2010/05/11
【洋画】 アリス・イン・ワンダーランド
4月28日にティム・バートン監督の映画「アリス・イン・ワンダーランド」の一回目を観て来ました。「アバター」で火がついた感じのある3D方式の上映で、「アバター」に続く立体映画として期待されてた映画です。京都はムービックス京都での公開。上映形態は3D字幕版、3D吹き替え版、2D字幕版の3種類が用意されてました。「アバター」以降の3D映画としては一番注目されてたということもあって、ここは当然3Dの字幕版で鑑賞することに決定。スクリーンは「アバター」と同じ別館の4番シアターということで、ひょっとしたらこの4番シアターはムービックス京都で3D上映する時の専用スクリーンになってるのかもしれません。
観にいったこの時は上映開始から10日ほどしか経ってませんでした。わたしは人の多いところが苦手で、映画館に行くとすれば出来る限りお客さんが少ない終了間際に行くというパターンがほとんどだったので、話題作でしかもロードショー開始からあまり日数が経ってない、しかもゴールデン・ウィーク間近なんていうこの時期に観にいくのはちょっと覚悟が要りました。でも映画が扱ってる題材に結構興味があったし、映画そのものも3D映画の興隆という流れを継ぐ位置にあるような扱いになって関心をもっていたし、実は監督のティム・バートンにはそんなに興味があるほうではなかったんですけど、ジョニー・デップのコスプレ・メイクのイカレっぷりなんかを事前に眼にしていて、一体どんなキャラクターを演じてるのかとかそういうところは気になってたんですね。だから普段だったらこういう時期にはほとんど観に行かないんですけど、今回は話題の中心になってる頃にわたしも参加してみたくなって、いざとなったら人ごみ苦手の満員映画館体験記みたいなものも書けるかもしれないって思って観にいく気になったわけです。
結果としてこの日の混み具合は大体8割くらい席が埋まってる感じ。チケットを買う時に販売員の説明だともう前の方と両端しか残ってないということでした。良い席が無くなるのなんて分かってるんだから予約で買っておけば良いっていうことなんでしょうけど、わたしは明日のことでもどうなるか分からないって云う思考の持ち主なので、そんな先のことを決めるのはもってのほかというか、また未来のある時点を拘束されるのも出来るだけ排除したいというところもあって、こういう日付指定のチケットは、よほどそういうことをやらければならない時以外は買わないことにしてます。ということで、28日にわたしが座れる可能性があったのは最前列近くと中央の両端部分、3Dで最前列は絶対に酔うと思ったのでその非常に偏った配置の空席のなかから中央左端の席を確保することにしました。でも別館4番スクリーンの中央部分は両端が場内へ入るための通路になっていて、端っこの座席といってもその通路分劇場の内側に位置することになってます。実際に座ってみたところそんなに端っこからスクリーンを窺うような位置でもなくて、しかも通路の壁が片側を遮断してくれて、まるで猫が狭いところに入って寛いでるような気分を味わえる席でもありました。
こういう状態で「アリス・イン・ワンダーランド」を観始めたわけです。でもこれはTwitterでも呟いたことなんですけど、映画が始まって暫くしたら欠伸の欲求に支配され始めて、あれはどのくらいまで進んだ頃からだったのか、マッド・ハッターのお茶会の席にアリスが辿り着くような頃には確実に半睡眠状態になってしまったんですね。わたしは映画館で眠くなるってほとんど経験したことがなかったので、これには自分ながらちょっと吃驚。完全に眠りこけてしまうまでにはいかなかったけれど、眼に力を入れて見開いてないと簡単に瞼が閉じてしまうような状態に陥ったまま映画の最後まで付き合うことになってしまいました。目を見開いてたから映像は確実に網膜に映りこんでいたんだろうと思いますけど、何か意味あるものとしてはほとんど頭の中まで到達してくれることもなく、鑑賞終了。映画を観たという記憶だけはあるものの、何を観てきたのかと振り返ればさっぱり分からないままにムービックス京都を出てくることになりました。
