2021/06/20
知覚の地図 XXⅡ 脈打つ午後、の肌触り
脈打つんだよ。午後なんだよ。しかもその肌触りなんだよ。何となく汗ばむようにエロチックだ。そういえばまるで直接的じゃない方向で、気配としてじっとりとしたエロチシズムと云ったもの、そういう反響音を含んでいるような写真が見てみたい。エロチシズムは言葉においても絵画においてもシュルレアリスムの要にある。Nikon Coolpix S9700
FM3Aに装填して撮り進め、あと6枚ほどで撮り終える状態のまま二年ほど時が止まっているフィルムがある。あの6枚をそろそろ撮り終えて現像に出したい。何を撮ったのか、最初のコマは父が入院していた伏見の医療センターのものだとははっきり覚えているけど、他はまるで記憶がない。このフィルムにはいったい何が潜んでいるんだろう?
光瀬龍の「百億の昼と千億の夜」、最後に読んでからそれなりの時間が経っているので印象は少し朧気になっている。日本現代SFの黎明期と云うか、そんなに昔でもないんだけどそれなりに古い時代の作品で、悠久の時を日本的、東洋的なSF情緒とでもいうような無常感で縦断していく物語だ。東洋的無常感は日本SFを独自のものへとする手段として、たとえば小松左京の「果てしなき流れの果てに」のように、この黎明期に好んでテーマにされたものだったのかもしれない。無限の空間と果てしなく変転して止まない時間の流れ、宇宙そのものを相手にしている視点と、これだけでもワクワクしてくるんだけど、さらに無限の宇宙のさらに外側なんて云う領域にも踏み込んで、物語は想像力の限界を超えていく。
ただそういう領域を言葉で明らかにしていこうとしても、想像を超えたものは誰も言葉にするのは不可能だし、この物語でも語りえないものは語りえず、語りえたものは言語化されることで、言語化の宿命として必ず矮小化されることとなる。
主人公は四人。プラトンとシッタータ、阿修羅王、そしてイエス・キリスト。このうちキリストを除く三人はそれぞれの時代、場所で、それぞれ別の形をとってこの宇宙が滅亡の運命に絡めとられていることに気づく。その後長いまどろみの期間を経た後、三人は遠未来の荒廃した世界で眼ざめ、その遠い未来でこの宇宙に滅びの宿命を課した何ものかの、その正体を探り、宇宙を定めの運命から解放するためにともに行動することとなる。もう一人の主人公キリストは神のしもべとして、同じく長いまどろみの後、宇宙に課せられた滅びの宿命に抗おうとするこの三人に戦いを仕掛けていく、いうならキリストは悪役として登場するわけだ。プラトン、シッタータ、阿修羅王連合対キリストの、宇宙の宿命をかけた戦いが時空を縦横に行きかいながら果てしなく繰り広げられる。
プラトンだとか阿修羅王だとか意表を突く登場人物でこれは歴史小説なのか?歴史小説にしてもこの人選でいったいどういう話なんだと予想のつかなさに心躍らせて読んでいくものの、話のスケールは極大に近いほど巨大なのに、そのうちサイボーグ化された釈迦だとかが戦う話だと分かり始めると、これ、物語の背景は宇宙の果て無限の時間の果てまで壮大に展開しているけれど結局はバトルもののマンガだなと見切りがつき始める。サイボーグ同士が戦う話は全体の壮大な世界に比べると相当スケールダウンしてしまい、どうも安っぽい印象のほうが強くなってくる。。ちなみにプラトンたちをサイボーグ化した何ものかへの説明はない。宇宙に滅亡の運命を課した者たちへ反旗を翻す何かの存在だろうと思わせる程度で最後までその正体は明かされない。
それにしてもこういう類の物語ですべてを超越する存在と云ったものを表現するのに、いつもどうして人格のある何かを想定するんだろうか。あのアーサー・C・クラークでもこういう場合文明が極端に進んだ異星人なんていうのをよく持ち出してくる。わたしは超越する何かがあるとしてもそれは人に似た何かのように、人に想像できる範囲にあるようなものではなく、さらに人が持ちうるような善悪の基準さえまるで無意味な何かであると思っているし、超文明を築いた異星人とか出されると、結局こういうわかりやすいところに落としてしまうのかと興ざめになることが多い。この作品の場合もプラトンたちが対峙するのは「シ」と名付けられる何かであったり、その「シ」とともに宇宙の運命を決定づけるのが惑星開発委員会なんて云う組織であったりして、まず名付けられるという点で既に理解可能な輪郭のはっきりしたものへと小さく変化し、さらにこの委員会と云う言葉が醸し出す卑俗な感じはいったいこの壮大なはずの物語のどこに落ち着く先があるんだろうと途方にくれるばかりだ。
