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【写真】窓枠主義者の歓喜 記憶喪失の旧明倫小学校編 +デュシャンの遺作と窓枠の官能について +【音楽】本編よりも印象的

二月の始め頃、何度か旧明倫小学校に行って撮ってた写真を載せてみます。この建物は旧明倫小学校という名前の通り、元は小学校であっても今は小学校として機能してるところじゃなくて、その建物を利用し、現在は京都芸術センターという施設として活動してる場所になってます。
ここに行こうと思った切っ掛けは京阪沿線の駅においてあった小冊子、「京都きものパスポート」というものでした。わたしは最近、撮影スポットを決めるのにわりと駅においてあるチラシとか参考にすることが多いです。だからわたしが今まで写真を撮りに出歩いていた場所って、気がついてる人もいるかもしれないけど京阪沿線周辺に集中してたりします。

写真を意図的に撮り始めた頃は普段歩いてるような生活の場所で面白く撮れてたんですけど、そのうち見慣れた場所ばかりではどうも新鮮味がなくて知らず知らずのうちにシャッター切る切っ掛けが掴めないようなことが多くなってきてます。それでこういうチラシとか要するに京阪を利用してもらうために駅においてある無料の小冊子とかを参考にすることが多くなってるんですけど、でもこういう場所の決め方って、特に京都のような観光地では必然的に写真を撮られるように用意されてる場所が多くなって、最初面白いと思った普段着の世界にちょっと新鮮な視覚を見出していくというような感性からは気がつかないうちに離れてしまいがちになったりします。
写真を撮られなれてるような場所で写真を撮ることと、ほとんど被写体として扱われないようなものを拾い出して写真的に成立させる撮り方の狭間で揺れ動いてるような感じというか、今のシャッターを切ろうとする時の感覚はわたしのなかではこんな感じに揺らぎ気味になってたりするんですね。雑誌とかも参考にして行動範囲を広げていくのは面白いんですけど、こういうことが今のわたしの写真を撮る上での課題のようなものになってるのかもしれません。

まぁそういう課題はさておくとして、どこに写真撮りに行こうか考えながら二月の初旬頃にこの「京都きものパスポート」を眺めていて、色々書いてあった中でわたしの気をひいたのは古い建物の前できもの姿で写真を撮ろうっていう特集でした。小冊子は着物を着てこの冊子を持っていくと、冊子に記載されてる期間中は割引サービスとかをしてくれる料理屋なんかの、きものキャンペーンを広告するものだったんですけど、そのなかにこういうきものが似合うロケーションで写真を撮ってみようというページがありました。
京都は神社仏閣の博覧会場のような印象があるかもしれないけど、意外と古い洋館なんかも数多く残ってます。この前の記事に載せた大丸ヴィラや、聖アグネス教会もそんな洋館の一つですね。
「きものパスポート」がきもので写真を撮る背景にちょうどいいとピックアップしてたのは、京都芸術センター、旧府庁舎、新島襄宅、文化博物館等で、わたしの興味を一番に引いたのがそのなかではこの旧明倫小学校でした。
旧府庁も興味を引いてこの後に写真を撮りに行ってるんですけど、そういうほかの場所をかなり引き離してこの小学校が興味を引いたのは、小学校というのは時代や場所を違えても、小学校的とでもいえるような共有してる記憶が多そうだったからでした。

現京都芸術センターである旧明倫小学校は烏丸四条から一筋西にいった室町通を四条から北のほうに上がっていくとそれほど歩かずに門の前に到着することが出来ます。
わたしはこの辺たまに歩くので、この芸術センターの存在は知ってました。でもまず小学校の門構えがそのままに残してある外見からまず関係者以外は入れないっていうような印象があって、さらに京都芸術センターっていう大まかに括りすぎて結構意図不明の名前がついた場所だったりするから、何をやってるところなんだろう?演劇などの催し物をやってるようにも見えるけど、そういう催し物を見に来たわけでもなく、用事も無しに入れるところなんだろうかと、躊躇わすような疑問符が大量に頭の上にポップアップされてなかなか入る切っ掛けが掴めずに場所は知っていてちょっと気になるところはあったものの、たまにほかの事で門の前まで来ても結局は通り過ぎるだけという場所になってました。
でもこの小冊子で、勝手に入っても構わなくて、中で写真を撮るのも、三脚等を立てるような本格的なもの以外だったら全く自由というのも知ってからは俄然興味がわいてきたんですね。のちに、ここに上げた写真を撮るために実際に中を歩き回ってみて、どうやらこの場所は元教室や講堂のような大きな空間を使ってアート・イベントが開催されてる場所、何か作品を作る目的を持った個人が製作に大きな空間を必要とした場合に元教室という空間を借りたりするような、そういう芸術にまつわる物事を支援する活動をやってる場所のようだと憶測がついたところがあったんですけど、京都芸術センターも広報というか、とにかくどういう場所なのかからしてよく分からないところがあるので宣伝の仕方をもうちょっと考えたほうがいいような気がします。

京都市内の小学校って少子化のせいなのか商業地区の真っ只中にあって住む人がいなくなってきてるせいなのか、廃校になったところがいくつかあります。ちょっと思いつくものを揚げてみると、木屋町高瀬川沿いの飲み屋街の真っ只中にあった立誠小学校、烏丸御池上がったところにある、ここでも何度か取り上げたことのある現在は京都漫画ミュージアムになってる龍池小学校、仏光寺近くの開智小学校など。
でも立誠小学校は催し物をしてないときは関係者以外立ち入り禁止の札が掛けてあるし、漫画ミュージアムは漫画を読みにきた客と無条件に判断されて中に入るのに入場料が要るし、開智小学校も学校関連の博物館になっていて、ここも入るのにお金が必要となってます。こういうところに比べると旧明倫小学校は極めて気軽に入れる廃校という印象で、古い建物を写真に撮ってみたいと思っていたわたしには、前を通ってはちょっと入りづらかったのも気軽に入れる場所と分かったのもあって、最適の場所のように思えました。

とまぁこんな経緯で京阪の広告小冊子を見たのが切っ掛けとなって、2月初旬にこの廃校にしばらく入り浸ることになったわけです。

☆ ☆ ☆

今回の撮影で使ったのはNikonのFM3Aとフジ・フィルムが現行機として出してるフィルムカメラであるナチュラ・クラシカ、それとデジカメのリコー、GRD3の三台がメインになりました。一度に全部持って出たんじゃなくて複数回訪れたから訪問するたびに違うカメラを持っていったという形でした。
ナチュラは買ったのは一昨年の夏くらいで実はかなり前のことでした。フィルムのトイカメラを使ってフィルムって面白いと思ったのが始まりで、でもクラシックカメラを中古で買うには全く知識がなく、新品で買えて色々作例も気に入ったのがこのカメラを選んだ理由でした。
でもストラップをつけるところが一つしかないとか持ち運ぶ形が今ひとつイメージできないうちに、クラシックカメラにも手を出すようになって、あまり使わないまま時間が過ぎてました。買ってみたもののファインダーの見え方が安っぽかったり、プラスティック然とした外観もあまり持ち出そうという欲求に火をつけなかったところがあったかもしれません。
撮れる絵は柔らかくてニュアンスに富んだものになるものの使い勝手はそんな感じの印象で手元にあったカメラだったのもあって、今回でフィルムを通したのは最初に3本パックで買ったフィルム、ナチュラ1600の最後の3本目という程度の使用頻度でした。今回は暗がりでもフラッシュ無しで撮影できるのが売りのカメラなので、学校というあまり明るそうでもない場所にはうってつけのカメラだと判断してのピックアップとなりました。

ナチュラ・クラシカ
Nikon COOLPIX P5100

☆ ☆ ☆

明倫小学校についてちょっと調べてみると、明治2年に京都で全国初の学区制小学校である番組小学校の一つとして誕生した小学校だったそうです。創設時は下京第三小学校というもので、そういう名前だったなら少なくとも三校はあった番組小学校のうちの一校だったんでしょう。京都の町衆が子供のために手間を惜しまず育んだ学校だったらしく、わたしの父はこの小学校のことを知っていて、結構優秀な小学校で知られていたとか。
でもいくら環境の整った小学校ではあってもその後の少子化には対応できずに1993年に閉校することとなります。明倫小学校閉校後は学校跡地利用審議会、京都市芸術文化振興計画が中心となって、その跡地を文化の交流する場所として再生する計画が立ち上がり、旧明倫小学校は元の小学校の佇まいを残して改築、増築されて、2000年に京都芸術センターとして結実することになりました。
ちなみに2008年には残された明倫小学校の一部分は国の登録有形文化財に登録されたそうです。

