2012/10/30/Tue
パリの安宿で、ベッドに横になって、私はあのときのお姉さんの表情を思い出していた。日の暮れなずむ浜辺で、それまで私に隠していた不安を吐露するお姉さんの目に涙を堪えた姿。……それを見て、私は、お姉さんの側にいるといった。どんなときでも自分はお姉さんの味方だよと勇気を込めて告白した。――でも、それは物事の根本的な解決とは程遠いものではなかっただろうか? もちろん、この場合、根本的な解決というものは原理的にありえない。というのも、人の生活から、なんらかの不安を完全に取り除くことなんて土台無理な話だから。……けれど、そういうなら、私はどうすべきだったんだろう? 当時の私は、お姉さんと付き合えること、ほとんど一緒に暮らしていること、生活を共に過ごしていることがあまり楽しくて、先のことを考えることを放棄していた。現在に夢中で、未来に差し迫る困難や問題を意識しないでいた。それは不安から目を背けている状態よりももっとひどい。なぜなら本来なら当然予見すべき事柄を意識すらしていないのだから。……そんな私とは対照的に、お姉さんは私と付き合うということの意味をもっと真剣に考えていた。学校を卒業してからのことを考えていたし、世間体や常識といったことにも悩んでいた。つまり、お姉さんは大人だった。私は子どもだった。情けないくらいに、私は子どもだったんだ。……でも、これからはそうはいかない。旅館でお姉さんと一緒の布団で、お姉さんの眠った表情を見つめながら、暗闇のなか、私はお姉さんとの関係のことをもっと真剣に考えなきゃいけないと思った。それは私なりの決意だった。
けれど、かといって、すぐに何か行動できるというものでもないし、何かが劇的に変わるということもありえない。旅行を終えた私は残りの春休みを地元で過ごすことにした。一方、お姉さんは院に進むということもあってか、また研究室や図書館に通って勉強するらしい。お姉さん、えらい。私も勉強しようと思って地元の図書館に行った。地元の図書館に来るのは高校生のとき以来で、そのころは受験勉強に追われていた。たった一年くらい前のことなのに、なんだかひどく懐かしい記憶のように思われた。……図書館でフランス語の本を読んだり、同じく帰省していた友だちや図書委員の子と遊んだりしていたら、あっという間に春休みは終わり、私は大学二年生になっていた。
2012/10/29/Mon
お姉さんの浴衣姿かわいい、といったら、お姉さんは、――はけっこうそういう趣味だよね、といった。……なんだか含みのある発言だ。お姉さんはくすっと笑って、だって、ほら、――が高三のときの夏休み……とお姉さんがいうと、私はすぐに合点がいった。……お姉さんに誘われて、友だちと一緒に、夏祭りに行ったときのことだ。そういえば、あのとき私はお姉さんに告白しようとして、でも結局、上手くいかなかったんだ。……なんだか恥ずかしい過去のことを思い出されてしまった気がする。私は枕に顔を埋めた。
実は私も――ちゃんの写真を持ってるんだよ、とお姉さんがぼそりと呟く。写真……? なんのことだろうと不思議に思って、私が顔を上げると、お姉さんは赤くなってどぎまぎして、でも意を決したかのように、……なんだか恥ずかしいから私も黙っていたんだけど、ほら、――ちゃんの中学生のころの写真、あれ、持ってるの、といった。……そうなの?と私は聞き返した。そんなことは初耳だ。お姉さんはばつが悪そうに、……うん。パソコンにも入れてるある、と答えた。
恥ずかしさの限度を越えたのか、お姉さんがわー!といって私に覆いかぶさってくる。私はお姉さんに押しつぶされつつも、――お姉さん、制服とか好きなの?と、実にわれながら直球なことを聞いていた。お姉さんはう……と言葉を詰まらせてから、……ち、ちがうよ、――ちゃんは中学生のころからかわいかったじゃない、うん中学生の――ちゃんはすごくかわいかった、と、フォローにならない言葉をもにょもにょと口にしていた。私は少しむっとなって、意地悪したくなって、――今の私はどうなの? お姉さん、私に抱きつくときとか、昔の私のこと思い浮かべたりしてるの?と聞いた。すると、お姉さんは慌てて、そ、そんなことないよ! ……でも――ちゃん、今度、制服とか着てみない?と、とんでもないことをいいだすのだった。
……さっきまで女同士がどうのこうのってことで、泣いてたくせに、と私はちょっと呆れながら思った。お姉さんもそれに気づいたのか、あはは……と困ったような笑みを浮かべる。私はぷっと吹き出す。お姉さんもつられて笑う。――それから、私とお姉さんはあらためてキスをした。海辺のことは、二人だけの秘密にした。こんな恥ずかしいこと、ほかのだれにも、きっと、いえないから。