仕方ないなぁと思いながらも、観た映画なのに何を観たかさっぱり分からないっていうのは凄く居心地が悪くて、帰宅する頃にはもう一度観にいってくると決断してました。冒頭に一回目を観たと書いたのはそういう意味で、この後、観たのに観てない内容を確認するために二回目を30日に観にいくことになります。
最初は連休初日の29日に行くつもりだったんですけど、空席がほとんどないという状態なのを知ってその日は断念して30日ということに。二回目は3Dじゃなくて2Dの字幕版を選択してます。
劇場について空席状況を見てみると、前日が満席に近かったのが嘘のように4割ほどの混み具合で空席が目立つ状態でした。
この2D字幕版は本館の第4シアターで上映。3D版上映のスクリーンから見ると明らかに小さいスクリーンです。映画館の形態がシネコンになってから、大画面って云っても以前の映画館に比べると凄く小さい画面という印象があったんですけど、その感覚を久しぶりに蘇らせるような小さなスクリーンでした。
3Dの時と比べると迫力ないなぁと思いながらもあまり混んでない理想的な状況で、何箇所か欠伸に支配されかけたけれど今度は最後まで意味のある映画として鑑賞し終えることが出来ました。二回目を観終わった時の感想は、正直なところ同じ料金を払うなら他の映画を見たほうが良かったかなと、そんな感じだったでしょうか。
ちなみにこれは二回目を2D版にした理由でもあるんですけど、「アリス・イン・ワンダーランド」の3Dはわたしにはあまり必要なものだとは思えませんでした。
ムービックス京都の3D上映方式はXpanD、液晶シャッターのめがねを使う方式で「アバター」の時はほとんど感じなかったんですけど、「アリス・イン・ワンダーランド」の方は3Dだとかなり画面が暗くなります。濃い影が全体を覆いつくしてるような森のシーン、穴を落ちていくところからアンダーランド(この映画は住人側が呼ぶアンダーランドという言い方と幼少のアリスが聞き間違えてワンダーランドと呼んだ言い方の2種類が出てきます)へ出る直前の部屋の、暗いままで続いていくシーンなんかは非常に暗くて観難く、3Dを前提にした明るさの設計がなされてるとは到底思えませんでした。結構色彩感に富んだ映画なのでこういう薄暗くしたような状態で観るのははっきり云って凄く勿体無いです。
映画のほうは最初から3Dで完成させることが決まってたらしいんですが、撮影は通常の2Dカメラで行って、後処理的に3Dに変換させたそうです。そのせいなのかどうか画面の暗さ以外でも立体感はそれほど効果的には現れてないような印象でした。半睡眠状態の人間を揺り動かし、眼を覚まさせるほどの力もなかった立体表現。「アリス・イン・ワンダーランド」の3Dは一言で言うとそういう感じの効果に留まってるようにわたしには思えました。
☆ ☆ ☆
19歳になったある日アリス・キングスレー(ミア・ワシコウスカ)は貴族アスコット家のパーティにいくことになった。社会的な慣習や取り決めを強要されることに馴染めないアリスはパーティに向かう馬車の中で母親にコルセットをつけてこなかっただとか、ストッキングを穿いてこなかっただとか小言を云われてうんざりしていた。
赴いたパーティもアリスにとっては退屈そのもの。でもこのパーティはアリスには知らされていなかったが、アスコット家の息子へイミッシュ・アスコットがアリスに求婚するためのパーティでもあった。
退屈極まりないへイミッシュとダンスをしたりして過ごすうちに、パーティの客全員が見守る中、へイミッシュがアリスに求婚する時がやってくる。美貌はあっという間に衰えるから、ここで貴族からの求婚などという機会があるのなら絶対に受けなければ駄目と姉にも諭されてはいたが、アリスにはこの退屈な男へイミッシュと結婚する気など全く無かった。求婚され返答を促されてアリスは途方にくれてしまった。その時アスコット家の邸内でパーティの間中植え込みの影などで見かけていた白うさぎを発見、アリスはそのうさぎが自分を促すのを見て、求婚の場を放り出して集まったハーティ客を尻目にうさぎの後を追いかけていった。
うさぎは大木のもとにある大きな穴に逃げ込む。後を追ってきたアリスがその穴を覗き込むと穴の一部か崩れて、アリスはその穴に落ちていくことになった。
