2009/05/31/Sun
「各キャラクターそれぞれのキャストについてはとくに違和感なくてよかったかな。そのなかでもとりわけ所長さんと工藤さんの個性は声がついてよりよく映えるようになったって評価が十分に可能だと思うし‥所長さんはモクソンを構うことが楽しくてしかたないって調子が活き活きとした演技によって鮮明に楽しくイメージできるようになった気がする。工藤さんはその健気で生真面目な立ち姿とそれに照応するかのような、あるいは相反するかのような無骨で不器用な生き方の様子が、気さくな声優さんの仕種によって目に浮ぶようでよかったかな。ふだんあんまり声優さんの演技について何ごとかいうことを好まない私だけど、この二つのキャラクターについては原作を読んだとき以上にそれぞれの個性が判然と気がしたので、あえてここに記しとく‥ドラマCDならではのオリジナルストーリーの出来についても、私は素直に感心させられた。というのも、今回の内容ではまずラジオ番組に初出演するモクソンの様子が描写されたわけだけど、そのなかでモクソンに対する質問のひとつに、モクソンの歌には恋を主題としたものがないけど、モクソン自身は恋をしたことがあるのかな?という問いが出され、それにモクソンがあたふたしながら回答するシーンは、けっこう私にモクソンって人となりについて考えさせられる機会をくれたものとして、評価する気持がやぶさかでない。なぜなら、これはこの作品の感想ではふだんからいってることかなだけど、モクソンって人は工藤さんに出会うまでには恋らしい恋を体験したことがない人って描かれてるのであり、もちろん学校で友だち同士で恋愛を話題に盛りあがったことはあったけど、でもそれは周囲にただ同調しただけであって、自分自身はみずからが恋を知らないことに自覚的であった。‥私は、そんなモクソンの述懐は正直なものだろうって思うし、恋を知らない人というのはそう少なくないものでもないって理解してる。あんがい、恋を知らないまま一生を終えちゃう人もいるものだし、恋愛が訪れるかどうかといった問題は、それが自分自身の血肉と化するか否かといった点において、人をえらんじゃうものでさえあるのかもしれないかなって気がしないでないかな。‥私がこの作品で気にしてることのひとつは、つまりモクソンの恋愛がモクソン自身の芸術にどう影響を与えるかであり、または与えないかであって、その点においてなんらかの形で変化を描かなきゃ、たぶん本作はいけなくなるのだろうなって予感がする。‥恋が人を変えるのかなといった問題は、古典的であるだけに見応えあるものになるのじゃないかなって、思わない? 私は思う。それはひとつの楽しみでもあるのだし。」
「恋を知らないモクソンがいったいどのような歌を作ってきたかということは、はてさて、少なからず興味があることかしらね。またそれに今回のドラマCDのオリジナルストーリーであろうモクソンのグラビアをセクシーに色っぽく撮影してみようという試みで、オクソンがことごとくあまり色香の出ない、いってみれば未成熟で子どもらしいモクソンの姿しか写真に収められなかったことは、モクソンという女性が未だ大人に熟しきっていない、それこそ恋愛を知らないイノセントな人間であることを暗示していたとも果していえるのでしょうね。ま、そう考えていくと、そのうちモクソンが少女から大人へと段階を踏む存在であろうことが、もしかしたらこの一連の話では予見されているのかもしれないけれど、はてさて、どうかしらね。そしてまたモクソンが現状の性格から如何に変わっていくのかといった事柄は、存外、想像するにむずかしいものもあるかしら。」
「モクソンのもつ未成熟なエロスともいうべきものが、現実の恋愛の直接的体験を‥それが悲恋であれ実ったものであれ‥経たとき、どんなふうに彼女の精神の発露ともいうべき歌を‥モクソンが純真な気持をこめて歌ってたときと、ある身体的な体験としての恋を踏まえたときの歌い方では、それはもしかしたら実質的な変化、成熟があらわれるものであるかもしれない‥昇華させることが可能なのかなって疑問は、性と人間性、その二つの不安定なつながりを見直す働きをさえ包含するものにも思えちゃうから、かな。‥私は以前この作品の感想で、モクソンは異性同性問わず幅広い人気を獲得してる歌手として作中では描写されてるけど、でも実際にモクソンが同じ女性から広汎な人気を得られるのかなといった問題はけっこう疑問に思っちゃう点がなきにしもあらずかなっていったけど(→
純真ミラクル100% 第11話)、それはモクソンが未だ実ってない、つまり自然にイノセントな存在であるからで、そういったある種邪気のないふるまいは一面からすれば媚に映る危険性がないものでないって思うから。というのもそれはモクソンがかわいくあればあるだけ、そこに人は何等か作為的な欺瞞を見出したがるものであるからであり、モクソンがその種の悪意ある視線に体性があるとはあんまり思えないから、なおさらよけいに私はモクソンの人気はほんとは異性の側に傾斜しちゃうのじゃないかなって思っちゃうかな。‥ただもしかしたら、モクソンがそのエロスを豊穣にしたら、何かがずっとふかまるのかもしれない。そしてそれは敷衍して語るなら、この作品そのものが変化するかもしれない。‥と、私は思うけど、でもどうかな。とりあえず、いろいろまだまだこの作品には期待するとこ大きい。モクソン含めどう本作が変遷してくか、楽しみかな。」
「モクソンが作中のなかで大ヒットしているのは彼女のもつ未成熟なエロスこそが醸し出せる色香というものがあるからなのでしょうね。それに、ま、こういう方向に話を展開するのはあれなところもあるのでしょうけど、性的に不十分な経験や身体をもっているのに、いやそれだからこそもつことのできる性的魅力といったものが、人間にはあるから不思議なものよね。一言にしてそれをいうならロリータの魔力といったものでしょうけど、なんていうのかしら、そういったロリータがなぜロリータゆえにその魅力を備えることができるのかといった疑問には、なかなか上手く応えることがむずかしいと思うし、知る限りにおいて有効な説明をした人はいないようにもちょっと思えるのよね。ま、ロリコンというのは話題にはなりやすい。しかし実際、どのような理由で子どもが、子ども故に魅力あるかといった問題は、けっこう分らないものを含んでいる。これは考えてみる価値があるのじゃないかしら? 意外と難問でこそあるのでしょう。おそらくね。」
「ドラマCD 純真ミラクル100%」
2009/05/30/Sat
「なかなかよい感じ。白雪がここで紆余曲折の末にミドリのことで頭がいっぱいになっちゃうというのは、吊り橋効果とまではいわないけど危険を冒して冒険したあとの二人の間柄としてはそれほど違和感ないものであるし‥もちろんほかのみんなも白雪のために戦ったわけではあるけど、彼女にとっていちばん身近で自身のことにかまけてくれたのはほかならないミドリでこそあるのだろな‥また白雪の性格と経歴を考えたとき、ミドリが彼女の相性としていちばん適当だって考えるのは、そんなに納得の行かないことじゃないって私には思えるから。それというのも、なんていうのかな、白雪という子は複雑な環境とまた見知らない多数の他者から不条理に恨まれちゃうっていう悲惨な境遇にその半生を送ったのであって、かならずしもその恵まれたとはいえない環境は彼女にある種の諦観と自分自身に対する半ば自棄気味の態度を醸成したであろうことはまず疑えない。だからそんな慌しくて心身の休まらない日々の犠牲者であった白雪にとって、ごくごくふつうの家庭に平凡な性格のもち主として育ったミドリは‥とまでいっちゃうと、あまりにミドリのことをそれほど面白みのない人だって私がいってるようにきこえちゃうかもだけど、うん、そのとおり。私はあんまりミドリのこと魅力ある人かなとは思ってない。でも逆にそれが白雪にとってはプラスに働いてるっていうことが、ここではいいたいの‥ある意味これから先を平穏にしずかに暮していきたいって願ってる白雪にとって、いちばん手ごろな相手といえるのじゃないかなって思うかな。‥これは余談かなだけど、けっこうな人たちは生きてるの退屈だなって思ってるもので‥とくに仕事にそれほど自己を没入できない、かといって趣味らしい趣味もあんまりないような人にその割は多いかなって気がする‥そういった退屈を紛らわしてくれる人、いっしょにいればこの死ぬまでつづくかもしれない倦怠を瞬間でも忘れさせてくれるかもしれないかなって思わせてくれる人にその種の人はなびきやすいみたい。べつな言い方をするなら、ある種他者にもてやすい人というのは性格にちょっと変なとこがあるような人で、美人がおかしな人に引っかかっちゃうこと多いのもこれが論拠かなって思う。そしてそうでない人、パートナーに倦怠を忘却させてくれる役割を求めない人は、いつのまにか適当な人を見つけちゃってるものなのだよね。というのもその手の型の人には事欠かないからで、ミドリはまさにそういう人。これは、ある意味、褒め言葉。」
「ま、身も蓋もない言い方をするなら、顔がそこそこ美形で金があり、そして社会的地位が備わっていれば何をすることなくとももてるということはいえてしまうというのが、なんとも無慈悲なこの社会の原則であるのでしょうね。ただしかし、その手の典型的なもてる一群の人といったものは傍目からはどうにも凡庸につまらない存在に見えるもので、その手のタイプがどうしても駄目な人生に潤いを求める層の人々は、自然と少し風変わりな個性をこそ自分の相手に探し出すこととなるのでしょう。ま、といってもそうやって最初から少々歪な個性を求めるタイプの人というのはそう多くもないのでしょうけどね。というのは大多数の人というのはみずからも同じように凡骨であるのでしょうし、そういうふうに無個性であることはある意味生存のうえでのメリットもいくらかあるのだから、無理をして個性的に目立とうとする必要性は、はてさて、まったくないのでしょう。なぜなら風変わりな人というのは、ま、いってみれば当然なのでしょうけど、少し常識から外れる部分があるからよ。それで、そういったところというのは、ふつうは気持悪いものよ。引いてしまうものよ。さて、ちがうかしら?」
「遠目からならその斬新さは刺激に映るかもしれないけど、でもそれが多くの日々をいっしょにすごすに足る相手としてふさわしいのかな考えると、少しそこで考えとまっちゃう部分がたぶん免れなく大方の人にはあるだろうから、かな。‥たとえばもてにもててた吉行淳之介とか、ふつう、引いちゃうよね。お金がない会社員だったくせに赤線に通いつづけるなんて、ちょっと尋常じゃないものね。文学の世界でいうならあとは太宰治とか、心中する相手に困らないくらいに女性が次から次へと手に入った人だったけど、その彼がほんとに魅力ある人物だったのかなっていえば、とりあえず「二十世紀旗手」でも「きりぎりす」でも紐解いてみれば一目瞭然、そのあまりのだめ人間っぷりに思わず笑っちゃうくらい。さらにその種の文脈で語るならドストエフスキーとかも私には好例に思われて、というのもドストの文学こそは気持わるくて実際にいたら引いちゃうことやむなしの極限的な小説であるからであり、彼の書簡集とか見てみるなら書いてあることといえば、金がない暇がない金をくれ、のこの三つだけ。ほんと。読んでみるとよろし。でもそれなのに友人知人からなんだかんだでけっきょくさいごまで見放されなかったから‥見放した人もけっこういたにちがいないけど‥ドストエフスキーのように友だちにもったならこんなにやりきれない人もいないのじゃないかなって思えるような人格のもち主でも、変に人を吸引する力があることは、人間関係の打算だけじゃわからない不可思議さの、いい見本といえるのじゃないかな。‥人が人と付きあうということは、まったく理屈にあわなくて、だから楽しい。それは奇妙な事実かな。」
「一見すると思わず引いてしまうような人がもてるという現象は、考えてみるとなかなかおもしろい話ではあるかしらね。たとえばオタク文化でいうのなら、ツンデレなどは現実にいたらそれこそどん引きしてしまうようなキャラクター性としかいいようがないでしょう。しかしそれなのにツンデレはある一定の個性として認知されているのであり、このことは常識からすれば気持悪いと思われてしまうような個性こそが、実は人を惹きつける魅力が裏には備わっているかもしれないということを暗示している。そう思ってみると、ま、人間というのは奇妙なものかしらね。平凡に常識通りにやったからといって、人気を博するわけでもない。はてさてね。げに奇天烈なのは人間そのもの、か。ま、いろいろ考えさせられるかしら。」
→
太宰治「二十世紀旗手」→
太宰治「きりぎりす」→
ドストエフスキーの手紙について
2009/05/29/Fri
「久しぶりにドラマらしいドラマが意識されて展開されたかなって点で少しおどろかされた部分があった今回だったけど、でも総括してみるとだめだめ。けっきょくやる気がなくて演奏にそれほど熱も入れてない彼女たちの楽曲が、どうして梓の琴線を一回でもふるわすことのできる演奏ができたのかなって疑問にはまるで答えられてないし‥彼女たち四人の馬があうから? それだけじゃ説得力伴った解答とはいえないものね‥本来なら唯たちのだらだらしたあり方に、音楽に対して多少なりやる気のある梓は自然に見限ってくのが自然な事態の移り変わりなのだと思う。でもそうドラマとして違和感のない構成にするのは無理なのだから‥原作ではそこまでふかく梓の心理に切りこんだわけでもなくて、また演奏シーンが中心として描かれてるわけでもないからいくらでも梓が軽音部に在籍して描写の困難は見当らなかったのだけど、アニメ版では演奏を実際に彼女たちに行わせちゃってるから、下手なごまかしが不可能になっちゃってる。つまり、唯たちの音楽がそれなりの魅力のある理由を直接的に明示しなきゃ、この作品の基礎的な部分といったものは崩壊しちゃうということ。というか、おおよそ今回で破綻しちゃってはいるのだけど‥必然、梓が唯たちを許容してしまう展開は、梓自身が軽音部のゆるい空気に毒された結果、要するに梓がいくらか堕落したためとしか視聴者としては納得することができなくなっちゃってるのだよね。‥ここに来て、やっぱり少し予想してたとはいえ、ストーリー性という観点からは決して褒められた出来ではなくなっちゃったかな。それは原作の雰囲気を鑑みたとき、まるでスタッフが想像できなかった範囲の事態とはいえないことが、少し残念かなって気がするけど。つまり、もうちょっとシナリオ面で事前になんとかしようと思えばできたのでないかなって思えちゃうのが、何より惜しい。残念かな。」
「梓のような生真面目なキャラクターを登場させたとき、それまでのこの作品の締まらない基調では立ち行かなくなるであろうことは十分に分りきったことではあったということかしらね。ま、それだからもしかしたら梓を出さないまま1クールを終らせるつもりなのかしら?と、序盤では思っていたものだったけれど、はてさて、梓から逃げずに真正面から彼女を含めた軽音部の様子を描こうと試みた点は、なかなか度胸のある判断とはたしかにいえることなのでしょう。ただしかし、梓を器用に魅力的に描こうと思うと、これはなかなかどうしてきびしいものがあることは否めない。というのも梓は音楽が好きで、そして唯たちの演奏に惚れこんだという設定があるからなのでしょうね。そしてそうであるなら、なぜ唯たちがまともに練習も重ねていないのに映える演奏ができるのか、その理由をこそ描かなければならなくなる。ま、原作にしてからがそういった方面をふかめる作風ではないし、困難な作業が求められることではあったのでしょうけどね。なんともいえないことかしら。」
「いっそのこと梓が軽音部を見損なっちゃって、そのことに唯たち一同がショックを受けて落ちこんじゃうなんてオリジナルな方向にドラマを進めてみてもおもしろかったのでないかなって気も、無責任ながらするかな。というのもだって、今回のエピソードだけでは梓が自分の音楽への熱意を投入する場として‥高校時代ならなおさらかな。青春って言葉はあんまり好きじゃないけど、でも高校の部活は楽しくあったほうがいいものね。だらだらとすごすのも当然個人の選択の問題だからそういうふうに日々を暮すのもべつに見咎めたりはしないけど、でも梓のように一本調子で自分の信じたことにがむしゃらになっちゃうようなタイプの子が、唯たちといっしょになる理由はなんなのかなって考えると、それに肯定的な答えるのは存外むずかしい課題かなって気がしないでない。要するに、梓が軽音部に留まる説得力あふれる展開を描写することは、まず無理だってこと‥この軽音部を選択することは、不自然を通り越して作品のそもそものスタンス‥ただ楽しいゆるやかなノスタルジックなだけの作品としての「けいおん!」‥をさえ、否定することにつながっちゃってる。そのため今回のお話で、私としては本作をぜんぜん評価することできなくなっちゃったかな。このドラマは、よくない。梓が不憫とまで思えちゃう構成は、もうあんまり見直せないかな。残念。」
「なんていうのかしらね、梓という存在はこれまでの「けいおん!」という作品が紡いできた安らかで郷愁にあふれる夢を、現実に醒ます効果をまったく体現してしまっていたということかしら。なぜ唯たちが練習もろくにしないのに魅力的な演奏ができるのか? それは実際問題冷静に考えてみるなら、ま、ありえないことであったのであり、奇しくもこれまでの軽音部を否定する梓という純粋な子が、その視聴者とおそらく製作者さえも目を逸らしていた問題に、一度にして蒙を開かせてしまったのでしょうね。であるから、唯たちの演奏が魅力的であるはずがないということに作品のなかの事実として示してしまった梓は、本来であるならまったく「けいおん!」という舞台から退場せねばならないのでしょう。ま、はてさてといったところね。次回から、これで、もち直すことができるのかしら? なんか望み薄ね。もはや駄目かしら。」
2009/05/28/Thu
「アメリの不憫さというのはちょっと考えさせられちゃうものあるかなって気がする。というのも彼女自身は明確に自分の気持が叶わないであろうこと‥裕理がすでにましろばかりにかまけてて、その態度が自分に向き直すだろう未来の可能性がほぼないだろう現実‥をすでによく知ってはいるのだけど、でもそれを認められなくて、まだなんとか事態は変化するのじゃないかなって一縷の望みをかけてる彼女の切実な姿は、なんともいえないくらいに哀れなみじめさというのがいたたまれなく感じられちゃって、この容赦のない彼女の失恋の描写は本作のなかでは評価するに値するものかなって私は思う。なんていうのかな、失恋のこのもうどうしようもないことを知ってながらなおすがりつく自身の必至さというのは、本人が自覚的であればあるだけ、一層みじめに映るのが、つらいとこかなって気がして、それがなんだかやるせない。‥私はあなたのことが好きだけど、あなたは私のことを受け容れられない、受け容れてくれない。そうした思いを抱いたとき、人はたぶん自分の欠点や自分の好きな人が自分をみとめてくれない何か事情や原因をふとすると考えちゃうものかしれないけれど、でもそういった類の恋愛の上手く行かなさ‥あるいは広義には、人間関係の上手く行かなさ、かな‥というのは、実はほかの難問や困難の大部分と同様に、原因らしい原因や問題らしい問題といったものがほんとは何もなくて、ただ事情がそうであったというだけ、解決しようにも解決すべき何ごとがないっていう、ある意味ただそれがそうであったというくらいの意味性しか見出させないことが、往々にしてあるものなのだよね。‥つまり、私はとくに理由なくあなたにふられ、私はあなたの愛を獲得できないって結末のみが残される。‥この、失恋って問題はいったいなんなのかなって少しふしぎに思う。もし運命の歯車がほんの一時、あとちょっとでも動いてたなら、事情はだいぶ変わったのかもしれないのに、私はただ受け容れられなかったあなたへの好意をもてあまし、ただただ空虚な悲しみを背負って暗い部屋にひとり留まってる。あの孤独は、つらい。そう私は思うかな。」
「失恋だのなんだのという色恋沙汰は、ま、どんな人にもあることだとはいえるのでしょうし、一般論としては失恋の傷みというものは忙しい日常生活を盲目にこなしていけばそのうち癒えるものではあると、とりあえずは、そうね、いえることなのでしょう。しかし、はてさて、どうにも奇妙に思えるのは、そうやって失恋に傷つけられた心というものは、もちろん時間をかければその苦痛といったものはたしかに薄らいでは行くのでしょうけど、なんていうのかしらね、案外その手の苦しみの体験といったものは、人のその後の生き方を根底において束縛しつづけることもありうるものだから、なんとも感傷的に考えてしまうのでしょうね。というのも、人が生きるということは、なんていうのかしらね、ただ単に飯を食い、働き眠り、たまにだれかを愛するといったことのサイクルであるとは、表面的にはいえてしまうことでしょうけど、ただしかし、そういった機械的なルーチンワークのみが、人を生かすものでも実はない。であるから失恋しても肉体が死ぬことはないのでしょうけど、しかしあるとき心のどこかが壊れてしまうことはあるのであり、その後その人が生きているということは、死んだ心が生きた身体が死ぬのを待っているだけといった状態なのかも、もしかしたら知れないかしらね。ま、奇妙な話ね。」
「心が死ぬ、ということが比喩じゃなくてその言葉そのままの意味だっていうことが、ちょっとむずかしい。‥もちろん心が死んでても生きてるだけでそれでいいじゃんっていう人生観のもち主はいるし、それはそれで個人の選択と価値観の問題だから私はなにもいわないけれど、でもなんていうのかな、恋愛というのはそういうふうに人の心や身体をさんざん傷つけるだけのものかもしれないのに、どうして人間にはそういったドラマが与えられ、またそれに魅力を感じちゃうのだろうということは、私には人という存在の不可思議さの明示的なひとつの啓示のようにも思われて、そのとこがだいぶ奇妙に複雑に考えさせられちゃう。‥たとえばこの作品を考えたとき、裕理はましろのことが好きでアメリのことは友だちとしてよく思ってるけど、でも恋愛対象としては考えられない。そのとき裕理がアメリに対して為すことのできる最善の行為とは、いったいなんなのだろうって、私は思う。当然こんな問題は人によってはあまりに青くさくて、考えるのもめんどくさいって思っちゃう類の想定かなって気がしないでないけど、でも私には、こういった単純素朴な、甘ったるい恋愛の‥ほんとはぜんぜん甘くないのだけど‥シンプルな疑問といったものは、もしかしたら人間が社会のなかで他者と接して暮してく存在を免れないである以上、ある種、根源的な意味を伴って迫る問題なのじゃないかなって、そんな気がどうしても拭えない。‥ほかに好きな人がいるとき、べつな人の好意を、どう扱ったらいいのだろう。ね、もうすでに好きな人がいるとき、あんまり好きじゃない子の思いというのを、それを向けられた当事者は、どうしたら、ほんとはいいのかな? どうしたら、よかったのかな。‥私にはこの問題がわからない。好きじゃない子に告白されたとき、どうすべきなのか。そんな問題がわからないでいる。ほんとはどうすべきだったのだろう。どうすればあの人を傷つけずに済んだのだろう。そんなことばかり、考える。私は、だめだ。」
「好きでもない相手にははっきりと、好きではないと告げてふってしまうのがやさしさだとは、さて、簡単にはいえるのでしょうね。しかしそうやって拒絶するということは、それ自体に何か罪というか悪のような香りがするのも、はてさて、私たちの考えすぎではもしかしたらないのかもしれないかしらね。というのも、いいかしら、人間関係において他者と付きあっていくことの裡には、どうにも他者を傷つけその思いを無下にせざるをえないある瞬間というものがあるのであり、どうもそれは不可避のように思える。なら、人の愛というのは、恋というのは、それ自体が悪のようなものなのかしら? ま、青くさい話よね。しかし、そんなことばかりが文学よ。そして、そんなことばかりが人生よ。はてさてといったところかしら? はてさてね。」