室町通を歩いていくと、こんな風な門に出会うことになります。

京都芸術センターの門
Ricoh GR DIGITAL 3
この門をくぐるための明確な目的でもない限りなかなか入りにくいと書いた感じが分かるでしょうか。この写真のカップルも門の中を覗っただけでそのまま通り過ぎていきました。

門を潜ると左手に大きな棟が一つあって、その建物の側を奥に向かって進んでいくと建物の側面は直角に曲がって目の前に立ちふさがる形となり、京都芸術センターと書かれた正面入り口の自動扉と対面することになります。その正面入り口らしいところとは別に、門を入った左手にある建物には元学校のイメージをそのまま残したいかにも玄関然とした入り口が開いていて、その学校然とした入り口を入ってみるとどうやらもとは校長室だとか職員室があった建物なんじゃないかと思われるちょっと堅苦しいような空気に満ちてる空間でした。どうも場違いなところに紛れ込んだというような雰囲気があって、元講堂でなにかのパフォーマンスが行われる時のチケットを販売する窓口とか、おそらく京都芸術センターを利用したいと思ってる人が元教室を借りたりする手続きをする事務所になってるような感じ。薄暗くてたまに関係者らしい人が扉を出入りする中にカメラ持って突っ立てると結構居心地が悪い空間でした。実はこの棟は最初に行ったときちょっと入ってみただけで、それっきり足を踏み入れてません。

小学校の構造はこのおそらく教師がたむろしていただろう棟を頭部とし、その首元に講堂の広い空間を挟んで奥に向かって広がる校庭を胴体部とし、さらにその胴体部に見える校庭の北と南にそれぞれ一棟ずつ、首元から校庭の両脇に腕を広げるように取り囲む、教室が並んだ北棟と南棟が建ってるという形になってました。

頭部に当たる棟はなんだか気後れしてしまって写真を撮ってたのはもっぱら京都芸術センターと書かれた自動扉の向こう側、北と南の二棟の教室が並ぶ回廊が中心でした。

南側教室棟廊下入り口
FUJIFILM NATURA CLASSICA : NATURA 1600

室町通りに面した正門からまっすぐに奥へと導く道を進み、その道の突き当たるところにある京都芸術センターの自動扉を潜るとなかは京都芸術センターで開催されてる催し物の案内や、関西や京都を中心に開催されてる展覧会やイベントなどのポスターが壁一面に貼られてる小さなロビー状になった空間が出迎えることになります。
そのロビーをはさんで教室棟と校庭で構成されてる学校本体の空間が広がっていて、玄関ロビーからその学校空間の入り口をスナップしたらこんな感じで目にはいってきます。もう一箇所、自転車置き場から校庭に入っていく道筋はあるけど、何も考えずにこの施設に立ち寄ったらおそらくこの光景が旧明倫小学校として見ることができる一番最初の光景じゃないかと思います。
奥に続いてる廊下は右手に教室が並んだ南側の棟。一番手前の教室は前田珈琲という喫茶店が教室の雰囲気を残した形で店を開いてます。教室の扉の上にある名札を利用して「カフェ」と書いてあるのが面白いです。
このナチュラ1600というフィルムで撮った写真はなかなか雰囲気のある色が出ていて、写りはかなり気に入ってます。壁の色も腰板の色もニュアンスがある色になってるし、光の当たってる廊下の奥のほうの空間の質感もいい感じ。

今回のフィルムの現像はフィルムの特徴を生かしたプリントをしてくれるところにフィルムを郵送して現像、プリントをしてもらったものなんですけど、ムツミでやってもらうのとはやっぱりちょっと違う感じで仕上がってます。ムツミでもナチュラは「はんなり」仕上げなんていう京都っぽいネーミングで特別のプリントをしてくれるようになってるものの、どうもハイキーにしただけっていう印象があって、こういう色味のニュアンスまでは持っていけてないような印象でした。
ちなみに今回のナチュラによる写真はフィルムからスキャンしたのではなくて、郵送プリントを頼んだ時についでにCDにしてもらったものから直接、若干縮小して載せてます。
ちなみに郵送現像、プリントを頼んだのは「ここ」でした。

廃墟じみた水のみ場
Nikon FM3A AI-S Nikkor 28mm f2.8 : KODAK PORTRA 400 NC

上の場所から喫茶店の向かい側にある開口部を通って校庭に出て、校庭の西端を経由して北の教室棟に入るところにあった水飲み場らしい空間。
ここはちょっと元小学校っていう雰囲気が残ってる場所でした。かなり薄暗く忘れ去られた場所という印象で、入るべきところでない場所に迷い込んでしまったという感じがしました。蛇口もそのまま残っていて、飲まないでという注意書きがしてあったからまだ水は出るんでしょうけど、云われなくてもあまり飲めそうな雰囲気じゃなかったです。

使われない蛇口
Nikon FM3A AI-S Nikkor 28mm f2.8 : KODAK PORTRA 400 NC

その蛇口。明倫小学校にはわたしの他にも写真撮りに来てる人がいる時があって、本格的なカメラをぶら下げた女性がこの蛇口の上にかがみこんでわたしと同様の動機だったんでしょうけど、夢中で写真撮ってる光景に一度出くわしました。
わたしがこの蛇口の写真撮った時も傍から見たらあんな感じだったんだろうなぁと思ったりして。オブジェに接近して撮ってる時は周りのことがあまりよく分からなくなってる時が多いです。

北棟西部スロープの窓
Nikon FM3A AI-S Nikkor 28mm f2.8 : KODAK PORTRA 400 NC

水飲み場の側にある二階へ上がるスロープの途上に校庭に向けて開いていた一群の窓。この北の教室棟の西側にある、階を結ぶ場所は階段じゃなくてスロープになってました。スロープの傾斜にしたがって次第に小さくなる、あるいは次第に大きくなる窓の並びがリズミカルで目を引きます。窓の向こうに校庭と北の教室棟が見えてるんですけど、光に霞むような撮り方がしたかった意図は多少はフィルムに定着できたでしょうか。

差し込む光
FUJIFILM NATURA CLASSICA : NATURA 1600

スロープの壁面に差し込む光。明倫小学校に入り浸ってる時に撮りたかった物の一つは壁に落ちる光だったんですけど、あいにくとこの頃の京都はとにかく曇りの日ばかりという天候でほとんど目的は達せなかった感じでした。たとえ晴れていても同時に雲も多く出てるような日がほとんど。光が差し込んできてもあっという間に流れてくる雲が隠してしまって、光は力を失ってしまうというのの繰り返しでした。

対照的
FUJIFILM NATURA CLASSICA : NATURA 1600

対照的な二つの窓。同じくスロープを登っていく途上で出会った丸い窓とあわせてスナップ。上と下で別のものをくっつけたような感じになってるのが私としては結構気に入ったポイントです。人の気配のなさというか、空間の冷たい手触りにちょっとシュールな感じも漂ってるような。

光の回廊
FUJIFILM NATURA CLASSICA : NATURA 1600

北と南の教室棟を繋いでる回廊の二階部分。光が差し込む窓が並んでいて半円形の窓の黒っぽい色と白い壁のコントラストがエッジの効いたイメージになってます。リズミカルなコントラストも目を引きました。
奥の暗くなってるところを右に曲がると北の教室棟に繋がっていきます。

廊下
FUJIFILM NATURA CLASSICA : NATURA 1600

教室棟の廊下です。北のほうだったか南のほうのだったかちょっと忘れてしまったけど、教室棟は両方ともこういう廊下が中心に走っていてその一方に教室が並んでる構造になってました。廊下の板張りが学校の記憶を呼び覚ましたりします。どこの学校でも廊下はこんな感じですよね。この空間は学校っぽい雰囲気が残ってるせいなのか、この廊下を背景に記念写真撮ってる人を何回か見てます。