2012/10/28/Sun
なんか変な雰囲気になっちゃったね、ごめんね、せっかくの旅行だったのに、と、旅館の部屋で浴衣に着替えたお姉さんが、どこか緊張した声で私にいった。それに対して、私は、うん……と消え入るような小さな声で身を縮めて、返事する。……もともと臆病で根性のない私が、お姉さん相手に恥ずかしい言葉を口にし続けたせいだろうか。なんだかもう頭のなかが真っ白でろくに物を考えることができる気がしない。さっき、二人で温泉に入ってきたけれど、お姉さんの顔をまともに見ることさえできなかった。友だちがこんな状態の私を見たら、きっと、なんてへたれかしら!と呆れた顔でいうことだろう。そんな友だちの様子がもうありありと想像できる。ちょっと頭に来るけれど、でもそのときの私はそんなふうに怒っている余裕もないので、ただ身を小さくして恥ずかしさがなくなるのを待っているばかりだった。
――は温泉でバイトしたことあるんだよね、どうだった?と、お姉さんが話題を変えようと話を振ってくる。それに対し、私は反射的に、すごく大変だった!と、さっきまでの恥ずかしさもどこへやら、真顔になって返事していた。驚いたお姉さんが、そうなの?と尋ねてくるから、これは私とお姉さんの間に流れていた微妙な雰囲気を変えるチャンスだと思い、私は夜中に旅館を逃げ出そうとしたけど真っ暗で硫黄がこわくて結局逃げ出せずに布団に包まってがっかりした気持ちで寝たことを熱を入れて語った。聞き終わったお姉さんは、――はへたれだもんねと、何かを納得した顔で頷いていた。……なんだか釈然としなかった。
海からそう遠くないところにある旅館。時期的に卒業旅行の人がたくさんいるかもしれないと思ったけれど、私たち以外のお客さんはほとんどいないみたい。その割に料理はとてもおいしい。穴場のように思う。――よくこんなところ見つけたねと私がお姉さんに尋ねると、お姉さんは、お母さんが教えてくれたのと答える。お酒飲まないの?と私が続けて聞くと、お姉さんは、今日は悪酔いすると思うから飲まない、といった。そういう気分じゃないの、と呟き、そして、お姉さんは窓に目を向ける。私たちの泊まった部屋からは海が見えた。耳を澄ますと、波の音が聞こえてくるほど、海は近くにあった。
2012/10/26/Fri
お姉さん、私、お姉さんのこと好きだよ、と、私はお姉さんの耳元にささやいた。お姉さんは、少し戸惑った様子だったけれど、私の胸に顔を埋めて、うん……と私の言葉に頷いてくれた。……お姉さんは私のこと好き?と私が続けて尋ねると、お姉さんは少し間を置いてから、好きだよ、と答えてくれた。
お姉さんは昔から女の人が好きだった?と私が聞くと、お姉さんはくぐもった声で、そんなことなかったと思う。――ちゃんに会って、ずっと一緒にいて、それで――ちゃんのことが好きになっただけだから……。私は、男の人の恋人がいたこともあったよ……でも長続きはしなかったけど、とお姉さんが途切れ途切れに口にする。私はそんなお姉さんをぎゅっと抱きしめて、お姉さんの存在をより強く身近に感じられるように、お姉さんに顔を寄せて、こんな言葉を口にする。――私は、お姉さんに会ったときから、お姉さんに惹かれていたよ。お姉さんがきっかけで、私は自分が女の人が好きって自覚したんだと思う。けど、私は、お姉さんに会ったときから、本当に好きなのは、お姉さんだけだよ。と、私は心の底から、勇気を込めて、口にした。
身体が熱っぽい。頭のなかがぼんやりする。お姉さんの吐息と体温と鼓動を感じながら、私は精一杯の勇気を込めて、こう言葉を続ける。――お姉さん。私はお姉さんのことが好き。お姉さんが私を好きでつらいことがあるかもしれない。でもそれでも私はお姉さんが好き。私はどんなことがあってもお姉さんの味方だよ。何があっても、最後まで、きっと、そうだよ。
海の波の音。緩やかに吹く海の風が私とお姉さんを撫でていく。……空には黄色い月が煌々と輝いていて、私はお姉さんを抱きしめ続ける。好きという言葉を口にすることで、お姉さんの心に少しでも近づけることができればと、そんなことを思いながら。
2012/10/25/Thu