『私は、享楽のために売春婦かったこと一夜もなし。母を求めに行ったのだ。乳房を求めに行ったのだ。葡萄の一かご、書籍、絵画、その他のお土産もっていっても、たいてい私は軽んぜられた。わが一夜の行為、うたがわしくば、君、みずから行きて問え。私は、住所も名前も、いつわりしことなし。恥ずべきこととも思わねば。』
太宰治「HUMAN LOST」
2009/05/27/Wed
「八十年代から主に九十年代初頭にかけて書かれたドナルド・キーンの種々のエッセイをまとめたのが本書「日本語の美」であり、前半部には精通するって言葉さえ浅くきこえちゃうくらいに日本語にふかく親しみ、日本語を外国語としてでなくて「第二の祖国の言葉」とその思いをこめるキーンが日本語って言語のふしぎさとその特徴について意見を述べるのが‥しかもあえて日本語でそれを執筆するって発想がさすがキーンの独自的たるところかな。彼は日本語の微妙なニュアンスと特色について語るべき文章において、英語で語ったなら、もちろんそのほうが早くは書けるけれど、でも本質的な部分でその行為は矛盾しちゃってるのじゃないかなって考える。ある言語について語る場合、その言語そのものに相対してその言語でもって語るでないなら、そこにはいくぶんかの懸隔が生じちゃうのじゃないかなって懸念は、まず的を射た見解といわざるをえないかな。そういった意味でこのエッセイは実に卓抜な指摘を含むものと評価できると思うし、私自身もとてもおもしろく読むことできた‥その内容であって、ふだんから使い慣れた言葉である自国語についての的確なキーンの指摘は、たぶん多くの人たちにとっても得るところ決して少なくないって、私は思う。そこにはいろいろ興味ふかいエピソードが述べられてて、単純な読み物としても人を惹きつける文章じゃないかなって思うし、とくに明治時代の本についてキーンが述懐を洩らしてるところは、私にもよく共感されるものだった。というのもここでキーンはたった百年くらいなのに明示の作家の文章のむずかしさ、その理解しにくさというのはおどろくべきものがあるっていってて、これは私も同感せざるをえない。もちろん戦争と終戦後の国語の変貌の過程を知る人にとってはここらの変遷は歴史的に複雑なものがあることを承知しない人はないだろうけど、これほど多様に変わり行った言語というのも稀なのじゃないかなって、私は瞠目しちゃうかな。‥実際、英語の古典作品は現代英語とリズムが異なるけど読めないことないし、フランス語も数百年前くらいのならけっこう読める。でも、これは私の不勉強を告白せざるをえないけど、日本語はそうとうきびしいものあっちゃうのが本音かな。私は古文もあんまり得手じゃなくて、だからいつも古文を読む際にはそうとう時間かかっちゃう。もっとすんなり読めればなとも思うけど、なかなか言語は上達しにくい。むずかしい。」
「ま、明治大正の作家を見る場合でも漢和辞典なりを参照しながらでなければ到底読み下せない箇所には散々ぶつかるもなのだしね。たとえば夏目漱石の「虞美人草」なんて相当ひどかったものだったけれど、あれをていねいに読解するのはまったく生半じゃ行かないでしょうし、漢籍は語源を遡って行くとちょっととんでもない作業量を強いられたりするものだから、言葉といったものはそれだけでまったく宇宙だと思うことしばしばであるかしら。ま、しかしそれでも日本語然り、漢籍然り、おもしろいのよね。とくに漢文は書き下したり口語に直したりする作業が思いのほか楽しい部分があるから、あれはけっこういいものというべきなのでしょう。それにしても中世の仏教者はあれらに対し私たちと比較にならないほど造詣があったのだから、まったく賛嘆すること甚だよ。もっと勉強しなければいけないのでしょうね。」
「森鷗外とかは小説にいっぱいドイツ語やフランス語や英語を多用して書いてるから読むのがあんまり順調に行かないし、その語学をひけらかす様が私には少しキザったらしくて癪に障るかなって思わないこと少なくないのだけど、それに反して九鬼周造あたりは外国語をむやみやたらに使うのはけしからないからそんなもの排斥してしまえ、カタカナで外来語を表記するのも見苦しいからそんなもの漢字で当て字にしちゃえって過激なこといってて、これはこれで極端かなって気がしないでない。‥キーンもそういった類の問題のむずかしさ‥たぶん主に言葉に対する価値観と愛着の問題かなって気がするかな。言語にはうるさい人多いものね。英語の勉強法とか、なんであんなに本出てるのかな?‥は承知してて、けっきょく言葉の正しいあり方というのは議論するだけ空疎な内容に陥りやすいって用心するに越したことはないみたい。それに‥ここがキーンの意見の卓抜した点かなって思うけど‥キーンは言葉の強靭さというのをよく理解してる。たとえ一時廃れようと、言葉はその人たちの文化そのものの豊穣さを匿しもって、ひっそりとそのうち生き返る。言葉というのは、だから考えてみると、とてもふしぎ。その神秘性は考え尽きるものでないかな。おもしろい。」
「この書の後半には三島由紀夫や安部公房などという日本作家への言及といったキーンの文学者としての側面が色濃く出た作家論が展開されており、これも十分に魅力的な内容というべきでしょうね。さらにはキーンの学生時代の回顧や旅行記などの詳細な記述がキーンという人間の心の繊細な筆致を伴って描出されていて、非常に印象的な文章となっていたと感じたかしら。総じて見れば、とても楽しむことのできる良い一冊よ。ドナルド・キーンの魅力を遍く伝えてくれるエッセイ集ね。興味あり含蓄に富んでいて、良かったことよ。いい本ね。」
『生まれ変ったら行動的な人間になりたいと思うが、逃亡してきたこの人生を惜しくは思わない。文学を書いた人に逃亡者が多く、この人たちを理解できた(と思うが)のは共通の性質があったからであろう。しかも、私の逃亡は目的地のないものではなかった。現況を断って逃げた時でもいつも同じような安全地帯に戻り、そこに閉じ籠って自分のやるべき仕事をやってきたと思う。まあ、自己弁解はよそう。振り返ってみて、もっと積極的に生活した方がよかったと思う時期もあったと認めざるを得ない。はにかみ屋であったことは全然プラスにならなかった。自動車の運転を覚えるべきだったかも知れない。一度だけでもマリファナを吸った方が好かったかも知れない。が、逃げながら私の気に入った逃亡先を見付けたことは私の生涯で最大の喜びである。』
ドナルド・キーン「「逃亡」ともいえる生き方」
ドナルド・キーン「日本語の美」
2009/05/26/Tue
「昭和四十八年から新聞紙上において実に百回にわたって掲載された吉行淳之介の気ままなエッセイをまとめたのが本書「贋食物誌」であり、内容はどんなのかなっていえば、それは表題にあるとおり、一回ごとにある食べものを元ネタにして吉行が思ったこと、思いついたこと、連想したことを中心に気楽に雑感を述べてくっていった形式のものであって、スタイルらしいスタイルもとくにない、あるときは食べものとはぜんぜん関係ない脱線した話も余裕で進めちゃう、そんな吉行らしい軽妙洒脱な調子に満ちた愉快な一冊ってふうに本書は評価してよいのじゃないかなって、私は思う。こんなに肩の力をぬいてだらだらと読むことができる、怠惰で物憂い午後を飾るのに最適の一冊ともいえちゃう本書は、ある面、吉行の実に吉行らしい側面をあらわしたものとも、もしかしたらいえるのじゃないかな。‥そんなわけで、ある意味内容があんまりというかほとんどない本書であるから、まじめな感想なんてしようとてもむずかしくてやってられないから‥吉行が筍がアレルギーで苦手とか、立春の日には卵が机のうえに直立するとか、サイダーよりもラムネのほうが好きとか、ヨーグルトは戦後の混乱期にちょっとした話題の食べものだったんだとか、そういった諸々のエピソードについていちいち口さしはさむのは野暮だものね‥このエントリでは本から受けた印象というよりは、試みに私自身の食べものの好みとふだん思ってることについて、ちょっとだけ書いてみることにしよかなって思う。‥といって、私は味覚のことに対して何ごとかいう趣味はないのだけど。」
「味覚のことをあれこれいう趣味がないとはいっても、それこそ日常からさまざまなものを食べているのだから、食事について何等か意見をもっていないということは、当然、ま、ありえないのでしょうけどね。ただしかし、ある事柄については気楽に流暢にいくらでも意見を述べられるけれど、それ以外のジャンルに関しては決して嫌いというわけではないけど語りにくい場合があるだろうということも、ま、たしかにありうることではあるのでしょう。たとえば澁澤龍彦などもよほどいい聴覚をしていたと聞くけれど、しかし澁澤が音楽に対して文章を綴ったことは一度としてないのよね。そんなふうに語りやすいことと語るべき趣味といったものには、なんていうのかしら、それぞれ個々人の信条といったのはあるのでしょうね。」
「信条や信念なんて大層なこととは思わないけど、かな。‥ただそだな、でも食べものについて感じてることは実際あって、そのひとつとしては「あなたの好きな食べものはなんですか?」ってきかれることについて。というのも、ね、あれっていきなり問われても困るよね。だってふつうの人はおいしいものが好きで不味いものがきらいなのだろうし、それに一口においしいものといっても、おいしいはその日の体調や気分、または年齢によっても変化するわけであって、これこれが私は好物だよとは、あんまり正確にいえることじゃないのじゃないかなって気が私にはする。だから私は好きなものきかれたときはいつもみかんが好き、って答えてる。みかん。大好き。これはいついかなるときでも好物だから‥冬はいつも食べてる。ちなみにみかん食べすぎると肌が黄色くなるよって風のうわさががあるけど、でも私は一度としてそうなったことないかな。まだ食べ足りない?‥自信をもって答えられる。それに対してきらいな食べものは何かーってクエスチョンがあるものだけど、基本的に私はきらいなものない。むかしはピザが食べられなかったけど‥これをいうとたいていの人が意外の感に打たれた顔をする。それは私がチーズがだめとかトマトがだめとかそういった素材のレベルではピザを構成するどれもが食べられる事情が関係するからで、私はピザってその存在に化したときになんだか食べられなくなっちゃうっていう状況だった。それがなんでかなっていうとこれは私には理由は自覚的で、つまりずっと子どものときのことだったのだけど、ある日出たピザが、ラップでくるまってる冷えたピザが、あまりに、あまりに不出来な代物だった。しかもそれが私のピザとのファースト・コンタクトだったから、私の深層心理に「ピザは不味いもの」っていう真理がふかく刻みこまれたことは想像に難くない。そのインプットを克服するには数年かかった‥今はもうだいじょぶ。‥あとそれからそだな、私、パセリがけっこう好き。っていうとみんな変な顔するのだけど、あれ、なんか、好き。あとはコーラも好き。そんなたくさん飲めないけど、バニラコーラとかとてもよかった。蕎麦も好きかな。山菜も好むのだけどふきのとうの天ぷらだけは苦くて苦手。そういえば「東方三月精」でふきみそ食べてるシーンあったけど、私苦くてあれやだな。あーでもわさび漬けの類はなんでも好きかな。辛くてよろし。人生はたこわさのようなものだし‥」
「途中から訳分らなくなってきたけれど、あんたが食べものを語る才能にまったく欠けているということは十分理解できたことよ。だらだら食べものの好き嫌いいっても如何ともしがたいということね。はてさてよ。それに、なんていうか味覚といったものは基本的に恐ろしいというか、門外漢には少々深すぎる世界だという予感もあるのよね。これは私たちが料理や味について知識のないためか知らないけれど、ま、あまり無知をさらけ出さないうちに止めておくとしましょうか。食べものの話題はどうも苦手ね。三十六計逃げるにしかずよ。」
吉行淳之介「贋食物誌」
2009/05/25/Mon
「いろいろと原作の工夫と卓見に満ちたアイディアの表現がおもしろい。というのもまず私が感心させられたのは死刑囚のその設定であって、彼らのうちにかの「ハノーヴァーの吸血鬼」として犯罪史上に名高いフリッツ・ハールマンの要素が疑いなくあることは断言していいことなんだよね。それでハールマンとはどんな人だったのかなって疑問が起ると思うんだけど、彼は一九一八年から六年かけて実に二十八人もの少年を殺害した人物であり‥といってもこれは裁判で確定させられた人数であって、本人の弁によるとあと二十人は殺してるみたい。ハールマンは自分の殺した数はそんなに少なくないって裁判官に文句いってる‥さらに同性愛者で露出症者で誇大妄想狂の気もあったっていうのだから、第一次大戦の直後の未曾有の混乱と退廃にあったドイツにあっても、飛びぬけた奇人だったって、思っていいのじゃないかな。たとえばそのころのドイツは街中に浮浪児や淫売婦がたくさん群れてたものだったのだけど、ハールマンはその渦中にあって自分好みの美少年を選って自宅に連れこむ。そして少年と十分に同性愛的行為をし遂げたあとに、肉屋で実際に用いてる包丁をつかって少年をばらばらにしちゃうんだよね。それでその肉を自分で食べて、あろうことか店頭で少年の人肉をお客に販売してたともいうのだから、その異常性はさすがに常軌を逸してる。ハールマンのいいぶんによるなら、彼は何よりも少年の咽喉の部分の肉が好物であって、首にかじりついたあと、頭と胴体が千切れるまで肉を食うのだって。そしてその頭部が離れる間際に激しい性的絶頂をおぼえるっていうのだから、カニバリズムここに極まれり、かな。人肉食と性欲のあいだには、何か不可分の関係性があるってみていいみたい。」
「肉屋という職業柄いくら血まみれになろうと、また骨や肉の切れ端が店にどれだけ散乱していようと、だれもそれを異常には思わなかったことがハールマンをして六年もの長年月にわたっての犯行を可能にしたことは認めなければならない事実なのでしょうね。しかし、ま、それでも、美少年をソーセージにしたりステーキに加工したりして楽しんでいたという精神のもち主というのは、はてさて、やはり一般的な感性からいうととんでもないとしか形容しようがないかしらね。それにハールマンは男色家らしい審美眼をもった少年ならだれでも欲情するといった人物では殊更なく、彼は犠牲者にもある種の美意識をもってその選別を行っていたというのだから、ある意味複雑に高尚な精神的な人物とも、もしかしたら、さて、いえるのかもしれないかしら。ま、とんでもない形而上的な犯罪者よ。こういう男が出てくるのだからヨーロッパというのは、まったく訳が分らないところかしらね。」
「あと今回のお話でおもしろかったのは、お前は兄貴につくられた魂人形じゃないかっていわれて動揺しちゃうアルの姿であって、これはアルに突きつけられた彼自身のアイデンティティを揺さぶる強烈な、そして意味ふかい言葉であるけれど、それと同時にアルを抉った言葉というのは私たち自身にもそう無縁でない人間性のあり方といった問題の検討を要請するものであるかに、私には思えるかな。それというのもたとえばごく基本的にデカルトの考え方を追うなら、私たちの身体は機械であるといった近代合理主義の当然の帰結として機械主義の主張は導きだされてくるし、その後のラ・メトリーを参照するならさらにデカルト以上に徹した私たちは機械そのものであるといった極端に非精神的な機械論のもたらす複雑の至りつく究極的なイメージである人間像を私たちは得ることができる。また二十世紀に起ったシュルレアリスムがあらゆる事物をオブジェと化することによって、新たな芸術のビジョンを案出したことは周知だろうし、押井守監督の「イノセンス」がむしろ精神の認められない人工的な造詣にこそ自然本来の純粋性と美しさがあることを主張したことは、私には記憶に新しいかな。‥等々、いろいろ今回のハガレンについては思うとこあるのだけど、アルの陥った悩みの核心が何かなって部分に限定して語るなら、私にはあるていど答えは定まってる。それはすなわち、アルの苦しんでる問題とは、つまり心とは何か?といった疑問に執着するだろうこと。‥単純な唯脳論とかで、もちろん答えられるわけないこの問題は、多くの意見とそして混乱を提供するものでこそあろうかな。これについては、これから先も少しずつ考えていきたい。おもしろいものね。」
「私はよく作られた人形なのではないか、私の記憶とは私の生み出した錯覚なのではないか、人間の定義とはいったいなんなのかといった、ま、そういう類の疑問なのでしょうね。そしてこれは基本で、また実に高度な哲学的難問ともいうべきものなのでしょうけど、人間の定義自体はっきりしているものでないし、それに生命という言葉もよく考えると説眼のつかない訳分らないものあるのでしょうから、はてさて、一朝一夕に上手い結論は得られそうにもないと考えるのが、ま、妥当なのでしょうね。であるからアルの苦しみといったものもあるいは生涯つきまとう性質のものなのか知れないけれど、さて、どうかしらね。とりあえず次回を待ちましょう。ようやく本格的におもしろくなってきたことよ。楽しみね。」
『あなた方はお互いの間で心のあるなしを検査したり尋問したりはしません。お互いに心があるのは解りきったことなのです。しかもあらためて確かめようとしても確かめる方法などはありっこないのです。麻酔にかけられた時、果して本当に痛みを感じなかったのか、あるいは痛烈な痛みがあったのだが忘れてしまったのか、それを確かめる方法がないようにです。また昨夜は夢を見なかったのか、あるいは夢を見たのだが忘れてしまったのか、それを確かめる方法がないようにです。あるいはまた、焼き場で焼かれている屍体が焦熱で身を焼かれる苦痛を感じているのかいないのか、それを確かめる方法がないようにです。それは心臓の有無や脳波の生むのように「確かめうる」種類のことではないからです。他人の心の有無は「科学的事実」ではないのです。』
大森正蔵「ロボットの申し分」
2009/05/24/Sun
「私がなんでこの作品の感想を書きつづけてるのかなっていえば、ある意味この作品が露骨に性的にあるからで、今回のように雛ちゃんが手慣れた男の子の手によってずいぶん性的な手ほどきを‥遊び半分のように‥させられちゃうシーンは、それが雛ちゃんが自分の今おかれた立場にまったく知識のないくせに、あるいはそのために、だれよりそういった性的な関係性に積極的であったって事実が、私にはなんだか雛ちゃんの哀れさと滑稽さを象徴してる場面のようにも思われて興味ふかかったかな。‥それで、今回のエピソードはなんだかいろいろ思わせられるのだけど、まず私は人のあり方としての処女、童貞の問題についてしばし思いを馳せられた。というのも、この二つのきわめて性的な事柄はそれ単体としてはあまりに語られづらいのが現今の日本社会であると思うけど‥でもその割にネットやオタク文化のなかでは暗喩としてあまりにたくさん散見させられるようにも思える。たぶんこの現象を性の抑圧とみるか解放とみるかは、人によって異なってきちゃうだろうし、どちらかを断定するかはよほど難問だって思わないでられないかな‥人の意識のなかでは絶えずつきまとってくることであるだろうし、またそれになんていうのかな、性のもたらす喜びと苦しみは、私には人の人生そのもののもたらす明暗それ自体と本質的に照応してるのじゃないかなって気がしてる。そしてこの種の悩みに真正面からぶつかれるのは、おかしなことに、二十一世紀においても文学くらいしかないのじゃないかな。性のドラマという面においては、科学も何もろくに応えられない。そういうのは、ふしぎかな。」
「ま、人間の心理の変転なりそういったことを冷静に記述し検討することは可能なのでしょうけど、人が自身の人生のドラマの渦中にあってそういった性の出来事を直接的に体験するときは、何か逃れられない宿命ともいった切迫感が免れなくあるだろうことはおそらくいえるのでしょうからね。そして、ま、おもしろいことに、こういった性の直接的体験でもっとも衝撃の強かったろうと思われる、童貞や処女喪失の自身の体験といったものを明らかに語る人というのは、まず皆無といってくらいに貴重なものだといわねばならないのでしょうね。なぜなら、そうね、ぱっと思いつく限りでも童貞喪失のことを筆にしているのは、いないのよ。いやそうね、小説だのなんだのでそういうことを話題にしている人はいくらもいるでしょうけど、自分自身のこと明瞭に物語っている人というのは、これは本当に、ぜんぜんいないといってもいいのじゃないかしら。ま、奇妙というか、むしろ自然なことなのでしょうね。そういうことは。」
「私がこの種の問題を考えるとき思い浮ぶのは
赤線の存在で、ここは以前も少しだけいったかなだけど戦後の日本においてほとんど公認されて売春が行われた東京のある地帯だった。そして若き吉行淳之介をはじめ、ここに通った人はだいぶいたかなって想像されるのだけど、たぶん、そしてこれはまずまちがいなことかなって思うけど、この赤線で童貞をなくした文学者なりのちの偉人と呼ばれる人なりは、相当数いたにちがいないって、私は考えてる。‥ただでもそれを大っぴらに語ってる人はいないし、いなくていいことかなとも私は思う。あの吉行でさえ自身の童貞を喪った体験というのはあからさまに語ってないし、もっといえば吉行という人の心性は一生童貞のようなものだった‥ここがおもしろいとこで、吉行ほど女性と逢瀬を重ねた人が生涯女性に対しての恐怖をなくすことができなかった。逆に童貞の心理をもってるかのように見せかけて、内実そんなことぜんぜんなかった人は、太宰治かな。その意味で太宰というのは最低にちかい人ともいえるかも。またこの種の童貞に根づく問題にがんじがらめだったのは、もしかしたら遠藤周作がそうだったかもしれないし、川端や谷崎のあの濃い精液のような世界観というのを支えた自身の経験性といったものはなんだったのかなって、奇妙に思う‥。‥処女や童貞というのは、だから、むずかしい問題かなって思う。重くふかく人間の生き方の根幹に係る問題であるからこそ、人はそれを猥談やエロゲなんかにしちゃうのだろうし、それはそれで適切な性への対応なのだろうかなって私は気がする。‥ただ、そだな、逆説的なことをいうかもだけど、性体験というのに人はそう積極的になる必要はないのかもしれない。もちろんだれかとセックスしたいとか思いに駆られることあるかもだけど、なんていうのかな、セックスそれ自体を突き進むことは修羅の道のようにも思える。だって、あのサドでさえ、ほんとは自分自身はろくな性経験してないのだものね。性の話は、うん、おもしろいけどむずかしい。あんまり上手く、まとまれない。」
「ま、あんまり多くの人と寝たところでなんとやらというのはあるのでしょうね。それに普通の人にしてみれば、サドだの吉行だのがあそこまで性を追求しようとしていたのは異様とも映るのでしょうし、それに過度にはまりこめば、ま、人生どうにかなってしまうものなのでしょう。はてさてね。それにしかし何かしら、話を恋愛くらぶに戻していえば、小学生くらいでこういった性的な体験に自覚的になるということは良いことなのか悪いことなのかというのも、ま、道徳だの倫理だの教育だのを踏まえて考えると、なかなかいいづらい話題ではあるのでしょうね。もちろんここでその賛否をいうつもりはないし、性的に早熟な子がどうなるかも面倒な議論を呼ぶことでしょうけど、しかしひとつだけ意見をいうならば、そのうち擦り切れそうね、小学生から性的なことに自覚的な子というのは。性体験というのは、まともな神経のもち主なら、量ばかりあっても重苦しいものよ。しかし、はてさて、いいづらい話題ね。ま、小学生でセックスする人もいれば、定年過ぎて痴漢する人もいる人間存在なのだから、いいづらいのは当り前でもあるのでしょうけど。はてさてよ。」
2009/05/23/Sat