もう一枚廊下の光景。
影の廊下
Nikon FM3A AI-S Nikkor 28mm f2.8 : KODAK PORTRA 400 NC

カフェの写真の廊下を奥に行って右に曲がったところから。若干影が主になってるような感じもあって、雰囲気あるでしょ。この廊下の窓が曲がり角の先の空間を照らす唯一の照明のようになっていて、廊下はこのままうす暗がりの中に沈みこんでいくような感じになってました。壁の一部をスポットライトが照らしてます。この頃右手の教室ではなにやら展覧会のようなものを開催していて、スポットライトが照らしてるのはその展覧会のポスターが貼ってあるところです。ここでやってた展覧会はあまり興味も引かずに結局一度も入りませんでした。

光射す教室
FUJIFILM NATURA CLASSICA : NATURA 1600

教室内部です。教室といっても、現在は京都芸術センターがその目的に使う場所として元あったに違いない勉強の机などは撤去されてる教室がほとんどでした。教室の入り口にはなにやら中で製作してる人の名前が張り出されていたりして、扉も鍵がかけられてるところがほとんどで中に入れません。教室で当時の机などが残ってるのはわたしが回った範囲で気づいたのは談話室として使われてるところだけだったような感じでした。でもこの談話室、いつも誰かがいて、小さな机でお弁当食べてたり、数人で話し込んだりしていて結局机のある教室風景は一枚も写真に撮れませんでした。

この教室もなにかの製作で使われてる様子でした。扉は開かず写真はガラス窓越しに撮影してます。窓越しに写真撮る時に窓の映り込みを避けたいなら、レンズを窓に密着して撮れば映りこみは避けられます。
この写真もそうやって撮りました。ただナチュラ・クラシカはピントあわせるときにレンズ鏡胴が前後に動くので、それを忘れていたせいで、シャッターを切った瞬間、密着させていた窓にカメラを押し戻されたりしてちょっと慌てましたけど。そのわりにブレブレ写真まではならなかったようです。

光が差し込むのを待って撮影。光に満ちた教室でちょっと眠くなりながら授業を受けてた時間が呼び起こされる感じがします。

コンダラのある風景
Nikon FM3A AI-S Nikkor 28mm f2.8 : KODAK PORTRA 400 NC

北の教室棟の東側の階段の踊り場の窓から校庭を見下ろして一枚。校庭の片隅に「巨人の星」でおなじみの「コンダラ」が置いてありました。これは元学校っぽいアイテムじゃないかな。ちなみに「コンダラ」で検索をかけてみるとこの道具の名前として当たり前のように出てきますね。

聖域
FUJIFILM NATURA CLASSICA : NATURA 1600

その「コンダラ」がある元校庭に降りてみたもの。校庭の周囲には立ち入らないでくださいという看板が立っていて、校舎棟の縁に沿って校庭の周囲しか歩くことが出来ませんでした。ひょっとしてこの校庭って明倫小学校が廃校になった瞬間で時間が止まってる?足跡も所々に見えるけどナスカの地上絵みたいに廃校になった当時の足跡がそのまま残ってる?なんて想像してちょっと感覚がざわめいたんですけど、日曜日だったかここに来てみると、普通にテニスして遊んでる人がいました。立ち入り禁止なんて札がかかってるから聖域になってるんだと思ったけど、申し込めば簡単に利用できるようでした。

光射す階段
Nikon FM3A AI-S Nikkor 28mm f2.8 : KODAK PORTRA 400 NC

光射す階段。上のコンダラの写真を撮った場所です。階段のこういう感じもわりと学校の記憶を呼び起こすようなイメージになってるかも。階段を上り下りする子供が一人でもいいから写ってると雰囲気倍層してたところかな。
撮った写真全体にいえるんですけど、人っ子一人いない写真がほとんどなのに廃校じみた何かが写しこまれてるものってなぜかないんですね。人は写ってないけど今も人が使ってる場所だということは分かる空間の様子だったりします。

窓からの眺め
FUJIFILM NATURA CLASSICA : NATURA 1600

北棟一階廊下に開いた窓から学校の裏手にあった小さな中庭に向けて撮った写真です。あまり学校とは直接的には結びつかないけど、窓越しの光景好きとしては撮らずにはいられなかったイメージでした。

喫煙室の窓
FUJIFILM NATURA CLASSICA : NATURA 1600

こちらは北棟二階西端にあった喫煙室と書かれた部屋の中。元小学校だったから元から喫煙室であったはずはないんでしょうけど、元は何に使ってた部屋だったのか円形の部屋で壁に模様も描かれていてちょっと特別な雰囲気のある部屋でした。
3月に入ってから訪れてみると3月からはもう喫煙室としては使わないという張り紙がしてありました。健康上の観点からの決断らしいです。わたしはもう禁煙してしまったので一切関係のない出来事なんですけど、喫煙者は本当に行き場がなくなってきてますね。

二階バルコニーからの眺め
FUJIFILM NATURA CLASSICA : NATURA 1600

二階北と南の教室棟を結ぶバルコニー風の通路から撮った北棟の様子。半円形の窓が並ぶ写真の窓の外にも少し写ってましたけど、一部ここだけ円柱形に飛び出た箇所があって、基本的には箱型の建物の連鎖になってる場所なので、結構目を引く部分となってました。
この窓の向こう側が上の喫煙室になってます。

談話室へ
FUJIFILM NATURA CLASSICA : NATURA 1600

結局のところ元明倫小学校といっても京都芸術センターに変身する際にかなり改築してる様子で、わたしは多少は廃校じみた雰囲気でも残ってるんじゃないかと期待していたものの、そういうところはほとんど残ってなく、それどころか外の包み紙こそ元学校だけど中身は通っていた生徒の記憶さえも半ば失った記憶喪失状態の建物になってしまってるようで、学校だった息遣いが残ってるところなんてまるでないという印象を受けました。たとえば掃除道具の何かが廊下の片隅にでも転がってるだけでも、随分と学校らしい雰囲気が出てくると思うんだけどそういうところも見当たりません。
それでこういう、場所を示す掲示板でも写したら学校っぽいかなと思って撮ってみたのがこの写真。もっとも談話室というのは京都芸術センターになってから出来たものだと思いますけど。ちなみに先に書いたようにこの談話室には子供が使っていた小さな机が並べてあります。
撮ってみると、ちょっと学校っぽいイメージにはなってるようでした。

一箇所、これは明倫小学校が未だにその内に秘めている学校の記憶だろうと思ったものを見つけて写真を撮ったのがこれです。

学校の記憶
Ricoh GR DIGITAL 3

窓枠の出っ張りの下に隠れたようにあった名前の書かれた札。物をかけるためのフックのようなものがつけられてた跡があって、おそらくそのフックの使用者の名前だと思うんですけど、フックは取り外されていたものの名前を書いた紙はそのまま残されてました。立って見てると窓枠の出っ張りに遮られてこんな紙が残ってるなんて見えないです。

☆ ☆ ☆

結局、登録有形文化財に登録されてるのが西館・南館・北館・正門、塀という部分だけなのでも分かるように、明倫小学校が昔の形そのままで残ってるわけでもなくて、わたしがみたところ外見はそれなりに調えようとはしたけど、その小学校の秘めていたに違いない記憶のようなものにはあまり頓着しない改築が行われてるような雰囲気で、昔明倫小学校というものだった重層した記憶の堆積したような何かを見られるかもしれないと思ったわたしの思惑は上手く収まるところが見出せないままに、元校舎内をうろつきまわるという形になりました。
結果的に校舎内をさまよって写真に撮ってたのは、わたしが好きな窓枠と差し込む光とそのガラスの向こうに見える世界といった対象ばかりということに。一連の撮影で使用したフィルムをあとで纏めてみてみると、明倫小学校の様子なんかそっちのけで我ながら感心するくらい窓の写真ばかり撮ってました。

