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知覚の地図Ⅻ 砂の海のレストランへ

消失する橋





枯木の岸






水没





路地裏
最初の三枚は今年に入ってから、カメラを落っことしてどれだけサルベージできるかなと書いていたフィルムから。カメラはオリンパスのXA2。最後の真四角写真は2015年にダイアナで撮ったちょっと古いものから。そういえばダイアナはこのところ全然使ってない。ロモグラフィーが復刻させた、昔いろんな会社のイベントでノベルティーとして供給されていた香港生まれの怪しい安価なカメラで、復刻版はさらにそこへロモグラフィーの適当さが加味されて、おそらくオリジナルよりももっと暴れ馬的になってるカメラだと思う。ホルガのもとになったカメラなんだけど、ダイアナに比べたらホルガのほうがまだしっかりとまともに写真が撮れる。
完全に計算された画面作りに価値を置く人ならば偶然が支配するようなカメラはカメラとも認めたくないだろうけど、わたしは統制されることではじき出される物事のほうに、何しろポストモダンなシュルレアリストなものだからいろいろと興味があって、だから始末に負えないカメラも結構馴染んで使ってしまうところがある。そう思うとホルガなんかは偶然が支配しながらも、マイケル・ケンナが愛してしまうほどに何だか最後にはそれなりにきちんと写ってしまう、稀有なカメラなのかもしれない。こんなことを書いてるとダイアナやホルガにフィルムを詰めたくなってきた。わたしのダイアナは、買う時に我ながら何を血迷ったのか「ミスター・ピンク」という名前の、サイケなピンクで飾ってるものを選んでしまい、そのおもちゃ然としてる外観と相まって、いい年をした大人が携えて出るのに相応の覚悟と勢いを要求してくる。
ダイアナは写真家マーク・シンクが80年代、ウォーホルやバスキアを撮ったカメラだ。彼はダイアナについて幸せなアクシデントを生むと評している。これはこのカメラにとってこれ以上にない賛辞だろうと思う。
ミスターピンク



数か月前から歯茎に小さなぽつぽつとしたできものができて、六月の終わりころに歯医者に行ってきた。結局組織検査をしないと正確に判断できないということになって大きな病院、都合よくわたしが潰瘍性大腸炎で診てもらってる病院の口腔センターに紹介状を書いてもらって、七月いっぱい口腔センター通いに囚われの身となっていた。最初は患部表面組織をぬぐい取っての検査で、その後腫瘍部分を切り取っての組織検査という段取りで進み、検査で切り取った時にできものそのものを取り除く手術は一応終了しているという形になった。
検査結果は、小さいけど腫瘍は腫瘍で、でも良性の乳頭腫というものだったらしい。まぁ質の悪いものではなかったので一安心というところ。口の中の腫瘍ってある程度珍しいのか、診察のたびにセンターの医者が数人わたしの口の中を覗き込みに来ていた。
口の中を切開するというのはやっぱり後が傷がいえるまではかなり鬱陶しい。何せ食事をするたびに動かす場所だし、歯も磨かないでいいとはならないから、なにをするにつけ恐々となる。傷そのものの痛みとしてはそれほどでもなかったものの食べ物が当たっては飛び上がったりといったことは頻繁にあった。
潰瘍性大腸炎で診てもらっている病院ということが内部でうまく情報伝達できていたのか、処方してもらった痛み止めがロキソニンじゃなくてカロナールだった。こういうことは違う病院だといちいち説明する必要があってかなり面倒くさい。カロナールのアセトアミノフェンは潰瘍性大腸炎でもそれほど影響なく服用できるほとんど唯一の鎮痛剤で、わたしは同じ成分の市販薬タイレノールを常備薬にしている。なによりもタイレノールという名前がブレードランナーぽくってかっこいい。