お姉さん、私、ずっと昔からお姉さんのこと、好きだったよ、と、私はお姉さんの手を握って、いった。お姉さんは私に振り向かない。でも私は構わず、こう言葉を続ける。……私はお姉さんがずっと好きだった。今も好きだよ。でも……でも、お姉さん、私は私が好きなお姉さんしか見てこなかったのかもしれない。……お姉さん、お姉さんは、私がお姉さんを好きっていって、つらいことがあった? もし、そうなら、私……と、私が消え入るようなか細い声で呟いたとき、お姉さんは私の手を払い、私に向かって、そんな言葉いわないで!と、私に叫んだ。お姉さんの瞳には涙が滲んでいた。
もし、私が――ちゃんを好きで、つらいことがあったっていったら、――ちゃんはどうするの!? 私と別れるなんていうの!? そんなの駄目だよ! ……だって、私は――ちゃんが好きだから……好きだから、とお姉さんはいった。それから、こう言葉を続ける。……――ちゃんと私はちがうよ。――ちゃんは強いよ。――ちゃんの友だちは、――ちゃんが私のことを好きって知っても、私と――ちゃんが付き合ってることを知っても理解してくれる。それは――ちゃんの友だちがいい人たちで、――ちゃんが魅力的な子だからだよ。……ううん、たぶんそれだけじゃない。――ちゃんは、結局、他人の言葉とか思いとか、気にしない、最終的には自分を信じられる強さのある人だもんね。……でも、私はちがうよ。――ちゃんのような強さはない。私は、自分の友だちがいい人たちだって思うし、私のことを理解してくれていると思うけれど、でも、自分が女の子と付き合っているって、口にできないよ。家族にだっていえないし、おおっぴらにできないし、なんだかそんな自分が不健康な気がして、でも――ちゃんはそういうことをぜんぜん気にしてないみたいだし……なんだろう、ごめんね、私、ときどき、こんなことを考えちゃうんだ。意味のあることとは思えないけど、でも、私は……と、お姉さんは声を詰まらせた。
……私は、お姉さんの言葉を聞きながら、自分はひどく無頓着だったんじゃないかと思い始めていた。自分のいい加減さ、独りよがり、そしてお姉さんに対する一方的な思慕、つまりお姉さんの気持ちを考えず、ただ己のことばかりを考えていた自分の子どもっぽさに、ひどい自己嫌悪と心乱される動揺を感じていた。けれど、私はお姉さんの手を離さなかった。ごめんね、と謝るお姉さんを私は無言で引き寄せていた。お姉さんを抱きしめていた。
2012/10/24/Wed
――ちゃんは私のことを買いかぶっているよ、とお姉さんは私にいった。……それはいつか聞いた言葉だった。高校の卒業式のあと、お姉さんと久しぶりに会ったとき、お姉さんは私に今と同じ言葉をいった。お姉さんのことが好きと告白する私に、お姉さんは、――は、私を、買いかぶっていない?と口にした。私はそのときのことを思い出していた。
よく聞かれるんだよ、私、――ちゃんのこと。飲み会とかに誘ってくれないかって男の友だちに頼まれたこともあるの。……私と――ちゃん、よく一緒にいるでしょ? キャンパスのなかでもよく見られているから、私を通せば、――ちゃんと仲よくなれるんじゃないかなって、考える人、多いんだよ? 気づいていた?と、お姉さんはどこか自嘲するような声音で、もうほとんど日が沈んで暗くなった海に目をやりながら、いった。……私はお姉さんの問いかけに黙って首を横に振る。私は、自分がそんなふうに見られていることがあるとは考えたことがなかったし、たとえそれが事実だったとしても、高校のときからずっと、適当に、独りよがりに、生きてきたのが私だったから、私に関心を持つ人がいても、直接、私に話しかけてくるのでなければ、そんなことは大して気にもならなかった。けれど、私と付き合ってくれているお姉さんが、私がそう見られていることがあるという事実に対して抱くだろう気持ちを、私はそれまで考えたことがなかった。……そう、考えたことがなかったんだ。そして、そのことに私が思い至ったとき、私は、自分が何かひどいまちがいをしていたんじゃないかと、感じた。
このこと、――ちゃんには黙っているつもりだったんだけどなぁ、だって、格好わるいもん……と、お姉さんは苦笑する。そして、こう続ける。――前もいったことあるよね。……私が高校のとき、――ちゃんは人気あったんだよ、私の友だちの間で。でも私はそれが嫌で……――ちゃんのこと、知られたくなくて、――ちゃんのことを友だちに話さなくなった。独占欲かもしれない。……でも、今、――ちゃんが私のことを好きといってくれて、一緒にいるけど、でも、でも……私は、なんて断ればいいんだろう? ……――ちゃんのことを知りたいって私に聞いてくる人たちに。――ちゃんは私の恋人だから、って、断ればいいのかな? でも私はそれを他人に口にする勇気がない……。――ちゃんは……いや、ごめんね、寒くなってきたね、車に戻ろうか、と、お姉さんは曖昧に言葉を濁し、私に背を向けた。けれど、私は去ろうとするお姉さんの手をつかむ。お姉さん!と大きな声を出す。