それで窓と窓の向こうに見える世界っていうのはわたしにとってどういう意味があるんだろうかってちょっと考えてみたんですね。

まず思いつくのは、カメラのファインダーを覗きこむことからしてこの窓から外を見るという形と相似形になってるということ。ファインダーのガラス越しに、その中の暗闇に四角く切り取られて浮き出た世界をまるで覗き穴から何かを接視してるかのように息を潜めて凝視する。わたしがカメラのファインダーを覗きこんでるときの意識の状態って言葉にしてみるとこんな感じで、この感覚がまず好きでファインダーを覗いてるような感じになってます。

こういう覗き穴的な感覚で思い出したのはマルセル・デュシャン(Marcel Duchamp)の遺作です。20世紀の美術界でおそらく最も重要な位置にいた、この人の思考、感性によって20世紀の美術の志向の最大部分が決定付けられてるといっても云いすぎじゃないほど重要な人物、マルセル・デュシャンの謎めいた遺作。
20世紀初頭の美術界でダダイストとして芸術概念の相対化などを展開、便器を逆さまにして「泉」と題して展覧会に出品し、実際には議論の末に展示はされなかったらしいんですけど、レディメイド・オブジェの概念を始めて美術に持ち込んだりといった、どこまで真面目なのかちょっとユーモアも混じった一種の観念の破壊に似た美術活動をしたあと、一切の美術的な行動から身を引き、後半生をチェスの研究に費やした人物。このアートの解体者デュシャンの沈黙は当時の美術界でも評価する、しないで二分してたようなんですけど、最後まで一筋縄では行かない人物だったようで、沈黙の20年間に密かに一つの作品を作り続けていて、デュシャンの死後、死後公開という条件がつけられていたこの作品が公表されることになります。もう芸術活動なんか止めてしまってチェスに没頭する老人と受け止められていたから、誰にも知られずに20年間作り続けてた遺作の存在が明らかになった時はみんな吃驚。

遺作は「(1)落下する水、(2)照明用ガス、が与えられたとせよ」 (Étant donnés: 1° la chute d'eau, 2° le gaz d'éclairage) (1946~1966年)というちょっと不思議なタイトルがつけられたものなんですが、作品そのものも異様なもので、木組みの大きな閉ざされた扉に空いている小さな覗き穴からしか視ることが出来ないような構造になったものでした。現在はデュシャンによってこの作品を死後寄進されたフィラデルフィア美術館の一室がこのデュシャンの遺作を設置する場所として設けられてます。
わたしは実物は見たことがないんですけど、わたしの友人で昔アメリカを放浪してたのがいて、わたしがこの作品のことを喋ったりするから、実際にフィラデルフィア美術館まで行って見てきたと云ってました。思い出すといまだにかなりうらやましいです。
それはともかく、この作品、中を覗くと扉の内にある煉瓦塀の裂け目の向こうに神秘的な山の風景と近景に草むらが配置されていて、その草むらに顔は煉瓦塀に隠れて見えないけど裸の少女らしき体が足を広げて横たわっていて、片手に持ったランプを中空に掲げてるという光景が見えるようになっています。


デュシャンの遺作を覗き込んだ時の動画がYoutubeにありました。わたしも美術書で写真は見たことがあるけど、実際に覗くとどんな感じなのかは初めて見ました。


覗き穴から息を潜めてその向こうに広がる光景を見る。少女が横たわってるが、覗き穴の位置からは顔が見えないので、裸で横たわって何をしようとしてるのか、何が起こった光景なのか分からなくて謎のままの光景を見続けることになる。
覗き穴の意味は視ることの意識化とそこで見た光景との隔絶性といったもの。覗き穴から盗み見ることでその向こうの世界は特別な世界としての意味合いを生じるけど、覗き穴を介する限りその向こうの、接視することで特別な意味を与えられた世界には永遠に到達不可能であるということ。この作品が生成する感覚はこういった感じのものだと思います。

☆ ☆ ☆

この感覚、カメラのファインダーを覗いた時とそっくりなんですよね。カメラを構えて覗きこんでる時、ファインダーの暗闇で切り取って美しく見えた世界を、わたしはまるで盗み見てるかのように息を潜めて凝視してるんですけど、カメラを手放してたとえそのファインダー越しに見た世界に足を運んで近づいても、そこにあるのは闇の中に四角く浮き出ていた特別の世界とはそっくりではあるけど似ても似つかない世界だったりします。
ファインダーというガラスで隔離された形でしか見出すことが出来ない、絶えず遠くにあって近づくことが出来ない世界。これがわたしがカメラから受け取る世界の有様ということになるのかもしれません。そして、その感覚は「覗き」という言葉に象徴されるように、多分に官能的な手触りを併せ持ったものでもあります

カメラを構えるということのたくさんある意味合いの一つはわたしにとっては上に書いたようなことだと思います。
そして窓枠を通して外の世界を眺めるというのも先にちょっと書いたように、わたしにはまるでこのファインダーを覗き込むのと、形としてはほぼ相似形を取ってるような行為に見えるところがあります。窓枠というのは覗き穴としては巨大すぎて、ファインダーを覗いた時の感覚とまるで一緒というわけでもないですけど、ファインダーを覗いてる時の官能的な感覚のわずかな残響音が視覚の中に響いてくるといった感じがします。
窓枠から眺める、隔離されて遠ざかる世界や、覗きこむ官能が気づくか気づかないかの微妙な感触で寄り添ってるようなビジョン。そういうファインダーから受ける感触に似たものを窓から望む世界から受け取ってるような気がして、ことのほか窓枠から眺める世界というものに気を惹かれてるような気がします。

また、この窓枠から望む世界を窓のこちら側からファインダーを通して眺め、窓枠から垣間見える世界と、その世界を窓を通して覗き込む行為を一緒にフィルムに収めるような撮り方をすることは、覗き込むという行為の意味も一枚の写真のなかに写し取れると感じてるからなんじゃないかと。わたし自身はそんな風に思ってるところがありそうです。
わたしがファインダーを覗きこむときに感じるような官能的ななにかを、一枚の写真の中にその光景と一緒に写しこめるかもしれないというようなことを無意識にでも思ってるから、窓で囲まれた世界をみると無条件でカメラを向けたくなるのかもしれないなぁって想像したりします。

ちなみに永遠に遠ざかり続ける世界って、云い換えてみるならば記憶の中の世界とアナロジカルな関係を持つようなもので、こういうところもノスタルジックなものが好きなわたしの感覚を刺激するのかもしれません。

☆ ☆ ☆


とまぁ、勢い込んで書き始めたもののあまり上手くまとめられないのでこの話はこれくらいにして、最後に、冒頭の写真に写っていた喫茶店のことを少し。
京都芸術センターで写真を撮ってた時にこのカフェでランチなんかを食べてました。京都市内にチェーン展開してる喫茶店らしくて、わたしは知らなかったんですけど、東山にあって、前を通ったことのある喫茶店がこの前田珈琲でした。

カフェ
Ricoh GR DIGITAL 3

京都芸術センターにあった前田珈琲は教室の雰囲気を残したこんな空間になってました。

ランプ
FUJIFILM NATURA CLASSICA : NATURA 1600

冬のテラス
FUJIFILM NATURA CLASSICA : NATURA 1600

ランチ
Ricoh GR DIGITAL 3

わりとよく食べたのは月変わりで仕様が変化するカレーのランチ。サラダとスープとドリンクと食後のミニアイスがついてカレーの量もそれなりにあったのに、代金は1000円しなかったです。
この京都芸術センターをでて少し北東に行った辺りに前田珈琲の本店があって、カレーはそっちで食べたもののほうがごろごろと切ったジャガイモなんかが入ってる懐かしいカレーで美味しかったです。スープだけになったような本格的なのかもしれないけど物足りないカレーよりも家庭で作る具が一杯、形を保って入ってるカレーのほうがわたしは好き。


☆ ☆ ☆

Theme From MASH (Suicide Is Painless)

ロバート・アルトマン監督の映画「M*A*S*H」の主題歌。本編よりも印象的というのはかなり異論があると思いますけど、少なくともわたしにとってはそんな感じ。映画のほうは朝鮮戦争時の野戦病院を舞台にしたブラック・コメディで、わたしはあまり内容を覚えてません。ドナルド・サザーランドがでてたなぁくらい。この主題歌のほうはYoutubeで探して見つけたときに再び聴いてしまったら、今現在、ことあるごとに頭の中で自動的に鳴り始めるような状態になってしまってます。あぁ鬱陶しい。
わたしの中では音楽の印象に完全に負けてしまってる映画なんですけど、映画のほうはDVDも持ってるからそのうち見直して何か書けたらいいなと思ってます。

