2008/01/31/Thu
「東はしかたないやつ。でも腹痛の苦しみというのはわからないのでないから、ちょっと同情。でも試合とかの大切なことの前に体調あれれなことになっちゃうのは、けっきょく本人のどうしようないミスってことになっちゃうから、やっぱり東は今回だめなのだー。まるで減量失敗したボクサーみたいな感じになっちゃうなんて、さとりんだめだめー。」
「剣道は減量だのなんだのないからよけいに本人の過失というのが明らかなのよね。弁当忘れたというのがそもそもなのでしょうけど。」
「そいえば剣道やってたとき。となりに柔道部がいて、柔道は体重で区別される競技だから試合前とかになると体重管理の減量騒ぎでなんか騒然となってたのおぼえてる。ああいう減量しながら練習しなきゃなんない人たち見ちゃうと、剣道ってそういう面ではよかったのかなーって思ったり。苦しみながらサウナスーツ着てなわとびしてる姿は、なんか真似できないなって思う。」
「ボクサーなんかの減量地獄は話に聞くだけだけど、なんとも壮絶よね。想像もおいつかないというか。」
「そしてミヤミヤ。初心者のほうがやりづらいというのはあったりで、気合十分でがんがん打ってくるミヤミヤはやりづらいだろなって思う。でもそんなミヤミヤ一蹴するレイミはちょっとすごいかもって思っちゃったりです。あはは。剣道の試合であんなのふりまわす人みたことない。唯我独尊のレイミはまたすごいや。」
「それに惑わされるミヤミヤもまだまだということかしらね。ま、そのうちダンくんあたりの愛の力で乗り越えたりしてくれるのかしら。」
「サヤの小手打ちはけっこうきれいな構図で迫力あったです。さすがサヤ。ぴったり決ったね。」
「それなり躍動感ある剣道シーンの描写よね。ま、朧蜜蜂は心からどうかと思うけれど。」
「キリノはまた強くて、これがキリノの真の力なのかーとおどろくとこ。迷いなく集中してる人が強いというのはそのとおりで、そしてそういった心理面の修養がむずかしいから、剣道で勝ちつづけるっていうのはほんとにたいへんなのだよね。だから精神修養というのも大切なのかなって思うけど、それはすごくむずかしい。どんなのいいのかなって私は今も考えるけど、やっぱりうまくわかんない。何か、あるかな。」
「そう手ごろなのがあったら便利でしょうけど、一朝一夕ではいかないから奥が深いのでしょうね。ま、トランスキリノというネーミングはやはりどうかと思うけれど。」
「さいごタマちゃん。試合で突き繰り出すタマちゃんはやっぱり別格かな。そいえばこの前原作コミクス7巻読んだですけど、今まであんまりぴんと来なかったけどタマちゃんかわいいっていうのが少しわかってきたかも。べつに今までタマちゃんきらいとかそういうのぜんぜんないですけど、彼女の魅力がさいきん新鮮に感じられてきたというか‥。あれ? これって恋?」
「頭冷やしてきなさい。水でも被って。」
「アトミックファイヤーブレード一閃で吹き飛んだ小西さん。足痛めた、というのは剣道では致命的。下半身がすべてだから。コジローの決断のとき、かな? 先生は勝ち負けより大切にしなきゃいけないものがあるのだから。それはコジローの大人としての責任だから。」
「しかたない役回り、というのかしらね。はてさて。次回はどうなるかしら。そして物語はどういった方面に向うかしらね。ま、楽しみね。」
2008/01/30/Wed
女性はなぜ「私のどこが好き?」なんて聞くの? 模範解答は?「えー。と、さいしょに唸っておいて。恋愛脳にはふれないです。そんなのいってもしかたないから。それで、なんで私のこと好き?なんてきくの、というお話ですけど、これってけっこうあれれだよね。なまなかにはいかない感じ。むかしアメリカの精神科医の本読んでたら、Do you love me?って尋ねずにはいられない女性のお話が出てきて、ずっとことあるごとに相手の愛情を言葉で確認せずにはられないんだよね。そういう心理の働きってどんななのかなって少し考えちゃうけど、でも「Do you love me?」って質問には、ふつうの人でもどきっとする響きはあるのでないかなって思う。Do you love me? あなたは私のこと好き? それになんて答えるかなというのは、恋愛沙汰だけでない人の心の苦悩みたいなのがあらわれてる気がするかもかな。」
「そうかしらね。私のことが好きか、どこが好きか、か。軽くいう人もあるでしょうけど、なんていうかそういうことを聞かずにはいられないという気持は、けっこう軽くはない部分があるかしらね。承認されたい、認められたい、他者に存在を肯定されなければここにはいられない。‥ま、依存の面もあるかしら。」
「ロマンス問答なんていってるけど、ほんとは地獄の問答だったりするのかも。私思うのは、もしかしたら「私のこと好き?」ときかれて、満足ゆく答えってほんとにないのかもかなって。つまりこの質問をする人は、実は満足ゆく答えなんて求めてないのでない?というの。それはただ私がここにいていいのかなという不安の問題で‥またパスカルなんてもちだしたらそれは不安が人間の有様の基本だからなんてなるのかな‥相手からあなたのこういうこういうとこが好きだよって具体的に答えられても、それは不安を一時誤魔化すことに役立っても、その人の根本的な心の陰を拭い去ることにはならないのでないかなって気がする。でもその不安は、つまり愛されてるのかされてないのか、私は私の好きなあなたにまだ好かれてるのかそれとももうきらいなのかって悩みは、それは心が生きてる証拠ともいえるから、そういった悩みの劇的な解決法ってないのかなって思う。べつな言い方すれば、私のこと好きかなきらいかなって懊悩するような瞬間がもう訪れない生活というのは、それはそれでつまらないものかもって思うし、少しのどきどき感と苦悩は、生きるうえではなくせないのでない?って気がする。もしそれをなくせるとしたら、それは生きる不安すべてとりのぞく答えがあるようなもので、そんなのあるのだったら、つまんない、よね。だからこの問題は、のんびり付きあっていくほかないのでないかなって気がする。」
「ま、ね。しかし男性脳だの女性脳だの、そういった問題ではおそらくないでしょうね。ある意味恋愛だけでなく、さまざまな局面で形を変えあらわれる問いでしょうね。Do you love me?というのは。」
「他者の考えなんて気にしない‥でもいいけど、でもそれだけじゃいけない場面があって、それは私が主体的にだれかを好きになったら、というの。その場合は今まで他者の視線なんて気にしないよーなんていってた人も、ときにより気にしなきゃ、気にならざるえなかったりするようになって、私のこと好きなのかなという問いは、逃れられなく迫ってくる。もちろん他者のことばかり気にしちゃうのも、それはそれであれれかもだけど。そこらはむずかしいね。うまい解決法なんて、たぶんない問題だから。」
「苦悩をさっぱり免れさせてくれる思想なんてないものでしょう。それはそのとおりのことなのだけど、しかしそれを納得できる人というのもあんがい少ないものかしら。どこか完全な正解があるものと思ってしまうのでしょうね。正しい人生などない。それを理解するというのは、ある意味尋常でないのでしょう。難儀なことよ。」
2008/01/30/Wed
「古い教会をリフォームして作ったお店「Alice Quartet」でお洋服屋さんをする四人の少女の日々を独特の雰囲気で描いた作品。うん。こういうのきらいでないです。耽美な色調で、優雅で軽やかで。どことなく浮世離れた幻想的な世界が感じられるのは、私の好みかな。ゴスロリもきらいじゃないですし。黒と白っていいよねー。私の好きな世界。丹念に削られた彫刻のような気品さと、ふれれば溶けてしまいそうな儚さがみえる世界。作中で夢の城なんて表現がされてるのはそのとおりかなって思う。美しいよね、静謐な時間が支配する心地よいアリスの夢の城、かな。」
「登場人物ひとりひとりもまたどこか気品があるというのかしらね。全体的に上品な作風よね。実に世間から遊離してるというか。」
「あはは。それってよろし。とてもとても素敵だよねー。上品なだけでなくてどこか抜けてるとこが描かれてるのもよろしかも。すーとかおみそ汁しょっぱくしちゃうというのは笑っちゃった。みんなそれなり悩みあって考えこんじゃう場面があるのもこの作品を雰囲気だけのものにはしてない要因のひとつかな。華やかなだけでない彼女たちの側面が思われるのは、この作品の優雅さをさらに際立たせてる気がする。彼女たち、みんな誠実でいいよね。気品あるって、いうのかな。」
「そうかしらね。まきのんなんて苦労人っぽい性格してるもの。彼女がそこまでして店を開くことを決意した経緯は、けっこう思わせられるものがあるかしらね。」
「ゆきのんも切ないよね。ちょっと二人の関係は考えちゃった。友だち関係より以上‥というのは自分ひとりの覚悟だけじゃいけない部分があるから、むずかしいよね。がんばってーとも他人はあんまり口出せない。それは当人同士の誠実な向きあい方の問題だから。」
「ま、ね。第三者にできることは見守ることくらいかしらね。いろいろと重いものがあるかしら。」
「まとめとして。読んでて楽しい作品でした。こういった独特の雰囲気の作品はそんなないから、そういった意味で独自性があるのでないかなって思う。まきのん素敵でした。個人的には文にきこえるってマリアさまの声が気になるかも。なんていってるのか、私にも教えて。」
「それこそ教えてくれそうにないように思えるけれど。ま、いい雰囲気の作品かしらね。この雰囲気が気に入る入らないはあるでしょうけど、個性ある雰囲気という点ではまちがいないかしら。この耽美な感じは、はまればはまるものね。少し危険な気もしないではないけれど。」
MooNPhase「Alice Quartet OBBLIGATO」
2008/01/29/Tue
「ラノベでも読もっかな。と思って手にとってみた「とらドラ!」。当たりでした。おもしろくて、みんな魅力的で。こういうのもあるんだなってちょっとおどろきでした。青春、恋愛ものか。もしかしたらラノベって、そういったものを惜しげなく描くのには適してるのかななんて思ったり。ストレートなのだよね、いいたいことが。心情が直裁に描かれてて、その作品がみせてくれる景色はどこかノスタルジックな響きと、ひとりきりの切なさを伝えてる。物語は周囲との関係にいらないくらい気に病んじゃう男の子竜児と、見た目乱暴で自己表現があんまりうまくない女の子大河の不器用ななれ初めを描いたもの。この二人はよかったな。誠実で、そして真摯な人間でとても好感がもてたです。うん、二人は素敵だ。」