こういう形にしなければ描き切れないと云うことなんだろうけど、超越したなにかを矮小化せずに描き切ることの限界のようなものを、この作品もまた見せているような気がする。
面白いものは結局のところ語りえなかったもののうちにある。語りえるものたちの矮小化された集積が語りえないものの途方もなさを際立たせる。この物語の中で印象に残ったものと云えば、海に住み海から上がるもの、のちに正体については明らかにされるが、そのものが地表に出て遠くに見た動く山のようなもの、そして、海の底深くに沈む扉の向こうに潜む何か邪悪な波動を放つもの、その気配によって近づくことも躊躇わさせる何かといったもの。そしてこれらは一体何であったのか結局物語の中では謎のままで終わる。描写しきれないこういうところがむしろこの小説のいいところなんじゃないかと思う。
近年になって海外で翻訳が出たそうで、正確には覚えていないけど、その評価は総じて、読めないことはないけれど、もっとすごいものが他にもいっぱいあるっていう感じのものだったらしい。キリストが悪役であることに反感を持たれてないのが意外といえば意外だった。そしてその評の云わんとするところはわたしにも何となく分かる。同じく壮大で想像の限界を超えそうなものを相手にして、その表現の手際とかではグレッグ・ベアの「永劫」「久遠」なんかのほうが洗練されていて、わたしには馴染めるところが多かった。
無常感を表現しようとする文体は、同じフレーズを繰り返すような、いかにもといった詩的情緒を狙いすぎ、酔いすぎていて、わたしは乗り切れない。砂に埋もれた遠未来の東京都市や破滅が近づく宇宙の描写は似たようなシーンが続いていささか単調でしかも分かりにくく、これはのちに萩尾望都がコミック化したものを見たほうがよく分かる。萩尾望都のコミックは今の視点で見てみると、表現がかなり古い漫画のものと云う泥臭さが若干出始めてるとはいえ、この小説を視覚化した試みとしてはかなりうまくいってるんじゃないかと思う。
Tommy Emmanuel - Amazing Grace Full HD
Seiji Igusa - Just the Two of Us
フレーズの歌わせ方、タイム感覚など、いかにもギターっていうのが堪能できる演奏2題。トミー・エマニュエルの最後のほうで2度ほどネックを前に突き出すような動作は何を意味してるんだろう?なんか意表をついてかっこいいパフォーマンス?
凄い気持ちのいい声と演奏。ギターとドラムだけの伴奏でこれだけのパフォーマンスができることに驚愕。ベースなくても当たり前っていう感じが凄い。
ちょっと珍しい、エリック・クラプトンのコロナワクチン副反応体験談。クラプトンが接種されたのは、イギリスなのでアストラゼネカのものだったらしい。それにしてもギタリストがよりによって腕にひどい副反応を起こされて、その不安感は相当なものだったと思う。インタビューは副反応に見舞われた話の後も、接種を巡って人を差別分断へ導こうとする世界の動きや、このところの世界の明らかに歪みだしている様相について骨のあることを語っていて、自由であることから軸がぶれない、そしてぶれないゆえの苦悩も明らかにしながらの、その話っぷりはなかなか聞きごたえがある。
表題にある内容のツイートを纏めたブログのページ。伝え聞きのようなツイートも多いのでどれほど確度のある情報かは保留。ただこういう内容のものがこういう情報として数多く表に出てくる日本の現状の雰囲気、不安みたいなのは伝わってくる。
報告は氷山の一角!コロナワクチン接種後の副反応、死亡のツイートが多すぎて戦慄!