この歌、内容はシニカルというか戦争の真っ只中に放り込まれて、自分の生き死にさえも自分の手の届かないところでもてあそばれてしまう状況での半ばあきらめの入ったような抵抗主義という感じの内容で、深刻な内容とユーモラスな表現が渾然一体となったなかなか面白い歌だと思います。メロディも綺麗だし。
それでこの歌、作曲のほうはJohnny Mandelで、歌詞の方は誰が作ったかというとどうもアルトマン監督の息子らしくて、作った当時14歳だったというからこれはちょっと吃驚です。14歳でこんな歌がかけるのかって。
ちなみにこれは本編より印象的というタイトルにぴったりだと思いますけど、この映画でアルトマン監督が稼いだ金額よりも息子がこの曲の印税で稼いだ額のほうが遥かに多かったらしいです。

いろんな歌手にカバーされてる曲で、物凄く意外と言うかあるいは内容的には結構似合ってるというか、なんとマリリン・マンソンまでカバーしてました。さすがに曲調はこういうフォーク・バラードっぽいコーラスとはまるっきり違ってましたけど。
映画版のこの曲を歌ったのはJohn Bahler, Tom Bahler, Ron Hicklin and Ian Freebairn-Smithとありますが、この歌手たちのことはわたしは良く知らないです。どうもスタジオシンガーが集められて曲の歌パートをつくったらしく、この集められたメンバーの中では、後になってメジャー・デビューした人もいたそうです。



☆ ☆ ☆



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わたしが持ってるDVDも特典のディスクがついた2枚組のものなんですけど、どうもそのタイプのがもうすぐ廉価で発売されるようです。

デュシャンは語る (ちくま学芸文庫)デュシャンは語る (ちくま学芸文庫)
(1999/05)
マルセル デュシャン、ピエール カバンヌ 他

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Marcel Duchamp Etant Donnes Manual of InstructionsMarcel Duchamp Etant Donnes Manual of Instructions
(2009/08/25)
Marcel Duchamp

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デュシャンに関する文献はいろんな物が出版されてます。ちくま学術文庫にもデュシャンとの対話の本が入ってるくらいある意味ポピュラーな人物なので、興味があれば読んでみるのも一興かもしれません。
これはデュシャンの遺作の設置方法、つまりアトリエで密かに作られ続けた作品を解体して寄進先のフィラデルフィア美術館で再度組み上げる際の方法について、デュシャンが残したメモと写真をそのまま本にしたもの。覗き穴からしか見えない向こう側の世界が覗き穴以外の視点から見られるのが値打ち。要するに遺作にかかっていた魔法が解けてしまう本でもあります。
もとはフィラデルフィア美術館が発行した本で絶版になってたものをイェール大学が近年になって再販したものです。





【展覧会】小牧源太郎展 +【写真】モノクローム・スケッチ +【音楽】恋歌

先月15日の水曜日、定期検査で医者のところに行った帰り、ついでに小牧源太郎という画家の展覧会を観にいってきました。展覧会があると知ったのは先月所用で山科のほうに行った時に見た、地下鉄東西線の車内に貼ってあったポスターからでした。
ポスターの名前を見た瞬間、横溝正史の「鬼火」だとか江戸川乱歩の「陰獣」などの耽美的で隠微な幻想に溢れた挿絵を書いた人?と頭に思い浮かび、挿絵が載ってたから角川で持っていたのに創元の推理文庫で正史のものを買い足したことがあるわたしとしてはかなり気を惹かれたものの、耽美な挿絵の人は竹中英太郎であったとその後の一瞬で勘違いだったことに気づきました。
学生の時に学生会館の喫茶室でコーヒー一杯を前にして何日も読みふけってた「黒死館殺人事件」の小栗虫太郎の印象が強烈で、思惑違いであったとしてもわたしにはどうも漢字5文字で「○太郎」という名前の人物には変った作品を残した人というイメージが刷り込まれていて、他の名前と比べると無条件で注意が向かってしまうようです。
ポスターになってる作品のイメージも随分とタッチが違うし、なんだ、「蔵の中」の挿絵の人じゃなかったのかと一旦意気消沈したものの、でも名前は何処かで聞いたことがある画家だし、ポスターの文句を読んでみると、どうやら日本のシュルレアリスムの草分けの人らしくて、シュルレアリスムなら好きだから面白そうだなぁと、その後も気になる展覧会として記憶の一辺を占めることとなりました。

展覧会が始まったのは14日だったんですけど、思い違いで予期しない関心を持った画家だったせいか、それだけのために出かけるほどの勢いはわたしの中を探ってもどこにも無くて、翌日の15日に上に書いたような経緯で観にいくことにしました。

パンフレット表紙

パンフレット2
(会場に入った時に受付で貰ったパンフレット。クリックで拡大します。大きくすればひょっとしたら書いてある文字も読めるかも)

場所は中信美術館というところ。実はこういう美術館があるのは今まで知らなくて、京都中央信用金庫なんていうところが美術館活動をやってるということも今回始めて知りました。調べてみると開設は平成21年だということでかなり新しい美術館だったようです。設立の趣意は京都中央信用金庫や公益財団法人中信美術奨励基金に関係する芸術家の作品展を企画展示し、京都の芸術文化の振興と継承を目的に運営するとありました。

地図を見ると位置的には京都府庁の西側に隣接してるようで、お医者さんで用事を済ませた後京阪の三条まで来てここから地下鉄の東西線、烏丸線を乗り継いで丸太町の駅で降り立ちました。ちょうど御所の南西端辺りで地上に出てくることになり、目的の場所に行くために御所の西側に沿って伸びてる烏丸通りをそのまま北に向かいます。地下鉄の駅の北西の出入り口から出てくるとすぐ脇には煉瓦塀に囲まれた大丸ヴィラが目を引くことになります。大丸社主の下村正太郎邸としてW.M.ヴォーリズによって設計されたチューダー・スタイルの洋館。京都市登録有形文化財である建物なんだそうです。ただし現在は一般には非公開となっていて煉瓦塀から一部を覗き見られる程度となってます。

この日はただひたすら雲が空を覆ってるような重苦しい曇り空で小雪がちらついてもおかしくないような気候でした。家を出るときから天気が悪いのはもう分かりきっていたし、立ち寄る場所が美術館ということもあって、ハッセルやFM3Aのような大層なカメラを持って出る気にはならず、ロケンロールなトイカメラ、Wide Lens Cameraと年末の散財の勢いで買った中古で安く出ていたデジカメ、リコーのGRD3の2台を持って出ていました。

Wide Lens Cameraのほうはもう3~4ヶ月なかなか撮り終わらない感度800のフィルムを入れたままになっていた残り6枚ほどを、この日に残り全部撮りきってしまおうと持ってきていて、地下から出てきて真っ先に目にはいるこの大丸ヴィラをさっそく撮ってみることにしました。

大丸ヴィラ 指写り失敗写真
Wide Lens Camera : SUPERIA Venus 800
大丸ヴィラ

たまには失敗写真も載せてみます。
これは指が写ってしまったもの。Wide Lens Cameraは広角22mmのレンズでレンズがカメラの表面から飛び出してないデザインだから、持ち方で気を許してしまうとかなりの高確率で指が写りこみます。何本かフィルムを通してそれなりに慣れて来たカメラなのに、未だに1ロールで数枚指が写った写真を撮ってしまってます。
写真そのものは内部が煉瓦塀越しにしか見られない上に木陰で曇りの天気という暗さだったのでこのカメラでは感度800のフィルムでもかなり条件がきつかった様子でした。

大丸ヴィラ 門
RICOH GR DIGITAL 3
大丸ヴィラ 正面脇の門

内部非公開のために門扉に阻まれ、指入り写真で失敗したとも知らないままにその場を後にして、大丸ヴィラの側を通り過ぎて北に向かって歩いていくと府庁前に行く下立売通りと交差してるところに出てきます。その交差点の南西に建ってるのが平安女学院の日本聖公会京都教区聖アグネス教会。煉瓦作りの風情が同志社同様に際立っており、ここでもちょっとシャッターをきってみました。