「こてこての青春もの、かしらね。その意味ではこそばゆいのだけれど、それだけでなくどことなく寂しさが感じられるのは、この主人公の二人の背景が関係しているのかしらね。二人とも純情に相手を思ってるのよね。それはまじめなほど。」
「二人ともけっこうひとりきりなのだよね。誤解されることに慣れている、というのはけっこう意味深。誤解というのはほんとの自分を知られてないということで、それはとりもなおさず自分の孤独を見つめさせられるということ。もちろんそれはそんな大げさなことでないけど、でもそういった誤解の視線は他者との向きあい方という面では、二人にどう作用したかな。もともと不器用な二人はそんな積極的に交友することもままならなくて、そんな自分自身と周囲の状況に流されてきちゃった。‥それで、誤解されるということも不器用だということも、それは本人にとってはどうしようもないある意味孤独の形のようなもの。そしてそれはどうしようもないから、受け入れるほか、ないのだよね。人は自分以外を生きられない。それは当たり前のことなのだけど、でもかんたんに納得いくことでなくて、そしてときには辛いことでもあるかな。気持を理解されないというのは、それがどんなにわがままな主張だとしても、切ないものがある。だから私は、二人が互いの裡にそれとなく自身の孤独の陰影を認めて、それでも依存することなく誠実に向きあえたことは、すごくかっこいいなって思える。おまえの傍らに居続ける、か。かっこいいこといっちゃって。それができるなら、してみせて。人は小さな世界で小さな満足で生きるものだけど、でもその小ささは、ときに何より素敵な景色をみせてくれることがあるって、私は思うから。それはほんとに素敵なことなのだから。」
「小さな世界、か。そうね、ほんの凡庸な個人が係れる世界なんて小さなものでしょうし、彼が見つけられるものはそう大きなものではないのでしょう。しかしその小ささが、その価値を低めるということではありえない。それは誠実と、誇りの問題かしらね。ま、かっこいいことよ。」
竹宮ゆゆこ「とらドラ!」1巻
2008/01/29/Tue
「未来に向かざるえない自意識というのがパスカルのいってる人間の存在の仕方としての矛盾、のよな気がする。未来がどうしようもないのは人が未来に係れないからで、人は未来に対しまったく無防備に、素手で立ち向かわざるえなくて、それはやっぱり不安。どうなるかなんてわかんない未来が不安だというのは、わかるよね。それで、この不安がなくせない、どうしようも自意識にはできないよというのが、人間の現世の悪夢なのかなって気がする。未来はどうしようもできなくて、人はそれに敵わないから、不安は一生を通じて人間につきまとうことになる。だから宗教というのは未来‥つまり死後の安楽‥を約束するようにできてるのかなって思うけど。信仰によりて人は幸福になれるというのは、パスカルはそんな意味でいってたかな。どだろ。」
「はてさてね。四苦ってわけでもないでしょうけど、不安というのはどうしようもないのよね。それは気分のひとつであるけれど、気分というのが人にはなんとも制御できないものではあるし。気分に支配された存在が人だというのは事実かしら。それを免れられたら、それこそ仙人でしょうね。」
「エデンの園っていうユートピアで暮してたアダムにはそんな悩みなかった。永遠‥というのは永遠で、それは過去もなければ未来もなくて、あるのは永久に変わらない幸福な今だけ。だからアダムは悩みも不安も何もなくて、ただ幸せな現在を享受するだけでよかった。エデンの園を追放されてはじめて人は時間というのを知り、未来に対して恐怖を抱いた。知恵の実はもしかしたら時間の概念を人に与えたのかもかな、なんて思う。そして原罪の意味って、気分に支配される人間存在の不安という態から考えられるべきものかななんても思うけど‥。‥永遠を失ったアダムの末裔。ただその末裔にも永遠は残されてて、それは死という形で人たちは認識してた。死は無である。人は永遠の無にいずれなる。そうして永遠を取り返すのが人の子のささやかな復讐で、そんな永遠をなんで神さまは私に与えたのかというのが苦悩の原因でもあった。‥思考が抽象的になってきちゃったのでこれでおしまい。乱雑になって、いくないね。」
「永遠というのはつまるところ時間がないということであるのでしょうから、不安も生まれるわけがないということかしら? 移ろいやすい人間の性はどうしようもないものということかしらね。神はなぜこの世に私を必要としたか、か。ま、はてさてよ。」
2008/01/28/Mon
「パスカルは「人間は快楽のために生まれている」といってる。人は自分の幸福のためだけに、幸福を望み、そして幸福でありつづけることを願わずにはいられないって。それはたしかに正しい考えかもかなって私は思う。だれも不快を好んで求める人はなくて、それが理解できなかったりするときは、それはただ両者の価値観が異なるというだけであって、孤独なひとりきりの人間は、自分だけの幸福を考え、探しつづけ、そして死んでく。私もまたそういった「自分の楽しさ」を考えて、それに縛られて生きてくのかなと思うと、それは逃れられないことかもしれないって思う。でも実際は、人は幸福の状態でありつづけることはまずできない。それはただ現実は悲惨だからの一言をもって説明されること。偉大なる王は彼の周りに彼の不安を紛らす数多の側近を従えなければ、不安のあまり絶望してしまうだろうってパスカルはいってる。なんで強大な権力をもった王さまが不安がるのかな、あなたは現在だれも敵わないような力を誇ってるじゃない‥なんて思うけど、王が不安がるのは現在力があるからじゃない。人が現実のみに生きられる存在なら、不安なんて生まれる道理がなくて、不安が拭い去れないという事実は、人は常に未来に目を向けずにられない存在だということを証してる。未来において、不安を抱かない存在なんてない。未来を思えばこそ人は不安を感じ、そして未来を向かざるえない自意識に支配されたのが人間の存在の仕方である。だから不安は人の常態だって、パスカルはいう。」
「たしかに、そうかしらね。幸福の完成を阻む決定的な要因は未知なる未来にほかならないでしょう。そして未来に支配的であることは、どんな人間にもできることではない。これはまさしくそうかしら。」
「だから人間は悲惨だっていうのだよね。不安に打ち克つことは人にできない。不安を乗り越えることなんて人にはできなくて、その事実をよく考えちゃう人はときとして刹那的な快楽主義に陥っちゃう。今が楽しければそれでいいのだ、ほかのことなんて知らないよ、って。でもまたパスカルはこうもいう。「人間は考える葦である」。彼を滅ぼそうとして、宇宙はその全体をもってすることも必要ない。ただ小さな一部分さえあれば、彼を滅ぼしめることは容易なこと。しかしその悲惨を感じる人は、その悲惨がすなわち偉大であるほど偉大でありうる。「人間の偉大さは彼が自己を惨めなものとして自覚するところに偉大である」ってパスカルはいう。未来を知らないものは不安を知ることなくて、そして己の悲惨に与るところがない。それは悲惨であることを突きつけられることより、はるかに悲惨な境遇にあるということでもある。そしてその悲惨を、悲惨として認識することが、人には可能であって、それが人の偉大さのほかならない証明でもあった。己の惨めさに係れないことほど、惨めなこともなくて、そして惨めさと向きあえる人間は、その悲劇性が彼に彼を滅ぼし消せる宇宙より以上の偉大さを付与する。悲惨と偉大。これら矛盾する二つが備わったのが人間という存在だって、パスカルはいう。矛盾は人の自然である。偉大さにばかり注目すれば、それは傲慢さを生み、悲惨さにばかり注目すれば、それは不安から目を背けざるえない逃避になる。なら人はどうすればいいのか、人は何を考えれば、いいのかな。パスカルに真摯に向った三木先生のこの書は、私にとてもよかったです。とてもおもしろくて、そしていろいろ思わせられた。少しぼんやりしちゃう、かな。」
「偉大と悲惨、か。その二つの矛盾した有様の現実をどう解くかが、パスカルの「パンセ」の要諦のひとつであったかしら。そしてその鍵こそがイエス・キリストなのでしょうけど。」
「そなのだよね。イエスの問題。私たちはイエスという人間をどうみるか。イエスに、私はどう言葉を出せばいいのか。私は、そこが何か問われてる気がする。私は彼になんて向えばいいのかな。ある人間の不思議。偉大と悲惨の人の矛盾は、とりもなおさずイエスの神性と人性の矛盾の象徴だって、パスカルはつづけてる。それだから‥って、パスカルはキリスト教を伝えるのだよね。私は‥信仰のない私は、その問いかけにうまく応じられない。ただ私はそう問われて、だまってることしか、今はできない。」
「信仰、ね。信仰というのは本当に言い難いものね。なぜそうなのかといえば、おそらく言葉をいくら出しても虚偽にしかならないからなのでしょうけど。しかし、はてさて、どうなのかしら。」
「人の矛盾。三木先生は偉大と悲惨を統一せしめるのは、心情だって、いってる。愛の真理。私は、もしかしたら人が好きって思う気持には、もっと神聖なものがあるのかなって少し思った。だれにもきこえない心の奥で、そんなことを少し呟いた。」
「人を幸福の状態にありつづけさせるのは、唯一、愛のみである? はてさて、どうなのかしら。いったい何を愛すればいいのかしら。いや、それはまさしく明瞭で、そこを疑ってしまうことが悪魔とでもいうのかしらね。はてさてよ。」
三木清「パスカルにおける人間の研究」
2008/01/28/Mon
「内容についてはいってもしかたないので適当に。こういうのにいちいちいうのは野暮というものかな。のん気な三妖精ののんびりした日々をぼんやり眺めればよろし。とくにいうことなんてないのだ。」
「ま、あれこれ理屈づけるようなものではないかしらね。あらすじを淡々と書いても意味ないでしょうし。」
「三月精はいろいろと思い入れふかいです。私。東方にさいしょにふれたのが三月精だったかな。コンプエース創刊号から目を通してたから、うーん‥もう三年前くらいになるのかな。あのころはそんな注意してなくて、今ほど好きになるなんて思いもしなかったけど。」
「流し読みだったかしらね。一応これで単行本二冊目でしょうから、隔世の感があるというものかしら。」
「でも惹かれるものはあったよな気がする。魔理沙かわいいよねーくらいだったかもだけど。東方はおもしろい。とくに妖々夢の話は私ほんとにおどろいたです。西行の娘‥というだけで私はいろいろ思うのだけど、その死後の顛末と桜の木の因縁はぞっとするくらい美しかった。気づけるかな、というていどにしか描いてないのもまたいいです。憎いよね。」
「西行の娘が冥界にいるというのがあれかしらね。なんともいろいろ含蓄あることよ。」