「冒頭の憂ちゃんの合格のシーンは、私にもなんかなつかしくて、高校の合格発表の日のことを少し思いだしちゃったかな。というのも、私も憂ちゃんのように掲示板で自分の番号を見つけたのだけど、今から考えるとなんでかな、私はあーうかったなーって感じるだけでとくに感極まるとか泣き出すとかいうこともなくて、無感動にすぐその場から背を向けちゃって足早に帰ってったのだけど、その掲示板にさっさと見限って消えてく様子はなんだか異様に暗かったみたいで‥私の横では幼なじみが落ちてた。あはは‥後日、とある地方紙の小さな写真に私の背中姿が写ってたの。しかもその様子があんまり不合格の哀愁を漂わせてたみたいで‥私、うかってたのに‥いろいろな人からあとでからかわれることになっちゃった。‥青春とは、暗いものなのだね。」
「いや、素直にその場で喜びをあらわすことのできない屈折した心情こそがそこにうかがえると看做すべきかしら、その態度は? もしくは入試なんてどうとも思っていなかったということかしら。ま、それはそれで嫌味たらしいように思えて、なんかあれね。」
「天もつんざくプラトンパンチだー!!」
「ごふぅっ!?」
「‥そういえば、澁澤龍彦は大学受験に二回失敗してるのだけど、さいしょの受験のときの発表の日は、自分で合否をたしかめに行くのがこわくて、代りに妹に見に行かせてる。それで澁澤が家でまってて、帰ってきた妹の開口一番、お兄ちゃん落ちてたよ、というの。‥これはなかなかおもしろい話かなって思うし、それになんていうのかな、澁澤には妹依存の面があって、なんでもかでも妹頼りになっちゃう面があったみたい。外出するときも妹がついてこないならめんどくさくてやめちゃう人であって、傍目から見たら夫婦にまちがわれたってどこかのインタビューで読んだかな。‥それにそうそう、澁澤は女性に自分のことを澁澤君かお兄ちゃんかで呼べって命令してた節があるみたいで、これまた考えてみるとおもしろい。お兄ちゃんって呼ばれたかったのだね、みたいな。‥なんだか人にはお兄ちゃんお姉ちゃんで呼ばれたいって願望が、ある種普遍的にあるのかも。ね、お姉ちゃん?」
「はてさてね。‥しかし、澁澤はその後奥さんになった人にも妹にしたのと同様依存しまくるのだから、ま、なんていうか日常生活からして自分のことは自分でやるといった意識のまったくなかった人物だと思うべきなのでしょうね。たとえば外国旅行に行ったときバイキングのやり方がわからなくて思わずこれじゃ何も食べられない!とパニックになったまでの人という逸話があるのだから、もしかしたら文学者なりその種の芸術的素養のある人にはどうしてもだらけた面があってしまうものともいえるのかしれないかしら。そしてその意味でいえば、唯も芸術家肌とは、はてさて、いえるのかしら? ま、それは怪しいものかしら。」
「唯が天才かどうかはわかんないけど、でもただ今回のお話でけっこう痛かったかなって思えるのは、内輪からだけでなくて外側からこの軽音部の様子を客観的に判断すると、やっぱりどうしても不真面目であんまり素行よろしくない部活に見られちゃうことは免れないことなのかなって感じられたとこだって、私は思うかな。というのも、唯は憂ちゃんに軽音部のいいとこは何ってきかれて楽しいとこって答えてるけど、でもその意見は唯の主観に拠るものでしかなくて、それだけでほかの人が入部するかはわからない。なぜなら唯が楽しいからといったってほかの人が楽しめるかはわかんないのであり、それは軽音部がごく閉じた関係性のなかでささやかに活動してるとてもプライベートな空間であるからこその問題であって、そういった身内の雰囲気になじめるかどうかは部外者からしてみるなら、なかなかどうしてむずかしく思えちゃうものなのだよね。‥それに梓が軽音部に入部する段どりも、これは率直にいって私は原作のほうがよほど自然に違和感なく描写することができてたと思う。というのもそれはなんでかなっていえば、今回のアニメ版では梓はジャズ研のよしあしを判断できるくらいの音楽的素養のある人間だってことは過不足なく表現できてたのだけど‥たぶん梓がいちばん音楽の修養はあるのかなって思う‥その梓が実は唯たちの演奏を高く評価してるって事情がアニメでは描かれてなかったのであり、このためこのエピソードのみでは梓が軽音部に入部する決定的な要因はなんだったのかなって点がぼやかされちゃってるって、いわざるをえないのだよね。‥もちろんそのフォローは次回以降で為されるのかもだけど、軽音部がそれほどあんまり熱心な部でないってことがつよく否定できない事実である以上、彼女たちの活動をどんなふうに魅力的に描いてくかは、四コマである原作と異なってドラマをしっかりと描くほかないアニメ版においては、避けて通れない問題であるにちがいないって、私は思うかな。なぜならキャラクターを魅力的に映えさせるには、その背景にあるドラマをおなざりにしては為されないに、おそらくちがいないのだろうから。‥ここから先が、たぶん本作の分れ目かも。おもしろくなるかどうか、期待かな。」
「原作ではつぎはぎであり要所要所が読者の想像力に任された構成になっている作風なのに対して、アニメではその隙間を上手に埋めていき、見応えのある物語をこそ創造しなければならないだろう、か。ま、そこらへんの作業が前回のクリスマスのエピソードなどは非常に良くできていた印象があるのよね。というのも7話は周知の通り、唯と憂の幼少期の挿話を冒頭に提示することによって、平沢姉妹の年月のある物語とそれによって醸成されてきたろう関係性の深みといったものがとてもよく暗示させられる構成になっていた。だからこそ、本作にはそういった原作を上手く再構成し、実りある物語をこそ求めてしまうのでしょうね。ま、はてさて、どうなることか次回を期待しましょうか。梓が如何にしてあの軽音部の空間に馴染んでいくことか、その過程をこそ楽しみにしましょう。さて、どうなることかしら。」
2009/05/22/Fri
「‥まずい。今回で最終回というのはわかってたけど、実際に手にとって見てみると思った以上に感傷的に動揺しちゃって‥とくに今月号の表紙は集大成としてとてもいいのじゃないかな。なんか泣けちゃう‥ほんとにこれで終っちゃうのだなって、さみしく思う。それに今回のエピソードは「ひとひら」って作品を総括してみるなら紛れなくこういう形をとるほかはないかなって思える構成になってるのであり‥野乃先輩にかけられた言葉によって新しい生活を、新しい世界においてはじめた麦ちゃんが、今度は自身がそうした役割を果したということは、彼女たちのこれまでの物語が営々と受け継がれてく、そういったどこにでもあり、そしてそれゆえに大切な人のめぐりめく絆のドラマだということを如実に物語ってる。その意味で、麦ちゃんに起ったことはまたほかのだれかにも起りうることであるのだろうし、麦ちゃんを支えここまで導いてくれたものは、またそのだれかを助けてくれるものでもあるのだろうって思う。べつな言い方をするなら、麦ちゃん自身がそういった支えに、野乃先輩や美麗のようになれるかもしれないって未来をこそ、この最終回は暗示してるのじゃないかなって、私には思えたかな‥とても素敵な、見事な締めくくりだったのじゃないかなって、私は感じた。‥ラストの見開きの麦ちゃんは、とてもきれいで、どぎまぎしちゃった。彼女のように、つよく意志をもてる人に、私はどれだけあこがれたものかな。この数年間を思い起すたびに、私は彼女の影をどこかに、意識の隅のどこかにみとめてたのかもしれない。それくらい、私はふしぎとこの作品の影響を受けてた。それは他者から見たら、ちょっとよくわからないくらいだったかもって、今からすると思うかな。」
「意志というものの不可思議さ、とでもいうのかしらね。なんというか、意志というのは実に神秘的な力なのじゃないかしらと、ときおり思うことがあり、それは人が何ごとかを望み、そしてまったく本当にそれを意志するのなら、個人の抱く願いといったものは自然な無理のない結末を得ることになると思えるからなのでしょうね。というのも、意志をもつということは、できるできないといったことではなく、それをするのが私という存在だという、なんていうのか、その行為そのものが自分の自然となるような状態を指すのでしょう。そしてそういうふうに意志さえもててしまえば、もはやくじけたりあきらめたりという選択はなくなる。なぜならそうするのがその人だということになるのが意志だからでしょうね。もちろん能力によって成功したり失敗したりはあるのでしょうけど、しかしそれだけよ。意志は継続し、自然に、そして人をして人生に順応させることをいうのでしょう。ま、何かしらね、麦ちゃんのように、「やってよかった」と思えることというのは、どうもそういう意志のもちように係ってくる事柄のようにも思えるかしら。何かあるひとつの意志を抱いた人というのは、そう、強いものよ。」
「意志が生き方に溶けこむ、とでもいえばいいのかな。‥私がこの作品に惚れこむことになった理由のひとつは1巻に収録されてる第7幕のエピソードであって、そのお話で麦ちゃんは桂木先輩に自分がすごくがんばってるということを指摘されて、そのことをつまり喜ぶんだよね。それは今まで自分がただ周りに流されてるだけで、自分自身のやりたいこと、好きなこと‥何が好きかどうか、わからないことも多い。それと同じに、人は本当にほしいもの、望むこと、願いということをほとんど得られないものなのかもしれない。もしひとつだけ願いを叶えてくれる機会が訪れようと、それにまったく悩みなく答えられる人がどれくらいいるかは、私には疑問かな。そして人は成長するにつれて、ほんとに欲しいものを失くしてくのかもしれない‥がよくわからなくて、ただ生きてきた麦ちゃんが、はじめて意志して努めて励むことの喜びを意識的に知れた瞬間であったにちがいなくて、そこで麦ちゃんは今まで自分は何ひとつがんばってこなかったんだなってことに、思い至る。‥そこから麦ちゃんが自分の、自分だけのがんばりを探してく過程がこの作品の物語であったのだけど、私は、麦ちゃんが三年目までにたどり着けたのは、途中でくじけちゃうことなくて‥実際、そういった危機には事欠かなかった‥他人につづけることの意義を口に出せたのは、私は麦ちゃんが「自分の生き方を選択したから」だと思う。‥そして私は、そんなふうに意志をもてる人に、恋をする。‥ありがとう。大好きな作品だった。ほんとに、よかった。ほんとに、ほんとに、ありがとう。」
「ある物事を継続し、持続するには、ただ単純にやる気があればいいとか、エネルギーがあればいいとか、そういうこととはべつの何かが必要なのでしょうね。というのも、気合だの自信だのといったものはそれ自体が意識を縛る障害みたいなもので、長く長くあきらめずに物事を持続させるには、不純となることが多いのよ。それにずばりいってしまえば、ある事柄を継続させるときに最大の難関となるのは、人の本性にあるものともいうべき、安易につきたがる心情なのでしょうね。意志をもつというのは、だから、思った以上にむずかしく困難なことなのでしょう。しかし、とはいっても、意志せず、自分の生き方を周囲に任せている人間というのは、どことなく魅力がないのよ。意志し、ある事柄に限定され、そして金にもならないことを一所懸命やってこそ、人はおもしろいのよ。なぜなら、いいかしら、心の空白とは意志でしか埋められないからよ。意志あってこそ、人間でしょう。そうじゃないかしら。そうじゃないわけ、ないでしょう。」
2009/05/21/Thu
「ホウとオウの二人のけんかの原因が夫の浮気性なとこにあったのはおもしろくてよかったかな。共存とか人類の文明がどうだのとか、そういった大そうな主張で理論武装するよりかは、男と女の、性の気紛れな問題でゆれ動く心理を事件の背景に据えたことはそれだけで私には本作をぐっと身近ななものとして理解することができる。それに本作は、こういっては何かなだけど、あんまりよく練られたドラマ性に支えられたものともいえないものね。だから見るほうの私も気楽に、そして構えないでこの作品にふれて感じえたことを綴りたい。‥それで今回はこのエピソードを見終ったあと、ちょっと浮気の問題についてぼんやりと考えてたのだけど、たしか吉行淳之介だったかな、彼は「本気の浮気」といった言葉を使ってたことがあって、その意味するとこは浮気が不安定な人間の心情に乗っかった長続きしない関係性のことを指すのなら、その浮気に秘められる性質とは恋そのものにも紛れなく備わってるものにちがいなくて、だから「遊びの恋」があるのと同様、「遊びの浮気」もまたあるのであり、そしてそれに比するべき「本気の恋」に並ぶ「本気の浮気」もあるのだって、吉行はいってた。そして私がこれを解釈するなら、人が他者に惹かれるっていったその基本的な心の変化に注目するなら、恋も浮気も、基本的な次元においては何等隔たることなくて、ただそこには既に恋人または配偶者がいるかどうか、そのていどのちがいしかないっていえるのじゃないかなって、そういうことを吉行は述べてるのだって気がする。‥恋も浮気も、だれかを好きになるという意味では大差ない。ただそれが遊びで済まされるか否かには、その恋にどれだけ本人が心がけるか入れこむかの問題があるのであり、恋の場合には一途であることは称揚されるべき事柄なのかもだけど、一転してこれが本気の浮気となると、浮気に一途に純真になっちゃうのは不誠実ってみなされちゃうのだよね。でも、いいかな、浮気と恋に決定的な差異がないって考えるなら、浮気は単純に悪といって、アンモラルとして切り捨てていいことじゃ、もしかしたらないのかも。‥もちろん心変わりという点では、それはあんまりよくないことなのかもしれない。でも、決定的な、その人の人生を絶対的に決めちゃうような出会いがあるのと同じく、浮気がその人にとって‥つまり今の恋人のあとに出会った人が奇しくも‥運命的ともいうべき迫真性で思われることが、人には往々にしてあることなのであり、そのとき、恋は人を狂気に導く。要するに、他者を捨てて前へ進むという意味において。」
「吉行淳之介自身もそういった関係性によって妻子を捨てた人生を送ったのだったけど、その境涯というのはまったく苦心惨憺たるものがあったのだから、なんとも恋愛というのは分らないものだとしかいいようがないかしら。そしてまたそういった文脈において浮気というものを考え直すのなら、恋も浮気もいあゆる遊びの段階では単なる即時的な刺激と高揚感をもたらすだけのものであり、その程度の快楽を求めての浮気であれば、配偶者なりそもそもの恋人なりはそれほど目くじら立てて怒る必要はないのでしょう。なぜならそういった安易な刺激といったものに人はすぐ慣れてしまうものなのでしょうから。ただしかし、もしその浮気が継続する性質のものだったら、これははてさて、なかなかどうして簡単に始末のつくものではないのでしょうね。というのもたとえそれが浮気からはじまった関係性だとしても、持続させてしまえば通常の人間関係と同様、倦怠や飽きといったものが人心には忍び入ってくるものであり、しかしそういった即発的な快楽が霧消してもまだその他者と一緒にいることを個人が望むとすれば、それはその浮気はまったく本質的な意味での恋愛を含んでいると看做さなければならないのでしょうからね。そして、そういった浮気が一度起れば、ま、何かしら、そもそもの恋人や配偶者が心変わりした人をとり戻すことは、よほど困難だといわねばならないのでしょう。ま、むずかしいのでしょうけどね。ただ他人の心というのは、如何ともしがたいものよ。なんともね。」
「人間関係に基礎的な次元で、そして究極的な意味で求められるのはまちがいなく忍耐であるから、か。そんなこと思いだしちゃう。‥それにこの種の話題で私がいつもふしぎだなって思うことは、浮気に限らず性にまつわる事件や因果といったものは、朝の新聞でどれほどだけも見つけだすことのできちゃうくらい一般的に、世のいずこでも起ってることという点であって、そういった個々の事件に隠された悲劇性といったものは、いったいどれくらい人の心を暗雲で覆うものなのかなって少し慄然としちゃうものがあるから。というのも、浮気や不倫みたいなことが起って、そしてある人間関係が破綻する。そして人はそういった光景に接したとき、この破滅をもたらした原因はなんなのだろうって考えるもので、その原因には悪ってレッテルを貼ることをまず躊躇しない。‥でも、なんていうのかな、そのときその家庭や恋人の崩壊なりを招いた元凶とされるべき個人は、たしかにそれまであった関係性を放棄したという意味では紛うことなく悪があるのかもしれないけれど、でも浮気にしろ恋愛にしろ、新たな人間関係を築いてこう、持続させてこうって決意するとき、そこにはまちがいなく他者を背負うといった覚悟が潜むはず‥打算と恋愛を混同してない限りは‥。それならそういった破滅をもたらした浮気者は、悪を引き受ける何かが‥それは愛であるからなのかもしれないし、もしくは先の悪に代る悪なのかもしれない‥なきゃ、すでにある関係性を崩壊に導くことはできないのじゃないかな。‥と、つらつら思って、ふと私は私自身は、そういった性の関係性からことごとく逃げちゃってるのかもしれないって、気づく。‥私は、ある意味、性的な視線を向けられやすい人間だと思うし、そしてこれまで私はそういった視線から逃げて、つまりふかい人間関係に狭まられることを意識的に排除してきたのだろうって、わがことをふり返って思わずにられない。そして、それは、たぶん、私のだめなとこなのだろかな。私が浮気も、それに先立つはずの恋も避けてるかもしれないのは、人間関係の悪を免れさせる自己愛がつよいせいなのかもしれない。‥私は私をやめられない。そのために他者を傷つける。そういう自分に私は嫌悪を感じるのかなっていえば、とくに何も、私は感じない。無感動な私が、未来をただ、私のなかで嘲ってる。‥それこそ悪でなくてなんだろう。私は私を、みとめない。」
「人間関係といったものは、そこまで考えていくとある種の悪の陰影からは逃れることができないのだと、考えるほかないのかもしれないかしらね。そうとすれば、個々人にあるのはただその悪が濃いか薄いか、そしてその悪を引き受けているか無自覚的か、それくらいの相違しかないと思うべきなのでしょう。また、そうね、悪が濃いか薄いかというのも、ほとんど天の采配のようなものなのでしょうし、だから個人を悪としてどこまで責められるかは、それが第三者がするのであればなおさら、微妙な問題を含まざるをえないということにはなる、か。はてさてね。ま、しかし浮気なり恋愛なりの現実はシビアでしょう。そのシビアさを前に何がいえるものかどうか、やはり少し考えなければならないのでしょうね。いろいろな人といろいろなことがある。割り切れることばかりではこの世はない、か。致し方ないことでしょう。おそらくは。」
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ちょっと微妙だけど浮気の問題についての話→
吉行淳之介「闇のなかの祝祭」
2009/05/20/Wed
「私がさいしょに現代魔法の1巻目にふれたのがたしか五年前のことだったから、本作を読み返すのもずいぶん久しぶりのことになっちゃった。それで内容のあらましは頁を繰ってくうちにだんだん思いだしてきたのだけど、今回おどろかされたのは本作がもつコンピュータを介して行われる完全に技術のひとつとしての魔法ってアイディアの独自性が、しばらく時日をおいた今日においても変わることなく魅力を放ってるっていうその点であって、魔法を単純なコードの複雑な積み重ねのための現象として把握した本作の設定な基礎的な部分のもつ斬新さと現実の科学技術のうちに違和感なく魔法とそれがもたらすファンタジー的要素を融和せしめる説得力は、コンピュータの果す役割がより身近なものとして、そして電子化が常にどこの場においても欠かすことのできないものとして日々認識されることをふかめてくこの現代であるからこそ、より迫真性を高めることになったのじゃないかなって思うかな。というのも「よくわかる現代魔法」の内容の示す示唆的なストーリー性の伝えるところとなるだろうメッセージといったものは、技術とそれを扱うべき人の関係性のあり方といったのを根本的な個々人の心持の次元において問う性格があるのであり‥これは現代魔法使いである美鎖と古典魔法使いである弓子の対照によって示される、技術は推移しても人間それ自体はそう変わらないから、技術に向う人の態度が大きな問題になるっていう本作の事件の大本の部分において、明瞭に象徴されることであるかな‥これは人が文明のうちに暮す限り、無縁でありえない問題提起であるのじゃないかな。」
「技術と人の係り方を今一度考えさせられる、か。これはつい昨日のシュルの哲学書でも同じ種類の問題を検討したものだったけれど(→
ピエール=マキシム・シュル「機械と哲学」)、人間は道具を使うべき存在であるから現代のこの発展と思索の結実としての社会があるのであり、それから目を逸らすことは人の退化を意味しこそすれ、いたずらに科学文明を呪詛し、自然を称揚することは、単なる逃避でしかないのでしょうね。そしてこういう点についていえば、本作が門外漢にはさっぱり要領を得ないだろう情報技術に仮託して魔法という空想的な物語を語るのは、なかなかどうして意味深なものと評価せざるをえないのでしょう。つまり現代文明というものは、多くの人にとって魔法とそう変わらないのであり、その意味からいえば魔法の与える脅威は、科学の与えるそれと、本質的に異なるところはない。それを思えば本作の人の制御を外れたテクノロジーの暴走といった事件は、さらに多くの教訓を人にもたらすことになるのでしょうね。いや、けっこう感心させられるかしら。よくできてることよ、この作品は。」
「あと今回再読して思ったことは、能力のない自分というのを自覚してて、何をしようと長続きしない、ただ他人に迷惑をかけることになっちゃうだけの自分に嫌気が差してるこよみという少女が、一念発起して自分の意志で新たな目標である魔法を獲得しようってこれまでの劣等感を抑えてがんばる姿と、人の願いをなんの障害なしに叶えることのできちゃう奇跡の神のような存在であり、また人がなんとか手管を弄しながらなんとか制御してるけど、その実その本質はだれも知るものはない、ただその場にあるだけで多くの破壊を撒き散らすだろう異世界の化物でもある、今作の巨大な敵とそして万能のもっとも人がすがりつきたくなるような魔法の生んだ神秘である力をふるうソロモンって光景が、見事なコントラストを為してることに注目しないわけにいかないって点にあるのじゃないかなって気がするかな。それというのも、だって、使い方もよくわかんないのにただ大きな威力のある、願いをかなえてくれるかもしれない存在だからって理由だけで計り知れない災厄を起すソロモンの破滅的な姿と、自分にできるだけのことを、ほかならない自分の意志を任じて一所懸命に努めようってするこよみが、最終的に人知を超えた驚異たるソロモンを打ち倒す光景は、この作品のある主要なメッセージを、つまり人間性というものを、明らかに示してるのじゃないかなって思うから。‥だからこのお話はよかったな。そしてこよみをとり巻く、こよみを信じる美鎖や弓子や嘉穂といった、いつもの面々の姿もとてもよかった。やっぱりおもしろい。この作品は、さまざまな魅力にあふれてる。そう私は、思うかな。」
「自分自身に自信のもてない、悩み多きこよみではあるけれど、ただ単に劣等感に苛まれ、自己卑下を起しているだけの人間であったのなら、美鎖も嘉穂も弓子も、誰一人として彼女の相手はしないのでしょう。ま、というか、この三人は本当に気紛れで人助けをしようとか、他人におべっかを使おうとか、単純なお人よしで人から魅力的に思われたいとか、そういった振舞いをまったくしようとは思われないと感じられることが、いやはや、少しとんでもないかしらね。ま、なんともいえず癖のある人物たちというべきでしょう。そしてその中にある主役のこよみもまた、その純一でひたむきな意志の所有者という点で、ご多分に洩れないのでしょうね。まったく、実におもしろい面子のそろった作品よ。こういう胡散臭い連中が胡散臭いことをする話もそうはないのでないかしら? 実に楽しく、そして興味深かった一冊よ。良かったかしらね、本当に。」
『その人がいなければうまくいっていたことが、ひとりのせいで滅茶苦茶になる。本当なら自分ひとりで済んだはずの過ちが多くの人の失敗となる。たったひとりのせいで、人数分の努力が無駄になる。そんなことが世の中には存在する。それはとても悲しいことだった。だからこよみは途中でやめてしまった。それ以上傷が深くなる前にそこからいなくなってしまった。