深い穴を延々と落ちていった先にあったのは小さな扉しかない暗い部屋。アリスはその場にあった体が小さくなる飲み薬や反対に大きくなるケーキを使ってその扉から外の世界に出ることに成功した。
アリスの目の前には奇妙な花が咲き奇妙な動物が走り抜けるアンダーランドが広がっていた。実はアリスは6歳の子供の頃にこの場所にやってきたことがあった。その時は夢の中の場所だと思って怖い夢を見たと父親に話したりしていた場所だった。
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ワンダーランドに降り立ったアリスを迎えたのは、ここまでアリスを誘ってきた白うさぎのほかには、似たような言葉を反復する太った双子トウィードルディーとトウィードルダム、ドードー鳥、ヤマネといった一行だった。
彼らはアリスを見たとたん本物のアリスじゃないと言い出す。アリスはこの世界を自分の夢の世界だと思っていて、自分の夢の中なのに自分が偽者なんてありえないと思う。でも変な夢から覚めようと自分をつねってみるものの白うさぎたちは消えてくれなかった。
賢者の青虫アブソレムなら答えを知ってるかもしれないと、アリスたち一行はアブソレムの元へ行くことにした。
アブソレムはやってきたアリスたちに予言の書オラキュラムを見せる。その預言書にはフラブジャスの日にヴォーパルの剣でアリスが怪物ジャバウォッキーを倒すと書かれていた。
アリスはそれを見てこんなのは自分じゃないと云う。アブソレムの見解も目の前のアリスはほとんどアリスではないというものだった。
アブソレムの元を離れ、偽者アリスだと難癖をつけられながら歩いてると、アンダーランドを統治する赤の女王イラスベスが飼ってる怪物バンダースナッチが突然茂みの中から襲い掛かってきた。赤の女王配下のトランプ兵たちもそれに続き、アリスを残して白うさぎたちを赤の女王の城へ拉致してしまう。その時予言の書も赤の女王の臣下ハートのジャックに取られてしまった。
アリスはその場所からかろうじて逃げ出しタルジイの森に入り込んだところでチェシャ猫に出会った。空間を自在に消えたり現れたりする笑い顔の不思議な猫。チェシャ猫は目の前の女性がアリスだと知るとマッドハッターの元に案内してくれた。
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マッドハッター(ジョニー・デップ)は三月うさぎとバンダースナッチの攻撃を逃れたヤマネとともにお茶会の最中だった。やってきたアリスを見るとヤマネがこいつは偽アリスだというにもかかわらず、マッドハッターは、このアリスは本物のアリスで自分はアリスが戻ってくるのをこうしてお茶会を開いてずっと待っていたと話し出した。
アンダーランドには白の女王ミラーナと赤の女王イラスベスという姉妹の女王がいて、マッドハッターはアンダーランドの統治者である白の女王のお抱え帽子職人だった。、ある日赤の女王はジャバウォッキーを操って白の女王を襲いにきた。その時白の女王はヴォーパルの剣を奪われてそれ以降アンダーランドは赤の女王の恐怖政治に支配されることになった。マッドハッターはジャバウォッキー襲撃の時に多くの仲間を失い、赤の女王への復讐に執念を燃やしていた。
そしてマッドハッターは預言書によるとアリスが怪物バンダースナッチを倒して将来アンダーランドの救世主となるはずだということも知っていたのだった。
一方予言の書を手に入れた赤の女王はフラブジャスの日に救世主としてアリスがジャバウォッキーを倒しに来ると知って、ハートのジャックにアリスを発見し捕まえてくるように命令を出した。
マッドハッターは救世主となるはずのアリスをアンダーランドの真の統治者白の女王の下に送り届けようとするが、その途中でトランプ兵たちに捕まって赤の女王の城に連れ去られてしまう。
その時の難を逃れたアリスは白の女王の元へ向かう前に、捕まってしまったマッドハッターや白うさぎたちを助けるために赤の女王の城に潜入することに決めた。
☆ ☆ ☆
