだ虚ろな心を抱えて、ただ身体が死ぬのを待ってるような人も多い。心が死んで、身体もそのまま死んじゃう人も多い。この文脈での心とは、つまり人が生きる力のことであって、その生きる力というのは、決して機械的なものだけでないのが、人という存在の、ふしぎなとこかな。心と身体は、そう相反するものでないのだから。むしろ同一のものだって、いっていいと思うから。」
「死ななければよい、ただ生きているだけでもよいというのは、それはそれでひとつの価値観ではあるのでしょうが、しかし人生というものはそうメカニカルにできているものでもないというのが奇妙なものなのでしょうね。心というと胡散臭くとられる向きもあるのでしょうけど、しかし人間というのはただ飯を食っていればそれで満たされる存在ではありえないのよ。人はパンだけで生きられるものでもない。パンだけで生きられれば楽なのでしょうけど、しかし本当、そうじゃないのだから苦々しいものよね。機械的に生きられれば、心なくして生きられれば、それは人生の悲痛を逸らせるというものでしょう。だがそうはありえない。」
『人生においては何事も偶然である。しかしまた人生においては何事も必然である。このような人生を我々は運命と称している。もし一切が必然であるなら運命というものは考えられないであろう。だがもし一切が偶然であるなら運命というものはまた考えられないであろう。偶然のものが必然の、必然のものが偶然の意味をもっている故に、人生は運命なのである。』
三木清「人生論ノート」
「たとえば不幸があるとして、そしてその不幸を乗り越えるためには自分があるていど強くなることが求められると考える。そしてその強さにはその不幸によって痛めつけられる自分のある弱い部分を切り捨てることが必要だとするとき、私はその弱さをあきらめて、その弱さを抑圧して、ほんとに強くなるべきなのかなって、少し疑問に思う。‥自分のなかの繊細な脆い部分。でもそれは果して強く生きるためには必要ないものとしたなら、私はその弱さを無駄といって捨て去ってよいのかな。もちろん、朋也が自分の弱さのために潮を放っておいたその責は問われるべきなのかもしれない。でもだれがその罪を指摘することができるのかなって、私は思う。それを非難できるのは、たぶん潮だけじゃないのかな。そして潮が真に朋也を糾弾できるまでに成長したとき、それは朋也にとっては恩恵であるにちがいない。弱さとは、ありのままの自己なのだから。強さとは、ある意味結果論でしかないのだから。弱い心を殺してまで強くなる必要は、たぶん、ないんだよ。」
「朋也の罪を指摘できるのか?という問題かしらね。朋也というのは渚に死に別れたときから心の一部が空虚になってしまい、ただ虚ろな身体を惰性で動かして、死ぬのを待つだけの存在であったといってよいでしょう。子どもを放っておいた、その責任はたしかに問題とすべきよ。ただしかし、親子の問題というのは、はてさて、他者が口挟めるものでもないのよね。また朋也の繊細さ弱さは、渚が健在だったら別方向に機能した特徴であったとも思えるし、となるとやはり強さというのは結果論でしかないのでしょう。となると、人は強く生きるべきなのかしら。いや、そうじゃないでしょう。ではどう生きるべきか。ま、はてさてと口を濁しておきましょうか。」
『希望は運命の如きものである。それはいわば運命というものの符号を逆にしたものである。もし一切が必然であるなら希望というものはあり得ないであろう。しかし一切が偶然であるなら希望というものはまたあり得ないであろう。
人生は運命であるように、人生は希望である。運命的な存在である人間にとって生きていることは希望を持っていることである。』
三木清「人生論ノート」
→人は強くなるべきなのだろうか?
「死ななければよい、ただ生きているだけでもよいというのは、それはそれでひとつの価値観ではあるのでしょうが、しかし人生というものはそうメカニカルにできているものでもないというのが奇妙なものなのでしょうね。心というと胡散臭くとられる向きもあるのでしょうけど、しかし人間というのはただ飯を食っていればそれで満たされる存在ではありえないのよ。人はパンだけで生きられるものでもない。パンだけで生きられれば楽なのでしょうけど、しかし本当、そうじゃないのだから苦々しいものよね。機械的に生きられれば、心なくして生きられれば、それは人生の悲痛を逸らせるというものでしょう。だがそうはありえない。」
『人生においては何事も偶然である。しかしまた人生においては何事も必然である。このような人生を我々は運命と称している。もし一切が必然であるなら運命というものは考えられないであろう。だがもし一切が偶然であるなら運命というものはまた考えられないであろう。偶然のものが必然の、必然のものが偶然の意味をもっている故に、人生は運命なのである。』
三木清「人生論ノート」
「たとえば不幸があるとして、そしてその不幸を乗り越えるためには自分があるていど強くなることが求められると考える。そしてその強さにはその不幸によって痛めつけられる自分のある弱い部分を切り捨てることが必要だとするとき、私はその弱さをあきらめて、その弱さを抑圧して、ほんとに強くなるべきなのかなって、少し疑問に思う。‥自分のなかの繊細な脆い部分。でもそれは果して強く生きるためには必要ないものとしたなら、私はその弱さを無駄といって捨て去ってよいのかな。もちろん、朋也が自分の弱さのために潮を放っておいたその責は問われるべきなのかもしれない。でもだれがその罪を指摘することができるのかなって、私は思う。それを非難できるのは、たぶん潮だけじゃないのかな。そして潮が真に朋也を糾弾できるまでに成長したとき、それは朋也にとっては恩恵であるにちがいない。弱さとは、ありのままの自己なのだから。強さとは、ある意味結果論でしかないのだから。弱い心を殺してまで強くなる必要は、たぶん、ないんだよ。」
「朋也の罪を指摘できるのか?という問題かしらね。朋也というのは渚に死に別れたときから心の一部が空虚になってしまい、ただ虚ろな身体を惰性で動かして、死ぬのを待つだけの存在であったといってよいでしょう。子どもを放っておいた、その責任はたしかに問題とすべきよ。ただしかし、親子の問題というのは、はてさて、他者が口挟めるものでもないのよね。また朋也の繊細さ弱さは、渚が健在だったら別方向に機能した特徴であったとも思えるし、となるとやはり強さというのは結果論でしかないのでしょう。となると、人は強く生きるべきなのかしら。いや、そうじゃないでしょう。ではどう生きるべきか。ま、はてさてと口を濁しておきましょうか。」
『希望は運命の如きものである。それはいわば運命というものの符号を逆にしたものである。もし一切が必然であるなら希望というものはあり得ないであろう。しかし一切が偶然であるなら希望というものはまたあり得ないであろう。
人生は運命であるように、人生は希望である。運命的な存在である人間にとって生きていることは希望を持っていることである。』
三木清「人生論ノート」
→人は強くなるべきなのだろうか?