赤と青の銅線があって、どちらかを切ればタイマーが停止してどちらかを切ると木っ端微塵になる時限爆弾があるとする。テレビドラマの刑事はまちがいなくタイマー停止の線を切るけれど、あんなのはぜったい嘘だと思う。爆弾が百個あったら、全部は無理としても、九十八個は木っ端微塵にする自信がこよみにはある。冷酷な現実というやつはそういう風にできている。
このままこよみは魔法もうまくなれないのかもしれない。
いままでそうだったように。
木っ端微塵となる九十八個の時限爆弾と同じく。
「だめだめ! 魔法の練習をするんだから!」
黒い棒をぎゅっと握りしめ、こよみは、精神を集中した。木の棒はほのかなぬくもりを帯びている。』
桜坂洋「よくわかる現代魔法 1 new edition」
桜坂洋「よくわかる現代魔法 1 new edition」
2009/05/19/Tue
「一九六九年に出された「機械と哲学」は、フランスの優れた古代哲学の研究者であるピエール=マキシム・シュルによって著述された、西洋文明における機械‥ここでいう「機械」という語の意味は多義的で、機械を使うこと、作ること、発明すること、等々のさまざまな包括的な意味あいがこめられてるのであり、広義には人が用いる実際的な道具がその言葉には負わされてるってみてもいいのかなって気がするかな。本書の表題については、だから単に現代でいうとこのパソコンやロボットのような機械だけでなくて、大きな視点から人が扱う道具をイメージしてもらえると、著者の主張の理解はよりスムーズになるかなって思う‥の形成とその発展の歴史を、古代ギリシアの起源にまで遡ってそこから多種多様な思想家、哲学者の動向と機械に対する見方を現代‥シュルがこれを書いたのは69年のことというのは、よく注意しておいていいこと‥にまで追いながら把握してくっていう、ユニークな発想で構成された一冊であって、純粋に知的関心からもおもしろく読める興味ふかさに湛えられた良書といっていいかなって思うかな。それというのもまずこの書の卓抜な点は何かなって考えるなら、シュルはここ百年余において急激に発達したかにみえる科学文明だけれど、でも遥か過去にも現在生産されてるような機械の原型はたしかにあったのであって、でもその発達が今世紀に至るまでなかなか遅々として進まなかったことに、ある斬新な視点から切りこんでることを、私は挙げておきたい。そしてその具体的な論の展開の仕方は本書を実地にとってみてたしかめてもらうとしても、少しだけシュルの意見の要旨を述べるなら、シュルは機械の発展の過程を阻害した要因のひとつに、古代に行われた奴隷制を根拠におくのであって、というのもアリストテレスがその「政治学」のなかでいってるとおり、古代人には生きた道具、すなわち奴隷が無尽にあったのであり、わざわざ便利で効率的な機械を発明するまでもなく、彼らには労働の苦しさをなんとか紛らわそう、軽減しようって実際的な必要に迫られることがなかった。そのため奴隷制は便利な機械の役割を十分に代替することができたのであって、古代人にとっては奴隷制が倫理に反するとかそういった人道的な価値観がそもそも自明としてなかったことは、アリストテレスあたりの著書を紐解けばすぐにわかることでもあった。‥これはいいとかわるいとかでなくて、そういうことだったんだよね。奴隷の価値云々といった問題は、なかなか現代では、殊に日本のような国では、上手く議論することのむずかしいテーマのひとつではあるのかな。むずかしい公正な見方が問われるとことは思うけど。」
「奴隷が機械の改良の機会を奪った。その説明はそれ相応に合理的にきこえるし、なかなか示唆の与えられる意見なのでしょうけど、おもしろいのはそれ以後、シュルが奴隷制が人々に与えた価値観が、長い期間にわたって科学技術を蔑視する風潮を西洋文明に根づかせたという論のほうなのでしょうね。正直ここらの説明は実に鮮明に耳に響くし、思想の歴史的な潮流を踏まえるうえでもとても躍動的に感じられるから、少々興奮させられるくらいにおもしろく思われた箇所だったかしらね。というのもシュルはまず、奴隷制の存在は人々に実労の価値を低く見させる働きを起させたのであり、実際的な手仕事、製造業、手工的な仕事といったものは、どれもこれも恥ずべき業であったと説明する。それはなぜなら彼ら古代ギリシア人にとってみれば、人間というものは魂の存在なのであり、肉体的な仕事に励むのは霊魂の修養を疎かにしてしまうばかりであると彼らは考えたからで、ギリシアの人々にとってみれば、人間は十分な閑暇を思索と瞑想に費やすべき存在であったのだから、機械を作ったりなんだりすることは恥でしかなかったというわけね。これはソクラテスの思弁を思い起せば、より容易に理解できることでしょう。職人のような存在は、ギリシア人にしてみれば、軽蔑されて然るべきだったのよ。ま、これはちょうど日本の価値観とは対立するものなのかしらね。」
「達人や職人というと羨望の念でとらえられるのが一般的な日本の精神的風土であるから、かな。‥ただだけど、古代ギリシアの生んだこの実業に対する蔑視の価値観もまた、次第に変化してくのであって、それは巨大なフランシス・ベーコン、レオナルド・ダ・ヴィンチに激烈な一打を打ちこまれ、デカルトの心身二元論を経て、イギリスのジョン・ケイの紡績業に端をなす産業革命に至りつくことによって図式的に提示される。もちろんこの過程は単純なものじゃなくて、シュルは西洋文明の機械の発展の核心ともいうべき歴史的変移の複雑な、そして興味ある経緯について詳細な解説を試みてることは付言しておきたい。当然それをぜんぶ述べるのはこの場でできることでないけど、ただここでかんたんに私の感想としてあらましだけを綴るなら、十八世紀以後の科学文明の展開はそれまでの古代ギリシアの技術蔑視の鬱憤を晴らすが如く、怒涛の勢いで変化、発展してくのであり、それらが十九世紀に差しかかって種々のさまざまな問題‥公害問題。労働者の非人道的な扱い。失業にまつわる社会的不安の増大。資本の集中とそれが引き起す人心の変動。等々‥に逢着したのはよく知られた歴史的事実であって、そしてそれらのカタストロフとして一九二九年の世界恐慌と、二度の世界大戦があったことを私たちは記憶してる。‥この書のなかでシュルは、機械に相対しての哲学者たちの思想のその変転の有様をその冷静でどちらかに片寄ることのない公平な眼差しをもって叙述してるのだけど、最終的に機械が人たちに単純なユートピアをもたらすものでなかったこと、そして機械も、また機械が人と社会と歴史に与えることになった大きな傷跡も、それらすべては人間という存在そのもののなかに潜んでたひとつの力にほかならないのであり、人類のもつ威力の認識と、そして心の問題とが、これからの将来を左右すべき鍵となるだろうってまとめてる。それはありきたりな道徳訓のように表面的には映るかもだけど、でもていねいな機械についての歴史的背景を根気よく述べてきたシュルのさいごの結語だと思ったとき、私には軽くない意味性が、そこに秘められてることを理解せずにはられなかったかな。なぜなら文明とその文明に根づく人間の本性の似姿ともいうべきものが、機械のもたらした恩恵と破壊のコントラストにあらわれてることを、私たちの歴史は教えずにないでいられないのだから。」
「科学が提供する圧倒的な利便性と、それを掌中にする人間の倫理的意識といったものは、かならずしも同じ速度で進歩するものではなく、そのために生ずる不均等な二つの力の釣りあいこそが何よりも恐ろしいものにちがいないだろうということ、か。ま、そのとおり、正論なのでしょうね。そして現代の合理的に忙しく管理された社会に過している身からするなら、古代ギリシアのあくせく働く姿を霊魂の堕落として嫌ったという光景は、どうにも信じかねる有様に思えるから、歴史というものは、いや人というものは極端から極端に発達するものかと考えないわけには行かないのでしょう。もちろんしかしそうはいっても、世界は発達をしないわけにはいかないのよ。何があろうと、どうしようと、過去に戻ることはできないのでしょうし、そんなこと人間が本心から思うはずがないでしょうから、人々も時間も、先へ先へと進まなくてはならない。そしてその際、そういった人々の未来の行末のすぐ傍らにあってこそ、哲学というものの、なんていうのかしらね、真の役割というものがあるとでもいうのかしらと、ちょっと考えてしまうかしらね。ま、はてさて、そう哲学が有益なはずもないのでしょうけど、それでも本書はいろいろなことを教えてくれたものと評価しないわけにはいかないかしら。おもしろく、そしてとても示唆的な一冊というべきでしょうね。機械と人間の関係性を見つめ直す一冊、これはまちがいなく、そしていうまでもなく、現代においても有益な良書よ。そうじゃないわけがあるかしら。」
『科学は両刃の斧をわれわれの手に与えた。その一方の刃は悪を切りはらうが、もう一方の刃は善を傷つける。われわれがそれをどう使用するかに、われわれ自身の幸福とともに、人類の実験の成功と失敗とがかかっているのである。われわれは十分な分別をもってそれを使用することができるようになるであろうか? それを欲するようになるであろうか?』
ピエール=マキシム・シュル「機械と哲学」
ピエール=マキシム・シュル「機械と哲学」
2009/05/18/Mon
「二人の兄弟がもとの身体に戻るための唯一の希望としてすがってた賢者の石の非人道的な側面が明らかになることによって、エルリック兄弟の前途がまたもや暗雲にさえぎられるといったのが今回のエピソードの要旨になるのかなって思うけど、でも考えてみると賢者の石があるからといったって、二人が禁忌を犯した罪により失った身体の部分をとり戻せるか否かは、だれも断定することのできない、まったく不明瞭な予測でしかないのだよね。だから二人がたとえ賢者の石を手にできたとしても、彼らの願いが叶う保証はどこにもなくて、兄弟の心中を思うなら、それでもまだ見ぬ神秘の存在に自身らの明暗を懸ける決断にほかならなくて、それはその愚かしさを百も承知しておきながら、なおあきらめきれない現世への未練、喪失しちゃった過去への悔恨とありえただろう平穏な未来への永久の心残りの為せる業であるっていえるのかもしれない。‥でも、ただそだな、少し思うのは、エドがアルをこの世に縛りつけたのはエドが生死の分れ目のぎりぎりのとこで為しえた、彼自身のための最良の判断だったのかもしれないのかなって、私は気がする。それというのもなんでかなっていえば、たぶんエドがただアルがなくてひとりきりで残されてたなら、エドは手足の無くなったその状態に安住しちゃうのじゃないかなって思えるから。そしてこれはアルにとっても同じことで、彼らは根がどうしようもなくお人よしな性であるから‥それは今回賢者の石の材料が生きた人であることに憤慨してることからもうかがえることであるかな。だってもし彼らが彼らだけの目的をただ効率的に追い求めるだけの人格の所有者なら、石を手に入れることの善悪にこだわりはしないものね。でもエルリック兄弟はそうじゃなくて、彼らは自分たちの目的達成にある種の倫理意識、人としての規範を外れないようにってモラルを己らに課してる。それはエルリック兄弟が人道をかつてみずから破ったために見た自分たちの似姿を、現実の悪徳の所業の数々にみとめるからなのかもしれないって、私は思うかな‥他者を傷つけることに本質的な拒絶を抱いてる。それだから彼らは自身だけが無事に生き残ってたなら、今あるように積極的に以前の自分をとり戻そうってあがきはしなかったのじゃないかなって、私は考える。‥彼らが奮闘するのはただ他者のため、お互いの兄弟のためにほかならないからなのだよね。そこに二人の使命感のつよさの根拠があるし、また悲劇性の源もあるように思えて、その姿はどこか切ないかな。私はそう思う。」
「二人とも兄のため弟のため、といったところなのでしょうね。それはエドの自身がスカーに殺されそうになったときの、あの頑ななまでにアルをかばおうとする態度からもうかがえることでしょうし、エドには意識のどこかにアルを自分の犯した罪業に巻きこんでしまったという負い目が潜んではいるのでしょう。そしてそれはふだんは心の奥底に秘められているとはいえ、半ばエド本人の行動を規制してしまっている、ある種の枷ともいえるのでしょうね。それは今回賢者の石の材料が人間であるということから激昂した姿からもいえることなのでしょうし、彼は世間一般の倫理を固守することに、つまり悪に自身が染まることに、病的なまでに嫌悪があるともいえることにちがいないのよ。ま、残酷な話なのでしょうね。この作品自体、ひどく趣味が悪い部分があるのよ。ま、それも魅力の内なのでしょうけど。」
「ふと思ったけど、アルの存在というのはこの異能の技術体系が幅を利かしてる世界のなかにあってもおそろしいほどに特異であって、その奇異さはある意味彼らエルリック兄弟の背負わされた罪ふかさの象徴としてもあるのかなって思う。‥ね、お姉ちゃん、アルの魂だけを物質に定着させられた姿は、どこかプラトンのいう人という存在は崇高な魂を肉体って檻に閉ざされ、苦痛に満ちた世をわたる哀れな存在なのだって神話に仮託された思想のもたらす端的な戯画に思えない? プラトンは‥そしてプラトンがいったのだから、これは西洋思想の根本的な潮流のひとつとしてよいかなって思うけど‥魂を不死とし、肉体やそれにまつわる諸々の欲求‥単なる性欲に溺れることや、堕落をむさぼる怠惰さ‥を人を地上に縛りつける悪とし、これを決定して唾棄したのだった。だから人間は生きてるあいだは専ら魂の修練に閑暇を費やすべきであって、それを妨げる肉体的労働や手仕事は人をして身体の快楽に身を委ねるものだって非難の対象になるのであり、これはまた技師や実際的な技術家への不当な軽蔑の根拠となる物の見方なのであって、一面では西洋の機械科学の発展を阻害した思想のひとつであるっていっていいのかもしれない。‥ただ、でもそう、これをアルの場合に当てはめて考えた場合、私たちはアルって存在のその異様さ‥魂のみがあるのに、地上を彷徨するしかないその不気味さ。魂と物質っていう二元論的な考えから見ればまったく相反する両者によって成り立つその不当さ。そして食欲や性欲、睡眠欲といった人の本能を剥ぎとられながらも、なお人であろうとする、プラトン的な思想からいえば神をまったく侮蔑するかのような、その存在の仕方‥に気がつくのであって、私はただの動く鎧に仮託される人間性ってアルフォンスというキャラクターの示す発想と物語の奥ふかさに、賛嘆の声を惜しまないかな。だって、こんなに複雑な象徴性の負わされたキャラクターというものは、そうあるものでないから。アルの担わされた思想と人間存在のあり方への疑問の提示こそは、私はこの作品のある意味見落してならない大切なメッセージのひとつなのじゃないかなって、そう思わずにられないから。」
「実際問題、アルフォンスは未だ人間であるのかしらね。いや、アルという不可思議な存在を目の当りにしたとき、おそらく人は人間を人間足らしめている条件とは何かといった、根本的な思索を余儀なくされるのよ。それというのもアルは肉体もなく、物も食べず、眠ることもなければ、人を物理的に愛することもできないのだから。しかし、そう、それでもアルは人なのよ。まったく人でこそあるのでしょう。しかし、なら、人間性とは、人の人としてもつべき精神性とは、いったい何かしら? そこを問わなければおそらくこの作品の意味性といったものは見えてこないのでしょうね。ま、はてさて、難儀な作品よ。これほど難物な作品もそうないのでないかしら。考えさせられることはげに多く、答えを出すことはむずかしい、か。ま、しかしとりあえず、ゆっくりと鑑賞して行くことにしましょうか。次も楽しみよ。どうなることか、期待ね。」
2009/05/17/Sun
「うん、よく構成されてる。この作品はぜんぶでたった三話きりということだけど、でもその短さが逆に返って何をこの作品は主題としてるかをより明確に浮き立たせることに成功してるように思われて、どこに注目して読めばいいのか、そして何がこの作品のいわんとすべきことなのかが私なりによく感じられてきた二話目だったっていっていいと思うかな。というのも、本作は単純にいうなら美人であり能力も高くて、それにたぶん頭もわるくないだろうけど、でもどこかつかみどこのない、何か会話をしようと思ってもよくわかんないまま拒絶されちゃってる、そんな存在感があるのにでも自分ってあり方に確信をもてないふらふらしたどこかに欠乏があるような目立つ人の典型である晶って女の子が、たぶんはじめてだろう自分って存在に積極的に係ってくる同級生だろうひよりを通じて‥これまで晶とふかい関係性を築けた友だちがいたかどうかは、ひどく疑問かな。晶の根無し草のようにぼんやりとした風情は、彼女がみずからの孤独を孤独と思わないまでに、あるいはそう思うのをめんどがっちゃうくらいまでに、ひとりきりであったことを予感させてるように、私には思える‥自分そのものを見つめなおす物語なのだと気づかされるから。それは果敢にコミュニケーションを試みるひよりのモノローグは全編にわたって展開されながらも、当事者である晶の心のうちはほとんど記されない点からもうかがわれることだと思うし‥晶が何を思ってるかが、鍵になるということ‥それにひよりの元気で明るいけど、でも晶ほどには際立った能力も見た目もないってその二人のもたらすギャップが、本作の彩りとしてのコントラストともいえるのじゃないかな。‥晶の素敵なところを取材するってひよりはいうけれど、でもほんとに晶自身は自分に魅力的なとこあるって思ってるのかなっていえば、それはけっこう怪しいのかもしれない。そしてその点にひよりは気づけてないし、また晶のようになんでもできる人‥もちろんひよりの視点からみれば、だけど‥が自信やそれに類する自惚れがないなんてことありうるわけないって、ひよりはどこかで考えてるのかもしれない。‥ただ、人の魅力というのはむずかしい。何が人を魅力的にさせるかって問題は、意外と思春期の繊細な心にだけ限ったことでない、人生の大きな疑問でさえあるのかもしれないのかもかな。」
「人間を魅力的に映えさせる原因とはいったいなんなのであろうか、といった問題かしらね。ま、これは個別的に考えていけばさまざまなケースがそれこそ数え切れないくらいに挙げられるのは必至なのでしょうけど、しかし人は美人だから人間的にも魅力的でありうるのかといえば、それは決してなく、人はただ美人であるだけで人としての魅力が伴うことはおそらくないだろうということはいえてしまうことなのでしょうね。そしてこの事実は、ま、思ってみると不思議なこの世界の真実を代表してるようにも思えてくるのだけれど、というのもそれはつまり人は頭がいいとか、容姿が優れているとか、人が往々にして簡単に浅はかに求めがちな諸条件はかならずしもその人を人間的に魅力的にするとは限らないといった普遍的現実に突き当らせるからなのでしょうね。しかし、ま、もちろん、頭が良くて魅力的な人はいるでしょう。美人で人間性豊かな人もいるでしょう。しかしそれでも、ただ頭がいいだけでは、ただ人目に立つ容姿というだけでは、他者の心をつかむということは叶わない。はてさて、それはどうしてかしら。そしてそれならば、人の魅力とはいったい何に依拠したものであるのかしら。」
「こういう問題って、つまり人気者になりたいとか、私ってつまらない人間なのじゃないかなとか、そういったことで悩んじゃう事態って、一概に正解がいえるものでなくて、だからむずかしいよね。それにこの種の疑問は万人に共通して断言できるだろう答えがあるはずもないってたぶんわかることだから、人はたいてい生きてくなかで世間的に擦り切れていき、そういった類の懊悩にかかずらうことはしなくなる。そしてそれはある意味この種の問題に対する妥当でまた安易な対処の方法のひとつかなって思えるけど、でもそうなかなかそういった悩みに現に囚われちゃってる人には、気軽にそのうちそんなこと気にならなくなるよなんて、いえない道理ではあるのかな。‥ただ、そだな、ちょっとだけ思うのは、人というのは学校でも世間でも、どこにいてもとりあえずある人間関係の集団のなかの関係性に位置されて暮すものであって、そしてそういったあるサークル内の文脈におかれていろいろいったりきいたりみたりするものであるかなって思う。そしてまた人はその集団の圏内のあいだにあって外れることのないように、自分自身を調整して多くの人はあんまり我というのを出さないように‥出してもあんまり支障のないくらいに‥すごすものかなって気がするけど、ここで忘れちゃいけないのは、そういった調整のうちには恋愛や友情の問題も当然含まれてくるということなのだよね。私は、だから美人の基準といったものはそういった集団の文脈の妥協の結果として生ずるものなのじゃないかなって考えてるのだけど、でもそういった一般的な美人といった存在に対して、その人が個人的なレベルにおいて‥つまり今暮してる集団のあいだでなくて、もっと孤独において‥そういった美人に単純なあこがれ以上の気持をもつのかなっていえば、私はそれはないのだと思う。‥なんていうのかな、極論しちゃうと、そしてこれは身をふり返ってみれば当り前のことなのだけど、人が人を好きになるのは、その人の美醜とは離れた次元において、だけなのだと思う。もちろん美人だったりかわいかったりするなら、それはそれでその人の魅力に加算される何かには入るのかもしれない。でもただそれだけじゃ、ぜったいにそれだけじゃ、人は人を好きになれない。もっというと、美人や頭がいいというだけじゃ、人は他者を自分の孤独に巻きこもうとは、しない。‥私が私の孤独を捨ててまで、他者を愛そうとするのなら、外形の問題は、まちがいなく瑣末なことなのじゃないかなって、ある意味私は確信してる。きっと、そう、なのじゃないかな。ちがうかな。」
「つまりそこでやはり人間の魅力とはいったいなんなのか、といった問題が浮上してくるわけなのでしょうね。‥美人というだけでは、人は人に惚れやしない。それじゃいったい何に人が惚れるのかといえば、ま、ひとつの答えをいってしまいましょう。人はその人の生き方に惚れるのよ。この索漠とした孤独な寂しい世界にあって、どう生きているか、その部分こそが人間の魅力を養うのよ。そして、ま、何かしらね、そういった生き方の選択といったものは、自然とその人の人格といったものを形作るものでさえあるのでしょう。美人というだけで、また頭がいいというだけで、人は生きていけるものでもない。そこがこの世界の恵みのようでもあり、また残酷さの裏返しの証明のようにも思われる、か。はてさてね。ま、現実世界、簡単に行くことのほうが少ないのでしょう。はてさてと、ため息をついておきましょうか。ま、はてさてよ。」
2009/05/16/Sat
「すごいすごいよかった。こんなに私の気に入るところのど真ん中を射当ててくるなんて思いもしなかったからちょっとどぎまぎしちゃうくらいで、もし私のなかの理想のアニメを実現化する装置でもあったら今回の「けいおん!」のようなエピソードになっちゃうのかなって、そんなこと考えたりするくらいにこのお話はまったくほんとに私にとって最高だった。もう、二人でマフラーいっしょに巻いて登校する唯と憂とか、いじわるされてるのにいつもいっしょで買い物にも行っちゃう律と澪とか、紬の一見してのどかなお嬢様のようでいてさわちゃんに身ぐるみ剥がれてる澪を笑顔で見守ってるしたたかさとか、プレゼント交換の並々ならないほほ笑ましさとか、夜の唯と憂のやりとりとか、初詣での手を握りあっちゃう唯と澪のかわいさとか、まったくもってほんとに偽りなく今回の「けいおん!」はすばらしいっ。感動した! 私もう兜ぬいじゃう! こんな私の趣味を完璧に打ち貫く作風だなんてもうしばらく見れないかもっ。無茶苦茶よかった! 文句なし!」