一応この「アリス・イン・ワンダーランド」がルイス・キャロルの書いた「不思議の国のアリス」と「鏡の国のアリス」から色々とエピソードを抜き出し、合わせて一つの物語にしてるというのは事前に知ってました。でも、少女時代のアリスを主人公にした原作とは大きくはなれてこの映画が少女期をかなり過ぎてしまったアリスの後日譚になってるというのは実はわたしは最近まで知らなかったんですね。映画館に行って始めてこんな映画をやるんだって気づくくらい、あまり最新の映画情報を漁る方でもないし、確かにアリス役であるミア・ワシコウスカがモチーフになったポスターなんかも眼にしましたけど、同じくポスターになってたジョニー・デップのマッドハッターの強烈なコスプレイメージの方が印象に残って、アリスのイメージなんかふっ飛ばしてこの奇怪な人物がこの映画のイメージとして全体を覆いつくしてるような印象をずっと受け続けてきました。
原作の「アリス」を特徴付けているのは、少女という、天使のように美しく、気ままでわがままで、時には世間知に長けてる面を併せ持ちながらも無垢であるような存在、そしてそういう少女期という特殊な時期にこそ宿る、独自の輝きに満ちた聖性とも呼べるようなものだったと思います。男性にとってはこれは元から性別が異なってるわけだから、生きている間に一度たりとも絶対に足を踏み入れることが出来ない、ただ遠くから眺めるしかないような領域であり、女性にとっては誰もが一度はその場所に居たことはあるものの誰一人そこに居続けることは出来ない場所。そういう場所に住む少女という存在とその聖性をルイス・キャロルという感性が見出し拾い上げて作品に取り込めたから、「アリス」は「アリス」という独自のものでいられるんだと思ってます。
だからわたしは少なくとも「アリス」を名乗るくらいならこの少女期の持つ無垢なる聖性といったものを作品の中に何らかの形で秘めてるべきだという考えだったので、この映画が少女期のアリスを扱わずに、後日譚というアレンジにしてしまったということを知った時には正直吃驚しました。
大人になったアリスを扱って「アリス」を名乗る映画を作る?当のアリスでさえも少女期を過ぎると作者ルイス・キャロルにはもうアリスじゃないって見做されてしまったのに。
この映画が「アリス」そのものじゃなくて後日譚であると知った時から、こんな疑問を抱きながら4月の28日に「アリス・イン・ワンダーランド」に向かい合うことになったわけです。
実際に映画を観てみると、後日譚とは云っても20歳をとっくに過ぎて完全に大人になりきったアリスが出てくるということではなくて、主人公アリスは19歳。大人になる直前の女性として登場してきます。さすがに完全な大人になったら、もはやそれはアリスじゃないという判断は出来てたのか、一応少女の残滓みたいなものも多少は引きずってる存在として描かれてました。
映画全体は聖性を持った少女の世界を描くわけでもなく、そういうものとは全然違う、少女の最後期にいるアリスが思春期を通過して大人へと変化していく成長の物語という形をとっていました。
最初、貴族アスコット家のパーティに赴く途上のアリスは自分が本来あろうとする姿と、世間が常識としてアリスに強いる姿の間にギャップを感じてるものの、自分のありたい姿もまた自信なく揺らいだ状態にあるといった、脆弱なアイデンティティの持ち主として登場します。公式な人前に出る時にはコルセットをしてストッキングを穿くように云われてるのに、自分流儀じゃないからコルセットもつけずストッキングも穿かないで馬車に乗ってしまうような女の子。でも頭の上に魚を乗せるのが常識だったら疑問も無くそうするのかと反論はするけれど、パーティに行くのを拒否するかといえばそんなところまでは出来ないでいるような、自分独自の感性に価値は置くものの、確かな自分というものにまだ確信がもてないでいるような女の子とでも言い表せるでしょうか。
そういう人物が見るからに退屈な男に求婚されて拒否したいけれど拒否できないようなジレンマに陥り、そこから逃れるためにうさぎを追いかけてアンダーランドの門を開くことになります。アンダーランドでも最初は偽者アリスだといわれ地上同様に相変わらずアイデンティティは揺らいだまま、唯一アリスと認めてくれたマッド・ハッターにも以前心に持っていた強さを失ってるなんて指摘されるような状態です。でもやがてアリスは赤と白の女王の権力争いに巻き込まれて、予言の書に書かれた本当のアリスの姿、怪物ジャバウォッキーと一騎打ちする戦士アリスへの道を辿ることで本当の自分というものを見出していくことになります。