給付金で以前書いたように眼鏡を買った。
jinsの眼鏡
これも以前に書いた通りJiNSの眼鏡だ。フレーム代8000円と、短焦点レンズだとフレーム代のみで購入できるんだけどわたしの場合は遠近のレンズなのでプラス5000円といった出費になった。鯖江の日本製だとか海外ブランドものとか上を見ればきりがないし、手ごろな価格で売っているもので実際使ってみてどうなのか確認したいという意味もあって、一度ここで買ってみたかった。もしこの価格帯で過不足なく使えるならいろいろと買い揃えたりすることも気軽にできそうだ。
実際に買ってみると、まぁ全体の質感としては正直なところあまり高級感はない。良く云えばシンプルとでもなるんだろうけど、カジュアルに使えるのは良いとしても、細部のいたるところにひと手間省いているような頼りなさを感じる。一度落としでもすれば簡単に歪んだりしそうな質感だ。これはでも値段相応ってところなのかな。
一つ困ったのはこのあまりにも工夫のない単純で細身のモダンのために、極端な汗っかきのわたしだとこの季節、俯いたりしてると汗で滑って眼鏡がずり落ちてくることだった。これを解消するために三度くらいフィッティングをしてもらったんだけど、結局モダンの部分を曲げすぎて耳が痛くなったりしただけでずり落ちはあまり改善されなかった。耳が痛いのはさすがにかけていられないからこれはさらにフィッティングで直してもらったんだけど、細身でこのシンプルすぎる形では極端に汗をかくという特殊な状況でずり落ちやすくなるというのはフィッティングでは解消不可能かもしれない。エアコンがきいて汗をかかない状態だとまるでずり落ちもせずに気分よくかけていられるから、これはもう夏の間炎天の日差しに打ちひしがれそうになっても、顔を上げ胸をはって上を向いて歩けという天からの啓示なのかもしれないと思うことにした。
まぁ形が変わるとかけ心地も変わるだろうと思うので、違うスタイルのものをもう一本くらいはお試しに買ってみるつもり。高級品一点主義もいいし、一本くらいはそういうのも持っていたいけど、いろいろ買いそろえられる価格帯のほうが生活の中の道具としてはやっぱり面白い。
売り場ではボストンとウェリントンとで相当迷った。丸っぽい眼鏡が好きなのでやっぱりボストンに目が行ったんだけど、今度はこの迷ったウェリントンのを買ってみようか。サングラスでキャッツアイなんて云う逸脱ものを平気でかけているくせに一番オーソドックスなウェリントンタイプって今までに一度もかけたことがない。

最近の買い物の話をもう一つ。携帯用の扇風機の衝動買いだ。
ハンディファン
これはもう文字通りの衝動買いで、買ったのは東急ハンズだったんだけど、売り場に置いてあるのを見てそう言えばこういうのを持って歩いてる人が多いなぁと思い至ると自分も一つ持っていてもいいかなと、なんだか知らないうちにレジに持って行ってた。
冷静に考えると効果のほどもおおよそ予想出来て、実際に使ってみるとほぼその予想通りだった。まず炎天下の日中、日差しの中で使うのは単純に30度超えの熱風が吹きかかるだけで涼しくなるわけがない。汗をかいていると気化熱で肌が冷たくなる感覚は出てくるから、濡れた肌という条件下で使って初めて効果らしいものがでてくるものの、これもおそらく木陰とかに避難している場合のことであって、日差しに晒された状態では肌が冷たくなってもたかが知れてるという感じだ。
でも全くの役立たずかというとそんなに云うほどひどいものでもなくて、涼しいとは程遠い状態ではあっても暑さの耐えがたいレベルの目盛りが、耐えがたい範囲の中で二つくらいは下がる気はする。エアコンが効いた部屋に汗をかいた状態で入ってこれを使うと、この場合は目も眩むような効果を得ることだってできる。耐えがたい炎天下でなすすべもなく汗まみれで立ち尽くすような状態には、少なくともなすすべを一つは持っているというのはそれだけで何か逃げ道を見いだせるような気分をもたらしてくれる。
ということで今のところは外出時には欠かさず持って出る道具の一つになっている。
買ったのは良いにしても、買ったことについて実は二つ大失敗をしてる。
一つは全く同じものがOEMなんていう違う装いも纏わずニトリで500円ほども安い値段で売っていたのを発見したこと。東急ハンズで買ったのとパッケージまで同じで、ニトリで売っているくせにニトリのロゴ一つはいってない。
もう一つは黒い服を好むので何の考えもなく黒色のを手に取ったこと。バッグにぶら下げて歩いていると、太陽光でかなり熱くなって冷やす道具とは到底思えないような状態になる。これはもう白を選んでおけばよかったと、白でもおそらく熱くなるだろうとは思うけど、これはやっぱり結構な選択ミスだったと思う。