2012/10/23/Tue
パーキングエリアでだらだらとコーヒーを飲んで、高速道路を降りて、よくわからない道を適当に進んでしばらく迷って……そんなことをして海辺に着いたのはもう日の沈みかけた夕方だった。車をとめて、ガードレール越しに暗く濃い青色を湛える太平洋の海を見下ろす。潮風が強く、波間から伝わる空気は肌寒い。……どこから浜辺に降りる道はないかなと辺りを見渡すと、お姉さんが先にある階段を指差した。私とお姉さんは、そして、砂浜へと歩を進める。人気のない春の海は冷たく、寂しげで、沈みゆく太陽が彼方に赤々と私たちを照らしていた。
――私たち客観的に見ると変な人たちかも、と、ゆっくりと迫る波に手を浸して、私が呟く。するとお姉さんは、そんなことないよと口にする。そうかな? だってこんな時間に海に来るっておかしなことかもしれないよ?と、私がいうと、お姉さんは、客観的に考える必要なんてないじゃないといって、微笑する。……そのとき見たお姉さんの柔らかな表情が、燃えるような夕日が紺碧に染まった海に光を投げる様子と相まって、私にはとても印象深く思われた。強い風に吹かれて髪を押さえながら、水平線の遠くを見つめるお姉さんの横顔が、きれいだった。……お姉さんのことが好き、と私は思わず口にしていた。無意識に出た言葉で私はとっさに恥ずかしくなったけれど、でもお姉さんはそんな私の言葉に落ちついた様子で、――のほうがかわいいよと返す。でも私はお姉さんが冷静であればあるほど、逆に自分の恥ずかしさと戸惑いが増してくるように思われて、それで焦って、そんなことないよ、私、昔からあんまり人気ないから……と、しどろもどろに口にする。……けれど、私のそんな言葉にお姉さんはふと顔を曇らせて、――ちゃん、気づいてないの?と静かな声で私に問うた。
私ははっとして顔を上げる。お姉さんの声は落ちついていた。けれど、それにはどこか冷たいような、私のことを非難する調子が感じられた。
2012/10/22/Mon
免許はねー、時間があった一年のときに取っていたの。でも運転する機会がぜんぜんなかったから、たまには運転したいなーと思って。それに電車やバスを乗り継いでの旅行もけっこう疲れるでしょ? もちろん電車やバスも風情があっていいけれど、車で気楽に旅するっていうのも趣があるよ!と、お姉さんは主張した。……お姉さんのその意見はあまりまちがったものではないかもしれない。……でもお姉さん、ちゃんと運転できるの? 私、危ない目に遭うのはやだな。と、私がいうと、お姉さんは、大丈夫! 実家に戻ったときにはけっこう運転してるから!と自信満々に答える。そのお姉さんの根拠のない自信が私は不安なんだけどと、私はこっそり思った。
お姉さんのお母さんが貸してくれたという軽自動車に私はいよいよ決心して乗り込む。固い顔をした助手席の私とは対照的に、お姉さんは鼻歌を口ずさみながら気楽にハンドルを握る。その様子が手馴れていて、私は意外に思ったけれど、でもお姉さんの運転は私が想像していたより、ずっとスムーズなものだった。軽快に街を走りぬけ、高速道へと入る。私は、お姉さんがこんなに運転に慣れているなんて知らなかったと、驚きを率直に口にしていた。お姉さんは、院試や卒論でずっと忙しかったけど、でも実家に戻ったときはドライブが趣味だったんだよ、と説明した。それは初耳だった。シートベルトをしめて、車を運転するお姉さんの横顔は私の知らないお姉さんの姿だった。付き合い始めて、ほとんど毎日お姉さんと顔を合わせているのに、まだこうしてお姉さんの新しい側面を知り、私は不思議の感に打たれている。きっと、私の知らないお姉さんの表情はまだまだたくさんあるんだろうなと、私は思った。
次のパーキングで少し休憩しようか、とお姉さんが提案する。私は、うんと頷く。……窓から空を眺める。清々しいほどにいい天気。大きくて白い雲が悠々と流れている。春が近い。ただ風は冷たく、まだコートは手放せない。たぶん、これから行く海もきっと寒いんだろうなと私は思った。流れ行く車窓の風景と、車を運手するお姉さんの姿が、旅行がもたらしてくれる非日常という新鮮な感覚を強く印象づけていた。