「三月精に話をもどすと。番外編の「酒三杯にして…」がまた意味なくてよかったです。あはは。私はそんなお酒つよくないから、たまに少し味わうていどかな。酔っちゃうと頭が回らなくなってそれがやかなって気持はある。お酒飲んで文章書けないもんね。むかしはワインの力借りないと小説書けなかったことあったけど、あれはなんだか地獄だったよな気がするー。」
「酔って勢い得ようとするのはまったくはてさてって奴よ。ま、幻想境の住人は少し酔いすぎかしらね。もちろんそれだからという気はするけれど。少し羨ましい気もしないでないかしら。」
ZUN 比良坂真琴「東方三月精Strange and Bright Nature」
2008/01/27/Sun
「少し昨夜はクラナドの杉坂さんのふるまいを考えてた。あれはつまり他者の不幸をどう考えるか、ということなのだろけど、思うのは人の悲しみというのはどこまでいっても人のもので、それに関係できないというのは考えれば当たり前なのだよね、ということ。たとえば私にとって顔くらい知ってるていどの他者がいるとして、もしその人がいじめられてるとしたら、私はその他者に何ができるのかな、ということ。大した話でないのでかんたんに結論いっちゃいますけど、私にできることは何もない。きっと。もし私がその人とごく近しい関係性にあるのなら、それだけで私はその人にとって何か意味ある立場を占めることができるかもしれないけれど、そういう位置にいないなら、私は積極的にその人と係るべきでないのかもって思う。どこまで他者に踏みこんでいいのかなという問題で、もしどんな他者の悲劇も救おうなんて思ったなら、それはおこがましいこと以外の何ものでもなくて、けっきょく私にできることは引いてることだけ。世界の多数の悲劇に対し、人はあんまりできることないかもかなって思う。そしてそんなこと考えてるうちに世界の悲劇は私に降りかかり、私の偽善と虚栄をあざ笑う。」
「踏みこんでいけない領域、というのかしらね。悲劇というのはこういってはなんだけれど、本当ただの悲劇なのよね。そこには解決策など何もないという。」
「いじめとかって、そだよね。いじめって、ほんと、何もできない。もしいじめられたなら、たぶん人はあんまりそのいじめに抗することができないのじゃないかなって気がする。私もできなかった。いじめという環境にあって、どれだけの人がそのいじめを解決できたのだろうかなって思う。ほとんどの人がその環境からそのうち離れ去ることによってしか、いじめという環境から逃れられなかったのでないかな。私にはあんまりわかんんないですけど、ただいつも思うのは、いじめに負けるなという言説を呈する人は、むかつくなって思う。いじめに負けるな。そんなこと、人にできることではおよそない。いじめに負けるななんていえるのは、それはあなたが傍観者の位置にいるからであって、そういうことを主張する時点で、いじめの権力にあなたは加担してる。‥なんて、私なんかがいってもお笑い種かな。でも強くなんて生きられない人はいる。弱さを認めるほかない人はいる。そういった場面を直視することは辛いかな。でもその場面を場面としてだけ見つめること以外に、私に求められてることはないかなって気は、とてもする。」
「悲劇になんらかのイデオロギーを付与させて、それを利用しようとするのは頭くるかしらね。いじめは起こる人には起こること。それ以上の意味はない。それだけで終らせられないのが、何かしら、少し考えてしまうかしらね。」
『それは運命だから絶望的だといわれる。しかるにそれは運命であるからこそ、そこにまた希望もあり得のである。』
三木清「人生論ノート」
2008/01/26/Sat
「杉坂さんの問題は愛情の故に悪意を用いてるという点で、その愛情のほうはほんとに真剣なものだから、悪意を向けられる側からすればたまったものでない。もしその悪意をやり方として非難するなら、杉坂さんにとってはとりもなおさず仁科さんへの愛情までも否定されたと感じちゃうわけで、正しい他人への思いのために悪意を無意識に用いちゃう人というのは、いろいろ考えてくとなんだか泥沼。どうしようもないかなって気がしてくる。そして愛のためにという前提が杉坂さんを盲目にしてるから、彼女は春原が指摘したみずからの悪意には無頓着でいられる。そこの人の心性を春原がゆるせないというのは、私にはそうわからないものでないかな。」
「ま、だからといって不幸自慢お互いにしても無意味なのよね。渚はそこをわかっているし、仁科の事情を知った以上、我を通すこともできないというのもわかるものかしら。もちろんそれで納得いかない周囲というのも非常によくわかるのだけど。」
「けっきょく、どっちかがあきらめてもどっちもうまく納得できないのだよね。渚があきらめたら春原たちは怒るし、仁科さんがあきらめたら杉坂さんは怒るのだろな。それで、不幸というのはあるものだけど、その不幸というのは個人のごく狭い範囲に限定されてる。ある人の不幸とある人の不幸があって、その二つの不幸を愛の連帯でなんとかできるかなっていったら、それはたぶん幻想なのかなって思う。ある個人の不幸があるとして、その個人と直接的な関係性の位置にいない人は、その不幸に何等口を出す権利がないし、口を出すべきでない。なぜならそれはただの一般論に終始しちゃうから。人の不幸というのは個別的なもので、そのクローズな位置に係ってる人でないならば、他人の不幸を語るということは、偽悪以外の何ものでもないかなって気がする。‥でもむずかしい問題かな。私は渚の決断はしかたないものと思うけど、でもそれを納得できないのは、ここまでの渚のがんばりを私が知ってるからだろうから。これが逆だったら、私は仁科さんを擁護してたのかな。人なんて、そんなものかもかな。」
「かんたんに白黒つく問題ではないのよね。ただ不幸というのはあるものだし、他者のそれに係るということは容易ならざるものではあるのでしょうけど、それで他人を云々しようというのはある罪がありそうね。ま、だからといって本当しかたないことなのでしょうけど。」
2008/01/26/Sat
「なんだかだんだん感想しづらい感じになってきたかもかな。臆面なく恋愛について質問する雛子に戸惑うというのは、雛子は恋愛を形式的にすぱっとよいものとしてるからであって、でもほんとはそんなうまくいかないこと知ってるから、雛子の質問‥つまり子どもの単純な正誤を割り切る問いかけには、うまく答えられない場合が多くなるもの‥かな。雛子たちに付きあうことになった先生たいへんかもかな。彼女たちに面と向きあうことが大切だというなら、なんかそれはたいへんなことだろなって、他人事ながらに思ったりしちゃう今日この頃。恋愛、か‥」
「ま、雛子が期待しているようなわかりやすい答えというものはないのよね。当然。恋愛に限らず、個別的な問題というのはあるものだし、そういったごくプライベートな問題というのに、自分が直接的な関係性の位置にいないならば、大人は無関心で済ませるものかしらね。そしてその無関心というのは必要なものなのよ。」
「踏みこんじゃいけない、そういった領域というのはあるものかな。あー‥そいえば「げんしけん」の大野さん。あの人ってたしか笹原と荻上さんをくっつせさせようってお節介全開だったことあったよね。私はそんなでもなかったですけど、あのふるまいにはいろいろ思うことあった人はけっこういたみたい。独善的、とでもいうのかなだけど、他者にそこまで関わらない、無関心で処すべき部分っていろいろあるものなのかも。それはいくら仲よいといったからって、その人の人生に直接的な立場をとることがないならば、躊躇すべき領域といのはあるみたい。」
「他人は他人、というのかしらね。それはある意味他者の意志の尊重ということであるのでしょうけど、ま、それがどことなく冷たい印象を感じるというのであれば、それはその人の感情的な問題でしょう。しかしだからこそ、そこはむずかしいのかしらね。」
「ぜんぜん恋愛くらぶの感想から外れちゃってるみたいな感じ。うーん‥そだ、出会い系の話題も今回ちょっと出てきたけど、あれだよね、出会い系ってもしかして宝くじと似てる部分あるかもかなって少し考えた。」
「ふーん。その心は?」
「自分以外に期待すること多いみたい、というの。出会い系ってどこかにまだ見ぬ素敵な人がきっといるって期待するからこそ、やるのだよね。それははっきりいって根拠のない妄言で、宝くじもどこかそういった確実性なんてないけれどでも可能性はゼロじゃないからそこに期待するって心理の働きがあるみたい。でも実際、人の出会いというのは凡庸なもので、たとえば電車に乗ったとして、その一両にいる人の比率みたいなのが、けっきょくは出会い系での出会いの比率と似たようなものになる。それはそういうふうに社会ができているからで、ちょっとあたりを見渡せば、そんな期待なんてほんとに空事のようなもの、人はそんな素敵な人となんて出会えるものでない。そしてこのことは素敵な出会いなんかを夢見る人にとっては絶望かなだけど、でもこれだからこそ人を好きになるということは運命的な響きを帯びることになるって、私は思うのです。世界はふつうなふうにできてるから、だからこそそのなかの小さなひとりとひとりの出会いは、ほんとならこうして出会うことがどれだけ世界にとって無のように儚いことだということを知ることによって、その大切な啓示という側面を人にあらわすことになるのでないかな。‥なんだかまたちょっと話がべつな方向に行っちゃったよな気がするけど、でもべつにいっかな。雛子もそれは、いつか知ることになるかもだから、ね。」
「ま、恋愛というのはその人にとって抜き差しならぬ瞬間を与えるものではあるかしらね。その心奪われる時間こそ醍醐味ではあるのでしょうけど、しかしそこで終るのが恋愛ではない。ま、この作品はどこまで描いてくれるのかしら。次回も楽しみにしましょうか。」
2008/01/25/Fri
「おもしろい。この作品はほんとにおもしろいや。重みがあるというのかな、この作品の登場人物たちは。彼らの立ち居振る舞いには現実に素手で立ち向かわざるえない人間の不器用さというものを感じる。よくこういった人間を描けるな。少しおどろいたです。私はこの作品の作者たちのほうに目がいっちゃうかも。こういった人間模様を描かずにいられない人というのは、ちょっと気になるかな。」
「みんな現実に困惑してるというのかしらね。思いもよらない不運というものが訪れる人生というものに。そして彼らの生活というのは、実に惰性と習慣でつづけられている生活という雰囲気を感じさせられる描かれ方なのよね。これは唸るかしら。」