You Never Give Me Your Money
3:51 Sun King
6:18 Mean Mr. Mustard
7:24 Her Majesty
7:46 Polythene Pam
8:59 She Came In Through The Bathroom Window
10:57 Golden Slumbers
12:29 Carry That Weight
14:05 The End



Ariana Grande - 7 rings (Official Video)


ゆらゆら帝国(Yura Yura Teikoku) - 星ふたつ(Hoshi Futatsu) (Live at 日比谷野外音楽堂)


お気に入りを並べてみて、バラバラな好みだなぁと我ながら思ったものの、まとめて聴いていると、ビートルズの途切れなしの断片的メドレーはこれで一曲として、この三曲の並びのキーワードは「揺らぎ」だなと思いついた。揺らぐものにわたしは見境もなく反応してるんじゃないか。
ゆらゆら帝国のは生きることに必然的に寄り添っていつもそこにある喪失感と、ある種諦観というのもちょっと違うんだけど、寄る辺ない日々の中でその喪失感に抗うでもなく親密な友人と戯れているような視線がいいと思う。ちょっとジャックスを思い浮かべた。
Ariana Grandeのは「My Favorite Things」を大胆に再構築をする過程で、原曲から思いもしないまるで別種の美しさを引き出せてるように思う。普段はこういうポツポツとつぶやくような歌ともなっていない歌い方のは自分としては絶対に聴かないと思っていたんだけど、こういう歌い方でないと立ち現れてこない音空間が確かにあって、それは意外と好みに合うところがありそうだと今更のごとく発見してしまった。
ビートルズのアビーロード後半に収録のメドレーは昔最初に聴いたときは個々の断片は突出した出来である一方、全体としては雑然とした印象を持ったんだけど、様々な切子面を見せながら浮かんでは消えていく様が今では多彩で絢爛豪華な印象へと変わってしまった。個々の断片は本当にこれだけでも王道のポピュラー音楽といった存在感を見せつけてくる。スタートの「You Never Give Me Your Money」からメロディメーカーとしてのポール・マッカートニーの手腕炸裂といった感じなんだけど、この中で出鱈目なスペイン語に切り替わるところとかわりと好きな「San King」はジョン・レノンの曲なんだそうだ。そういわれると確かにこれはジョン・レノンっぽい曲か。ちなみにレノンはこのメドレーをがらくたが集まっただけと評価していたらしい。解散に結びついている感情のとげのようなものが見え隠れする、レノンのこういう水を差すような物言いはあまり同調するところがないなぁ。








知覚の地図Ⅹ 世界が終る時、聞こえてくる金切り声

壁上のラインダンス





途上





塔





レール01






ランプとヘレンケラー

ムシムシして本当にこれからの数か月の季節は苦手。夏服の解放感は好きだし、どちらかというと裸族に属するようなタイプの性癖の持ち主なんだけど、とにかく汗っかきで、それが体力を消耗して気力がそがれ続ける。その体力消耗戦がすでに始まってる。
一日出歩くと色の濃いシャツなんかを着ているとたすき掛けしたバッグのストラップの下になった辺りが汗で色が変わってる。乾いてくると塩気が白い跡として残っていたりする。特に今年はマスクなんかしてるから余計にきつい。コロナのせいで、いつもの夏なら冷房がきいてる駅の待合室も、窓を開けて換気してる。