「ま、文句がないと断言するほど完全な作品なんて存在するかもはてさてといったところでしょうけど、しかし結局はこういった雰囲気の話がいちばん琴線に響くということなのかしらね。ほのぼのとして温かな人同士の情の交流が、無理なくおだやかに描かれていて、なんというか、凡庸な幸福の平和な一幅の画とでもいうべき、ゆるやかなやさしさに浸されている作品なのでしょう、「けいおん!」というのは。何ものもこのやさしい世界を毀すことはできないと思わされるくらいにこの作品は静謐な愛しさに守られており、またふかく人間的な温かな情調に満たされているからこそ、なんともいえず本作に接すると気分が和らぐのかしらね。いやはや、少し参るほどかしら。」
「えへへー。もうすごくすごくよかったよね。というわけで、これ以上私が何か口を開いてもただ賛辞ばかりでべた褒めになっちゃってそれも度をすぎればあれかなって思わずにられないけど、ただそだな、少しだけ、今回のお話で私が感じたことを以下に記しておきたい。それで何についてのことかなっていえば、それはほかならない主人公である唯についてのちょっとした雑感のことなのだけど、彼女はその性格からしてあんまり活動的なタイプというのでもなかったから、これまでこの作品のなかで中心に来ることはそれほどなくて‥もちろん「けいおん!」が派手な活劇を描く種類のアニメというわけもなかったから、だれが中心に描かれるといった問題はそんなに重要視すべきものでもないのかもだけど、ただそうとはいっても作品を保たせる人間関係の中心はだれになるのかなといった問題は、作品の主軸にもなりうるべき代物であるのだから、それを蔑ろにすることはひいては作品のコンセプトをあいまいにしちゃうことになっちゃうのじゃないかなって気がするかな‥前回の目玉ともいうべき学園祭において、主役の位置にあったのは唯でなくて澪だった。それはたぶん澪があの四人のなかではいちばんライブにプレッシャーを感じてて、彼女のがんばりが軽音部を根本的なとこで支える大切な熱意と意志を負って存在してるということを証するものでもあったからかなって考えられるけど、でもそれじゃ唯の魅力といったのはいったいいつ描かれるのかなといった疑問は当然生じて然るべきであり、それについてよく回答されたのが、私は今回のエピソードだったのだと思う。それというのも、わかるかな、私は唯のただそこにいてくれるだけで他者を和やかにさせてくれるだろう、その人望とも人徳ともつかないふしぎな性格について、今回のクリスマスのお話ほど気づかされたことはかつてなかった。彼女は、なんていうのかな、ふだんとくにがんばり屋でもしっかりものでもなくて、どちらかといえば怠惰であんまりまじめでない性格の子っていうのは、たぶん多くの人が賛同してくれる見解だと思う。でもただ、そこで奇妙に思えてくるのは、唯はだからそういう理由でほかの人からあんまり評価されてないのかなといえば、決してそうじゃないよねって思えちゃう部分なのであって、それなら唯の魅力‥人望や人徳って大げさな言葉でいうべきものではないように、私には思える。それはもっと日常的な人柄とでもいうべき、彼女の自然の性質に備わった生き方の結果として反映されるものであるのだろうな。唯は無理をしないし、彼女は彼女という生き方をするだけで、他者を安心させることができる。それは彼女が何等作為的でないからで、ある意味彼女の才能の為せることといってもいいのだと思う。無理なく衒わず生きることは、そうできることでない‥は、いったいなんなのかなって考えれば、私はそれは自身の幸福を表現できること、だと思う。‥唯は自分の楽しいと思ったことを、ただ楽しいという理由だけで、ほかの人に伝えることができるんだよね。そしてこれはべつな言葉でいうならいい意味での子どもらしさであって、その能力は世間を生きるごとにだんだんすり減らされてく。好きを好きとあらわすことが、人はだんだんできなくなってく。‥たとえばブログとかで、純真に自分の好きさをあらわせてる人が、こういう言い方はよくないと思うけど、でもどれくらいいると思うかな。つまり、自分の好きを好きと表現することを邪魔立てするものは、世のなかに多い。だから唯のような存在は、ひとつの天才のあらわれでさえあるのだと、私は思う。だって、何が好きでどう好きといっていいかを、人は往々にして、悲しく忘れちゃうものであるのだから。」
「好きだという言葉をどう伝えたらいいのか分らないということは、悲しくも人間には、大人には、よく見受けられてしまうことであるだろう、か。はてさてね。それにもっと悪い展開では、自分が何を好きかをよく分らないという状況もあるのでしょうね。ま、自分が本当は何が好きか、何をしたいのかといったことがよく分らないといった問題は、考えていくと予想以上に根深い、人生にふかく絡みついた厄介事であるとさえいえてしまうのでしょうけど、その理由のひとつには、「こうありたい」と思う自分の想像、つまりセルフイメージが、自分の本当の好きを抑圧させてしまっているということがあるのよね。要するに、自分自身に対する幻想と、対世間的に見られたい「こうある自分」という欲求が、本来の自分の好みを疎外させてしまっているのよ。そしてこういった見方からいえば、唯のような人は、そういうセルフイメージからまったく上手く免れていることが分るでしょう。さらに対照的に見れば、澪はこの手の幻想に囚われやすい人ともいえるのでしょうね。だから唯と澪の関係のあり方は、なかなか興味あるものがあるのよ。そこに注目してみても、おそらくこの作品はおもしろい示唆を与えてくれることでしょう。ま、そういった意味でも非常に楽しかった1話だったことかしらね。お見事よ。」
『機嫌がよいこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なこと、等々、幸福はつねに外に現われる。歌わぬ詩人というものは真の詩人でない如く、単に内面的であるというような幸福は真の幸福ではないであろう。幸福は表現的なものである。鳥の歌うが如くおのずから外に現れて他の人を幸福にするものが真の幸福である。』
三木清「人生論ノート」
2009/05/15/Fri
「原作は読んでなかったけど、この漫画版はとても楽しく読むことができて、ある面では非常に感心させられる示唆的な構成に富んだ一作と評価してよいのじゃないかな。というのもまずこの作品は表面上種々のSF的な設定を糊塗して実にいわくありげな読後感を残す奇妙なドラマを主軸に組み立てられた作品ではあるのだけど、その実そういった如何にも裏がありそうな諸設定はそれほど大したことなくて‥それは本作がそういった設定群をあからさまに誇示することなく、ただ主人公の少女の無茶苦茶でお話にならない価値観を淡々と描写してることからもいえることだと思う。輪廻転生がどうだの、宇宙人がどうだの、銀河がどうだのといったフレーズは、たぶんほとんど意味を為さない形だけのものって思っていいのじゃないかな‥本作の肝心なとこは、少女と少年、この二人の関係性の生みだすドラマ、それそのものにこそある。‥ある学校に、あるふつうの恋人がいた。少女のほうはラノベ好きのちょっと内気の、でもどこにでもいるだろう女の子であって、少年もまたとりたてて目立つとこのない、だけど女の子に対してはただやさしくあれる、ふつうの人だった。でもあるとき少年はべつのきれいな人目の立つ少女に気を変えるのであり、少女は彼を問い詰めるまでもなく、自分が彼の意中から外されたことに思い至る。それはあくまで自然で、話したり彼の非を訴えたりすることで叶わない、自然の摂理として、彼女は自分が失恋したことを覚った。‥でもだからといって、そこで何もしないでただ身を引けるほど少女は利巧でもなかったから‥彼女は、そう、彼を未だ愛してる‥少女はそれまでの彼への愛情を転じて、彼を自分だけの、自分が好きだった彼を保持するために、彼をみなごと殺すことを決意する。そしてその殺意は彼女の愛情そのものにちがいなかったのであり、彼を殺すことは彼を愛することと彼女には同義に思われた。だからかくして、彼女は彼を殺す刃たるチェーンソーを駆動させる。そう、それはあたかも愛が殺意であることを身を以て証明するかのように。」
「ふられるくらいなら彼を殺して私も死ぬ、というものかしらね。ま、ありがちな心理といえばこれほど普遍的に見られる裏切られた恋の結末のもたらす悲劇的な感情もまたとないのでしょうけど、しかし本作はそれをいい意味で滑稽に派手に戯画化してみせたところに、その評価に値する点があるのでしょうね。というのも、彼にふられてしまった、失恋した。そういうことは、ま、どこにでもあることよ。そして失恋してしまった彼女が自暴自棄になって発作的に刀傷沙汰に及ぶというのも、あまり大きな声でいえたことではないのでしょうけど、珍しくもなんともない、ありふれた悲劇よ。というか、悲劇というより喜劇でもあるのでしょうね。やられた男にとっては、もちろん笑いごとにはならないのでしょうが。」
「恋愛の本質が美しい誤解であるとするなら、その破綻はまた自己本位的な幻想が崩壊することであるのであって、相手への誤解の霧消はすなわち自己自身のエゴイズムの暴露にちがいないから、かな。そしてそういった文脈で考えれば、自分の愛‥つまり相手に仮託した自分だけの幻想‥が現実って変えようのない、みずからのエゴイズムがそれだけで幅を効かせることの不可能な領域に差し迫ったとき、挫折するのは必至であって、でも恋に溺れた人はその現実をこそ不当なものとして否定するのであって、彼ないし彼女が自分の自分だけの愛を守ろうって当の愛する相手を消すことをえらぶのは、彼ないし彼女のエゴイズムがその恋情の基盤であった場合は、当然決断されるべき選択であったのかもしれない。‥好きだったから、ううん今なお好きだから、相手を殺して私も死ぬ。もしかしたら、この言葉によってあらわされるのは、人同士の恋愛のみにくい真理であるかもしれないかな。たとえば、旧約聖書に象徴的に描かれたさいしょの恋愛であるアダムとイヴの物語は、女性が男性に殺意を向けることであったことに気づかれるはず。だから、殺意こそが、愛だった。そしてその愛を受け容れたとき、人の物語ははじまった。その意味で愛と殺意の両義性は、恋愛のアーキタイプともいえるのかもしれないかな。だって、愛とは罪の別名でさえあるのだから。」
「愛をアダムとイヴの物語の文脈のなかで把握しようとするのなら、か。はてさてね。ただしかしそうやって考えていくと、この作品もまた実に恋愛の古典的な構図、すなわち男と女の関係性とは絶望を裏にした依存性にこそあるということを、まったく明瞭に描き出すことに成功したものとはいえるのでしょう。ま、なかなか示唆のある一作だったかしらね。これほど恋愛の赤裸々な真実を暴き出そうとした作品も、そうはないとはいえるかしら。というのも本作のいいたいことはある意味明白で、それはつまり女は男を殺すもので、そして男はそのなかでようやっと死ねるというものなのでしょうからね。ちなみにこの方面の問題を追及したのは、ぱっと思いつく限りではヘッセか、吉行淳之介などかしら。本作の意味と位置をそういった文学の系譜的な方面から考えるのも、ま、そう無益ではないでしょうね。総じて、なかなかおもしろい作品だったことよ。良かったかしら。」
『恋する男女は常にエゴイストである。恋する人間はしょっちゅう相手のことばかり考えているようでいて、じつは自己中心から離れられないのである。その人間の思い描く恋人の像というのは、きわめて自分勝手につくり上げたものであって、実際の相手との距離が大きい場合が多い。要するに、自分自身のつくり上げた像を、撫でたりさすったり悦に入っているわけだ。』
吉行淳之介「恋の十二ヶ月」
『だが、ナルチス、君は母を持たないとしたら、いつかいったいどうして死ぬつもりだろう? 母がなくては、愛することはできない。母がなくては、死ぬことはできない』
ヘルマン・ヘッセ「知と愛」
桜坂洋、鶯神楽「さいたまチェーンソー少女」→
吉行淳之介「恋愛論」→
ヘルマン・ヘッセ「知と愛」
2009/05/14/Thu
「ゆみなという人がどんな子なのかこれまでの描写ではあまりとりあげられてもこなかったから詳細なとこがわかんなかったけど、今回のお話を見る限りでは少し気弱でそしてその自虐的な部分を上手につかって他者へ甘えることが巧みなみたいに私は映って、この手のタイプの人だったのかーってちょっと慨嘆する。というのも、私はたぶんゆみなみたいな人は苦手であるからで、その苦手意識というのは突き詰めて考えてくと私って人の対世間的、他者への対し方への抜本的な見直しを図らされるようで、そこそこ私自身についていっても、ゆみなというキャラクターに思いめぐらすことはそう無駄なことじゃないかなって気がするかな。‥たとえば今回描かれたゆみなの特徴的な挙動はいったい何かなって考えるなら、まず彼女は事態の不都合さ、不安な展開の成行を自身の欠点または至らないためって、そのことの成否に係らず、思いこもうとする傾向にあるのはすぐわかることだよね。そしてこんなたいへんなことになっちゃったのは私のせいでだから私はだめなんだーって理屈によって自分を責めて混乱しちゃうのだけど、ここで見逃してならないのは彼女はそういった自虐的なふるまいを他者に対してあえて見せてるって事実のほうであって、ここはたぶん注目に値することだと思う。それというのも、いいかな、自分のせいだ、自分がわるいからこんなことになっちゃったんだって真に自分自身の非を認め、自分のばかさ加減というのを自覚した人というのは、ゆみなのようにこれ見よがしに自分のネガティブな言葉を撒き散らしたりはなかなかできないものに思われるからであり‥だって自分がいけないって認識がその人に伴うのなら、そこには不面目といった面持があらわれるはず‥ゆみなのネガティブな言動はそのまま他者のなぐさめを期待してる兆候があるのであって、これは少なくとも彼女の嘆きが完全に失意の情から発生したものでないことを明らかにしてるのじゃないかな。‥まとめると、ゆみなの態度には自分を責めてるようでありながら、どこかに他者への媚がある。もちろんそれが絶対的にわるいことって私は主張するつもりは個人的にないけど、そうやって他者が甘えてくることに、私という人は、たぶん苦手意識をもってるのだろうな。そしてそれは私という人間の、いくぶんの欠点であるのかも。きっと、そう。」
「ゆみなは一見して感情的でありながらその実しっかりと裕理の信頼を獲得してもいるのだから、こういった点はなかなか手練手管に優れていると認めてもいいのでしょうね。当然その種の媚だの相手に寄りかかることが巧みだのという評価は、悪口や妬みに聞こえこそすれ、それほど褒め言葉にはなりにくいのでしょうけど、しかし、ま、そういったふうに生きることもそれはそれでありなのでしょう。いや、これは素直にそう思うのよ。そしてまた裕理という人への恋慕といった観点からゆみなの態度を考えるなら、ふだんはなかなか会えないのでしょうし、彼の周囲には多数の女性が幅を効かしてもいるという厄介な条件が目に見えてあるのだから、ゆみなのように少しは積極的に甘えかかったほうが得策ではあるのでしょうね。もちろんこの作品でそこまでの恋愛劇を望むつもりはないけれど、はてさて、恋の落しどころはどこなのかしらね、この作品は。ま、そう突飛な結末にはならないでしょうけど。」
「私は他者から甘えられることに上手く対応できない面があって、私のこと好きでそういうことしてくれて、そして私は彼ないし彼女のその気持と行為に対して何等かのレスポンス‥相手にとっては好意と移るような類のものの‥をするべきではあるだろうなって思われる場面がこれまでの生きてきたなかに何度かあったと思うけど‥そしてそういうなら私が無自覚的であった場合もたくさんあって、そのときはよけいに他者を傷つけたのだろうと思う‥私はそれらの思いを無碍にしてきたし、他者との甘えって関係性の輪のなかにあって自分の孤独を失うことをひどくおそれてきたようにも、思う。‥なんていうのかな、私はだれかが手をつないできたり、そしてそれに類するであろう身体的な表現によって私への愛情‥愛情、といっていいのかな。わかんない‥示してくれても、私はその甘えに気軽に寄りかかって、その圏内に安住することに、どこかすごくいやだと思っちゃって、結果的に、私はそれらの気持に対して冷淡ないしは無感動といった形において、しっかりとした拒絶も承諾もなしに、その人たちから距離をおいてきたにちがいないって、今の私には追想される。‥これは自分の生来的な気質であるし、また生きてきた結果としてでもあるのだろうって思うけど、私は、徒党や派閥といったものがきらいでなじめない。それよりかは、私はひとりきりでいることを選択する。でもたぶん私が私を孤独におこうとすることの動機の基本的な底には、私のみにくい自己愛が、影を潜めてるのかなって、ときおり、思う。そしてまたその自己愛は私に対して、徒党がもたらす甘えとお前の孤独の内実である自己愛は、本質的に同じものだよって、つぶやいてくる。私はそれはそうなのだろうかなって、ふと思う。でも私は私を変えられない。そこにはたしかに自己愛の響きがこもってる。消せずにまったく、残ってる。」
「他者に耽溺したくはない、という感情なのかしらね。しかし人というのはどうあがいたところで、他者を無くせるものではないし、人の心といったものはそもそも他者の存在を不可欠なものとして規定しているようにも思われる。だからこそ人はどのような状況にあっても他者との関係性といったものを希求してしまうのでしょうし、他者から離れて孤独にありたいと願うのも、他者への依存的な関心の裏返しともいえるのでしょう。ま、はてさてかしらね。好きという感情も、さてはその裏返しである憎しみも侮蔑的な思いも、すべては他者への甘えから発しているようにも思えて、どうも人というのは自己愛を免れそうな存在には思われない。無私というのが、しかし本当に、あるものなのかしら? 孔子や釈迦のような生き方が、果して可能なものかしら? わからないことよね。心底、よく合点の行かないことでしょうね。自分を愛することと他者への甘えを超克するということは、はてさて、むずかしすぎる問題よ。ため息も出るというものかしら。」
『感情は主観的で知性は客観的であるという普通の見解には誤謬がある。むしろその逆が一層真理に近い。感情は多くの場合客観的なもの、社会化されたものであり、知性こそ主観的なもの、人格的なものである。真に主観的な感情は知性的である。孤独は感情でなく知性に属するのでなければならぬ。』
三木清「人生論ノート」
2009/05/13/Wed
「雑誌でも毎回欠かさず講読してるお気に入りの作品である「純真ミラクル100%」だけど、一連のストーリーをコミクスで通して見てみるとそのおもしろさ、魅力というのは私にはより際立って感じられてくるように思われる。というのもそれにはいくつかの理由があるかなって考えられるけど、その大きなひとつとしては本作が絶妙なバランスのうえに成り立ってる人間関係と、ふつうにすごしてたらおそらく見過しちゃうだろうくらいに微細な心理の変化と、そしてそれが微かに波及して形と立場を変えてく人たちの心の有様がメインであるからにちがいなくて‥この作品は少なくとも今までのところ、決定的な対立や亀裂、それまでの関係性を根本からゆるがすような大事件は起ってない。もちろんそういったことはこれから発生するのかもしれないし、その予兆は本巻のラストで暗示的に示されてるけど、でも日常性のなかに潜む登場人物たちのごく小さな見えにくい心の動きが実は常に躍動してるっていうことに注目したとき、この作品がみせるドラマの魅力といったものはよく体感できるにちがいないのじゃないかなって、私は思うかな‥物語性といったものを踏まえたとき、この作品が示す繊細で少しつかみかねるくらいの微細な感情のていねいな描写といったものは、なかなかほかではお目にかかれないものであるだろうかなって、私は気がする。‥だれもが本音を明らかにしてない。それでいて本人は自分の心の底を知ってるふりを装いながら、他人の顔色をただうかがってる。そんな彼女たちの姿を見つけたとき、本作のアンバランスさとその歪な生き方が目に浮ぶ。そしてそれを純真と呼ぶのだから、この作品はなかなか、手に負えない。」
「登場するだれもが自分を突き動かす得体の知れない恋か、あるいは名づけようのない感情かに素直にありたいと念じながらも、なかなかそうは行くことができず、不安定な人間関係の網のなかで少しでも精一杯に生きようとする様は、これでどうして非常にはらはらさせられるものがあるからおもしろいのでしょうね。とくにこの作品は基本的に社会人の恋愛といったものを描いているために、学生の閉じた舞台においてのように恋愛と自分の感情ばかりにかかずらってもいられないから、必然、その恋愛も直接的な形をとることができなくなっているという点は、本作を考えるうえでは外してはならない部分といえるのでしょう。‥今の仕事を成功させるためにも、一時の感情によって職場の人間関係を壊すわけには行かない。しかしそれにも係らず、他者を好きだという気持は如何ともしがたい。そういった思慮が思われるからこそ本作は独特な個性を獲得しているのであり、そしてそういった方向で考えて行くなら、本作は大人を描くからこそ、純真にならざるをえないといった面もうかがえるのでしょうね。もちろん、大人だからといって純真とは限らないことは、いうまでないのでしょうけど。」
「所長さんと浮気しちゃってる武市さん‥もちろん彼が本心から所長さんとよりを戻したいって考えてるかどうかは彼の本心が語られない以上わかることでないけど、でもせっせと所長さんのもとに通うその姿勢は、彼の態度のある疑えない動機を明らかにはしちゃってる‥の姿が、その種の大人の純真でない姿勢の一面代表ともいえるのかもかな。‥でも見方を変えるなら、ただ所長さんへの好意‥それが奥さんへのものを上回るか、または別種のものかはわかんないけど‥から武市さんのその態度があると考えるなら、武市さんもまた純真であるにはちがいないってことになっちゃって、だから何が純真か、またそうでなくて不純かの定義といったものは、あんまり一概にいえるものでもないかなとは思う。‥でも、そだな、ある意味この作品の最大の謎ともいうべき独特の個性と人格をもった存在であるモクソンについて、純真って意味から考えるなら、彼女のおどろかされるべき点とは、これは露骨な言い方になっちゃうけど、彼女自身の性的な気持といったものが、彼女自身の醸す性的魅力といったものに比べて、わずかなように思えちゃう部分かなって、ちょっとだけ思う。もちろんこれはいろいろ微妙な問題を含んでるのだけど、たとえばモクソンのこと好きな二宮さんの立場から見るなら、モクソンのふるまいはある意味魔性っていえちゃう要素が多分に免れなくあるのであって、このとこ無自覚的なモクソンは、けっこうどうして曲者かなって気が私にはするかな。それにそういった意味から追うなら、所長さんもまたモクソンのいいようない魅力にやられちゃってる人であって‥所長とモクソン。この二人はあんまり心底から話しあったりしたこともなさそだけど、でも芯の部分では通じあってるものがあるようで、奇妙でふしぎな関係性かなって思わずにられないかな。何がこの二人を結びつけてるのだろうってふしぎに思うけど、たぶんこの二人は生来的に馬があうのだと思う。そういった意味で、所長さんもだいぶモクソンには入れこみすぎではあるのだろかな‥モクソンはこの作品のなかでいちばん食えない人っていっていいのかなって、思うかな。‥そういった以上のこと諸々含めて、この作品はこの先どう転んでくか、ほんとに読めないもののひとつだと思う。だからおもしろいし、それにまだまだお話はつづくようだから、楽しみにしたいな。どうなってることか、期待かな。」
「モクソンの思惑がどうあれ、彼女が周囲にいる人をあれこれと動かして影響していってしまう人物だということは、おそらくいえるのでしょうね。そしてそういった意味では本当に彼女はカリスマなのかしれないし、それにころっとやられている二宮さんなんかは本当に純真な人ともいえるのでしょう。いや、そういう言い方をするなら、この作品の男性というのはことごとく純情なのでしょうね。女性よりかは、もちろん武市も含めて、男性がまったく純情よ。それが幸か不幸かははてさてでしょうけど、ま、これからの展開がどうなることか、戦々恐々といったものかしら。というのもある面これほど案外食えない作品もないのでしょうから、展開の予想は一筋縄では行かないのよ。ま、そういった意味でも、良い作品よ。この先のストーリーを、はてさて、それでは期待するとしましょうか。楽しみよ。」