ワクチンを巡る言説にあらゆるバイアスがかかり、打たないとまともな生活をさせないとでもいうような圧力が強まる中で、接種は個人の判断で決めるべきで強制されるものではないと明言し、分かりやすく誠意をもって正確な情報を伝えようとした泉大津市の市長さんのメッセージ。判断の材料に。
自由主義社会がこんなにたやすく社会主義に侵食されるとはわたしも想像できなかった。それにしても自由主義社会の脆弱なこと。自由主義の構成員が自ら社会主義化に手を貸して疑問に思わないっていうんだから始末に負えない。
新型コロナのワクチンに躊躇いを持つものは陰謀論を信じる馬鹿者なんだとか。
わたしは馬鹿者なんだ。別に馬鹿者でも何でもいいけど、劇物指定でしかも人類史上使われるのが初めてというものに検証もなく挑むほどチャレンジャーでもないし、納得がいかない部分があるものに自分の生命を預けることが嫌だと云う、とてもシンプルな心情に沿って行動したいと思っているだけだ。
それにしても年配の人にチャレンジャーが多いのに吃驚する。年配の人を見ていると新型コロナワクチンを打つか、さもなければ新型コロナにかかって死ぬかの極端な二択の天秤が頭の中でダイナミックに揺れ動いているような感じだ。それ以外の、ワクチンの素性がどうのこうのとかいったことはこの天秤の派手な動きに吹っ飛ばされてもう意識の片隅にさえも残っていない。とにかくワクチンを打てば助かる、打たなければ死ぬという、極端な二択に憑りつかれているようにしかみえない。そしてその極端な二択は接種後直近の副反応をやり過ごしとりあえず生き残ることができれば、今度はワクチンを打っただけでコロナに関してはもう自分は完全無敵、オールクリアと云う精神状態をもたらすだろう。この精神状態はそのうち現実との齟齬、解離に直面して、むしろ状況は混沌としそうな気がしないでもない。
まぁそれはともかく、ワクチンに対して推進論者と懐疑論者の二つの論陣がはられている。このうち推進論者の言説は取り立てて注意する必要はない。なぜなら云っていることは一つ、ワクチンはいいものだから打ちましょう、それが国民の務めだからその務めを果たしましょうと云うことだけだから。そこがいきなりの最終地点でその先に言説が広がる余地はまるでない。むしろワクチンを胡散臭く思って批判している言説に注意深く気を配っていくべきだろうと思う。推進論者の言説が意味を持つとするなら、この胡散臭く思っている側が提示してくる様々な疑問、批判に対していかに有効な反論を加えられるか、この一点だけだろうと思う。そして様々な疑問が推進派の論によって氷解していき、その疑問と氷解のバランス具合を見て、これなら納得のいく範囲に収まっていると判断できるなら接種していけばいいと云うことになるんだろうと思う。
それにしても推進する者たちの言い分はあまり有効ではないように思える。酷いのになると打たないなら迷惑だから一生家で閉じこもっていろと云った暴論から始まって、批判に対して個別に反論しているというより、異論のすべてを妄想だと断罪するか、あるいは陰謀論に加担する愚か者と云うレッテルを貼り、そうでなければどんなものも完全なものはない、インフルエンザのワクチンでさえも副反応はある、だからそんな細かいことをあげつらっていちいち文句をいうなと、この一点で押し切ってるだけのように見える。