撮り終えて放置していたモノクロフィルム二本を先日現像に出してくる。久しぶりに訪れたフォトハウスKはコロナ自粛の後でも何食わぬ顔で店を開いていて一安心。小さい店内に大して売るほどのものも置いてなく、表のコンパクトなショーウィンドウには古いフィルムカメラがいくつか並べてあるにしても、客だからあまり言いたくもないけど相場よりも高い値付けで回転率がどうのこうのというほどに売れてるようにも見えない。客がいるとすれば店内でデジカメからプリントしてるらしい客がちらほら見えるだけ、昔の「ムツミ」という店名から名前を変えつつ今も続けている古い写真屋さんだから現像を頼みに来る馴染みの人は昔からいるにしても、いったい何で売り上げを確保してるんだろうと他人事ながら謎の店だったりする。自粛の後もそんなことなどなかったかのようにまるで平気な顔で店を開いている様子を見ると、ここは何が起きようとも絶対に潰れないんじゃないかとさえ思えてくる。
現像を頼んだうちの一本は不覚にも途中でカメラを落として裏蓋が開いてしまった云うなら事故フィルム、もう一本はその後カメラが壊れていないか確かめるために落としたカメラにさらにフィルムを詰め込んで写してみたものだった。カメラは電池の残量を示すビープ音が鳴らなくなってしまったのが目に見えておかしくなった部分だったけど、それ以外は落とした後もまるで変りなく操作できていた。現像の結果は意外と被害は軽微で、蓋が開いてしまったほうも37枚撮りのうち30枚は救出でき、その後のカメラの調子を見るために撮ったほうはまるで問題なく37枚全部破綻もなく撮れていた。事故フィルムのほうはふたを閉めてから再度残りを撮る前に念のために数コマを空送りしてるから、その分を差し引くと光が入った影響は思ったどにはなかったといえるのかもしれない。現像する前は10枚も無事ならいいほうだと思ってた。
使ったカメラはオリンパスの昔のフィルムコンパクトカメラ、XA2だ。石鹸箱のように小さく、しかも頑丈で、ゾーンフォーカスだからピントのことなどほとんど考えることなく撮れるお手軽カメラ。しかも見た目は昔のカメラとは思えないほどモダンで今でも十分に通じるデザインだと思う。昔のモダンというと今見るとどこか懐かしい未来、レトロフューチャーっぽい印象になりがちなところなんだけど、そういうところもほとんどない結構すごいデザインのカメラだったと思う。掌に包み込んで歩いているとなんだか凄腕の道具を隠し持ってるようで、感覚は新鮮な何かへと変貌するように高揚してくる。
軽快なカメラを持って出歩いていると、風で木の葉が揺らいだとか、窓に反射する光がまぶしいとか、あるいは食べかけのパスタに刺したフォークだとか、炎天下で屹立する所在無げな街路灯とか、なんでもいいけどそういう日常で普通に目にした、まるで際立たないものを片っ端から撮っていくような撮り方も容易になる。構図がどうしたとかあれこれ思考か割り込んでくる前に直感の管轄内でシャッターを切れる可能性を秘めている。こういうカメラは一見決定的瞬間に強そうだけど、実は決定的でない瞬間にも気兼ねなくシャッターを切れるというほうが愛でるべき特徴なんじゃないかと思う。決定的瞬間なんて云うものに比べるまでもなく、世界は決定的でない瞬間に満ち溢れている。世界の真実は実はそういう決定的でない瞬間のうちに潜んでいるはずだ。
思考は過激に先鋭的に直感へと縒り合されて、出来上がる写真はただのどうってことのない写真、こういうのがひねくれていて面白いし、いつもそういうのを狙っていたい。病気でうろつきまわれなかったので停止していたこういう部分への働きかけが頭の中でまた始動し始めてるならいいんだけど、と自分では思っている。