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純真ミラクル100% 第7話→
純真ミラクル100% 第8話→
純真ミラクル100% 第9話→
純真ミラクル100% 第10話→
純真ミラクル100% 第11話 秋★枝「純真ミラクル100%」2巻
2009/05/12/Tue
「モクソンが工藤さんへの初恋の気持をあきらめることができてよかったって述懐する場面は、正直にいうと、私にはあまり上手く理解することができなかった。というのも、なんでだろう、だれかを好きになってそしてその感情がやむにやまれない運命的な響きを伴ってあらわれるなら‥だれかを好きになった、ということはたぶんだれにでもありえることだろうって思われるけど、でもなんで私がその人を好きになっちゃったのかなって理由については、私は人は究極的なところではぜったいに理性的に納得できない、ある説明不能の一点が残るように思う。もちろん好みの型にはまったとか、性格の相性がいいとか、そういった副次的な説明はいくらでもあとでつけ足せると思うけど、私があなたを好きになったその瞬間の根本的な原因については、私は何か了解できない謎が拭えずあるかなって気がするかな。その最適な一例として挙げれば、一目惚れというのは、実際、個人の意志如何に係らず、あるのだものね‥私はその気持はその気持が発し、そしてまた向けられる対象である相手に、その結果のよしあしはどうあれ、告白したほうがいいのじゃないかなって思うから。もちろんそれにはいくつか理由があって、そのひとつとして挙げるなら、私はだれかを好きになってその思いを胸中に抱えたまま、告白することもなしにただ別れちゃったなら、私はその好きという思いにある解放を与えることが不可能になっちゃうってことがいえるかな。べつな言葉でいうなら、それはあのとき好きだっていえてたならって後悔の形をとる情念に囚われるということなのであって、その思いというものはのちのちまで自分自身を縛ることになっちゃうにちがいない。そしてそういった事態はそれだけでつらいものあるし、また厄介なのは一度告白できずに離れちゃうと、自分のなかにあった好きって気持もどんどん過去のものになって行っちゃうわけで、それは最終的には単なる記憶、要するに私はあのときあの人を好きだったっていう追想になっちゃうのであって、それに一定の解決を与えることはまず無理だろうってことになってしまうのじゃないかな。‥だから私はふられてもどうでも好きって気持は口に出して伝えるべきであるって思うけど、でももちろん、失恋なり、二次的な問題というのはつきまとうから、そう単純に告白すればいいってものじゃないって反論は可能なのかもしれない。ただそれでも自分のなかの好きって気持を表現したほうがいいとは、思う。それといって、後悔しない生き方をしたらいいのじゃないかななんて、月並な文句をいう気はないのだけど、ね。だって、生きてくことは後悔を背負うことの裏返しなのかもしれないって、私はそうも思うから。」
「この先モクソンが工藤さんに思いを告げていれば良かったと思わないで済む保障もないだろうとはいえること、か。ただしかしそれでもモクソンは今の良い環境を壊したいとは思わないのでしょうし、自分が工藤に告白したら事務所のなかの現在の人間関係がこれまでどおりに行かなくなることは明白なのだから、はてさて、彼女のためらいも理解できないものではないのでしょうね。ただ、ま、それでも思うのは、モクソンという人はどこか自己完結してしまいがちな傾向があるというところなのよね。彼女は自分の思いを自分のなかだけで決着させてしまう向きがある。工藤さんへの恋心も、オクソンに少し相談はしたのでしょうが、最終的には自己勝手な理屈をこしらえてあきらめたところからも、そのことはうかがえるのでしょうね。このモクソンの少し視野狭窄、といっていいかどうかは分らないけれど、ま、そういった性質が今後彼女にどう影響を与えるかは、少しはてさてといったところなのでしょう。それがモクソンの強さでもあるとは分るけれど、ただ少々危険な気もするかしら。さて、どうなのかしらね。」
「工藤さんに告白してたら、モクソンはたぶんふられただろうな、とは思う。でも失恋に苦しむモクソンというのは、なんでかな、意外と想像に苦しむものがあるような気がする。それは彼女が並外れて強靭な精神のもち主であるからだろうし、またべつな一面からいえば、彼女は恋愛によってとことんだめになっちゃう人ってどこかで私は予想してるからなのかもしれない。‥なんとなくここで私は吉行淳之介を思い起しちゃうのだけど、これは彼のエッセイのどれかだったかな、吉行と宮城まり子がフランスに行ったとき、吉行は性風俗の探求者としてその本質があったから、当然ヨーロッパの商売女性とも寝なくちゃいけないって事情があった。それは吉行自身の作家としての必要も関係してたし、彼の文学がそれを彼の意志にかかわらず彼を駆り立てることもどことなく吉行の文学を俯瞰したときにはうかがえることかなって思う。それでここで私が興味ふかく思ったのは、いっしょにフランスについてきてた宮城まり子が宿で疲れてあんまり気乗りしない吉行を、むしろ積極的に駆り立てて、フランスの街頭にいる女性に向わせることなのだよね。‥白人女性と寝ることに億劫になってきちゃった吉行に、そのときはたしかもう本妻とは別居した吉行の恋人であり無二のパートナーであった宮城まり子があなたにはそれが必要なんだからって、風俗嬢のもとに送り出す。‥私は、そんな二人の恋人って関係性に、性と愛が奇妙な倒錯のうえで円満な調和を見出してるふしぎな結果を見る思いがする。‥愛や性欲の関係というのは、よくわからない。愛なんてなくて、性欲だけって割り切って打算のように生きるのも、それはそれで人間の弱さのためには、しかたない結果なのかなとも思う。ただ、でもそれでも愛は性欲をさえ包含する根源的なものとして、人を生かし、ときに死に至らしめる。‥だからこの種の問題はむずかしくておもしろい。ドストエフスキーから少女漫画まで、恋の問題はテーマになりうるべきものであるかな。なぜならだれかを好きになるという感情こそが、人をして狂気への扉に手をかけさせるものにちがいないのであろうから。」
「宮城まり子は嫉妬心などない女性だったということはなく、そのヒステリックな吉行への態度は吉行自身も散々に述べているくらいだから、吉行に対する執着心が薄かったはずがないのよね。しかしそれでも、いや逆に吉行をよく吉行自身より理解していたからだろうこそ、吉行を風俗嬢のもとに送るし、元の妻との関係をあれこれ邪推もしたということなのかしらね。ま、はてさて、不思議なものよね、恋愛というのも。しかしただこの作品に限っていうのなら、工藤さんは少々純情に過ぎるところがなかなかどうして好感を呼ぶところながらも、少々先行き危険な印象も与えてしまっているものかしら。とっとと所長相手に何かアクションを起したほうがいいとは思うのだけれど、ま、真に御しにくいのは我が心といったところかしら。そろそろ波乱がありそうにも思えるし、これからの展開が楽しみかしらね。次回は掲載紙がエールじゃないのが少し寂しくもなるでしょうけど、とりあえずこの作品がつづくのは喜ばしいことではあるでしょう。では次の話を期待して待ちましょうか。まだまだ楽しませてほしいものよ。本当に。」
2009/05/11/Mon
「賢者の石は基本的には金属の変成を人に可能にさせる媒介物としての性格がまず備われたものであるって思っていいと思うけど、でもその起源はいったいどこに求められるのかなといった問題は、考えてみるとなかなか錯雑としてて一概に正解を述べることは困難かなって思われるかな。といってもそもそも賢者の石が人たちのあいだに興味ある神秘的な物質として大々的に口吻にのぼることになるのはそんなに過去のことじゃなくて、一説によれば十三世紀以後に現在伝えられるような賢者の石の伝説は生まれたってみていいみたい。たとえば奇跡的な力をもつ宝石の存在が叙事詩人たちによって歌われだしたのが十三世紀からにほかならなくて、そして十五世紀に至ってはじめて賢者の石を実際に目撃した人物の記録はあらわれてくる。でもそれだけど賢者の石自体の記述は人によって種々異なってるのは否めなくて、だからその正確な形状や色を指摘することはむずかしいかなって思う。でもただだけど、ここで注意を喚起したいのはハガレンの世界において賢者の石が赤い石として表現されてるのはいわれのないことじゃないということであって、というのもスペインの哲学者ラモン・ルルの書によるなら賢者の石はカルブンクルスと呼ばれるもので、これは英語のカーボンの語源となった言葉であり、つまり「炭火」を意味するのであって、焼けてる炭火は赤いよねってことで、よって賢者の石は赤色かなって限定していいのかもってことになる。でもつづけて同じくラモン・ルルは賢者の石は宇宙のあらゆる色がそこに含まれてるってこともいうのだから、真相は果してわかんないってことになっちゃう。ちなみにパラケルススは白色、十七世紀のファン・ヘルモントって人はサフラン粉のような色‥だから黄色になるのかな‥っていってるのだから、だれの意見を信じたらいいのかわかったものでないかな。‥でも歴史を名を刻んでる偉人にちがいないスピノザもライプニッツも賢者の石の存在自体は信じてたっていうのだから、その伝説の西洋における歴史的な根強さはたしかなものがあるって思っていいのかな。なんだかふしぎ。」
「賢者の石はただ単に黄金を生むのみでなく、この世のあらゆる病気を治癒する効果と、さてはそれを服薬した人間を不老不死にまでする力があるとさえいわれているのだから、その存在は、はてさて、何がなにやら分ったものじゃないといっていいのでしょうね。ま、しかしそれにしても錬金術において賢者の石がなくてはならない物質だったということは、ここで改めて確認しておいてもいいことなのでしょう。というのも、錬金術は英語ではalchemy、このalはそもそもアラビア語の定冠詞なのであり、その後につづくchemyは金属を変容させること、転じて賢者の石を示す言葉である。それだから錬金術の作業は賢者の石を抽出する壮大な試みだったと規定しても、そうまちがいはないのでしょう。ま、謎の話にはちがいないのでしょうけど。」
「金を求める作業が錬金術にあるのなら、当然、金につづく金属である銀を生みだす作業もまた錬金術には欠かせなくあったのであって、前者は卑金属を金に変える赤い石、すなわち賢者の石を求める大錬金法であり、後者は卑金属を銀に変える白い石を求める小錬金法と読んだ。ただこの二つの作業自体はどちらも石を手に入れるためのものであったから根本的な区別があるというのでもなくて、問題にすべきはこれら賢者の石を入手しようってする試みに仮託された象徴性にこそあったとみるべきかな。というのも、錬金術とはそもそも化学的実験に暗喩としての精神修養の意味を与えた求道的な響きがある、魂の浄化ともいうべき精神的な価値に重きがおかれてた技術体系だったのであり、賢者の石が哀れで貧しい卑金属をこの地上の最良の金属である黄金に変容せしめるのは、この世に囚われた愚かな人間が高尚な存在と地平に至ることへの比喩表現にほかならなかった。だからこそ、自然の神秘を一身に担うべき物質である賢者の石は、そのまま人の精神の再生をさえ司るべき代物であったのであり、賢者の石において人と自然のまったき調和とも表現できる成果が、黄金の錬成って煌くばかりのイメージによっていい伝えられてきたのじゃなかったかな。賢者の石とは、まさに、世界と人間、マクロコスモスとミクロコスモスの調和への願いにちがいなかったのだろうから。」
「賢者の石のような概念がいつ人類のなかに誕生したのかは分っていなかったと思うけれど、しかし不完全な世のなかに暮している人間が世界の完成された状態を夢想する限りは、その伝説は生まれるべくして生まれたといって正しいのでしょうね。たとえばアリストテレス主義が自然は完全な方向へと向うことを信じていたように、古来人々は自然の最中に純粋で完全な物質が、つまり神の似姿ともいうべき存在があることを信仰していたのでしょう。そう考えていくと、世界の変成つまり錬金術の作業が、術者の精神的な変化をも代理して意味するだろう発想は、きわめて自然な落着だったのかしれないかしらね。ま、はてさて、なんだかハガレンの感想ではなく錬金術についての随想になってしまった観のあるエントリだけれど、ま、これでもいいかしら。ハガレン世界の賢者の石はなかなかショッキングなだけに、ここで賢者の石の背景について触れておくのも悪くないかしらね。西洋文明の巨大な伝説のひとつとしての賢者の石は、興味深甚たるものなのでしょうし、調べて行くとおもしろいこと際限ないのよ。まったくにね。」
『それは万象における完全なる父なり。その力は大地の上に限りなし。汝は、火と大地を、精と粗を、静かに巧みに分離すべし。そは大地より天に昇り、たちまち降りて、優と劣の力を取り集む。かくて汝は全世界の栄光を己がものとして、闇はすべて汝より離れ去らん。そは万物のうちの最強者なり。すべての精に勝ち、全物体に浸透するが故に。かく、世界は創造せられたり。かくの如きが、示されし驚異の変容の源なり。かくて我は世界霊魂の三部分を備うるがゆえに、ヘルメス・トリスメギストスと呼ばれたり。太陽の働きにかけて、我は述べしことに欠く所なし』
ヘルメス・トリスメギストス「エメラルド・タブレット」
2009/05/10/Sun
「昭和四十年の三月から一年かけて連載された「さらば、夏の光よ」は、遠藤周作の手がけた若者の恋愛とそれによって運命的に引き起されるあまりに叙情的で、そして小説の筋立てとしてはあまりに通俗的な不孝を描いた、青春小説のひとつとしてよいと思う。まず物語は三人の人物を中心にして展開されるのであり、ひとりは南条っていうたぶんどこにでも見出されるだろう明るくて容姿が人並みよりそこそこ優れてる、異性への好意を容易に獲得しやすくて、それでいて本人はそれほど気どったとこのない、有体にいって好青年の典型ともいうべきちょっと浅はかな人間が登場する。そして彼と親友として付きあってる野呂という人物が本作の要ともいうべきキャラクターなのであり、彼は友だちに比較してとくに際立たない平凡な顔かたち、そして背も低くて小太りといった、女の子にはあんまり人気の出そうにない冴えない風姿の所有者であって、彼もそれには劣等感を抱いてる。といっても性格が見た目に劣らず剽軽であったり人付きあいに巧手であったりしたなら他者から外形だけで軽く扱われたりはしないものなのだけど、野呂はそんなに交際が得手というわけでもない内向的で自分の思ってることを上手に口にして表現することが巧みでない、いわゆるおどおどした性格のおとなしい人となりであったから、女性にはいいように使われちゃってる日々だったのだね。そしてもひとりの人物が本作のヒロインである戸田京子といった清純な女性であり、彼女は一度好きになった人にならどこまでもその人に対して一途であれるといった、古風な美意識とまた現代的な自由恋愛に焦がれる型の人であるのだけど、ごく個人的な感想を述べるなら、この登場するだれもが通俗的な本作のなかにあっても、彼女の世間ぽさといったものはひとつ頭をぬけてるかなって私には思われた。その意味で彼女くらいおもしろみのない浅慮な人物も、小説のキャラクターとしてみた場合は珍しくないほどじゃないかなって思われちゃったけど、でもこれはたぶん作家の遠藤の狙うとこでもあったのだろうって思われるかな。それというのも、本作の悲劇のだいぶの原因は、京子にこそ求められる。それはこの作品を読み進むに当って、単純な叙情性になびかない人であるのなら、だれもが気づくことであるのじゃないかな。彼女の閉じた心こそが、運命的な悲劇の招来する理由だったのだから。」
「物語は南条が戸田に恋慕するといったところからはじまるのよね。ふとしたことから京子に恋心を抱いた南条は友人の野呂を巻きこみながらも京子の恋人になれることができるのであり、そして子どもができたため、婚約する。しかし結婚の間際で南条は不幸にも事故に遭うのであり、幸せのなかにあった京子は不孝の淵に落される。それを見かね、そして以前から親友の恋人である京子に思いを寄せていた野呂は、ただ善意とやさしさから京子を慰め、二人はついに結婚することになる。しかし野呂の容姿と性格にどうしようもない苛立ちと生理的な不快を覚えていた京子は、いつしか野呂に我慢が行かなくなり、身ごもっていた南条の子どもを死産したのが決定した理由となって、彼女はとうとう自殺を敢行する。ま、こうして筋書きを並べてみると通俗的という言葉が陳腐に聞こえるくらいに、通俗的な話なのよね。こうもテンプレートのような物語は返って貴重とも思えるくらいかしら。遠藤がこういう作品を書き下ろしたというのも、どことなく考えさせられるものがあるのでしょうね。なかなか評価がむずかしい一冊よ。」
「物語はたしかに凡庸きわまりないものだけど、でもその凡庸さが翻って悲劇と人の性格のありがちな陥穽を示すことになってるようにも思われて、それがこの小説の評価を単純につまらない筋書きだって切り捨てることを躊躇させちゃうから、かな。というのも、この作品は読み終っていろいろ思いを巡らしてみるとさまざまな事柄を考えさせずにはおかない何かが秘められてるのであって、それはいったいどんなのかなって問われるなら、私はまず野呂という人間の邪気のなさを挙げると思う。野呂は、ただ善意の人であるのであり、そしてあまりに臆病で、自分の好きな人に対してもやさしくやさしく、壊れ物を扱うかのように傷つけることを非常に恐れてた。そしてそれは野呂のおとなしい性格を考えた場合にはしかたないことだったのかなとも思えるけど、でもそのやさしさが結果的には京子を自殺に導くことにつながったのであり、善意こそが人を傷つけるといったある真理が私には見えてくるように思われるかな。‥それと気になったもひとつは、京子って人の凡庸さ。彼女は死に別れた夫に対してひたすら純情でありすぎたのであり、彼と喪った子どもを慕って死に行く心境を物語る場面は、たしかに物悲しくはあるのだろうけど、でも私にはそれ以上に彼女の独善性‥それは自身の善意をふり回す野呂よりひどいように、私には思えた‥現在を否定して、ただ過去のみにすがりつく、愛という幻想に囚われた悲しい人の相貌を、私は京子の裡にみとめた気分かな。‥そういう意味で、本作はシンプルな構成ながら、心に引っかかる何かを残すことに、思った以上にずっと成功してるって私は評価する。この物語の奇妙な味わいは、いったいなんなのかな。それを考えると本作は意外と遠藤周作の作家としての力量を示すたしかのものともいえるのかも。だって、この物語ほどありきたりなテーマに沿って描かれたものもないのだものね。‥凡庸なものを凡庸に描き、それなのに凡庸に納まりきらない何かを心に残す。それが作家としての資質だとするならば、本作は見事にその要件に応えみせてるのだから。」
「作家は奇を衒った言葉を好んで使うようではいけない。定型句を凡庸に並べ、それなのに感動を与えるものを書いてこそ、作家として優秀なのだということをいったのは、たしかコクトーだったかしらね。その意味でいうなら本作はありきたりな恋愛と悲劇を描写してみせていながら、遠藤のセンスが随所に光るおもしろい小説となっているというべきなのでしょう。その人物造詣の細やかさと心理の変転のていねいさが、本作の見どころなのでしょうね。ま、なかなか良かったかしら。それほど長くないし、遠藤の入門書としてもこの作品は格好のものともいえるでしょう。多くの人に気軽に進められる一冊ともいえるかしらね。そういうことで、本作は好評よ。見事だったかしら。」
『自分でもよく、わからぬ感情が旨にこびあげていた。それは怒りに似た感情である。私は戸田京子にたいして、怒っていた。京子のどこにたいして怒っているのかよくわからない。
馬鹿なことをなぜする。なぜ、死ぬ必要がある。列車の規則的な車輪の音がまるでそう言っているように、耳にひびいてくる。一体、彼女はなぜ、忍耐できなかったのか。結婚とか人生とかは結局、辛抱以外になにがある。私はとにかく腹だたしい気持で壁にもたれたまま、苦い煙草を幾本もふかした。』
遠藤周作「さらば、夏の光よ」
遠藤周作「さらば、夏の光よ」
2009/05/09/Sat
「思った以上におもしろくてよかったかな。とくに演奏本番の場面は、まさか「ふわふわ時間」がほんとにきけるだなんて原作をはじめて読んだときには思いも寄らなかったのだから、生きているといろいろなことがあるものかなって、ふしぎな気分。だって、この世のだれがあの原作のシーンがPV風に映像化される日が来ると予想できるのかーってものだものね。原作に親しんだ当初では考えられない「ふわふわ時間」のお披露目なのだから、その点でも今回のお話はけっこう笑わせてもらって、よかった。おもしろい。‥それで、本作をさいしょの予想よりはずっと愉快に鑑賞させてもらってる私だけど、この作品のその魅力っていったいどこに立脚したものであるのかな、本作の基盤はいったい何に由来したものであるのかなって、そういった問題はあらためて考えてみるとなかなかかんたんに答えにくいものがあるような気がする。たとえばふつうの一般的な娯楽作品といえば、作品を進めてく原動力の基本には物語性っていういわゆるドラマがおかれるのが常であって、起承転結、人間関係とそれに対応して変転するだろう背景の躍動感が加わって作品は視聴者の興味と次にどんなことが起るのかなって関心を引きつづけさせることが可能になるのであり、これは人が作品を語りはじめたときから如何なる場合においてもあるていど当てはまる条件だっていっていいと思う。そしてもちろんこの「けいおん!」もその枠に免れることなく、6話までの彼女たちの活動の背景には今回の学園祭っていう目標を目指すということが目立たず位置されてたことは自明なのだけど、でもその目標が映像の前面には絶えて出てこなかったのであり、ここにおいて「けいおん!」にはドラマ性といったものがあろうけど、ただそれは限りなく薄まったもの、しいていうなら私たちが平凡に暮す世間一般のドラマ性‥生きてるだれもが自身の人生ってドラマをすごしてるとはいいうるかもだけど、それが大々的に意識されることなんてない。私たちはたいてい歴史の英雄でもなんでもないのだから‥と同じレベルのそれであり、「けいおん!」の魅力はもっとべつのとこに求めなきゃいけないってことに気づく。‥唯たちがほんとに武道館に立つなんて、リアリティないものね。つまりそこにこの作品のあまりに平凡な、そして限りなく世間的な生きることの、人を生かすことの日々のちょっとした楽しみに拠ってひとつの作品を構成するに至るといった、興味ふかい長所を見出すことができると思う。そしてそれはだれにももてることで、またみえてるものでさえあるのだろうって、感じられるかな。なんらドラマティックでない、退屈な人生の証左として、日々の慰みはあるにちがいないのだろうから。」
「この作品がまったくドラマ性が薄いといった指摘は、おそらく的を射ているのでしょう。そしてそれゆえに演奏シーンへの盛りあがりがそれほどでもなく、もう少し彼女たちの描写を徹底しておけば、今回のステージの臨場感と感情的な高揚感といったものが視聴者に与えられただろうという指摘も、そうおかしくはないものなのでしょう。しかし何かしらね、彼女たちのこのぐだぐだ感、それほど自分自身を律することもできず、かといってあまりに堕落している駄目な生活といえるほども悪に染まってもいず、迎える日々を退屈なのでしょうけどしかしある程度の楽しみと愉快を発見しながら、そして少しの気のあう友人たちと過す彼女たちの生活感覚といったものは、おそらく大多数の人が共感しうる態のものであるのであり、その意味で彼女たちほど凡骨にありのままに描出されたキャラクターといったものは、なかなかどうして、稀有な存在なのかもしれないかしらね。しかも日常を描くといえど、そこにはなんら訓戒的だったり道徳的だったりする、要するに作者のメッセージ性といったものも介在しないのだから、本当にただ単の平凡な生活といったものに徹している、ある意味、非常に潔い作品とも評価は可能なのでしょう。考えてみると、こういう作品が受けるというのもおもしろいことね。ドラマもイベントらしいイベントもない。目新しくない学園祭の、小さなステージ。しかし、そこはそれでいいのでしょう。そういった小さな価値を否定することはないのでしょう。それはそれですばらしいのよ。まったくね。」