「たとえば比呂美なんて。彼女は子どものころ、眞一郎といっしょに住むことになるだなんて思いもしなかったのだろなって感じられる。眞一郎と手をつないだ夜道、あのときの比呂美は、今の自分がこういうところで生活することになるなんて、きっと夢にも思わなかったにちがいない。そして、でもそうなってしまった今だからこそ、むかしの気持や思い出をなくしたいって思う心は、私にそうわからないものでないかな。でも思い出を封印だなんて、そんなことできるわけないのだから、彼女はいずれそうした虚偽と向きあわざるえない。そのとき彼女がどうなるかとか、彼女が不器用なのに自分の言葉を誤魔化しちゃうとか、そういった現実に戸惑わせられてまごついてる彼女の様子は、私は、いろいろ思うことあるかもかな。比呂美は私の気に入るです。彼女はとてもおもしろい。」
「他人の家庭にお邪魔するなんて、神経使うでしょうね。その苦労は想像するに余りあるかしら。そして比呂美に対するお母さんの仕打ちも、こういっては何かしら、わからないものではないのよね。家族でないものを家族として迎えるということは、生半可なことではないのでしょう。」
「ふつうなんだよね。お母さん。お父さんは立派みたいだけど、でもお母さんとの仲はどうなのかな。けっこう引いちゃってる部分あるみたい。もっとよろしくやってー、とかとか、いってもしかたないことかなみたいな。下世話な話。でも子どもには無関係でられない話。でも子どもには‥」
「口を挟めない領域、というのね。お母さんに愚痴いえる友だちでもいればいいのでしょうけど。ま、うまくいかないことかしら。」
「乃絵はー、こういってはなんだかなですけど、私、彼女きらい。というもべつで、あんまり興味湧かないです。さいしょ雷轟丸が死んで、鶏小屋全体を雷轟丸のお墓にしちゃったことあったけど、なんでまだ生きてる鶏いるのにそれを墓なんていえるのかなって不思議に思って、それからずっと考えてたのだけど、私の結論は比呂美のしたことはたぶん正しい。私があの現場にいたとしてもたぶん私はべつにお墓を新しく作る。生者と死者をいっしょのとこに置くなんて、私にはよくわからない。そんなふるまい間近でみたら、私はたぶん怒るかなって気がする。それとも見ないふりするかな。それも可能性ありそ、かな。」
「鶏小屋を墓としたのは何かのメタファーとも考えられるけれど、いまいちしっくりくる解釈が思いつかないのよね。鶏の餌を眞一郎に渡すのは、ま、わかりやすいかしらと思うけれど。」
「あれだよね。愛玩したいのほしいだけ、かな。」
「ま、そうかしらね。」
「愛ちゃんはいい子。この作品に似あわないくらいかわいくてよろし。この作品の人間模様は味あっておもしろいです。これからも楽しみ。期待してます。」
「三代吉も気持いいのよね。何を主題として描いてくるか、この作品はまだ底が見えないのよね。どうなることか、期待して待ちましょうか。」
2008/01/24/Thu
「今回はちとせが主役かな。オーディションが終って、麦ちゃんが役に選ばれた。なんていうか、ここで麦ちゃんがちとせに私も頑張ったっていうところ、少し感慨ふかかったです。麦ちょこも変わったな。さいしょのころ、野乃先輩から部活いやで逃げ回ってたのがうそみたい。自分で自分のがんばりを認められること。それは単純なことだけど、でも麦ちゃんにはとてもむずかしいことで、そういうことから目を背けてたのがかつての麦ちゃんだった。今回のお話は麦ちゃんの変化を実感できた気がして、よかったです。」
「人も変わるものね。猪突猛進のちとせにまがりなりにも麦ちゃんが張り合う図は以前なら想像できなかったかしら。」
「あはは。麦ちょこ、ちとせ泣かしちゃうものねー。」
「あれは、ね。ちとせという子はなんというか本当いい子ね。桂木先輩の話でも感じたことだけれど。健気というのかしらね、ああいうの。」
「ちとせは真剣なんだよね。ああみえてだれより生真面目。だから彼女の存在は麦ちゃんにとってきびしい面もあるけれど、でもきっと大切なのだろな。オリナル素敵。惚れそかも。」
「清々しいものね、ちとせの真剣さは。はてさて。次回はきょーちゃんの話かしら。彼もけっこう根深そうな様子だから、どう描かれるか期待するところだけれど。しかし、どうなるかしら。」
2008/01/24/Thu
今の自分に足りないと思うところランキング「自己評価、というのかな。それで、これってけっこうむずかしいの含んでる。自己評価というのは自分の客観的な評価、というのだけど、でも自分を自分で客観視なんてできるわけないから、それは必然ある他者による自分の評価、ということにならざるえなくて、それはつまりどういうことかというと、自分の意識というのは他者に開かれてる状態が常態なわけで、けっきょく他者の評価が自分の価値を決めるということ。それを認めるのなんかやだなーと思っても、他者がいなくなるわけないから、自己評価というのはほんとにできるものなのかなとか、私は少し考える。他人の評価なんて気にしない‥でもべつにいいのだけど、でもだれか人を評価するということに向うときは、まず公正な基準というものが求められるから、評価という行為においては他者の存在は不可欠なものになる、気がする。‥どかな。」
「少し込み入った話でしょうけど、単純にいえば自分に見えない自分の部分は他者にしか見えないわけだから、ま、自己評価というのは果して可能かどうかということかしらね。自分ひとりの内省というのも大切なことなのでしょうけど、しかし何か基準がないとね。自分自身も納得させることはできないでしょう。」
「自己評価かー。むかし私にお前は他人をぜんぶ見下してるのだねとかっていわれたことあって、私ってそかな、見下してるかなとかちょっと考えこんだことあった。ついこの前も似たようなこといわれて、私ってそんな他人ばかにしてるかな、そんなこと自覚ないなとかって思って、少しいろいろ、思っちゃった。」
「はてさてね。それはある種の無関心がそう見せてるのかしれないかしら。ほら、興味ないことは本当に興味なさそうにしてるのが、あれなのでしょ。」
「サリンジャーの小説で、お前は自分の好きな人にしか関心ないのねなんて台詞あって、私それ読んだときどきってしたこと覚えてる。私も、そんなふうなとこあるかな。それはいくないのかな。」
「どうでしょうね。そういった態度は隠せるものなら隠してみなさいとしか言い様がないかしら。」
「私は他人にどう思われているか、か。「彼氏彼女の事情」の雪野はそのこと気にしちゃう典型的な子だった。その正反対なのが「スケッチブック」の空で、空は他者の視線とか考えたことなさそで、それはそれでどかなーって思うけど、でもおもしろい。素敵な人。そこらのちがいは何かな。他人に開かれ、そして他人の聞こえない声にふりまわされる人の心って、いったいなんなのだろね。」
「直接他人に指摘されずとも、気に病んでしかたない性格というのはあるものかしらね。それは内的な自己配慮が上手くいっていないということなのでしょうけど、それを克服するにはどうすればいいかというのはまた難題ね。誠実さというのがひとつの鍵のような気がするけれど、はて、どうでしょうね。」
2008/01/23/Wed
「キリノを心配するサヤはよかったな。キリノ健気。キリノという人は弱音とかぜんぜん吐かないし、悩みとかあってもそれを自分ひとりでなんとかしちゃおうとがんばっちゃう人かな。愚痴をこぼしてるキリノは想像できない。彼女は人に不安かけたりするのすごくきらいそう。でもそれは彼女をよく知ってる人からすれば心配なわけだから、多少強引でもキリノに突っこんでいけるサヤはキリノと相性いいのだね。コジローも少しキリノに頼りすぎだから、キリノのいない室江高剣道部はそれだけで何か足りない気がしちゃうのかな。」
「コジローが積極的に部活指導に乗りこめないのもキリノがとても頼もしいということが関係しているのかしらね。彼女に任せておけばそれで平気でしょうし、それが甘えにもつながるということかしら。」
「それは、そだね。先輩も来なくてひとりきりで素振りしてたキリノが今の賑やかな剣道部を大事に思ってるのは、わかるかな。‥ところで袴で自転車乗ると、いろいろたいへんだよね。あれって、あー‥私とらうま。」
「トラウマ? 何かあったのかしら。」
「サヤみたいに自転車かっ飛ばしてたら袴の先のひらひらがチェーンに巻きこまれてびりびりって破れちゃってそれはもう悲惨なことになっちゃったことがあるのだー! きゃー! 悲惨ー!」
「‥いや、悲惨っていうか、ま、ね。」
「袴で自転車乗るときはドリフトとかしちゃだめなのだっ。チェーンに引っかかって見るも無残なことになっちゃうよ!」
「それってあんたが不器用なだけじゃないかしら。」
「プラトンパンチをくらへー!」
「いたっ‥!? ってか袴姿で自転車乗ること自体を控えるべきでしょうが! これって!」
「でも試合とかでさいしょから着てくことってあるよね。親切な人が車出してくれたりならありがたいけど、でもそんなことない近場なときなら自転車の出番なのだー。」
「あー‥ま、ね。そうかしら。でもそれって防具も積んでおくのだからなおさらドリフトなんて論外だと思うけど。」
「‥次回はインハイ予選後編かなっ。監禁されたタマちゃんは脱出できるのかー。清杉はもう出てこなくてよいよー。それよりレイミに期待ですっ。」
「あ、誤魔化すのね。まーしかし、対戦相手を用意周到に事前に弱らせておくというのは、なんというかよくそこまで労力かける気になるとは思うかしらね。堂々とやられるのも乙なものよ。ま、良心というものの問題ね。」
2008/01/23/Wed
「物語は神に呪いを受け不老不死になった男と、神にその身を捧げ神の言葉を伝えつづけそして神の子を宿した巫女が出会うところからはじまる。男はみずからの呪いと神が為したことの意味を知るために世界中を放浪してて、その途中でこれほど神に愛された巫女はいないとまで呼ばれた人の噂をきいて、その人のもとを訪ねるのだけど、その巫女はある罪により人里からまったく追放されてて、だれも近寄ろうともしない山奥で白痴の息子と暮してた。かつての巫女‥今は老婆の犯した罪とは、巫女の身でありながら、愛を知ってしまったこと。そして巫女は不条理で横暴な神の仕打ちに苦しみ悶える男をみとめて、自分の過去を語りはじめる。それは若くして家族を捨て夢を捨て、そして人としての生き方までもかなぐり捨て神のために仕えた、ひとりの女性の話。そしてそれは神の罰によりすべてを失った、愛を失うことになった人間の話。」