ギタリスト、ジョン・スコフィールドのバンドのライブ。最初の曲の出だしのこの不思議な雰囲気。これは何だろう。どういえばいいのかミステリアスというのか、どこか見知らぬ聞いたこともない異国の音楽がかすめすぎていくような気配。この音楽のミステリアスな気配と、二曲目のドラムとの掛け合い、そしてそこからドラムソロへと雪崩れ込んでいく白熱振りがお気に入りだ。
二曲目のドラムとギターの絡み合いはどちらかが一瞬でも気を抜けば一気に崩壊しそうなテンションを維持していて耳を掴み離さないし、ドラムソロは他の楽器がとにかくドラムをドライブさせることに全精力を傾けているようなところがいい。ほかの楽器が奏でる曲をドラムが煽っていくんじゃなくてその逆っていう感じかな。もう手に汗握るハイテンションな音空間になっていて感覚のどこかが覚醒していく思いだ。
それにしてもジョン・スコフィールドは一応ジャズのギタリストなんだけど、テレキャスターを使うとか、もう独自路線を走ってる感じが使う楽器からも漂ってくる。こういうギタリストでテレキャスターを使ってるのは最近ではそれなりにいるようだけど、わたしは他にはビル・フリゼールくらいしか知らない。そしてまたフリゼールもカントリーに傾斜するとか不思議なジャズギタリストでもある。なんだかみんな持ってるストラトじゃなくテレキャスターっていうのが絶妙の外し具合だ。
ハゲのおじさんでここまでかっこいいのも見事。はっきり言って髪の毛があるほうが似合わないんじゃないかとも思わせる。ハゲっていうんじゃなくて剃っていたんだけど、「麒麟がくる」の本木雅弘もかっこよかったなぁ。髪の毛がないのがあんなに似合ってかっこいいなんて云う俳優はそうはいないし、モックンは将来万が一ハゲたにしても、もうまるでそのことで気にかける必要はないということが、今から確約されてると思う。




アタック25の司会も回答者も俺がアフレコしたら全問正解余裕でした。








冬の道標

通路の幾何学





漆黒ハンドル
2017 / 03 高の原
2017 / 04 新祝園
Olympus XA2 / μ2
Kodak SuperGold 400 / Kodak Tri-X

撮った者の贔屓目で云ってみると、彩色銅版画風というかエッチング風味というか、ここでもまた版画家志望の内在する我が奇妙な欲望が垣間見えてるような気がする。しかも平面的。立体空間を相手にしながら奥行きを地ならしして平面へと置換していこうとする衝動もまた絵画主義的な嗜好、さらにいうなら日本画的なものへの嗜好の表れだろうと思う。写真を撮りながら、写真は表現には馴染まずコピーであることが本領などと、写真原理的であろうとすることに意図的であるにもかかわらず、出来上がるものはいわゆる写真的なものにはちょっと距離を置いてるように見えるのが自分としては面白い。

去年の今頃、笠置に入り浸っていた後で、奈良方面へ向かう電車の各駅で降りて写真を撮ってみようと思い立って撮っていた写真から。それにしても笠置で写真を撮っていた時からもう一年経ったとは信じられない。電車待ち30分の連続二段攻撃なんてまるでつい先日の出来事のようだ。
最初のは近鉄の高の原で降りて歩き回っていた時。ここは近鉄の線路沿いに細い河を挟んで並木道が延びていて、車窓から眺めるたびになんだか絵になりそうで写真に撮ろうと思ったところだった。実際に歩いてみると対岸から見るのとは大違い。大して見栄えがする道でもなくてがっかりしたんだけど、この場所だけは幾何学的で妙に気に入ったところだった。使ったXA2は買った時に入れた電池が入れっぱなしで放置状態だったのに、チェックしてみると未だに電池OKのブザーが元気一杯に鳴るしそのまま使えてる。物凄くコストパフォーマンスがいい。
二枚目のは新祝園の駅だったか、広い道路に舵輪のオブジェが突っ立ってた。うしろの遊歩道が別に特殊なレンズを使ったわけでもないのに魚眼っぽく歪んで見える。