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映画は全体的に結構舌足らずな描き方になってますけど、要するにアリスの幼少時の象徴というか、心の中の世界そのものであるアンダーランドを舞台に、アリスがアンダーランドによって支配されてる自分の思春期と決別するために、その世界を支配する赤の女王の力を現すものである、おそらくアンダーランドでもっとも強いジャバウォッキーを倒す必要があるということ。この成長の物語はそういう形になってるんだと思います。
戦いは赤と白の女王の権力争いと見せながら、本当はアリスにとってのみ意味のある戦いなんですね。
マッドハッターがフラブジャスの日の終わり頃にアリスに向かって、もうここのことは忘れてしまうだろうと云うのも、アリスはジャバウォッキーを倒すことで思春期そのものであるアンダーランドの世界から完全に決別することが出来て、大人の女性としての道を歩み始めるっていうことをマッドハッターが理解しているからなんでしょう。
アンダーランドの冒険を終えて再び地上の世界に戻ってきたアリスは穴に落ちる前とは見違えるほど決断力がある女性に変貌していて、退屈な貴族の御曹司からの求婚の事を始め、目の前にあった課題に次々と決断を下していくことになります。
ただ自立以後のアリスの展開するヴィジョンはいささか紋切り型で、自立はいいんだけどそういう自立の仕方はあまりしたくないなぁって云う部分も多く、わたしにはそれほど共感できる部分はなかった感じでした。特にアリスが自己実現しすぎたような部分、いつまでも王子様と結婚する夢を追って年老いてしまった叔母様に現実を突きつけるような無慈悲な言葉を投げつけたりするほど、自分が一番正しいと思ってる無神経な女になってしまったようなところなんかは、何だか身も蓋もないある種殺伐とした感じがしてあまり好きじゃなかったです。
☆ ☆ ☆
「アリス・イン・ワンダーランド」はこういう風に子供っぽいアリスの冒険映画かと思ってたら、内容的には意外にもフェミニズムっぽい内容の映画でした。
その自己実現の様子は映画の中心となってるアンダーランドでの冒険で語られるわけですが、それではそういうテーマを乗せて展開していったストーリーとはどんな具合だったかというと、簡単に言えば上に書いたことで分かるように極めてオーソドックスなドラゴン(ジャバウォッキー)退治のお話。まるでドラゴンクエストやファイナルファンタジーといったロール・プレイング・ゲームそのもので、お話としてはかなり単純でありきたりな内容のものでした。しかもロール・プレイング・ゲームとしても難易度はかなり低めのほうというか、たとえば赤の女王の城で白うさぎに出会いヴォーパルの剣の在り処を訊いてみると簡単に教えてくれたりと、謎らしい謎もほとんどありません。
さらに物語の全体は、おそらく子供も見るということを考慮したのか、様々に伏線を張り巡らせて、物語を複雑に組み立てていくという形はとらずに、赤の女王につかまったりそこから逃げ出したりするエピソードが、特に大きな危険にも出会わずに淡々と並べられ続いていくというような、登場人物が色々動き回ってる割には起伏に乏しいお話という感じでした。
とにかくこの映画、思春期のアリスだとか、成長物語だとか、テーマがどうのこうのという前にまず物語が弱すぎます。
そしてこのオーソドックスな物語から、さらに物語の勢いとでも云ったものを削いでいく働きをしていたのがアンダーランドに迷い込んで直ぐに見せられることになる予言の書の存在です。予言の書はアンダーランドで起こるすべてのことがアンダーランドの始まりの時から記されている書物で、もちろんアリスがアンダーランドで行うこともあらかじめすべて記されています。当然アリスが戦士になってフラブジャスの日に戦うことも既に決まったこととして書かれているわけです。恐ろしげな怪物と戦うなんて、そんなことできるわけが無いと思って逡巡してるアリスに賢者の芋虫アブソレムはヴォーパルの剣さえ持っていれば立ったままでも剣が勝手に戦ってくれるとさえ云ってしまいます。