「神と人の関係についての書といえば、それは構造としては明快に感じられそうでしょうけど、この作品は意外と複雑かしらね。デルフォイの巫女とあるところからこの老婆の仕えた神はアポロンかしらと思えるし、さらに男に呪いをかけたのはおそらくイエスであるのでしょうね。ここに二つの神の対比ができるでしょうけど、この作品はデルフォイ神殿を舞台にした歴史小説でもなければ、キリスト教について言及したものでもない。なんていうか、この作品はもっとべつな方向を向いているのよね。」
「それは‥信仰と人の不可思議さ、かな。神を祈る人たち、そして神に仕える人たち、信じて仕えてる人たち、まるで信じてないけど仕えてる人たち、神に満たされる巫女、人と愛しあう巫女、神に嫉妬される巫女、神に孕まされる巫女、神を侮辱した男、神に呪われる男、神を憎む男、神の謎を問いかける男、そしてそれに対しての世界の沈黙、永遠の沈黙。‥人が神に救いを求めたり、そうせずにいられない苦境にあって悩むとき、神はただそんな私を思いやりなく一掴みにしてふりまわす。悩んでなんているのでないよって。私を運命の不可避さの只中に突き落とす。神は人の悩みに向き合わない。決定的に向き合わない。神は語らない。でも、それでも、人は己の嘆きを嘆かざるをえない。この作品は、そんな人の意識と心を切々と淡々に描いてる。それはまるでたったひとりの人生が狂わされることが、世界にどれだけ無意味なことなのかって、突きつけるかのように。」
「世界にとっては僅少な個人。そしてそれは神にとっても同じことなのかしら。人は神の前ではおそらくちっぽけな存在にすぎないのでしょうね。しかし神は、そんな人を呪い、そして愛すものなのかしらね。」
『しかし、わしはあのお方に拳を振り上げるよ。だって、こんな具合に扱われ、あんな風に利用されたんじゃから。意志のない道具としてあの方の地下穴で、あの神託所の岩室で利用され、身体と心を犯され、あの方の恐ろしい霊に、あの譫妄に、いわゆる霊感に憑かれ、あの熱い吐息に、見知らぬ火に満たされ、この肉体は生殖力ある貪欲な光線に満たされ、挙句の果てに人間を、理性と人類を、そして己を産まなきゃならなかったこの母をせせら笑っておるこの知恵遅れの息子を産まされたんじゃ。‥このわしの一生は利用された! おまけに、あの方はわしから本当の幸せを、人としての幸福を全部奪い去り、およそ人が喜ぶかもしれないものを、皆に安全と平安を与えるものをことごとく奪ってしもうた。愛を、恋人を、全てを、一切合切を取り上げてしもうた―そして、代わりには何もくれなかった。何にもじゃ。ただ自分自身以外は。自分自身。あの方がいつもわしのなかにいて、自分の存在で、自分の不安でわしを満たしているとは。あの方は自分自身が平安じゃないために、わしには何の平安もくれん。わしを決して諦めん。決して諦めてくれん!』
「私にはわからないし、何もつよいこといえないです。ただ思うのは、この人と神の物語には救いなんてない。解決もない。引き出せる教訓なんて、あるわけない。神が何考えてるかなんて人にはわかんない。呪われた男はわかんないから放浪してるのだし、巫女は神の言葉を伝えてたなんていわれてたけど、本人は何しゃべってたかなんてぜんぜんおぼえてもなかった。そして神さまきらいとか、なんでおれを呪ったんだおれの人生めちゃくちゃにしたんだ、そんなことして楽しいのかーとか、人が地上でどんなに絶叫しても、神はぜんぜん知ったことでない。神は神のしたいようにする。それに私がふくまれてたら、神は私を神の都合で引っかきまわす。そこに是非もない。それが神だから。」
「理性的に納得のいくものではない、か。はてさてね。もちろんそんな結末は容認できないでしょうし、人は真っ当な感性ならばそういうふうに自分を破滅させられたら呪って然るべきでしょうね。ただしかし‥」
「神にはそんな関係ない、のだよね。なんなんだろ。私は、なんか、わかんないな。‥うん、わかんないな。」
「なぜ人は神に関係してしまうのか、かしらね。巫女は神の子の受胎という形で、そして男は神の呪いと憎悪という形でそれぞれの神体験を経た。その個別性と、その世界の不条理さは理解を絶したものよ。そうとしか、今はいえないかしら。」
『この子が何者なんじゃろうかと思うとき、このことを考える。それに顔が、いわゆる人間がいうところの人生にまったく影響を受けておらんことを、いつまでたっても童顔のままで、今じゃ白髪の生えた童顔で、でもその顔にいつも変わらぬ同じ子供っぽい笑みをたたえておることをのう。わしをこんなにも苦しめ、悩ませてきたこの意味のない笑み。この笑みのお陰でわしはここに痴人と一緒に暮らしておることをつくづく実感しておる。だがのう、時々自問してきたんじゃ、ここに永遠の笑みをたたえてそばにおるのがことによると神様じゃないかと。ここに座って己が神殿を、己がデルフォイを、そして全人間界を見下ろし、ただ一切を笑っておるだけじゃないかとのう。
分からん。わしは何にも分からん。でも、時々そう思ってきた、時々この思いがふと心をよぎることがあったんじゃ』
ラーゲルクヴィスト「巫女」
ラーゲルクヴィスト「巫女」
2008/01/22/Tue
飾釦さん「澁澤龍彦、幻想の世界NO.40・・・マルキ・ド・サド著「悪徳の栄え」澁澤龍彦訳(河出文庫)」
『読み物としての面白さは正直この本はありません。むしろ多くの方がこれでもかと続く悪の淫蕩のオンパレードが苦痛になってくるんじゃないかと思います。性的な興奮を喚起させるわけでなく、あたかも読みが不在かのようなを物語の構築は、一転やむにやまれず書かざる得なかった、そこにサドの存在の意義が見て取れるような気もします。
しかしながら、この奇怪で面白さもそこそこの「悪徳の栄え」に向き合って翻訳した澁澤龍彦も驚きと驚異をおぼえるのであります。想像するに訳していてほとほとイヤになってくることはなかったのだろうかと・・・。』
「それはそかも。けっこう同意かな。サドの小説はへんに冗長で退屈で、同じような残虐場面が延々とつづいていくら悪徳の限りを尽くした描写でもそのうち飽きちゃうのだよね。肝心要な悪人の皆さんが披瀝する悪徳哲学の開帳も、いってしまえばどれも千篇一律なようなもので、その理屈責めにはうんざりしてくるのしかたないかも。それで、どうしてサドってこうなっちゃうのかなーって考えると、ひとつ大切なことはサドのエロティシズムとは他者をオブジェ化することにその意義があったということ。サディズムの要諦は人を人でないように、まるで物のように扱って人の尊厳を認めないことに意味があって、それは即ち人たちがふつう抱いてる人間とはかくも偉大なのだーとか、道徳倫理に従うのは教養ある紳士にとって当然なことなのだよとか、当世の価値基準とか、えっちなのはいくないよねーとか、そういったモラルや価値体系に叛旗を翻すという意味合いがサドの文学には色濃かったです。それは考えれば当然で、サドは当時の大衆や貴族の信じる道徳を汚した罪によって投獄されたのであって、その恨みは根強かった。私たちがふだん何気なく正しいと思ってること、その正義の欺瞞にサドは犠牲になって、そういった社会の常識というものにサドはほとほとうんざりしてた。サドの悪徳の哲学が長ったらしいのも、その憎悪が書いても書いても尽きなかったからかなって、少し思うかな。」
「恨みというか憎しみというか、ある意味非常に人間らしい感情にサドは正直だったのでしょうね。だからこそ人間に本来自然に備わっている性愛を道徳的価値によって毀損している社会が許せなかったのでしょうし、それは書いても容易に吐き出せるものではなかったのでしょう。」
「それにサド暇だったもんねー。牢獄で十一年間暮したのだったっけ。大してすることもなくて、侯爵はお菓子食べたり本読んだりしながら著作に没頭したのでした。その結果大量の原稿といっしょに、みるも立派な肥満体になっちゃったのはご愛嬌だけど。」
「狭い牢獄でさらに運動の機会もなかったといえば太って当然でしょうけれど、ま、愛嬌ね。」
「澁澤はよく翻訳したな、だけど、でも澁澤って自分の好きなとこしか訳してないのだよね。サドに限らず、澁澤の翻訳ってだいたいそかな。自分の気に入ってるとこだけ訳して、そのままになってるのってけっこうたくさんです。だから澁澤の翻訳業はいろいろいわれるのだけれど、でもそれだから澁澤って気がしないでもないかもかな。もっと澁澤のサドは読んでみたかった気がしないでないですけど。」
「サドの長編をひとつでも完全に翻訳しようと思ったら、それは膨大な仕事でしょうね。しかし抄訳でも、澁澤が翻訳という作業をとても好きだったということは文章から伝わってくるし、これはこれですばらしいものであるのは、そう疑いなしとは思うけれど。はてさてね。」
2008/01/22/Tue
「私が非モテをよくわかんないというのは、私はあまり他者に期待することしないから。それってなんなのかなというと、モテてる人は自分のこと好きだーっていってくれてる限られてない不特定多数の人たちに信頼や関心を抱いてるのかな?というので、それはけっこうわかんないのでないかなって思う。モテというのは人間関係の渦のようなもので、要領よかったり美人だったりするなら、そこに何か人の好悪や注意は水面にできる波紋のように響くもの。でもただそれはふれれば消えてしまう波のようなもので、それはモテ以上の何かをそのモテてる人に与えることはないのじゃないかなって気はする。それに非モテ云々する人も、そういった注目の中心にいたいわけじゃないよねとは思う。人の関心の的になりたいというより、ほんとに好きな人を好きになって、そして好かれたいというだけでないかな。そしてもしそういったことなら、やることはほかにいろいろあるのでないかなという気はする。恋愛というのはだいたい一般的な形に落ちつくもので、ふつうの人は凡庸な恋愛しかできないものだけど、でもその凡庸さにはぞっとするよな他者に敷衍できない個別性がある。その個別性は孤独というもので、恋愛というのは個人同士の孤独に面と向きあうものだから、それは‥つらいこと多いかなってちょっと思う。」
「お手軽にできるものではないのでしょうけど。しかしなんていうか、恋愛のあの高揚感というか、他者に自分を認めてもらえる歓びというのは大きいものなのよね。もちろんこういうことはあまり声を大にしていうべきことではないのでしょうけど。」
「何かな。「こころ」の先生ってKを自殺に追いこんでまで手に入れた奥さんといっしょに暮してるのだけど、先生は、すごい孤独なんだよね。先生は友だちのお墓参りは欠かさないけど、そのほかに何か生活の大切なこととかあんまりない感じ。そして奥さんはその先生の孤独に向きあうことできなくて、ずっとだまって暮してる。先生も何もいわない。ずっとだまってる。そしてそのうち先生はだまって自殺しちゃう。奥さんはそれを知れなかったし、先生は自分の心中を手紙にしたためてちょっとした縁のあった「私」に送った。先生の孤独はそうしてひとりの若者への遺書という形を取ることになるのだけど、それは先生以外には到底できない、先生だけが示せた恋愛のけじめの有様だった。もちろんそれがいいことかわるいことかの忖度は人それぞれだけど、ただそれが先生のほかの人生にはゆるされない、ある宿命であったことはたしかだった。恋愛がほんとにあるのなら、それはていどの差こそあれ、固有の孤独を引き受けることでしかないのかなって、そんなこと思う。私は私以外を引き受けられないということ。」