最近あまり写真が撮れなくて、フィルムがなかなか消費できないでいる。ニコンのF3に入れたモノクロは撮り終えられずに春頃からカメラの中に入ったまま。ちょっと気分を変えようと最近絞りもシャッタースピードもほぼ固定のボックスカメラであるホルガに感度100のリバーサル、しかも期限切れを詰めるなんていう無謀なことをやってみて、これはどこまでちゃんと写るのか実験してみるような感じになるだろう。ホルガはマグナムの写真家が使っていたり、ハッセルとともにお気に入りカメラだと公言するマイケル・ケンナがこの冗談のように破格のカメラで撮った写真を集めて写真集を出したりと、流行遅れのようにみえながらもいつもどこかで地下深くに熱を溜め込んでる印象だ。
こんな自分の撮影状況の中、一ヶ月近くかけて昨日ようやく写ルンですを撮り終え、今日久しぶりにフォトハウスKに現像を頼みに行くつもりだ。新しく撮った写真を眺めるのは結構久しぶりとなるので、どんな風に写ってるのか、どんな風に写ってないのか結果を見るのが楽しみだったりする。





Street of Dreams

彼方へ繋がる道





ラブホ





高架下駐車場





割れたガラスの向こうに

2017 / 03
2017 / 01
2017 / 01
2015 / 03
高の原 / 新大宮 / 近所
Olympus XA2 / Nikon F100 / Olympus μ2
Kodak SuperGold 400 / Fuji Provia 100F / Ilford XP2 Super


最近は意図的にこういう感じの写真を撮っていることがある。ちょっと引き目で空間を大きく撮ったようなイメージ。自分のもっている距離感覚はもうちょっと寄り気味だと思うんだけど、そこはあえてこういう形になるように立ち位置を意識してカメラを構えている。
ざっと目の前の空間そのものを取り込みたかった。神宿る細部をフィルムの上に残したかった。あえて言葉にするとそんな感じなのかな。細部に関しては以前ブログで書いたけど、クローズアップは細部の普遍化であって、かならずしも神が宿る細部を取り込めるものではないと思っている。神が宿るならその細部はパンフォーカスのイメージに現れる。
で、目の前の空間を細部の集積としてざっと取り込みイメージ化するとしても、単純に目の前に広がるものが写っているだけの写真になるのがほとんど。それでもいいのかもしれないけれど、わたしは今のところそこまで開き直れない。ほとんど意図も感じさせない、カメラの眼に任せたようなイメージにたじろいで、どこかに見栄えの良い絵にしようと自我でカバーする部分が出てくる。
そのせめぎあいの中で写真を撮っているのかもしれないと思う。
ただ意図的に際立つイメージにするための企てを盛り込むにしても、それが目立ってしまうとわたしとしては、これはもう駄目だと思うほかなくなってしまう。
一見まるで無頓着にシャッターを切ったように見えて、実はほとんど気づかれないように自我を潜り込ませる、撮れるならばそんな写真を撮るのが今の気分かもしれない。

写真は街路を撮っていたものを集めてみた。タイトルが頭にあってそれにあわせて選んでいたようなところもあるんだけど、実際にこのタイトルで二枚目のラブホ街の写真なんかを並べると、タイトルの意味合いが随分と矮小化してしまうなぁ。
最後のは結構以前に撮ったもの。このところ若干撮影のスタンスを変えているというこれだけのことで、最近ではあまり撮らない結構雰囲気の違う写真になっている。これは窓ガラスが割れたまま放置されていた廃車の、その窓からカメラを差し入れて、ひび割れが走っていたリアウィンドウ越しに外を撮ったもの。こういうことをすると、見咎められた時に泥棒扱いされる可能性もあって結構スリリングだ。なんだか最近カメラ構えてると、非難までは行かなくても、そこで何してるんですかぁ?とか何か御用でも?と、なにやら胡散臭げに言葉をかけられることが多くなってる。誰もいないと思っていても意外といろんなところから見られてるというのを実感する今日この頃だったりする。

この4枚目の写真を撮ったオリンパスのμ2は去年電池ボックスの蓋の爪が折れてしまって、まぁ蓋をビニールテープで止めたりすれば使えるんだけど、最近は出番がなくなっている。それにしてもカメラの本体が壊れるんじゃなくて、こんなところが取れて使いにくくなるとは思わなかった。