でもこれ、完全無欠のものなど存在しないと云うのは同意するにしても、比較しているものが同一条件で揃えられていないんじゃないか?かたや治験も十分に行われ、うちにはらむ危険度もそれなりに炙り出されて明らかにされているものと、もう一方は治験も満足にされずに危険度の全貌がまるでつかめていないものだ。この性質のまるで違う両方を同じ土俵に並べてどっちも完全じゃないから両方とも似たようなものだなんて云う評価はあまりにも雑で大雑把だ。たとえて言うなら完璧に整備された飛行機でも墜落の危険性はある。そして整備もされていない、本当に飛ぶかどうかも確認されていない新型デザインの飛行機にも墜落の危険性はある。両方同様に危険があるんだから、飛行機そのものもそんなに云うほど変わるものじゃないと、こういうことを云ってるわけだ。こんな両極端の二つのものがあったとして、それでも危険を納得して整備済みの飛行機に乗る人はいるとしても、同じなんだったらどっちでもいいかと整備してない飛行機に乗る人は普通いないだろう。副反応くらい何にだってついて回るという言説は何も有意な内容を含んでおらず、打ちたくないと思ってるものの疑問をはぐらかすだけで何も氷解してくれない。
選択肢が本来なら複数あるはずだったのに、かたくなに一つしか提示されないと云うのも胡散臭さに拍車をかけている。わたしはいま迫られているたったひとつの選択がこの状況の最適の解じゃないと思っているので、ぜひ、より安全が確認できる複数の選択肢を得られるようにしてほしいと思っている。ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアじゃないけど、これは「たったひとつの冴えたやり方」じゃ決してない。
特に最近の若い連中にも打たせようとする動きは本気で警戒したほうがいい。新型コロナの感染状況を見ていると、若年層にはワクチンの必要性はまるで見出せず、むしろ見えるのは今はまだ全貌もあらわにはなっていない将来の厄災だけだ。
躊躇うのには個人的な理由もあった。わたしの厄介な病気、潰瘍性大腸炎。基本薬となっているサラゾスルファピリジンが元はリウマチの薬だと云うことでも分かるように、これもある種の自己免疫疾患なんだけど、今回のワクチンは副反応で免疫に関する深刻な状況を生み出す可能性があるというようなことを云われている。これが怖い。今のところわたしの状態は寛解してるものの何がきっかけで再燃するか分からない。ワクチン接種がトリガーになって再燃してしまい、おまけにワクチンの副反応との相乗効果で二度と寛解しないような体になってしまったらどうすると、こんなこと想像するだけで血の気が引く。
この新型コロナが人工的なものだと云うのはほぼ確定に近くなってきてるようだけど、もしこれが生物兵器の類のものだったとしたら、若者は罹患しても知らない間に治ってたりする、重症化するのはほとんどが年寄りなんて云う生物兵器が何の役に立つんだろう?と、これは素朴な疑問だったりする。ひょっとして失敗作なのか?
それと最初に書いた陰謀論がどうしたとか云うこと。わたしはこれがどうして無条件で批判されたり、レッテル貼りに利用されたりするのかいまいちよく分からない。だって世の中の出来事って大概誰かの思惑で動きだしたりして、みんな云うなら多かれ少なかれ陰謀的だよ。誰も何も背後で動いてないのに生じてくる出来事なんてむしろ珍しいんじゃないか?
ひょっとしてやばい陰謀をたくらんだものが注意がそっちに向かないように、早々と芽を摘み取ってしまうためのレッテル貼りだったりして。
最後に、ちょっと話題を変えて、
吃驚したのがこの蛾の擬態。丸まった枯葉にしか見えないけど、実際は羽そのものが丸まっているんじゃなくて、平らな羽に丸まった葉っぱのようにしか見えない模様が描かれている。こんなのがどうやって自然の中で生み出されたんだろう。立体に見えるようにハイライトや影までつけて、何かの意志と絵心を発揮できる確かな技巧でもない限り到底無理だぞ、こんなの。