「この作品のある意味中心ともいうべき澪の挙動は今回のお話でもいろいろおもしろかったかな。まず本番当日で演奏前に調整は当然必要だろうけど、でもそれほど根の入った練習が求められるわけもないのに気ばかりが焦ってる澪の姿は、何か大事を前にした人のありがちな姿を見せられてるようでなんだかこそばゆい。それにそうやって焦燥感にとらわれてる澪が真っ先に律のとこに赴くのも彼女たちの関係性を暗示してるようでなかなか見落せないシーンを挿入したものかなって思われたし‥キャラメルのインタビューで山田監督が答えてたけど、澪は律に対してトラウマといっしょにすごい依存もある子って指摘してたのは鋭い意見かなって私は思う。いわれてみれば澪にはそういうとこありそうだよねって感じられるし、ある意味だれより小心な澪がライヴで歌をみずから歌ったということは、彼女にとって大きな出来事として記憶されることなのかもしれない。そしてそれを律が見越してたとまでいっちゃうのは、たぶん私のいい過ぎかな。ただ、澪にとって軽音部のみんながそう軽くない関係性として考えられてきただろうことは、そう的外れじゃないのじゃないかなって思う。澪という人は、だから、見てておもしろい。ほんとに、彼女は素敵なとこ、ある‥そういった澪を労れる唯たちの態度といったものは、私には好ましく感じられるかな。‥それと演奏の場面をみて少し思われたけど、私はけっきょくあんなふうにだれかと共同作業をするっていうことはついにこれまであんまりなかったかなって、ふと思われた。私はただ私自身の関心の向く先に忠実であったけど、それは過去、何かの選択の機会を遠ざけてきたということであったのかもしれない。もちろんそういったとこで、私には後悔も何もあるはずないのだけど、ね。‥だれかと何かをすることを、私はそれほど好まない。でも、そういった仲間と関係性と機会があることは、いいことなのかもしれないね。‥ライブや演奏会はただ観客の位置にしかいない私だから、今回のエピソードは少しいろいろ考えさせられちゃった。でも、次回もまた、楽しみにしよかな。けいおん、なかなかよろし。おもしろい。」
「彼女たちがもう少しまじめに練習し、演奏の質の向上などを云々し出すと、おそらくこの作品の魅力の大半であろう和気藹々とした雰囲気は崩れ去ってしまうのでしょうね。そして今のこの環境をもしかしたらだれより気に入っているのは澪かもしれないし、彼女のような人は今このメンバーだからこそ中心にいれるのかもしれない。ま、そう考えるとなかなか彼女たちの力関係のバランスといったものは興味あるように感じられて来るのでしょうね。たとえば唯なんて、おそらくどの集団に入ってもそれなりに親しまれるでしょうし、本人も楽しむことは十分にできる、つまりどこにでもあれるだろう適応力のある人間なのよ。そしてその意味では澪と唯は対照的でしょうし、彼女たちがひとつのグループに現在所属してることは、ある種の幸運でもあったのでしょう。ま、しかしはてさて、次はどう魅せてくれるのかしら、この作品は。とりあえず期待させて待ちましょうか。思ったよりも興味ふかく、愉快な一作かしらね。どうなることか、さて、期待しましょう。楽しみよ。」
2009/05/08/Fri
「けっこうおもしろい。アメリが意識して好意を寄せてる相手が裕理その人であろうことは傍目から観察してても容易にわかりそうなことだし、裕理がとくにその事情、つまりアメリの感情に思いが至ってないってこともあまりなさそうに私には多少思われるかな。というのも彼がそこまで鈍感だって可能性も無きにしも非ずかもだけど‥もしかしたら大いにそうなのかもしれないけど‥でも、関係が浅いましろでさえすぐにアメリの気持に感づけるくらいにアメリの態度というのはある意味露骨で、そしてまた同程度の意味において稚拙でさえあったのだから、それを裕理が閑却してるとは私は少し思いたくない。それに、何かな、べつな言い方をするのなら、裕理はアメリの言動の端々に自分への好意といったものの予感と兆候を見てとってはいるのだけれど、でもそれを認めること、つまりアメリからの好意を受けとめるにしろ拒絶するにしろ、その決断をくだすことへの怯えといったものがあって、そしてそれが彼の感性を鈍磨させてる要因のひとつなのかもしれない。そしてそう考えるならば裕理の態度のいくぶんかは合理的に納得できるのであって、というのも他者と性的な関係性に入るだろう、もしくは入るかもしれないっていう状況におかれることへ本能的な恐怖、怯えといったものは、往々にして青年期に‥あるいは、そして少なくない人が人生の全域にわたって‥経験しちゃうものであろうし、それに上手に対処することは想像以上にむずかしいといっていいのだろうかなって思われるから。‥これはなかなかむずかしい。裕理ひとりを責めて済む問題でも、たぶん今回のお話はないのかも。もちろん彼の態度がぜんぶにおいて肯定されるべきものとは、私にも思われないけど、ね。難儀なとこかな。」
「ましろとばかり付きあっている裕理の姿はアメリには自分を疎外しているように映ったでしょうし、そういった嫉妬の念といったものは、はてさて、みずからコントロールするにはあまりにむずかしい代物ではたしかにあるのでしょうね。そしてまた裕理にしてみれば、おそらく彼は幼なじみであるアメリが自身と性的な関係性に、ま、要するに恋人という文脈におかれることには相応のためらいといったものが拭えずあるのでしょう。そう考えると、これはなかなか単純には行かない問題と状況といえるのかしらね。なぜなら恋人や恋愛と一口にはいえるけれど、それらをそれなりの覚悟において自身に引き受けることはけっこう重荷でもあるからよ。殊にそれが幼なじみであるなら、事態はなお厄介でしょうね。それは想像するに余りあるものよ。」
「子どものときの情感の記憶が二人を性的な関係性に導く際には、おそらくそれはある種の刺激となると共にある種の躊躇の源泉ともなるだろうからで、それはべつな言葉でいうなら、少年もしくは少女に恋したときの自身が少年もしくは少女だったときの身体に刻まれただろう感情の痕跡をどう本人が意識し扱うかといった問題にほかならなく、そしてそれはそうシステマチックに処理できる類の問題でありえないから、かな。‥だれかを好きになること、愛することは無条件でそれ自体がすばらしいものって世間的には称揚されるべき代物なのかもしれないけど、でもだれかを好きになってその思いをだれにも知らせず自身のうちにのみ閉まっておくならまだしも、その熱い、どうしようもない感情を吐き出そうとするときに、ある懸念といったものが頭を掠らなければ、その恋愛はよほど無邪気にできたものだっていうこともある面からはいえるのかもしれないかな。というのも、人はだれかを好きになったとき、その自分が好きな人を自分に関係させる際に、ある種の恐怖といったものに憑かれちゃうことがままあって、その恐怖とは端的にいって何かなって考えるなら、それは自分が好きな人を自分という人間がだめにしちゃうのじゃないかって予感に基づいてるものといって、いいと思う。私が私の好きな人を私のために堕落させちゃって、私が私の好きな人の蹉跌の要因になっちゃうのじゃないかって想像しちゃう恐怖といって、いいと思う。‥もちろんそういった思いがその本性としてはよけいな思いあがりで、自分が好きな人を自分がだめにするかもしれないといったことを考えちゃうことそれ自体が、好きな人に対する侮辱に当るって非難することは正当なのかもしれない。でもただ、何かな、そういって割り切ったにしたところで、好きな人を受けとめるときには他者を引き受けるといった意味での根源的な責任の所在といった問題が生じる。‥だれかがそれを引き受けなくてはならない。でも、それに対するためらい、恐怖は忘れたようでいていつも意識されるものであるように思える。‥でも、だけれど、たぶん、そういった言葉で人の好意を無碍にすることは、ゆるされざる悪であるのだろうな。上手い言葉は、だから、見つからない。やになるかな。」
「他者と性的な関係性に入ることはほかのどのような人間関係においてと同様に求められるだろう他者を引き受けるある覚悟が問われるのでしょうし、もしかしたら恋愛においてはその覚悟はもっとも強い割合において考えねばならない代物であるかしれない、か。はてさてね。ただ、ま、そうね、そういった意味で考えてみるならば、裕理のようにいたずらにその恐怖から逃げ回ることも良くないことではあるのでしょうけど、しかしこれが一端転じてだれに対しても易々と性的な関係性に無責任に突入するようになるならば、それはまちがいなく恐ろしい所業だといっていいことになるのでしょう。ま、そういったわけでだれに対しても簡単な性的な境界を築き、そこから愛情を引き出すことに安閑としてしまったのは、太宰治なのでしょう。ただこの種の問題は、しかし、ま、なかなかいい辛いし、むずかしいものかしらね。裕理を責めてどうなるものでもない。アメリを難じてどうなるものでもない。ましろならなおさらよ。恋にまつわる関係性の変遷とは、はてさて、微妙なものなのでしょう。次回の展開を、では、期待しましょうか。ま、楽しみよ。どうなることかしら。」
『愛と嫉妬との強さとは、それらが烈しく想像力を働かせることに基づいている。想像力は魔術的なものである。ひとは自分の想像力で作り出したものに対して嫉妬する。愛と嫉妬とが術策的であるということも、それらが想像力を駆り立て、想像力に駆り立てられて動くところから生ずる。しかも嫉妬において想像力が働くのはその中に混入している何等かの愛によってである。嫉妬の底に愛がなく、愛のうちに悪魔がいないと、誰が知ろうか。』
三木清「人生論ノート」
2009/05/07/Thu
「一九一二年から翌年にかけて連載された「行人」は、「彼岸過迄」と「こころ」のあいだに位置する漱石の後期を代表する長編のひとつであり、知識人の苦悩ともいうべき人の理知が人をして世間を地獄に変貌させるその漱石自身が体験したであろう苦悩が迫力ある筆致で描かれた、漱石の呻吟する様がまるで目に浮ぶような力作として評価していいと思う。そしてまたその種の知性によって周りを疑いに疑いぬき、結果として人を容易に信ずることができなくなった人間の滑稽とも悲劇ともつかない凄惨な様子こそは、あとの「こころ」で重点的な主題となる愛と他者を信ずることと、そして友誼というのを願いながらもそれがなかなか実現できない人の心の複雑さと陰影さとどうしようもない弱さというテーマにつながるものであるのであって、「こころ」が悲劇の結実としてただ哀れに私たちに看取されるなら、この「行人」こそは悲劇に通じる苦しみこそをとくに抽出して形にあらわされた、まさに漱石の苦痛のもっとも直接的な表現だって看做すべきなのじゃないかなって、私は思うかな。‥この小説は、そういった意味において、読む人によって受ける印象はさまざまに変容する類の一冊だって、私は思う。一律な評価はとうていできない代物で、この作品から何ごとかを感想として呈出することの困難さを、私はただ感じるかな。でも、うんそう、問題のむずかしさはこの作品の中心人物ともいうべき一郎のあり方、その人となりを理解できるか、あるいは理解できなくとも想像できるかにかかってるように私には思われる。‥一郎の苦しみは、わからない人にはきっとわからない。ただ、私にはなんとなくつかめる。そしてその悲劇性にぞっとする。でも、この苦痛は、おそらくわからないほうがまだしもって部類なのかもかな。一郎の家族が彼をわからなかったように、漱石もまた理解されなかった。それはべつな言葉でいえば、漱石自身の悪徳でさえあった。そのことは一郎の様子から、おのずと察せられることであろうかな。」
「この作品を執筆してるあいだの漱石は心身ともに非常にきびしい状態におかれていたことはよく指摘されることではあるのでしょうね。というのも漱石はこの連載の合間にひどい胃潰瘍で五ヶ月も「行人」を中断していたのであり、さらには家族のなかでも半ば気狂い扱いされていたことを多数の書簡で告白もしているのだから、本作にあらわれる一郎の姿は、はてさて、漱石自身の投影と見てなんらまちがいはないのでしょうね。ま、物語の筋というのはそれほど厄介でもなく、ただ単に一郎という学者の孤独と悩みがひたすら克明に記されていくというものであって、ドラマらしいドラマがあり、しっかりと構成立てられた小説とはお世辞にもいえないのでしょうけど、しかし何かしらね、この苦悶している人間の有様を、その悲しみにゆがむ表情がすぐ手近に感じられるほど執拗に描写しつづける漱石の作家としての執念ともいうべきものには、正直ぞっとさせられもするかしら。何がここまで、苦しみに喘ぐ人間の光景を、漱石に描かせえたのかしら。それはたしかにひとつの問題なのでしょうね。この苦しみに染められた小説は、悪のように巨大よ。恐ろしくさえ、あるかしらね。」
「物語の主軸にある一郎は学者であって、小さいころから研究と思索に己のだいぶの時間を費やしてきたまさしく知識人の見本ともいうべき人物であったのだけど、彼はその尋常とは異なる個性と頭脳のために、次第に家族のあいだから疎まれてく。そしてそうやって疎遠にされてく自己に対して、一郎はそう気にも留めないといったふうな態度を誇示するほど他者に対して冷淡というわけでもない、あるやさしさに満ちた人柄であったことが、彼の不幸の最大の要因だったとも、ある意味、いえちゃうのかな。というのも明敏な理性の働きを信じる一郎を理解できる人はひとりもなくて、彼は彼の努力と才能の結果である知性のために、周りの人たちからおよそ見放されてく。そしてそれを受けて一郎自身も、年寄りらしい慈悲と世間体の処置に長けたほほ笑ましい両親の姿勢に誠実さへの裏切りを発見し、不器用に愛を傾けてる妻からは彼自身の愛し方の不備を怠慢として受けとめられちゃって、そのうち妻の思いやりは一郎にとっては目にみえるものでなくなって、彼は妻に対しておよそ向けてはならないだろう不貞と裏切りの虚妄にさえいつしか憑かれてく。‥そうして自分をおそらく愛してただろう、愛してくれただろう人たちの親愛を彼の理知がために彼は絶望の呻き声を伴って離れてってしまうのであり、その様子は愚直に他者を愛し信じる人の根本的な愚かさともいうべきもの‥人を愛するということは、ばかでなきゃ、できない‥をいたずらな理屈によって喪失しちゃう知識人の、ううん、漱石自身の姿にちがいなかったのであり、一郎のそういった苦痛の様子は、どの時代にもいるだろう半端な知性のもち主の不幸を象徴してるものだとさえ、いえてしまうのじゃないかな。‥私は、そういった一郎の嘆きにどことなく涙する気分がある。もちろん私は漱石でない。ただでも、漱石の苦痛と同種のある人間的性向を、私という人はもしかしたら抱えてるのかもしれないかなって、ふと思う。それは単に知性が愛を損なうといった問題でない。人が他者を愛するといったその連結の根本意義を、どのようにして確保するかといった、実際的な要請に迫られた問題でさえあろうから、私は一郎の姿に哀しむのだろうな。その悲劇と滑稽味は、賢しい人間の頭脳にとって、無縁でないのだから。」
「知識人の姿勢が生きた人間の問題を離れ、抽象的で空理な方向に展開し、その結果としてニヒリズムに陥ってしまうといったことは、ま、よくいわれることなのでしょうけど、しかしその一連の過程を漱石ほどに透徹して見た人はまずなかったのでしょうね。そしてそこまで詳細に描けたという事実こそは漱石がその種に虚無的な苦しみを免れてなかったことの証左であり、それは何かしらね、どうにもこうにも痛ましいのよ。漱石の、この痛ましさ。まったくなんて痛ましい小説なのかしらね。そしてこの小説からある種の痛ましさを感じられるということ自体が、いくらか知性の罠にはまっているということでもあるのでしょう。はてさて、難儀でおそろしくふかい問題ね。この苦しさの根とは何かしら。それを除去する術とてあるのかしら。だれもそれには答ええない。己さえも答ええない。光は、どこかにあるのかしら? はてさてね。」
『「何故山の方へ歩いて行かない」
私が兄さんにこう云っても、兄さんは黙っています。私は兄さんに私の主意が徹しないのを恐れて、附け足しました。
「君は山を呼び寄せる男だ。呼び寄せて来ないと怒る男だ。地団太を踏んで口惜しがる男だ。そうして山を悪く批判する事だけを考える男だ。何故山の方へ歩いて行かない」
「もし向うが此方へ来るべき義務があったらどうだ」と兄さんが云います。
「向うに義務があろうとあるまいと、此方に必要があれば此方で行くだけの事だ」と私が答えます。
「義務のないところに必要のある筈がない」と兄さんが主張します。
「じゃ幸福の為に行くさ。必要のために行きたくないなら」と私が又堪えます。
兄さんはこれで又黙りました。私のいう意味はよく兄さんに解っているのです。けれども是非、善悪、美醜の区別に於て、自分の今日までに養い上げた高い標準を、生活の中心としなければ生きていられない兄さんは、さらりとそれを擲って、幸福を求める気になれないのです。寧ろそれに振ら下がりながら、幸福を得ようと焦燥るのです。そうしてその矛盾も兄さんには能く呑み込めているのです。
「自分を生活の心棒と思わないで、綺麗に投げ出したら、もっと楽になれるよ」と私が又兄さんに云いました。
「じゃ何を心棒にして生きて行くんだ」と兄さんが聞きました。
「神さ」と私が答えました。
「神とは何だ」と兄さんが又聞ました。』
夏目漱石「行人」
夏目漱石「行人」
2009/05/06/Wed
「個人的な思いをいえば、私はスカーがそうとうきらい。というのも、彼はその背景に虐殺された民の無念を晴らすっていうある意味正統的に人たちに響くだろう思想的、そしてそれよりよけいに感情的な文脈のなかに自身をおいてるわけではあるけど、でもだからといってスカーのしてることは端的にいってテロリズムにほかならなくて、国家錬金術師だけを狙ってるっていってもスカーは相手にしっかりと自身の立場を明確に告げることなくしかも不意打ちの形で殺害を謀ってるのだから‥イシュヴァール戦に加担してないエルリック兄弟を問答無用で襲っちゃってる点は、いい逃れできないとこではあるかな。この、問答無用で、という部分が実に私の気に入らないやり口であるのだけど‥私はスカーは最低の奴だって言明してはばからないかな。もちろんかといってスカーの生まれ育った環境と、彼が今の彼のような存在になってしまった社会的な機構の問題というのは無視していいものでは決してないのかもしれない。でもだからといって私はスカーのやり方には共感も、ましてや同情もおぼえないし、それゆえに私はこの作品がスカーという存在と、その存在を誕生させちゃう社会の理想と現実の歯がゆい軋轢といったものを逃げずに描こうとする姿勢に、逆説的につよい賞賛を送らないではられないかなって気持も、あわせて告白しないではおけないものではあろうかな。‥ふつう、こんなにいいにくい話題を、ここまで真正面きってあらわそうってする作品はなかなかない。安易な感傷に流されもせずに、スカーという存在を単に口先だけで肯定も否定もせずに‥しかし大局的に見るならむやみやたらな大量殺人をくり返すスカーの心理に確固とした変化をこの作品は明示したのだから、スカーの流儀にはある明確な倫理的欠陥があること、つまり他者の生命を理想って個人のイデオロギーのもとに断罪することは、人間のいちばん大事であろう尊厳を破るゆるされざるものであることを、本作は自然に告げてることにもなるだろうかな‥描写してみせるこの作品の見識の鋭さには、一方ならず、私はおどろいちゃう。‥スカーはきらいだけど、でもその姿を描き尽したこの作品の度胸には素直に感心する。なぜならスカーの問題は、むずかしい。そしてそのむずかしさをむずかしいままに描写してみせるとこに、この作品の真価がある。それを言葉にして指摘するのも、なかなか勇気が試される箇所ではあるのかもかなとは思うけど、ね。いいづらい話題にはちがいないもの。そうだよね。」
「スカーという存在のむずかしさとは、いってみればスカー自身が純真だという点に存しているのでしょうね。彼は歴史的に見ても明らかに不当な扱いを受けた民のひとりであり、その屈辱と非道を晴らすべく、正義の鉄槌を本人の意志では振るっているつもりなのでしょう。であるからそういった意味ではスカーはまったくマスタングなどのような偽善者ではなく、ひたすら純粋で、悪や口先だけの輩を侮蔑する、誇りに満ちた男らしい義士でさえあるのでしょう。ただしかし、何かしらね、この種の純真な人間というのが、実はこの社会のなかではまったく実に、本当に厄介で、真実は彼らのような義士こそが世を乱す困ったものになってしまうのよ。というのも、ま、それにはさまざまな理由があるのでしょうけど、そのひとつにはおそらく社会というのは複雑なものだという基本的な認識が彼らには欠けていたからでしょう。世のなかは単純に正義と悪に分たれるものでもなければ、正義が悪を倒せば、何かが解決するというものでもない。そしてどんな方法でもいいから悪を倒せばいいのだとしたら、正義が行う悪への裁きはそれ自身が悪の衣をまとうことにさえなりかねない。ま、はてさてといったところね。こういう話は、微妙にむずかしいものではあるのでしょう。」
「テロは絶対的な悪である、と私は思う。その意味で私はスカーの問答無用という姿勢が大きらいだし、この種の対話を端から要求しないでみずからの考えのみを貫こうっていう人は有体にいって困っちゃうし、またその手の人にはあまり近づきたくもないかなって気がする。‥それに、なんていうのかな、たぶんこれは私だけが想起してることでもないようには予想するのだけど、スカーのやり口、つまり問答無用の流儀の嫌悪さを思うとき、私にはそういった光景の卑劣な図の代表として、あの一九三二年の五・一五事件の相貌が重なってくる。‥世には単純に正義や悪があるのでない。正義を名乗るものが悪を規定してその悪を滅ぼうとしたとき、その所業は倫理の必然において、酸鼻なものになるだろうことを、私は歴史の自然の落着ともいうべき過程において、あるたしかさに支持された摂理ともいうべき結論であることを、柄になく、思っちゃうかな。‥ただ人は正義が好きなものなのかもしれない。正義という旗印はかっこいいし、何よりそこになびく思想的な居所に安住すれば、それは不安定な自己にある種の生きがいと自身の価値をさえ認識させてくれるものかもしれない。でも、何かな、正義が先にあって現実があるのでなくて、ほんとは、まったく当り前のことだけど、現実があってその現実に正義って意味づけを施すのが、人の単純な事実であるにちがいない。‥でも、人は往々にして正義で糊塗された幻想に寄生することを好むのかな。そして正義という呪縛からは甘い蜜が滴り落ちる。それを舐める人は多い。そしてそれが安心をもたらすことも少なくない。ただ、私はそれよりは不安に生きたほうがいいような気がする。不安に、所在ない自己を抱えて孤独な都市を彷徨したほうがいいような気がする。そう思う私の言葉は、たぶん弱い。そして正義の言説はつよい。はっきりしてて、わかりやすい。それはしかたないことなのかな。どうしようもないことなのかな。私には、わからない。」