日本聖公会京都教区聖アグネス教会
Wide Lens Camera : SUPERIA Venus 800
聖アグネス教会

とにかく厚い雲に覆われた陰鬱な日だったのも相まって、なんだかホラー映画にでも出てきそうな写り方になってました。こういう建物って見上げるしか視点の取りようがないところがあって、よほどあれこれ試してみないと変化に富んだ写真にするのは意外と難しそうです。中央の丸窓だけ拡大して撮りたかったけど、望遠を使って離れたところから撮るとか、塔の内部に入って内側から窓を撮るとかする以外では、単焦点の広角レンズでははなっから無理な相談でした。

ついでだから載せてみますけど、後日、旧京都府庁に行った時、また別の角度で撮ってみたのがこの写真。
聖アグネス教会
OLYMPUS OM-1 G.ZUIKO 50mm f1.4 : KODAK SUPER GOLD 400
聖アグネス教会

この交差点を府庁の方向に曲がり、教会に続く平安女学院の前を通り過ぎて歩いていきます。
やがて程なく府庁前に到着。京都府庁旧本館も古い建物でちょっと写真にとってみたいところもあるんですが、この日は来たついでに周囲をめぐってこんな写真を撮っただけで、目的の美術館に向かってます。

街灯
RICOH GR DIGITAL 3
京都府庁 周囲
これはちょっとかっこいい写り方かなぁ。ニュアンスの異なる縦向けのラインが集まって単純な構造だけどそれなりに変化もあるし。
縦に長いポール状のものって構図取りが難しいです。少なくともわたしはかなり迷います。どう撮っても芸のない写り方になりそうで。

中信美術館は府庁に隣接してると思い、きっと信用金庫の目立つ建物でもあるんだろうと思って歩いていたら堀川に出てしまい、明らかに行き過ぎてるのが分かったので、一体どこにあったのだろうともう一度府庁のほうに戻りかけて見つけました。周囲には信用金庫のビルなんかは全くなくて、完全に独立した建物が小さなビルや民家の列に馴染むようにしてこじんまりと建ってました。

中信美術館 入り口
RICOH GR DIGITAL 3

草木をモチーフにした天井や鉄扉を側に見て美術館の中に入ると、美術館然とした受付のテーブルと受付の女性、それと目の前の壁に掲げられた大きな絵が視界に入ってきます。ちなみに入場、鑑賞は無料でした。

入ってすぐにある足元の案内にはスリッパに履き替えてくださいといった要望が書かれていてちょっと意表をつかれます。中信美術館は土足では中に入れない美術館なんですね。側にあった棚からスリッパを取り出して履き替え終わるとテーブルの向こうにいた係りの女性が館内にどういう配置で展示してあるか説明してくれて、その指示と廊下にある道順の案内プレートにしたがって館内を巡り歩くような形になってました。
今回の展示の部屋は合計で3つ。それぞれの展示室の大きさはかなりこじんまりとしていて、最近明倫小学校に写真を撮りに行くことが多いので、その関連のイメージで行くと大体一般的な小学校の教室だと、およそその3分の2くらいの広さでした。裕福な家だったら応接間でもこのくらいの広さがあるかもというくらいの規模で、美術館としてはかなり小さな印象でした。
美術館の体裁にはなってるけど、入場料が無料だったことや展示物の展開内容から見ると実質的には規模の大きな画廊といった感じの場所。入り口でスリッパに履き替えたせいなのか、プライベートな空間に紛れ込んだような感じもしました。

☆ ☆ ☆

先に書いたように小牧源太郎という画家に関してはわたしは名前は何処かで聞いたことがある気がするけど、どういう画家だったのかはほとんど知らない状態でした。
もらったパンフレットには略歴も書かれていて、それによると1906年に京都に生まれ1989年に亡くなるまでずっと京都で活動を続けた画家とあります。略歴を読んで思い浮かんだのは、生まれ故郷から出ることなく鳥取の砂漠を舞台にシュールでスタイリッシュな写真を撮っていた写真家植田正治のような画家だなぁということでした。

作品の傾向は活動初期がシュルレアリスム的なイメージ、その後京都で活動してたからなのか仏教的なものやそこからの派生形で民俗学的なものをモチーフにしたり、絵画に精神分析学的な役割を見出そうとするようなことを試みたりしていたそうです。
シュルレアリスム的な時期だとか仏教的な時期だとか民俗学的絵画の時期だとか一人の作家の感性の遍歴を見せるような構成にはなってた展覧会でしたけど、作品は全部で30点しか展示されてないし、わたしが観たかったシュルレアリスム期の作品はたったの2点のみ。個別のテーマに関しても作家の感性の変遷を見るにしても、無料で観ていて云うのもなんだけど、規模的にはかなり物足りない展示だったように思われます。ただ全体を通してこの少ない出展を見ただけでも、小牧源太郎は基本的には記号、図案的なイメージを好む作家で各時期熱中したテーマは変化したけど、全体にわたって記号、図案思考は変らなかった画家だったんだということは分かるような展覧会でした。
そういう意味では展覧会の副題にある造型思考という言葉はこの画家の本質を言い当てていて的確であったと思いました。

さて肝心のわたしの関心ごとであった、小牧源太郎のシュルレアリスム期の2点の作品のうち、わたしの好きな描き方の絵はパンフレットにも載ってる民族病理学(祈り)という油彩の作品でした。活動暦の初期に描かれた作品だったので、展覧会の展示順序では最初から2枚目に目にすることになる絵画。わたしはたとえば食事は好みのものを一番最後まで残しておくタイプで、往々にしてお腹が一杯になってしまって後まで楽しみに取っておいたものをあまり美味しく食べられなくなるということになりがちなんですけど、今回の展覧会はその全く逆で目当てのものを一番最初に見てしまった形になりました。これはわたしがいろんなものに接した時の馴染みのリズムではないわけで、おかげで展覧会の全貌は知らずに観ていたはずなのに、大半の展示作品が目当てのものの後の付け足しのような印象を伴ってしまって、鑑賞体験としては余りいい状態でもなかったかもしれません。

シュルレアリスムでもこういうタイプの絵画は凄く興味を惹かれます。好んで描かれるのは大概が夢魔のような異世界なんですけど、その異世界を異世界として存在を信じ込ませるくらい緻密に描いて、そのリアルな非現実世界にこれまた非現実的で奇妙なオブジェが転がってるような絵画。シュルレアリスムも名前からいくとリアリズムの一種だから、異世界がどんなに異様で奇妙であってもリアルに描かれてるのは必然で、その世界に存在してるオブジェも何なのか皆目分からない謎のものであっても質感等はリアルな手触りを感じるような描かれかたをしてるといった感じの絵画です。さらに異世界に点在するオブジェは有機的なフォルムだったりするのもわたしにとっては必要不可欠な要素だったりします。
シュルレアリスムでこのタイプの絵画でいうと、一番代表的画家だとダリが典型的です。わたしが好きなのはイヴ・タンギーとかマックス・エルンスト辺りの絵画。球体関節人形の作者としてのほうが有名だけどハンス・ヴェルメールが描いた絵画なんかも好きな部類に入ります。特にタンギーの海底を思わせるような静謐な世界に点在する有機的なオブジェ群っていうヴィジョンは異様で、その世界に実際に入り込んで眺め回したりオブジェを手にとってその手触りを体験してみたいと思うくらいです。