Count Basie & Shirley Scott Street of Dreams


Street of Dreamsといえば、わたしはこれかグラント・グリーンのものが頭に思い浮かぶ。で、この演奏は以前にも載せているんだけど、グラント・グリーンのよりもこっちのほうが好きなので、今回は再登場となる。
曲そのものは古いジャズのスタンダードなんだけど、元歌のほうはなんだか陰気臭くてあまり好きじゃない。オルガン好きということもあって、こういう演奏のほうが好きだ。





色空凝視 金金金

色の仕組み





空と観察





金金金



2016 / 04
2016 / 07
2016 / 10
烏丸御池 / 七条 鴨川 / 東山 安井金比羅宮
OLYMPUS XA2 / RICOH AUTOHALF E / NIKON COOLPIX S9700
KODAK SUPERGOLD 400


ちょっとシュルレアリストの言葉遊びを真似てタイトルをつけてみようかなと。安井金比羅宮の写真、ワッペンを貼っているようなポップな壁面の様相に気を引かれて撮った写真だったんだけど、この写真を眺めていて「金金金」というタイトルを思いついたのがきっかけ。「金金金」って凄い単語だなぁ。これは使わない手はないし、どうせ使うならもっと意味不明にしてやろう、なんていうことを考えた。
単語単位でばらばらにした言葉をかき集めた中から、ランダムに引き出した単語を並べて文章にしてみるというようなやり方。カットアップ的な方法論で、考えてみれば今の音楽とか結構当たり前のようにやっている。そういう風にみると今まであまり聴く気にもならなかったサンプリングを駆使したようなものもシュルレアリスムの末裔として興味を引くものになってきそうだ。
ちなみに写真のインスタレーションも似た感じに捉えても良さそうだ。一世紀前の思考、感性の革命は普遍的な基盤を持って今も有効性を保っている。
ちょっとこういうことを書いて思い出したんだけど、結構昔の関西ローカルの深夜番組、タイトルは忘れてしまって、確かばんばひろふみが司会をやっていたと思うバラエティ番組で、その中のコーナーに投稿された複数の俳句を三分割し、シャッフルした中からランダムに三つ文節を組み合わせてその場で番組の女の子が読み上げるというのがあった。新たに組みなおされた俳句は読み上げる直前まで伏せられて、読み上げる段階で初めて姿を現す。これ、覚えている人いるかなぁ。途中からその組み合わせに、番組制作者の面白くしようとするあざとい意図が入り込むようになってとたんにつまらなくなったんだけど、ネタ混じりの投稿俳句をばらばらにし、ランダムに組み直してでっちあげた俳句は意味不明で、しかも元々のネタ混じりの部分も絶妙にブレンドされて大笑いだった。ばんばひろふみと云ってもエンドレスナイトじゃなくてそこから派生したような小さな番組だったが、あれはなんていう番組だったかなぁ。やっぱりどうにも思い出せない。それともばんばひろふみでさえもなかったのか。

写真のほうはね、いつものようにこんなものだ。声高に何かを主張するわけでもなく、なにもないことを意味あるように演出する方向へもあまり視線は向いていない。
わたしは自分を取り巻く世界を無意味と認識しているのか、意味の絡み合う編目で覆い尽くされた向こうに意味に絡めとられないで存在しているはずの何かをみたいと思っているのか、その辺りの消息は自分でもよく分かっていないんだけど、少なくともテーマを掲げてテーマに閉じた写真は自分には撮れないと思っている。どうせテーマで閉じたものを作り出せない、そういう世界認識なら、いっそのこと意味から開かれている写真を撮ってみるのも面白い。そんな意気込みで撮っていることが多いかもしれない。
カットアップというなら最初からカットアップされて出来上がっているイメージといったところか。
でもこういうのってブログでさぁどうですかと披露するのにあまり向いていないような気がする。何らかの形で意味あるように纏めてしまわないと形にならないところがあるんだもの。

☆ ☆ ☆



奈良原一高の「Tokyo,the’50s」という写真集。

Tokyo,the’50s 

Tokyo,the’50s 

Tokyo,the’50s 

分かりやすいといえば極端に分かりやすい写真集かもしれない。日常に異界が口を開けかけた瞬間を何の迷いもなく取り込んだ写真集と、一言で云ってそんなに外しているとは思えない。