「恋愛沙汰にはだれの手も借りられない、ということかしらね。どんな人もそれにはひとりきりで挑むほかないことなのでしょう。それは参考こそあれ、正しい解答はないということなのだろうけれど、その過酷さというはたいへんなものがあるかしらね。非モテとはかんたんにいえる話題ではないかしらという気は、ま、するかしら。」
2008/01/21/Mon
「思いだすのもいやなこと。もう思春期の話はしつこいよーだけど、むかしよくあそんだ子がいて、その子と友だちだったのだけど、でもその子が引っ越しすることになっちゃって、私はそれを認めるのがいやで、逃げ出した‥という話。別れの言葉も何もなく、私はあの子から逃げ出した。もう会えないという事実はそのときたしかだったのに、私は何せず逃げ出した。それで、そのときどこに引っ越すの、というのもきけなくて、きくチャンスはあったはずなのに私はそのこと思い至らなくてもう皆目どこ行ったかわからない。私はなんでちゃんと挨拶して別れなかったのかなとか、今でも叶うなら私はあの子と再会したいって思うかなとか、いろいろ考えるととても気分暗くなってって、私だめっぽい。甘いものが食べたいなー‥」
「また暗い話題ね。しかしそういう記憶はどこか薄れないものかしら。」
「忘れちゃってもいいのに。なんて、私思わないけど。でも向こうは忘れてるかな。私も、こんなことふだんから考えてるわけじゃないから、べつに、だけど。」
「過ちというか蹉跌というか、はてさてね。凡庸な人生の一場面、か。」
2008/01/20/Sun
「またまた思春期関係の話。身体の性意識に目覚めると、それはこれまで親愛、友愛だけで事足りていた人間関係に新たに性愛のカテゴリを加えなくていけなくなってしまう‥というのは果してあるのかな?というの。性愛だけで成り立つ関係。それって何かな。セフレとかっていうやつかな。」
「ま、そうでしょうね。性愛でのみ他者を判断し、そして関係する関係性があるとするならば、それは性のみに限定されたものということになるのでしょ。」
「セフレというのかーと考えて、私は性愛のみに留まる人間関係というのはありえないなって思う。いくら私たちセックスだけの関係よーといっても、そこには人間関係の孤独をごまかす虚偽がある。というのも性愛というのは友愛、信頼の基礎にあるもので、性愛なくして他者を信頼するということは、たぶんできないのでないかなって思うから。むずかしい話だけど、性愛というのは身体に限定されたものでなくて、それは精神にも大きく関係するものであり、むしろそれは心の有様の表現形式のひとつであるから。‥とかいっちゃうとなんかむちゃくちゃ。プラトンは愛慕の説‥人間はもともと完璧な両性具有の存在だったのだけど、それが引き裂かれたがために人は自己の半身を追い求めるなんてアンドロギュヌスの説を説いてますけど、私は、これがけっこうただの神話的表現に留まるものでないなって気がする。ある意味愛欲というのは、存在の飢えとでもいうもので、それは自己とまったく同一でない他者に、否応なく引きつけられるっていう人の本能的欲求というのものであって、つまり性愛の基礎には他者を必要とする人間の孤独の相貌がみえる。それだから性愛だけの関係というのはありえない。なぜならみずからの孤独見つめることなくして、他者をどうしようなく求めるっていう愛欲の神秘な力は見果てないから。‥あー、こういう文学的表現に墜しちゃうのが私のわるい癖かも。なんだかまた長くなっちゃった、な。」
「いつものことでしょ。ま、生物の歴史という側面で見ると、アンドロギュヌスというのは性が分化される以前の生命の性の有様、それは性と呼ばれるものではないでしょうけど、性になるべき潜在的な性ではあった‥なんて議論もできるかしらね。」
「うん。でもなんだかとんでも。」
「あんたがいうな。」
「でも性の話はむずかしいね。エロティシズムと、エロティシズムにふりまわされる人間と、そしてけれども人が愛をがむしゃらに求めたがるのって、やっぱりよくわからない面がとてもある気がする。だから性愛は文学のテーマであって、さらに孤独のことでもあるのだろうけど、なんかわかんないね。うまく言葉にできない部分も、この問題にはあるみたい。」
「性に振り回されるのが人間だからかしら。どんな性意識をもつかというのはほとんど無意識の支配する領域で、だからこそ個人個人の個別な問題といえばそうなのでしょうけど、しかしやはりひとつの宿命というものではあるかしらね。意識的にはどうすることもできない暗黒の性意識というものが、人にはときおり恐怖でもあるのでしょう。」
『‥性とは、煎じつめれば、二元的に展開された生命の一つの表現形式、としかいえないのではなかろうか。そして性的結合は、この二元性を解消し、非連続の個体をして連続性を回復せしめようという、大きなエロスのはたらきのもとに統括されるべき、一つの運動にすぎないのではなかろうか。両性を互いに牽引する力は、生殖本能よりも、エロティシズムよりも、じつはもっと大きな何物かの力(かりにエロスと呼んでおくが)の働きによるものであって、それは失われた無差別性、失われた絶対的一元性をふたたび回復するための、ある解放への盲目的意志とでも呼ぶ以外に呼びようがないものではなかろうか。』
澁澤龍彦「エロス。性を越えるもの」
澁澤龍彦「エロス的人間」
2008/01/19/Sat
「人々の無償のやさしさ、限りなき善意、というのかな。それはそれでよろし、私はべつに文句いわないです。ただ私がそんなことみ好きじゃないなーという理由考えて、今回のお話見て、それで思ったのはことみって自発的には何もしてないのだよね、というの。彼女は周囲の状況に流され、逃げてただけで、彼女を決定的に救ったのは朋也のがんばりであり、渚たちのやさしさであり、そしてご両親の愛とその形を届けた見知らぬ多くの人たちだった。ことみを助けようとした大勢の人たちの善意を、私は美しいものだと思うし、それをTheory of Everythingというなら、私はそれは美しい言葉だなって思う。でもただ、そこにはことみの意志というものが入ってない。彼女ががんばろうとした、立ち上がろうとした印がない。彼女を救ったのは、彼女の環境がそう作用したからで、それは彼女が幸運だったからという偶然以上の理由はない。もし朋也と再会しなかったら? もしスーツケースが届かなかったなら? とか考えると、私は彼女をそれほど好きになれない。渚がみせたような強さを、彼女はけっきょくみせてくれなかったなと、私は思ってしまうから。」
「はてさてね。その人の性格といってしまえばそれまでなのでしょうけど、しかし彼女にはなんらか行動を起こす自由はあったのよね。もちろん真実を知るのがこわいというのはわからないでないけれど。」
「でも、どかな。私は彼女が益せず過去の束縛から解放されたのは、彼女がとても幸運だったからという以上の理由はないなと思う。そういった意味でことみはこの作品における能動性のヒロインをそのまま担ってるのかなって思う。智代とかとは逆の立場、というのかな。次はだれの話かな。」
「そろそろ渚かしら? ま、次回も期待しましょうか。」
2008/01/19/Sat
「昨晩は
これに反応しようかなーとか思ってたら、いつのまにか寝ちゃってた。一晩明けてぼんやりと思春期かーって考えて、私思春期って未だによくわかんないな、それより私ってまだ思春期引きずってるのかな、とかちょっと感じて、それからここで問われてる思春期の意味というのは性としての身体性の意識化、って意味かなと思って、それが少年少女の‥というか人生の、大きな問題になるのは当然ではあるかなって思った。思春期の課題は、そのあとの境涯でも無視すべからざる意味合いをもつ、みたいな。」
「ま、ね。親愛と性愛の乖離ということが実際に生活実感としてあらわれるということはあるものなのでしょうね。」
「でも、どかな。あんがい親愛の基礎に性愛があるということにこそ気づいちゃうのがあれれなのかもなんて思うけど。なんにでも性愛が基礎にあるというのはフロイトとか澁澤とか援用してあれこれ理屈づけるのできるだろうけど、でもここでの主題は幼なじみだから深入りしないです。ここでまぬけづらさんがさんがいってる核心は>普通に関係が途絶えないでいるのであれば、それは古女房(男女どちらでも)みたいなモノとなってしまう。であって、私がいいたかったこともこれ。つまり長く付き合ってて、むかしはまったくなかった恋の感覚を感じる。その感覚は新鮮でそして戸惑わせるに十分な強烈さをもってるのだけど、その恋の感覚といっしょに、彼には幼いころなんの気なしにいっしょに遊んでた記憶の情感というのがある。記憶の情感。これです。それは人によって大切な記憶であったりそうでなかったり、忘れられなかったり忘れちゃってたりするものだけど、でもその記憶のなかにあるとき、彼はまさに彼女と何気なくあそんだ子どもなのだよね。その感覚というのがあるから、幼なじみとの距離感というのはよくわかんなくなる。なぜなら私はあのときいっしょに遊んだ私でないから。性の身体性に目覚めてしまったから。私は、彼女を抱くかもしれないから。そしてそれは即ち、あの記憶の情感のなかにある幼児の私が、未来の私はお前と今遊んでるあの子を抱くのだよ、と教えることにほかならないから。‥とてもちょっと暴走したよな論理になっちゃった感じ。この幼なじみとの関係というのってたぶんに文学的な問題をはらんでるような気がするし、そしてそれは性的なものへの怯えといって当りかな、です。おそらく>同性の幼馴染に感じるような親愛の情を、異性の幼馴染にも感じていて、無意識的にその感情と性愛を結びつけるのを避けているが私のいいたいことの要諦で、その感情は性愛で無縁でいられないけれど、でも意識はそれを忌避するというのが肝なのかも。」
「人間の行動それ自体に性的な志向が読み取れないものはない、ということかしらね。もちろんそこら含めてこれは思春期の課題といっていい問題なのでしょうけど、それを処理することが思春期内で可能かといえば、そうでないからこれは厄介な問題であるのでしょうね。」