Yves Tanguy

Youtubeにイヴ・タンギーの絵画をスライドショーにしたものがありました。こんな絵画です。


小牧源太郎の民族病理学という絵画は様式はまさしくわたしが好きなタイプのシュルレアリスム絵画でした。描かれてるオブジェで一番目立つものはなにやら気味の悪い節足動物かむき出しの肋骨を思わせるような有機的なもので、この辺も異世界的な雰囲気が出ていて面白いです。
でもモチーフは面白いのに、全体的なタッチは実際に大きな実物で見るとそれほど精緻でもなくて、細部が随分と簡略化されてるような印象を受けました。この辺りは展覧会の全体を見通して、小牧源太郎はリアル志向じゃなくて記号、図案の作家なんだと思った要素がこの初期シュルレアリスム絵画にも早くも出てきてる感じで、それがダリ的な世界を扱っても小牧源太郎の個性として出てるんでしょうけど、ディテールの乏しさは異世界構築の絵画としては結構な物足りなさを感じさせるのも確かなところでした。あとこの絵画は戦争中に描かれたもので、戦争批判的な意味合いで戦闘機らしきものが描かれていたりするのも、わたしの趣味に合わないところでした。わたしは社会派とかいった類のものってあまり好きじゃないです。絵画でも音楽でも文学でも、こういうものは何かのための手段と化してるアートよりも、アートそのものとして成立してるアートのほうが好みだったりします。

もう一つのシュルレアリスム絵画は完全に記号的な描き方をした抽象的なもので、わたしが見たかったシュルレアリスム的な絵画はこの展覧会ではこれでお終い。実にあっけなかったです。

同じ展示室にあったほかの油絵ではジャクソン・ポロックのようなドリッピングを使ったアンフォルメルの絵画が印象に残りました。でも、絵具を滴らせた道具を振り回して偶然が描く絵具の軌跡で絵画を描くという手法なんですけど、ここでも飛び散る絵具の勢いやその場限りの偶然性なんかにはあまり興味がないような作り方で、たとえば飛び散った絵具の軌跡の端っこにそれそれ丸い目のようなものを書き入れて、ある種意味合いを与えて形として独立させようとするような、出来上がった偶然そのものの視覚化を静的な形としてカンバスに定着させようとしてる意図が感じられるような描き方だったので、図案思考の小牧源太郎の刻印が押されてる絵画であるのは、アンフォルメルというシュルレアリスムとはまた違ったモチーフの絵画でも同じなんだと思ったりして眺めてました。

☆ ☆ ☆

最初の展示室の最初の絵画数点だけで、ひょっとしてもうシュルレアリスムってお終い?と思いながらその後館内を見歩いてたせいもあって、残り二室の展示は晩年の最重要モチーフの針金状「ひとがた」人間がいろんな形で登場するものを展示室ひとつ分くらい用意して、本来はこの部分こそがこの展覧会の要、小牧源太郎の本質が現れてくる展開だったんでしょうけど、わたしとしては先に書いたように付け足し感のほうが強くなってしまってました。

記号的、図案的な絵画というのも、以前モホイ=ナジの展覧会について書いた時に、ロシアン・フォルマリズムも取り上げたように、実はわたしはこういう絵画も結構好きな部類に入ってます。ただロシア構成主義だとかバウハウスなんかで見られたモダニズム的なもの、エッジの効いたダイナミズムみたいなものによってこういう絵画や運動が好きだった目から見ると、小牧源太郎の構成的な絵画はいささか泥臭いというか、モダニズムとは完全に違う地平で成立してるように見えました。これはおそらく仏教とか民俗学に傾倒した結果が絵に出てきた結果と見て間違いないんじゃないかと思います。
わたしは記号的なものならモダンな抽象形態といったものが好きなので、今回の展覧会ではシュルレアリスム期以降の作品を見ながら展示室を歩いてる時は正直なところあまりピンと来るものがないままに観終わってしまいました。でも帰ってから貰ったパンフレットを見返してみたり、これを書くのに何度も眺めなおしたりするうちに、こういう泥臭さもちょっと面白いかもって思ったりしてます。
この小牧源太郎の洗練されなさを残す図案趣味といった感じのものって、何年か前にアウトサイダー・アートなんていうカテゴリーで紹介されていた、ヘンリー・ダーガーなんかを代表とするカテゴリーの作品群と、図案なのにすっきりと割り切れてないような情念的で混沌としたものを含んでしまってる点で多少は通底してる部分もあるんじゃないかなと。精神分析学的なアプローチを小牧源太郎が試みたということも略歴に書いてあったし、そういう目で見ると、わたしがモダニズム的な感覚を通して関係を持ちようがなかった小牧源太郎の主要作品群も、もうちょっと馴染みがよくなるかもしれないなんて思いました。

☆ ☆ ☆

とまぁこんな感じで展覧会を見終わって、小さな展示室でもそれぞれの部屋に監視の人が一人ついていて、実はわたしが観にいった時は帰り際に一人若い男性が入ってきただけで、鑑賞はずっと一人でする形になっていたから、小さな部屋に監視の人と二人っきりでいると、なんだか退出する時もその人に何か言わなければいけないかなといった感じで、ありがとうございましたと挨拶しながら展示室を出たりしてました。中信美術館ってスリッパに履き替えるのから始まって、監視の人との思いもかけない親密でちょっと居心地の悪い空間といったものも含めて、美術館としては雰囲気は思いのほかユニークといった印象の施設でした。
ひょっとしたら偶然電車の広告を目にして行くことになった今回の展覧会では、結果として小牧源太郎の存在を知ったことよりも、このユニークでこじんまりした美術館が京都府庁の近くにあるということを知ったのが収穫だったのかもしれません。


☆ 展覧会の会期は3月の11日までです。



☆ ☆ ☆ 【写真】モノクローム・スケッチ ☆ ☆ ☆


一月の半ばからの寒波と天気の悪さでこのところ一段とフィルムの消費が落ちた日々が続いてます。それでも嵐山に行ったり西陣の街中を歩き回ったり、最近は近くの中信美術館に行ったのが切っ掛けで、旧府庁なんかに行って写真撮ってはいるものの、気分のほうはずっと若干欲求不満気味。この二月ほど、なにしろ撮る写真のほとんどがぼんやりとした影さえも出ずに、空はいつも白っぽい曇り空で、精彩をかくこと著しい感じです。曇りでも雨の日でもその日の有様だから、その日の世界として写真に撮る値打ちもあるんでしょうけど、青空とコントラストの強い影は毎日撮っていても飽きないのに、曇り空はそればかり撮ってるとなぜか知らないけど飽きてくるんですね。たまに晴れる日も一日も保たずにすぐに下り坂に向かうから、晴れた日はカメラ持って出かけないと勿体無いような気分になってます。
一日だけでお終いというようなこんな晴天じゃなくて、晴れた日が続きだすとこの陰鬱な季節も終わりということになるんでしょう。寒波も曇り空も飽き飽きしてるのでそういう日がやってくるのが待ち遠しいです。

写真はこういう陰鬱な状況のもと、最近撮ったものが数少なくて出すものがないというわけでもないんですけど、この前の続きで、同じフィルム・ロールから別の写真を何点か載せてみます。いつもだったらフィルム一本に5枚も気に入ったのがあれば上等っていうところなんですけど、このロールは結構気に入った写真が撮れたロールでした。撮ってた時期は去年の年末辺り。イルミネーションのイベントをやっていた頃の中之島の写真が多いです。

ディアモール
CONTAX TVS2 : ILFORD XP2 PRO 400
梅田ディアモールの一角

ガラスの向こうに広がる光景と壁に落ちる光、おまけに温室的なドーム状の天井という、わたしが好きな要素が重なったようなイメージです。場所は大阪梅田の地下街ディアモール大阪の、御堂筋線の改札から駅前第二ビルまで行く途中の、地上からの光を取り入れてる通路。なぜか窓枠のように区切られた枠から覗く光景って好きなところがあって、去年の夏に森山大道の展覧会に行ったときにも似たような写真を撮ったことがあります。

まだブログには載せてなかったけど、その時キヤノンのハーフカメラで撮ったのはこんな写真でした。
美術館にて
Canon demi EE17 : FUJI COLOR 100
国立国際美術館

これもほとんど同じ要素で成り立ってます。目測式のカメラだったのでピントは大まか。ガラスのドームの向こうに見えるビルがぼんやりとしてるのも記憶の中の光景みたいでこういうのってわりと好きだったりします。一度わざとピンボケで撮ってみようかと思うものの、ピントを追いこめるカメラだったらどうもきっちりと合わさないといけないような気分になるので、なかなか意図してピンボケ写真って撮れないというか、ちょっと勇気がいりますね。それとドーム状の建物ということだと、植物園ももう一度行ってみてもいいかなと思ってます。以前に学研の付録の二眼カメラを持って植物園に行ったときは温室はどうも有料のようだったから入りませんでした。