「何がスカーを、つまりテロリズムに駆られる精神を、形成したのかといった問題は、もちろん考慮されねばならないマターではあるのでしょう。しかしそれは別個に、つまり社会的、歴史的、そして実際的な制度的な面において考究されねばならないものであるのであり、単純に多くの要人を殺したからといって、何がどうなるものではないのよね。しかし、義に憑かれた心といったものは、そういった単純な事実に気づけず、多くの血と呪詛を撒き散らすことになってしまう。ま、そう考えていくと正義といった観念はなんなのかと少し考えてしまうかしらね。正義という価値観で解決する問題などいくらもない。しかし正義という言葉は蜜よりも甘い。さて、それはなぜかしら。汚れたくないという、ナイーヴな感性かしら。ま、はてさてね。正義とかなんてどうでもいいのよ。人が生きるという基本にべたに徹していれば。そんな旗印は不要なのよ。まったく、単純な意味においてね。はてさてよ、本当にね。」
2009/05/05/Tue
「現代魔法を私が好きなのは以前もいったかなだけど、このシリーズの挿絵を担当してる宮下未紀先生みずからによるコミカライズである本作は、一読して私は率直にいうとその出来のすばらしさに感嘆しちゃった。これは私が宮下先生の作家としての個性とその耽美的で独特な偏狭さをもった価値観によって構成される世界観が何より魅力的で惹かれてるというのも多分に関係してるかなって思うけど‥この一見してかわいらしいキャラクターなのだけど、その実、心のなかでは何考えてるかわかんない、怪しくて一癖も二癖もありそうな奇妙で不可思議な存在感のある人物を造形することに長けた宮下先生のセンスは、この現代魔法にも遺憾なく発揮されてる。そして現代魔法それ自体も、つまり本編そのものの内容もオーソドックスとはいい難い、捻った展開とふしぎで奇天烈で、そして言葉にしがたいやさしく審美的な色彩に満ち満ちたものであったのだから、このシリーズは地の文とイラストが最高の形で調和した、ラノベのなかでもとくに恵まれたシリーズなのじゃないかなって思いが、私のなかにはあるかな‥でも久しぶりに現代魔法の世界観に、それも漫画っていう新たな形式で浸ってみると、この作品のよさ美しさが改めて私には感じられちゃって、このシリーズを評価し直すのもそうわるい試みじゃないのじゃないかなって思われたかな。‥ほんとに、こんなに素敵なコミカライズだなんて思わなかった。ここまですばらしい形で再び現代魔法にふれられるのは、すごく私にとって、うれしいことかな。本作は、とてもとてもよい出来。お見事といって、よろしじゃない。」
「肝心の内容はといえば、原作の1巻目のエピソードにオリジナルのエピソードが時折挿入されながら描かれているといった、けっこう独自の形式で描かれているのがまず目につくかしらね。それになんていうのかしら、原作はともすると理屈が先行して読みにくく、ずいぶん分りにくい箇所が目立ったような記憶があるけれど、この漫画版では相当話自体が洗練されていて、現代魔法についての説明も、そしてその発動のエフェクトも可視的に表現されて、非常に全体として分りやすくなったといっていいのでしょうね。これはこの作品の魅力を底上げしているでしょうし、何より物語とキャラクターの生み出す世界の雰囲気に自然に浸りきることができるのだから、このコミカライズは現代魔法のおもしろさを十二分に引き出した傑作と認めて異論ないのでしょう。これは当りかしらね。」
「この作品についてはいろいろいいたいことはたくさんあるのだけど、まず何よりセンスがいいって私は思う。それは表題の「現代魔法」という造語がシンプルながらこれまであまり使われてこなかったことからも、作者の慧眼といったのがうかがわれることと思うし、それに各登場人物の関係性のあり方とその信頼の形成される過程と、そしてそのうえによってはじめて成り立つドラマの洒落と示唆とやさしさに富んだおもしろさといったものが、本作の並々ならない世界観の奥行の広さと‥それは私たちの現代そのものを舞台にしてることからもいえることかなとは思うけど‥キャラクターの複雑で、そしてそのためにリアリティのある姿を根拠立ててくれてるように、私には思われるかな。‥主人公の森下こよみのよさ。彼女はどこにでもあるだろう、そしてだれもが抱いたことのあるだろう自身への劣等感と何をしていいのかわからないっていう未来への不安といったものを抱えてまず本編に登場するのであり、その不安定な気持が読者のこの作品への感情移入を容易にするだろうことは論を俟たない。そしてでも何かを好きになったこと、それにより世界を、みずからの日常をみずからの手によって、楽しく、ありきたりかもしれないけれど、でも自分にだけ与えられた日々を自分の手に、力によって魅力的にしてこうっていうその意志を果断なく示すこよみの姿勢こそが、本作の象徴でありまた彼女が主役の位置にあるべき理由を証してるように私には思われるかな。うん、私はすごく、こよみが好き。‥それと嘉穂ちゃん。彼女もまたこよみに出会ったことによって自身の立ち位置と、それに他者を見つめ直す、つまりこよみとの出会いが彼女の生活の広がりと世界の大きさを発見する、そして過去に区切りをつけるひとつの機会を得るのであり、またそれをいうなら他者を認めるって点においては弓子とこよみのつながりこそ見逃せない箇所ではあるかな。さらにはこよみの師匠である美鎖さんの颯爽とした姿こそ、その得体の知れない趣こそ、この作品の生半にいかない、いかせない魅力を代表してあらわしてるのであり、また聡史郎の存在は本作の歯止めとして、あるいはデウス・エクス・マキナの類型としておかれてることはほとんどたしかなことかなって思うかな。‥と、ちょっとあまりにいきなり話そうとしちゃったみたいだけど、なかなかこの作品のおもしろさは言葉にしにくい型のものなのかも。ほんとなら、一話ずつ感想書くのがよろしなのだろかな。‥それも、してみたいな。やろうかな。どうしよかな。うーん‥」
「なかなかどうして思った以上にすばらしい漫画版の内容だったから、一エントリだけで感想済ませようとすると無理が出るのかしらね。といってもどうせすぐにアニメやるのでしょうし、はてさて、個別に話の感想書くべきかしら? ま、どちらにせよ、この漫画版でまたずいぶんと現代魔法に対する思いいれというものを再燃させられた感があるかしらね。本当、ここまでおもしろい内容だったとは少々おどろきなのよ。なんだかべた褒めになってしまったけれど、ま、これも良いかしらね。はてさて、リニューアルした原作の小説のほうも見てみたいし、なんだか現代魔法によほど傾倒していきそうなこのごろかしら。ま、楽しくなりそうね。現代魔法は非常に楽しい作品よ。これからどんどん、楽しませてもらうとしましょうか。」
桜坂洋、宮下未紀「よくわかる現代魔法」1巻
2009/05/04/Mon
「通算して何話目なのかわからないから「スケッチブック」の感想に関しては雑誌の号をふることにして区別するようにしたいかなって思う。でも感想といっても、この作品についてはあれこれキャラクターの心理とか場面の意味とか考える型のものでないのだから、必然、このエントリもまた本編には関係しないだろうことを本編からあくまで想をとってつづるといった形の、わざわざ「スケッチブック」の感想と銘打つ必要もないかもかなって内容になるだろうことはわかっちゃうのだけれど、ね。でもこのブログは概してそんなエントリばかりなのだから、今さらそういった方向の感想になろうと咎める人はたぶんいないかな。なので気楽に筆の赴くまま、「スケッチブック」の安逸とした雰囲気に流されるままに、少し思うことを並べていきたい。‥今月号ではいつものとおりに栗原先輩が虫の話してたけど、そのなかでとくに興味を引き寄せられたのはプラナリアについてのことで、この生物が驚異的な再生力を有することはなんてふしぎなことなのかなって、感嘆するにやぶさかでない。作中ではケイトがカッターナイフで真っ二つにしても復活してたけど‥このときのケイトの笑顔はよかった。とにもかくにもかわいくてよろし‥私は映像でしか見たことないけど、この生き物の有様っていうのはほんとに奇妙でそして生物のもつ能力の、人の想像力の及ばないすごさといったものを認識させてくれるもののように思われるかな。‥たとえば私はこんなこと思うのだけど、プラナリアのように分断されてもそれぞれ分たれた箇所がひとつの固体として甦る生命体の我とは、いったいなんなのかなって気になっちゃう。といってもちろん、こうした生命体においてはそれぞれが自己を認識してるはずもなくて、彼らは各々においてただ生きてるだけであり、個体の識別はそれ自体が無意味な作業であって、すべての固体がそれぞれ彼ら自身の種の属性としてのプラナリアであるならば、個体の自己同一性といったものは端的にいって無意味と考えざるをえない。それは要するに自己がないということでもあるのであって、私には彼らのような単純な生命体こそが、人間なんかより、遥かに抽象的な生を営んでるように思われて、それがずいぶんおもしろく感じられるかな。‥私はあなたであって、そういった言葉すら彼らのあいだでは意味をもたない。それはなんてふしぎで、そして生きることの根本的な意味を再考させてくれる事実なのだろう。ふしぎかな。」
「近親相姦を極限にまで推し進めて作られたマウスは遺伝的にまったく純一なのであり、そのためそれらの個体では生まれてくる子孫がすべて自分のコピーであるという純系マウスの例なども、この種の生命のあり方の不可思議さといったものを考えさせてくれる良い材料にはなってくれるのでしょうね。そしてたしかどこかで読んだことだったと思うけれど、マウスのような動物では個体の識別といったものは意味を為さないのであり、純系マウスに限っていえば遺伝的にもほかの個体と異なるところがないのだから、「自分」といったものがそもそも想定されていない存在だと思うほかないということになる。そうして考えてみると、私たち人間のように自己同一性にここまで囚われる存在というのは生物全体の文脈のなかで把握しようとするならば、いったいどのような意味性があるのかしらと疑念に憑かれざるをえないかしらね。また自己があるから「私の死」があると仮定するならば、マウスやプラナリアのような存在は種の絶滅をべつにすれば、死そのものがないともいいうるのかもしれない、か。はてさて、これは奇妙なことだこと。」
「自己同一性が人間のなかで意識されればこそ、人は個人の孤独と身体って牢獄の渦中に幽閉されるのであり、そしてその苦しみは人に理想と現実の不一致を強烈に認識させることにつながって、ひいては生への暗鬱な態度が醸成されることに結果としてなるって言い方も、もしかしたら可能になっちゃうのかな。もちろん、とかいって、私は私であることへの執着をふり切って生きることなんてとても選択できそうにないけれど、でも何かな、プラナリアのような存在を前にして私は実際的な生と理想としてのそれと、また抽象的な思念が一体として化した、ある自然の回答ともいうべき生き方の見本をそこにみとめることが可能のようにおぼえる。それはつまり死という概念をとり除いた生といったものが存在するだろうことの雛形を私はプラナリアの姿に発見するということであり‥当然個々のプラナリアの死は崩壊としてある。でもそこでいう死が、自己同一性の滅却としう形態でもって行われないのなら、その死はおそらく私たちのいうとこの死とは根本的に形と意味をべつにしてるのじゃないかな。たとえば私が死ぬことと、分裂して多になれるプラナリアひとつの死は、たぶん意味がちがってる‥世界のふしぎさは、プラナリアにおいて一定の意味を結実するに至ってるのじゃないかなって思うかな。‥それにしても、考えれば考えるほどふしぎ。プラナリアのような存在は、いったいなんなのだろう。私はそれに尽きることのない興味を抱かされる。まるでプラナリアが命の深奥を握ってるかのようで、その身に体現してるかのようで、私にそう語りかけてくるかのようであるのだから。」
「人間以外の生物を前にしたときの不可思議さとでも形容すればいいのかしらね。もちろん世界には人間以外にも多様の存在が生息していることは頭では知れきったことのように思っているのだけれど、ふとすると日常生活のなかでそのことを失念して、人間の考えること、人間の思いばかりに気をとられてしまいがちになる。殊にふだん本ばかりをめくっているような生活では、その傾向は甚だしいといわねばならないでしょうね。もう少し、さまざまな方向に目を向けて見るべきなのでしょう。そしてそのことを教えてくれるのが「スケッチブック」だといえば、はてさて、これはいい過ぎかしらね。ま、しかしとりあえず、なかなかおもしろいことを考えさせてもらったかしら。来月号も、いつものとおりの内容を期待しましょうか。ゆるやかでいいのよね、スケッチブックは。次もまたいつものとおりに楽しみよ。」
2009/05/03/Sun
「「ひとひら」が終っちゃうとさみしくなっちゃうかなって思って、でもこれもいい機会のひとつのようにも思えるからこれまでやろうと思ってやれてなかったこと、すなわち「白雪ぱにみくす!」の毎月の感想でも書きはじめてみよかなって思う。これは私のことながら、なかなかいい案。ついでに「スケッチブック」の感想もしちゃおかな。といって、「スケッチブック」の感想ほどむずかしい代物もないのだけど、でもとりあえず、「白雪ぱにみくす!」にかんしては今回からやってみようって思う。‥それで、以前桐原先生がブログに書いてたとおり、このまえ出たコミクス4巻のつづきから今月号の内容は描かれてるから、とくにストーリーの流れがつかめないとかそういうことはなくてよい感じ。そしていきなりの展開といっては予想できた範疇ではたしかにあったのだけど、でも紫蘭さんが実は白雪のことが好きで、今回の騒動の原因はぜんぶそこに由来するものだったっていう落ちは、なかなか脱力しちゃうものがあって、笑えちゃったかな。‥もちろんそれといっても、少し残念かなって気がするのは紫蘭さんの描きこみがこれまであまり目立っては為されてこなかったという点におかれるのはまずまちがいないことといえちゃうことであり、彼の白雪への思いなり、それに基づいて彼がどうして周囲をここまで引っ掻き回しながら事態を進めたか‥つまり彼の情熱の理由と正体‥それをもっと丹念に描いてくれたなら‥あるいはこれから少しはふれられるのかもだけど‥このエピソードはよりふかみがあらわれたものになってかなって思いは拭われるように感じられる。‥ただそれを描いちゃうと、今度は紫蘭さんのほうにちょっと重みが生まれちゃって、今回の話のような軽さは出ないかなとは思われちゃうのはむずかしいとこかな。もちろんこの作品自体のそもそもが、軽い雰囲気を目指してるものであろうことはたぶん指摘できることなのだろうけど。シリアスと娯楽のバランスが、けっこう微妙といえば、そうなのかも。」
「結局、紫蘭は独善的な思いこみと一方的な恋慕のために今回の事件の一切を画策したということでいいのかしら。しかしそれにしても、おそらくそれまでほとんど接触のなかった白雪と永遠に生きようだなんてことを間一髪実行にまで移そうとするのだから、なかなかどうして、この兄も盲目で狭量なものだと嘆息するほかないかしらね。白雪という人となりをそうよく知っているわけでもなかったのでしょうし、彼は彼のなかで膨れあがった不幸な姫君である白雪という幻影に踊らされていたとも、はてさて、いえてしまうのでしょうね。そういう点でみれば、まさしく撫子の兄だということもいいうるのでしょう。なんか、難儀な兄妹ね。雛菊も苦労するわけよ、これじゃ。」
「片思いは往々にして個人の孤独で独善的な思念のうちに居場所を見つけるものでこそあれ、それはたぶん現実の対象に接した際に、個人の妄念の確実性を霧散させてしまうほどの脆弱さを、その本質としてしまってるともいいうるだろうから、かな。‥当然こんなこといっちゃうと、あまりに片思いというのがどうしようもないものにきこえてきちゃうかもだけど、でもふつう人が信じてる愛というものは、ほんとはそれ自体はその人だけが心の裡のみで思ってる「記憶」だったり「感情」だったりにすぎないわけで、それはただ個々人の孤独な営為のなかにだけ働き場所を得てるものだとは、もしかしたらいえるのかもしれない。でもただだけど、かといってその種の愛がくだらないとか私はいうつもりはなくて、というのもそういった思いこみに近い愛というものがあればこそ、人は「希望」といったものを信じられるのだろうし、それによってつよくあれることもときにできる。‥でも、なんていうのかな、愛とはたぶんそういったものではないところにある、「希望」ともちがう、「孤独」ともちがう、まさしく「愛」とは死や性と等価にある何かなんだ。そしてそれを獲得するのは、そうむずかしいことで、たぶんない。たとえば今回のお話の、雛菊とお父さんのあの会話の、おだやかな対話の場面こそ、なんて美しい愛があったでないかって、私はそう思うかな。‥あの場面だけで、今回のエピソードは報われた。そう感じられるくらいに、雛菊というキャラクターはよかったかな。彼女は、よかった。好きだな、私。雛菊がさいごに笑ってくれてとてもよかった。ほんとにそう、思うかな。」
「人と人とが親しくなろうときには、その両者のあいだには愛といったものが思われなければならない。そしてその愛が何によって実践されるかは、ま、端的にいえば、「会話」に拠るのよ。簡単でしょう。仲良くなる、理解しあう、相手を愛しく大切に思う。それらは何によってなされるか。まさしくそう、言葉よ。言葉に拠る会話よ。さて、会話が空しいだの、言葉が空虚だの真実ではないだの、そういう賢しいことをいう前に話しあうべきよ。ここで大切なのは、決して会話を急がないことね。時間を重ねて話しつづけるのよ。そしておそらくそうすれば、そうやって積み重ねられた言葉が愛になる。はてさて、そうでないかしら。なんとなくそんなふうに思うのよね。言葉こそが愛の一端を担ってるのじゃないかしら。雛菊とその父といい、白雪とその母といい、どうもそんなふうに思わされられるシーンだった。良いシーンだったことね。これは本当にまったくそう感じられるのよ。すばらしい場面じゃなかったことかしら。まったくね。」
『愛は私にあるのでも相手にあるのでもなく、いわばその間にある。間にあるというのは二人のいずれよりもまたその関係よりも根源的なものであるということである。これは二人が愛するときいわば第三のもの即ち二人の間の出来事として自覚される。しかもこの第三のものは全体的に二人のいずれの一人のものでもある。希望にもこれに似たところがあるであろう。希望は私から生ずるのでなく、しかも全く私の内部のものである。真の希望は絶望から生じるといわれるのは、まさにそのこと即ち希望が自己から生じるものでないことを意味している。絶望とは自己を抛棄することであるから。』
三木清「人生論ノート」
2009/05/02/Sat
「見はじめたときはそれほどでもなかったのだけど、回を追うごとにだんだんこの作品が気に入りになっちゃってきちゃって、そこまで惹かれるものもないのじゃないかなとかふと思ったりもするのだけど、先日不覚のことながらOPとEDのCD買っちゃって‥私は滅多なことじゃCDはあんまり買わないのだけど‥好きになっちゃったかな、けいおん、なんで私の好みにふれたのかなって、ちょっと考えちゃう。それでしばらく物思いにふけってみると、この作品の雰囲気にはどこか郷愁を思わせるものがあるのであって、それはのんびりとした平々凡々な日常を繊細な観察とそれによる詳細な筆致によってあらわすっていった、この作品の要ともいうべき制作のスタンスによってることがわかってくる。加えて、出てくるキャラクターたちもまた自身の生活を疑うことなくすごしてる‥と、表面上はみえる‥有体にいって、きれいなひねくれたとこのない個性のもち主たちであるから、彼女たちの生活は基本的に衒いがなくて、それが結果として一種の清涼感を与える‥ちょっと話が横道に逸れちゃうけど、私が似たようなタイプの作品である「ひだまりスケッチ」のアニメにはぜんぜん興趣をそそられなかった理由が、たぶんここらにあるのかなって思いがある。というのも、あの作品は登場人物に限っていうなら「けいおん!」以上に平和で動揺のない心理の人たちで構成されてるけど、でもなんていうのかな、それをあらわそうとする背景の、つまり世界をつくろうってメタ的な視点が、過度なまでに入りこんでたのじゃないかなって感じがあるかな。それが端的に示されてるのが、モブの描き方だと思う。私は概してシャフト作品のモブには異常に恐怖を感じるのだけど、でもこんなこと思うのは私くらいかな。「絶望先生」のモブは直視できなかったの思いだす‥ことになってるのかなって気がするかな。そしてつまりそういった雰囲気に満ち満ちた本作は、私に何等かの過去への思いというのを駆り立てる。さらにいえば、その思いの基調は、私には悲しみのように感じられる。それが少しふしぎで、私は何か考えちゃう。なんでだろかな、って。」
「ま、それは何か失われた時間といったものを考えさせずにはおかないからなのかしらね。「けいおん!」で描かれる風景が自身の記憶にあるとある場面を想起させるとき、その想起そのものに対して自己は失われたもの、無になったもの、今はたしかに消えてしまったものを再度思わせられるから、そこにはいくらか喪失の埋めあわせとでもいうべき情念が渦巻いているともいいうるかしら。ただしかし、ここで問題なのは、そういった過去が悲しいというのは、つまり要するに、いいかしら、悲しいという感情の働きそれ自体は、常に過去そのもの、べつの言葉におき代えるなら、今の私が保持してる記憶であるのであり、過去を悲しむというのは今の私のもってる記憶を悲しんでいるということと同義なのでしょうね。悲しいのはだから今よ。ノスタルジーとは現在に縛られた記憶の生む幻想よ。ま、しかしそうはいっても、はてさてというものなのでしょうけどね。」
「過去に戻りたいのか、今の私は今の私が失った過去の私のある地点に立って、それから人生というドラマを再構成してみたいのか、その欲求が現在のこの私の裡に燻っているのかと問われたら、私は、それはぜんぜんないよって、答えるかな。‥これはほんと。私は過去をやり直したいとか、もっとよい青春‥という言葉はくさいかな‥を送りたかったとか、そういった感情はまったくない。そんなこと思ったこともない(→
竹宮ゆゆこ「とらドラ・スピンオフ! 幸福の桜色トルネード」)。私はいつも、今の私にか、関心がない。私は私をやることでしか私でられないのなら、私は容易に過去を断ち切るし、その意味で私は自意識と今というときに対する執念と、そして何より字義通りでのエゴに囚われすぎた人間であるのかもしれない。でも、ただそれでも私は今のほうが過去より大切だって思うし、生きてて前より先のほうがより楽しく生きられるだろうことをあるていど確信もしてる。‥でもふしぎなのは、そだな、私が語る「今」や「先」や「未来」といった言葉であらわされる理想もまた、けっきょくは「過去」なくしてありえないものであり、でもその「過去」自体は奈落の底に落ちたものにちがいないっていう、その不在に縛られた人間存在の悲劇がいくらか惨めに思われるからなのかもかなって、気がするかな。‥記憶とは私であり、記憶が感情であるなら、私は感情が流す、または叫ぶ、不在への切望なのかもしれない。ただそういって何が解決するわけでもない。そしてそう考える私の目の前に、死の幻影がちらつく。それが過去も未来も現在もいっしょくたにしてしまおうって、ある誘惑を投げかける。その誘いは、あまりに甘美なのかもって、私はふと、考える。」
「過去はもうこの世界のどこにもない。過去を悲しむといった働きは、畢竟、現在の自分がもっている記憶を愛しんでいるにすぎないとは、さて、たしかにいいうるだろうことではある、か。しかしそれでも、何かしらね、割り切れない思いが、つまり人の心とはどうしてそこまでして過去にしがみつくものかといった疑義が、はてさて、心中を去らないのでしょうね。ま、あまり上手くいえることでもないし、どうも「けいおん!」の感想のはずが明後日の方向に行ってしまっている感が無きにしも非ずかしらね。ただ、ま、それでもいいでしょう。次回はいよいよ演奏ね。とりあえず楽しみにさせてもらいましょうか。変に入れこんできたことよ、この作品には。ま、こういうのもいいかしらとは思うけれど、さてどうかしらね。この作品を受けて感じる心の動きは、どうも奇妙よ。それは過去への我執よ。良くはないかしらね。はてさてよ。」