「性に対することの厄介さ、かな。さいごにtrue tearsについてちょこっとふれるなら、たぶん比呂美の問題は自己愛ですよ。それはお母さんにもいえるけど、でもあの人はもっと‥ごにょごにょ、というあたり。つまり息子に恋してるー。」
「いやま、ああいうお母さんはそう珍しいものではないのよね。よくある一般的な典型というか。もちろん一般的だからといって、その問題が軽くなるということはありえないのでしょうけど。」
2008/01/18/Fri
まぬけづらさん
『昔から、単なるクラスメイト以上には仲が良くて、というのは分かった(それが友達以上恋人未満なのか、クラスメイト以上友達未満なのかはひとまずさて置いて)。で、彼女が仲上家にやって来てからは、少し気まずいと。
まぬけづらは気まずい理由として、実は仲上父の隠し子、というのを想像していました。ですが、ふむーん、何と言うか、こうなってくると単に「思春期が故」で済んじゃいそうでもあり、でもそうすると仲上母の反応が説明付かんしなぁ、で戸惑っています。』
「幼なじみの女の子ー、というの。幼なじみの異性というか、好きになっちゃうというか、なんとなく気になるというか、そういうのはけっこう微妙な問題はらんでる。それは今現在の私がある幼なじみを好きになっちゃって、でもむかし子どものころはそんなことぜんぜん考えたことなくていっしょに遊んだりした記憶があるわけで、そういうこと憶えちゃってると、これはけっこう奇妙な感覚みたいな。私の体験からいうと‥体験だなんて私告白しちゃっていいのかー。あ、いっかな‥あるていど時間経って幼なじみと向いあうと、なんかへん。こそばゆいというのがいちばんぴったりくるかもだけど、でもそれ以上にちょっと付きあいづらいって側面があらわれてくる。それは何かなっていうと、べたにいっちゃうと、性的なイメージというので、恋の感覚を感じるといっしょに、記憶のどこかに眠ってる子ども時代の淡い友愛の感覚とかが思い出されちゃうというか。そこらへんがいろいろ関係してきちゃうから、素直になんて付き合えないけどでも‥みたいな心情が生まれちゃったりする。やりづらいこと、かな。」
「むかしの相貌を憶えている、というのが肝心なのかしらね。幼なじみの過去の姿を知っていて、そしてそこに過去の自分自身もあったのだと。しかしその過去から遠く離れた現在において、その記憶がどう作用するか。ま、一言でいえば恥ずかしいのよね。」
「好きなのかなきらいなのかな、というと、それはけっこうわかんない。ただむかし仲よかった同士の幼なじみというのは、かつて好きだったって過去はなくせないもので、現在どうあろうとその過去は記憶のなかに消しがたく残ってるもの。でもだからといって現在も好きでいられるかなといえば、それはまたべつの話になるけれど、でもどちらにせよあの過去があったという思いは、付き合うにせよ別れるにせよ、大きな影響を及ぼすものではあるのかな。それは本人同士、現在の自分たちの気持にはどうしようもないこと。ただ過去は過去として、消しがたい思い出として個人に埋没してるものだから。」
「恋愛とは無縁に付き合っていたころの記憶がどう作用するか、かしらね。あんがいそれほど好きでも嫌いでもないけれど、構いたくはなるものなのかしら。それは過去の記憶がその当人と結びついているからで、過去と現在を切り放して考えることが人間にはむずかしいからかしらね。幼なじみとの関係性ね。ま、思いのほかむずかしい問題かしら。けっこうわからないものよ。」
2008/01/17/Thu
「おもしろかったです。勉強になった‥というより、なんだか不思議。漱石先生晩年の公演の記録集なのですけど、でもそこに書かれてあるのは今の私たちの生活‥すごく日常的で身近に生きてるふつうな日々に、とてもよく接近してて、こういうとこが漱石先生のすごいとこかなって思っちゃう。たぶん漱石ほど大衆に寄りそった、人たちの近くでまっすぐに小説家をやった人ってほかにいないよな気がする。漱石だなんていうと文豪の代表格みたいな雰囲気で‥そしてそれを助長する諸々の要素もあるのだけど‥でも漱石の基本は新聞屋さん。人たちがまいにち目を通す新聞に、小説を、思想を、日々つづったのが漱石のかつての姿だった。だから先生の言葉は身近に、私たちのすぐそばに響く。それは空虚な思想の軌跡でなくて、先生自身が血肉で知った、まっすぐにつよい思想の賜物なのだから。」
「けっこうおどろくべき内容かしらね。実際その人間観察というか、その洞察は今現在の社会におかれてもまったく古びれないというのは、本当、おもしろいものね。人間存在なんていつの時代も変わったものではないというのは、おそらく正しいのでしょうね。」
「「私の個人主義」なんて、いろいろな人が読めばきっと楽しいのじゃないかなって思っちゃう。話し上手な漱石先生の文章は、気楽に読むだけで楽しい。むしろ気楽に読み始めなきゃ、漱石はいけないのでないかな。肩肘張って読んでたら、たぶん本読むことなんてつまんないから。」
「漱石のちらりと光るユーモラスかしらね。もちろんそれだけでなくこの書は読むべきものでしょう。単純で平明に話された漱石の思想というものは、果して触れないでおくというのは損というものよ。ま、そこまでいってもいいかしら。」
『この個人主義という意味に誤解があってはいけません。ことにあなたがたのようなお若い人に対して誤解を吹き込んでは私がすみませんから、その辺はよくご注意を願っておきます。時間が逼っているからなるべく単簡に説明致しますが、個人の自由は先刻お話した個性の発展上極めて必要なものであって、その個性の発展がまたあなたがたの幸福に非常な関係を及ぼすのだから、どうしても他に影響のない限り、僕は左を向く、君は右を向いても差支ないくらいの自由は、自分でも把持し、他人にも附与しなくてはなるまいかと考えられます。それがとりも直さず私のいう個人主義なのです。金力権力の点においてもその通りで、俺の好かないやつだから畳んでしまえとか、気に喰わない者だからやっつけてしまえとか、悪い事もないのに、ただそれらを濫用したらどうでしょう。人間の個性はそれで全く破壊されると同時に、人間の不幸もそこから起らなければなりません。たとえば私が何も不都合を働らかないのに、単に政府に気に入らないからと云って、警視総監が巡査に私の家を取り巻かせたらどんなものでしょう。警視総監にそれだけの権力はあるかも知れないが、徳義はそういう権力の使用を彼に許さないのであります。または三井とか岩崎とかいう豪商が、私を嫌うというだけの意味で、私の家の召使を買収して事ごとに私に反抗させたなら、これまたどんなものでしょう。もし彼らの金力の背後に人格というものが多少でもあるならば、彼らはけっしてそんな無法を働らく気にはなれないのであります。』
夏目漱石「私の個人主義」
夏目漱石「私の個人主義」
2008/01/17/Thu
「澁澤龍彦読んでてふしぎに思うのは、澁澤の恋愛関係ってぜんぜんみえてこないのだよね。書いてる文章から。そういった近親的な関係性みたいなのがなかなかわからない。もちろん奥さんがだれそれとか、こういう友だちがいてよく遊びに来たんだよーみたいなのは、全集についてる編集記とかほかの人の著作を見ればわかるのだけど、でも澁澤自身はそういった現実の人間関係をあまり表に出さない人だった。そういった生々しいことがきらいで、現実的なことを話したがらない人だった。それで私は澁澤にかぶれてるから、私もけっこう現実をなおざりにすること多いかもかななんて思ったり。でもたぶん、そういったふるまいや態度って、自然な生来の気質という以外にないもので、だから真似しようと思ってできるものでもないのかなとは思うかな。」
「現実生活に重きをおかないというの? ま、あれね、考え事がすぐ抽象的な段階に飛んでしまうというのでしょう。現実より夢のほうに真実味を感じていたのかしらね。」
「夢に心をあそばせる‥というより、ずっと夢のなかから世界を傍観してたというのかな。晩年の澁澤はよく自分の子どものころの思い出話を書いてたけど、あれも現実にはきっとあったのだろけど、でもほとんど夢のような出来事ばかりだったよね。澁澤の趣味は寝ることで、どこでもいつでも眠れることが自慢で、それでいつも夢みてたって告白してる。おれは楽しい夢しかみないから夢は楽しいって。」
「楽しい夢しか見ないというのも、またすごいことよね。そこらへんがあるから、血の夢からは遠かったから、澁澤のサド理解にはある届かない部分があったのでしょうけれど。ま、それはまたべつの話題ね。」
2008/01/16/Wed
「今回は町戸高と合宿のお話。うん、けっこうおもしろかったのでないかな。とりあえずキリノとタマちゃんの夜の会話がみれただけでよかったです。これからインターハイ予選の話にいくから、上手なタイミングだなって思う。ここでキリノの気持をタマちゃんが知っておくというのはいいよね。これから盛り上がる展開になるのだっ。」
「タマちゃんのお陰でみんな部活を真剣にやるようになった、か。ひとりで支えてきた部長としては、けっこう感慨深いのでないかしら。」
「タマちゃんのお父さんもよかったです。そんな心配なのかーって。町戸高も人気あるみたいだけど原作で出る暇ないから、こういった形の再登場はありなのでないかなって気はする。竹刀の早組み立て競争には笑っちゃった。私あれ苦手。きつきつにできないの。」
「紐縛るのが? ま、あんたけっこう不器用だし。さもありなんかしら。」
「竹削ったりするのも命がけ。カーボンは私使ったことないのだ。」
「その心は?」
「カーボンは竹と比べて割高なのだー!」
「‥でも竹のほうが損耗が激しいのだから、長期的に見ればどっちもどっちだと思うけれど。」
「岩をも砕くプラトンパンチだー!」
「ぐはっ‥!? ‥って! 何本も竹の竹刀無駄にするのと、一本のカーボン竹刀を大切にするのがどちらがお得かという話でしょ!?」
「ふだんの稽古のときだけカーボン使うのが賢いのだよね。試合ではよく響く竹のほうが効果的。使い分けられたらそれがいちばんよろしなのだ。」
「‥わかってるじゃない。今さらいっても詮無きことだけれど、やっぱりカーボンは買ったほうがよかったのかしらね。はてさてよ。」
2008/01/16/Wed
「澁澤龍彦が入院したとき‥たしか咽喉癌だったかな‥四谷シモンが見舞いにきて、そのときシモンは神さまってなんなんでしょうねって澁澤に尋ねたって話がある。それで澁澤はただ神さまというのは虫みたいなものなのだよってシモンに答えたって。この現実は幻影のようなもので、玉ねぎの皮をむくようにひとつひとつむいてけば、いつか何もなくなっちゃう。そんなようなのが現実で、世界だって。死ぬことの意味というのでないけど、私は死について考えるときたまに澁澤のこのエピソードを思いだす。プリニウスのように死にたいっていってた澁澤の気持は、私にはそうわからないものでない。」