コントラスト・タワー
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中之島界隈

縦に長いものは凄く撮りにくいと書いたのと同じ感じ。縦長のものを撮るために縦長の画面にするとまるで何も考えてないような絵になるし、横画面で撮ると一部しか撮れなくて高さがなかなか上手く感じられなくなりがち。
このビル、何のビルか知らないけど、コントラストが効いた外観で気を引きました。建物としてはこういう現代的なビルって嫌いなほうなんですけど、高さ規制のある京都だと観ない建物でもあるのでちょっと物珍しさがあります。相変わらずの曇り空でモノクロにしなくてもほとんど白一色の背景は、この場合はビルのコントラストを強調して上手くあってたような気がします。

規制といえば京都は町並みに関して色も規制してます。マクドナルドのような店でも京都に出店する時は派手な色を控えてるとか。公認で派手な色って鳥居の赤くらいかな。
別にマクドナルドが地味でも一向に構わないんですけど、カラフルな写真を撮りたくなった時は、京都ではなかなか難儀することになります。

中之島中央公会堂
CONTAX TVS2 : ILFORD XP2 PRO 400
中之島公会堂

建物としたらこういう建物のほうが好き。確か影が落ちてる中で窓周辺に光があたって浮かび上がってるのに気を惹かれて撮ったと記憶してます。

マネキンが目を閉じる
CONTAX TVS2 : ILFORD XP2 PRO 400
四条河原町周辺

四条通りの烏丸から河原町辺りのブティックに飾ってあったマネキン。妙なマネキンと思ってシャッターを切りました。どうもこのブランドの店ではどこでもこの時期はこのマネキンを使っていたようで、大阪を歩いてる時にも見かけたような気がします。最近目を閉じたマネキン自体よく見るように思うんですけど、ひょっとして流行ってるのかなぁ。目を閉じた人形といえば恋月姫の球体関節人形を思い浮かべるけど、同じ目を閉じるにしてもあれとは全くニュアンスが異なる印象になってるようです。

こういうディスプレイ系統を撮る時って出来上がった写真がもしかっこ良かったりしても、そのかっこ良さは写真を撮ったわたしのほうにあるんじゃなくて、ディスプレイをデザインした人の側にあると考えると、わたしが写真を撮る意味というのがいまいち分からなくなってくるところがあるんですね。

だからまぁこれは面白いマネキンだったから撮ってみたんですけど、店先のディスプレイとか洒落て見えても、出来上がるものが最後までわたしの手腕によるものじゃないと思うと、あまり撮る気にはならない場合が多かったりします。
写真はすべて一からそろえて演出するものもあるけど、大抵の場合、対象物そのものを自分で作らないから、シャッターを切ろうとする時にこういうこと、つまり写真に写し取れるものはわたしのものなのか、それとも対象物のものかといったことを考える機会は、わたしの場合はわりとあるような気がします。

重層
CONTAX TVS2 : ILFORD XP2 PRO 400
中之島公園

これはウィンドウに並んだ瓶を撮ったんですけど、仕上がってみたら目一杯対面の光景が映りこんでいたもの。
最初見たときは大失敗と思ったものの、しばらく放置してから再見してみると、意外と良いかもと思いなおした一枚でした。まるで多重露光したように見えて、そう見えてくるとなかなか面白くなってきました。
一度見ていまひとつでもしばらく寝かせておくと違う見方が出来るようなものがあります。フィルムは撮ってしまうと消去できないから、あとから失敗作を眺めるのも苦もなく出来ますけど、デジカメだと失敗はすぐに消してしまう可能性もありますよね。
これ、デジカメ使ってる人はあまり早めに結論を出さないほうがいいです。失敗だと思ってもしばらく残しておいて時間が経ってから見直したりするほうが良いですよ。思わない感覚で見直せることがあるから。

これは画面端っこでぎりぎり見えてる窓枠もいらないからトリミングしたほうが良いかなと思ったけど、額縁みたいにも見えてきて、これがあるほうがイメージが複層化すると思い、トリミングは不要と判断しました。どちらかというと、もともとわたしはほとんどトリミングしないほうです。その時のフレームを覗き込んだ直感を尊重したほうが良い結果になると思ってます。




☆ ☆ ☆ 恋歌 ☆ ☆ ☆


フォーク・クルセダーズのフォークソング。


ユエの流れ - 加藤和彦


フォーク・クルセダーズが歌った曲の中ではかなり好きな部類の曲に入ります。世界のフォークソングを巡るといったコンセプトに沿って、云うならば「イムジン川」路線の曲なんですけど、「イムジン川」が政治的配慮なんていうもののせいで発売中止になったためにかえって有名になってしまったのとは反対に、ほとんど注目されないままに埋もれてしまった曲といえるかもしれません。それにしてもフォーク・クルセダーズはこういう曲を見つけてくるかなり良いセンスを持っていたという印象です。
「ユエの流れ」も「イムジン川」同様に川にまつわる歌で、ユエはベトナム戦争のテト攻勢のときに戦場となった古都フエ(ベトナムは第二次世界大戦前はフランスの植民地だったので、フランス語読みでユエ)のことだとすると、この歌で歌われる川は市の中央を流れる香江(フオンジャン)のことだと思われます。
オリジナルはマリオ清藤という人が歌っていたそうで、このフォーク・クルセダーズのものはそのカバーになるんですけど、わたしはオリジナルのほうは聴いたことがないです。どうもこの曲の情報って調べてもあまり出てこなくて、以前に一度調べた時に作曲者として須摩洋朔という日本人の、第二次世界大戦のときに軍楽隊のメンバーで、のちにNHK交響楽団のトロンボーン奏者となった音楽家の名前が出てきたのが唯一の情報くらいでした。この情報で出てきた曲と加藤和彦が歌うこの曲が同名の異曲でないなら、ベトナムの民謡という装いではあるものの日本人が作った歌という可能性が高いことになります。

収録されてるレコードはフォーク・クルセダーズの解散時のコンサートの実況録音盤である1968年の「フォークルさよならコンサート」。「ユエの流れ」に関してはこのアルバムに入ってるだけでスタジオ録音のものはリリースされていません。
フォークルのライブのものとしてはもう一枚別にある「ハレンチリサイタル」のほうが「大統領様(ボリス・ヴィアンの曲「脱走兵」)」「雨の糸」「こきりこの唄」などお気に入りが一杯入っていて私は好きなんですけど、こちらにはこの曲のほかにもジャックスの「遠い海へ旅に出た私の恋人」など、全体的にはヒットした曲や解散後に端田宣彦が結成することになる「シューベルツ」の曲のお披露目とか、何処かで聴いたことがあるような曲が中心になってるなかで、独特の光芒を放ってるような曲もいくつか収録されています。
このコンサートを聴いていて面白いのは、北山修が合間のおしゃべりでもうすぐ大阪の万博が始まってどうのこうのというようなことを喋ってるところがあるんですね。大阪万博って今ではもうすべての記録が黄ばんで色あせてしまってるようなノスタルジーに満ちた出来事なのに、このコンサートをやってる世界はまだ大阪万博が存在さえしてなかった世界なんだって、なんだかちょっと異世界に連れ込まれたような感覚になったりします。

端田宣彦は数年前まではたまに四条烏丸辺りを歩いてるのを見ることがありました。


フォーク・クルセダーズ - 雨の糸~戦争は知らない(ハレンチリサイタル)

Youtubeじゃないけど、わたしの好きな「雨の糸」とレコードではそれに続いてる「戦争は知らない」もあったので載せておきます。上のリンクをクリックすると別窓が開きます。音量はちょっと小さめかも。

ちなみに「雨の糸」は森昌子に同名の曲がありますけど、全く違う曲です。


☆ ☆ ☆



フォークルさよならコンサート(紙ジャケット仕様)フォークルさよならコンサート(紙ジャケット仕様)
(2008/10/22)
ザ・フォーク・クルセダーズ

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当世今様民謡大温習会(はれんちりさいたる)(紙ジャケット仕様)当世今様民謡大温習会(はれんちりさいたる)(紙ジャケット仕様)
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ザ・フォーク・クルセダーズ

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