今だ写真家になる前の奈良原一高が東京を歩いて撮っていた写真。のちに写真家になる方向へと導いた写真を撮る傍らで特別な目的もなく東京という都市を彷徨い歩いて撮っていた写真だそうだ。あとがきによると数枚をプリントした程度でそのフィルムはそのままネガケースに放り込まれ放置されていたらしい。
その忘れ去っていたネガフィルムを、似たような動機で再び東京を撮り始めようとした時に思い出し、40年ぶりに再び眼にすることになった結果こういう写真集が出来上がったとある。

撮ることで欲望が充足、完結してしまって、撮っただけでそのまま発表することなく放置、というタイプの写真家は、他にはアマチュアに徹して発表する目論みも持たずに一般市民の視点で東京の街を撮り続けた桑原甲子雄だとか、最近だとヴィヴィアン・マイヤーなんかが頭に浮かんでくる。ゲイリー・ウィノグランドも写真家としては大成したけれど死後整理もされていない大量のネガが発見された、撮ることで充足するタイプの人だったのかもしれない。どういう要素が働いてそうなるのか、シャッターを切る快楽だけが動機という、こういった写真家は結構他にも多そうだ。

それはともかく、この異界への道筋を辿る写真集を眺めていると、異界が開くその瞬間にその場に居合わせることが絶対的な条件だというのがよく分かる、的確な場所と時間、写真の神様が舞い降りるその時空に居合わせるのは間違いなく写真家の才能なんだろうと思う。これは努力なんかとは無縁の才能で、こういうのに恵まれる人もいるんだとため息の一つも出そうな気分になる。

ちなみに奈良原一高がこれを思い出す切っ掛けとなった、40年後に再び東京を撮りだした写真というのは、「ポケット東京」として集められた写真群のことだと思うけれど、同じ奈良原一高なのにこっちのほうはものの見事に異界の扉は閉じてしまっている。
これを取り上げるのにまた眺めてみて、「Tokyo,the’50s」に見えたオーラのようなものが完全に消えているという初見時の感想は変わらない一方で、それなりに面白くは眺められはしたものの、でもやっぱり際立つような写真の神様は40年後の奈良原一高の目の前にはほとんど降り立ってくれなかったんだろうなと思う。
そういう、同じ人間の前にでもほんの数度やってくるかどうかという稀有な瞬間に、シャッターを切ることだけに純粋な欲望を抱いていた写真家が居合わせた、幸福な写真がこの写真集なんだろう。







40年の時を隔てて、奈良原一高の手によってもう一度撮られた東京。続「Tokyo,the’50s」としてみてみると肩透かしを食らうのは間違いなし。
でも異界への扉だとかなんだとか、こういうある種分かりやすい観念を外してみてみると、これもまた別の面白さに満ちている。
全写真真四角フレームの写真で、病気療養のためにしばらくカメラからはなれて肉眼で周囲の世界を見る生活をしていた奈良原一高はそういう人の眼で見る縦も横も関係ない真ん中を切り取る視線にはこのフレームが一番馴染んでいたというようなことを云っていた。異界への導きこそ影を潜めてはいるけれど、こういう視線の感覚は随分と過激で今風でもあり、日の丸構図のどこが悪いといつも思っているわたしには結構フィットする部分がある。
ある種いかにもな写真的情緒といったものの不在が持ち込んでくるそっけなさ、即物性がむしろモダンな印象をもたらしているんだけど、情緒的な写真こそが写真と思っているような層には受けは良くなかったんだろうなぁ。古書価格も全然高騰していないし、わたしがこれを手に入れたのはブックオフだったんだけど、確か500円くらいで投げ売られていた。しかもわたしがお金を払って手に入れるまで結構長い間店の棚に放置されていたし。
つまりね、わたしも長い間ブックオフの本棚にあるのを見ていて、でもこれはあの異界の写真集とは何か違うぞと、500円なのになかなか手を出さなかったというわけだ。