「死ぬことの意味ねー。もちろんそこになんらかの答えを見出したいというのは人の本能的な欲求ではあるのでしょうけど。しかし、どうかしら。」
「私は明日死ぬ、というのはあんがいその答えであるのかなって思わない? 私は明日死ぬというのは、とりもあえず明日私はいないということで、すると私はその明日と無関係ということになって、その無関係だということこそが死の意味性のひとつなのかも。つまり私は明日を永久に知らない。そしてそれは日々を生きることの構造の、基本的な枠組みだって気がしないかな。」
「それは、人には今しかないということかしら。今以外に人がその人足りえているときはなく、今のほかに私は存在しようがない。それは私という存在の基本的な条件であって、ならば死は‥というのかしら。」
「今は私はあるけれど、明日にはない。明日には私の記憶も知識も思い出も、私が大切にしてた私といういろいろなものは、消えてしまう。その問いかけは、絶対的。だれもこれを免れないし、この問いかけはいつも私の前に掲げられてる。なぜもなく。その問いはいつも私に突きつけられてる。逃れようなく。そして私はその問いかけを前にして、惰性で今を生きている。その今も明日にはない。まずまちがいなく、明日にはない。」
「さればこそ現実は胡蝶の夢といえるのかしら。今を生きるほかなく、そして今以外を夢見ることは叶わないという人間の条件、か。時間も世界も、はてさて、やはりないものなのかしらね。この問いかけはけっこう逃れられないものではあるかしら。」
2008/01/15/Tue
「この親にしてこの子あり‥とかっていうのかな。なんだ、似てるのじゃない。灰音と和仁って。つまり二人とも偽善や偽悪で凝り固まっちゃってる、自分に嘘をついてる、それだけなのだったね。ちょっと、嘆息、かな。」
「なんともね。しかし本当この作品は灰音に振り回されるものだこと。当人はいつもよかれと思って行動しているのでしょうけど、けっこう彼女は独善的よね。ま、さいしょからそうだったけれど。」
「でも今回はほんと、灰音が好き勝手やってそれにみんなが戸惑わせられるってお話だったね。うーん、私がこの作品にそこまで心惹かれないのは、灰音って人をそれほど好きになれないからかも。彼女は基本、嘘つき。そしてひとりよがり。自分で考えて、自分のためにしか行動しない。彼女は自分の信念のためなら、それが正しいって確信したなら、もうだれの意見もきかない、きく気ない。灰音がもし他者をもっと見れてたなら、彼女がむかしの仲間のとこに戻るはずなんてないし、自分がそういうことしたなら生徒会のみんなはどう思うかなとか、考えられないのが灰音のわるいとこ。というより、そういう性分。それが魅力のひとつで、そして灰音という人間の核でもあるのだけど、それがまちがえたならどなるかなって考えちゃうと、‥私は彼女にそこまで惹かれない。信を置かない。まっすぐにしか生きられないという彼女の言葉は、真実だけれど、でも誤魔化しでもあるのだから。」
「むずかしいところかしらね。彼女に対する評価は両極端にならざるえないでしょうね。好意か嫌悪か。ある意味なんともさっぱりとした人間であることはたしかかしらね。」
「でもこれで紳士同盟も九巻目。こんなつづくだなんて思わなかったな。いったいどう終着するのかな。もうあと描くべき人って、皇帝の二人しかいないよね。彼らはけっこうこの作品のなかではまともかも。」
「それは灰音なんかと比べたらはるかに健康かしらね。灰音に惚れたのが二人の終りかもしれないけれど、はてさて、どうなるかしら。」
種村有菜「紳士同盟クロス」9巻
2008/01/14/Mon
「南イギリスの片田舎に隠棲し、世俗を離れて思索と自然に心戯れさせた孤独なある文学者ヘンリ・ライクロフトの手記という形で、この作品は描かれます。ライクロフトは若き日には文学への熱い情熱を秘め、苦心惨憺しながら文筆で身を立てようとするのだけど、それが破れてけっきょくは大成するということはなく、貧困と過酷な仕事に身をやつす日々だった。でもだれ予期する人あろう偶然によって、あるていどまとまった資金を得ることができた彼は、以前から大好きだった田舎にひとり晩年をすごすことを決意する。妻はもう死んでて、子どももすでに一人立ちしてたから。自然の四季の美しさと、みずからの内面にどこまでも真摯に向きあったとある誠実な人間の、真実の感情の吐露の文章の連なりが、この作品にはあらわれてます。すごくよかった。すばらしい、そしてとても美しい作品です。」
「彼はみずからを知的な頭脳はもっていたけれど、それは日常の雑務を処理することには役立たなかったといってるのよね。ここらへんの記述からは彼の生来の不器用さがうかがえるかしら。賢い人生ではなかったのでしょう。もちろん、賢く世渡りする才能がそう羨ましいとも思わないけれど。」
「ライクロフトは科学文明に驚嘆の念を感じるけれど、でもそれにある野蛮さをも感じてる。彼は多数の古典にふれなくちゃ、生きてけなかった人だった。社会主義をとことん信用ならないものだって思うのは、自分が貧乏をふかく知りすぎたためだって告白する。彼は俗な生活をきらうけど、でも人たちの可能性と、その未来をだれよりも愛することに心が向いてる。彼のさまざまな思索と、その矛盾と、自然の遥かな姿に憧憬をおぼえる場面、そして冬の書斎の炉辺で書物の頁を繰る彼の誠実な瞳、春の朝、さいしょに照るだろう太陽の光で目覚めたくて、あえてカーテンを引かないで眠りにつくヘンリ・ライクロフトの生き方は、彼が虚構の存在でなくて、だれより誠実に生きたひとりの人間だって、孤独にしか生きられないひとりの人間だってことを私に感じさせてくれる。ライクロフトは、なんだろね。私は彼の生き様にとても親しい感を抱いた。その言葉にやさしさを見とめた。私はライクロフトの書きとめた言葉のひとつひとつが、作者の誠実さそのものだってことを疑えない。」
「ライクロフトは文中、幾度となく死について思い巡らすのよね。しかしそれは彼の臆病からでもオブセッションからでもなく、ただ彼が死に対してさえ誠実な思索者であったからなのよね。」
「ライクロフトはそして、死ぬんだよね。彼の死は安らかだったって、ただ幸福に、死の直前にこれまでの思いを遥かにみとめながら、眠りにつくだけだって、彼はまさにそのように死んだのだって、この作品には書かれてます。それは作者のギッシングの望みでもあったのかな。私にはわかんない。でも、作者ギッシングの最期はライクロフトのそれとは対照的でした。肺炎に苦しむギッシングは幻影におそわれ、絶えずうわ言を洩らしてました。死の直前には亡父の幻をみて、グレゴリオ聖歌を口ずさみつつ、死んでいったって、伝えられてます。ライクロフトの臨終とはかけ離れた悲しい臨終であったと、伝えられてます。」
「ギッシングがライクロフトの死に託したものは、彼の現実の生涯にはどういったものであったのかしら。しかし、このことは、そう、踏みこむべき話題ではないでしょうね。ただ私たちには、ギッシングとライクロフトの死が遠く離れたものであったという事実が、遺されているのみなのでしょうね。」
『私は自分が今まで経てきた生涯のすべての出来ごとの必然性を、まじめに、しかも快く承認することができる。かくなるべきであったし、また現にかくなったのである。このためにこそ自然は私を作ってくれたのである。その目的がなんであるか、もとより私の知るところではない。しかし、永遠にわたる万象の流れの中で、私の定められた運命はまさにかくの如きものであったのだ。』
ギッシング「ヘンリ・ライクロフトの私記」
ギッシング「ヘンリ・ライクロフトの私記」
2008/01/14/Mon
「今回も伏線いろいろ思わせぶりな台詞いろいろ。いったいどんな展開になるのかなーってそこはとても楽しみですけど、でもあれこれキャラの思惑考えたりするのはちょっとたいへんっぽいかな。紫の思惑はいまだによくわからないし、永琳も月の都を守りたいのはそれっぽいけどでも彼女の揺るがせない目的は輝夜を守ることだよね、いちばんわかんないのは幽々子でかつての月の都で何をみて何を思ったのかーというのが不明な今では、何を狙ってるのか私にはわかんないです。ただ三者に共通してるのは霊夢たちを月に向わせること。それがどんな意味を秘めてるのか、そこが儚月抄の鍵なのかな。」
「はてさてね。いろいろ情報は出てくるのだけど、まだまだつながりそうにはないかしら。とりあえず玉兎たちの訓練風景はどうよ。」
「銃剣付きの小銃だったよねー。あはは。さすが月の兎たち。月に行ったら銃剣突撃してくる兎に命狙われるのか。これは弾幕ごっこなんてしてる場合でないのかも。」
「いやしかしブレザーに銃剣というのはなんともあれなイメージっぽいけれど。」
「静かの海というのはなかなか示唆ふかい光景だったです。人間存在は月に行ったとて何も変わらない。ただそれは象徴行為なのだ。月に行く人間の姿には、宇宙と男性原理の関連性の秘密がある。なんて、稲垣足穂についての澁澤と三島の対談を少し思いだしたです。人の届かない月の裏側、黒い海、か。少し焦がれるかな。」
「そして人はだれ知らぬ冷たい月面に旗を打ち立て、それをある達成としてるということね。なんとも、ここもまた含意が深いことよ。」
2008/01/13/Sun
「CLANNADは人生」だなんて笑わせる「いいたいことはこれ(→
Fateは文学でべつにいいのでないかな、という話)でいっちゃってるかなだけど、こういう反応はなんなのかなってちょっと考える。そのままとれば文化に高級低級って価値判断をしてるということなのだろけど、でもそれはただ差別意識のなせる嘲罵でしかないのかなって気はする。実際に作品をしての批判ならまだしもかな、というので、単に表層的な言葉は意味ないな、放っとくがよろしなのかなって思う。」
「作品が問題ではないのかしらね。それより以前に芸術だの文芸だのの言葉の意味合いが奇妙にとられてるということかしら。」
「薄っぺらな人生というけれど、薄っぺらな人生を描くことこそに文学の役目がある。薄っぺらい人生に面と向きあうことに、文学の内包する問題がある。ゾラの「居酒屋」なんてその典型。高尚も低級も意味をなさない人間の生きることの場を見つめることこそが、文学の所以でないのかなって、私は思う。」
「それほど深入りすべき話題ではないのでしょうし、ま、ただのテンプレなのだから、それほどいうべきことではないのよね。ただこのテンプレにはコンプレックスがそのまま反映されているふうなのがなんともだけれど。それはいわぬが吉かしら。」