この予言の書があるせいで「アリス・イン・ワンダーランド」の物語全体が予定調和的なものになってしまってます。こんなものを仕込んで、映画の中で色々起こる出来事のすべては既に決定されているというのならば、危機的な状況に陥っても結局は何らかの形で回避していける、全部予測可能な世界の出来事だろうという印象を与えてしまいかねません。これではどうなっていくんだろうと興味を繋いでいくこともはらはらもドキドキもしないです。
まず最初にアリスが自己実現を果たした真の姿を見せておく必要があったからでしょうけど、わたしにはほとんど始まりの地点でこれを見せてしまうのはあまり上手い方法じゃなかったような気がしました。
「アリス・イン・ワンダーランド」は平凡な骨格のうえに組み上げられた予定調和的で平板な物語。これが観終わってわたしが抱いた印象です。何だか一回目に鑑賞した時に半睡眠状態になったことへの言い訳みたいになってますけど、物語に関しては特にここが凄いっていうようなところがほとんど無いような感じで観終えてしまいました。
わたしだけの事情かもしれないですけど、こういう温度の低い係わり合いになってしまったのは、冒頭の貴族のパーティのシーンでアリスが抱いた退屈さをわたしも共有してしまって、それ以後のシーンでもその気分を引きずってしまったということもあるかもしれないです。退屈さを強調するようなシーンは映画の最初に持ってくるような類のものでもなかったような気がします。
同じ3D映画で先行したというだけでちょっと連想してみたんですけど、たとえばエンタテインメントの申し子ジェームス・キャメロンなら、こういうゲーム屋のワゴンセールに投売りされてるような陳腐なドラゴン退治の話でも面白く語る術は持ってるんだろうなって思ったりしました。予言の書をつけるというペナルティを課してもキャメロンなら相当なところまで持っていけるんじゃないかって。
結局のところティム・バートンは幻視者ではあるかもしれないけど、キャメロンのようなストーリーテラーではないということなんですね。「アリス・イン・ワンダーランド」は監督のそういう特質が如実に出てしまった映画だったといえるんじゃないかと思います。
☆ ☆ ☆
物語を物語るという点ではそんな体たらくだったんですが、イメージを紡ぎだしていくという面ではそれなりにバートン趣味が出ていたんじゃないかと思います。アンダーランド全体のイメージもそうなんですけど、登場した様々なキャラクターの造形がなかなかユニーク。チェシャ猫、三月うさぎ辺りはCG造形でしたけど、主要登場人物になるうちのアンダーランドの住人である赤と白の女王とマッドハッターの三人、この辺りはかなり面白かったです。アリスを含む地上の人間も目の周りのメイクなど結構凝っていてまるで退廃的な人形のようにやつしてる部分も見受けられ、これもバートンのビジュアル・センスの表れなんでしょうが、目立つという点ではアンダーランドの住人の方が比較できないくらい目立っていました。
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おそらく一番目立ってたのがジョニー・デップが演じたマッドハッターでしょう。宣伝のポスターでもとにかくこの人が目立ってたし。
ジョニー・デップはバートン監督の映画に付き合うのは7作目だとか云うことで、ほとんどバートン映画の顔みたいになってます。よほどバートン監督と親和性があるのか、インタビューではバートン監督からアリス役を依頼されてもやるって云ってました。
ここでのデップはもうほとんどコスプレといってもいいくらいの扮装になってます。衣装着るとかメイクするとか云う段階を越えて、目の大きさとかCGを使って変化させてるようなことまでやってるらしいです。このマッドハッターっていう役は独自の演技でマッドハッターを作り上げてるから当然ジョニー・デップでしか表現できない人物になってはいるんですが、ここまでコスプレしてしまうと、外見上はもうほとんどジョニー・デップであることが関係なくなってます。外見も好きなファンの人にとって見ればこの方向に突っ走って行くジョニー・デップはどう映ってるんでしょうね。
この役ではジョニー・デップはかなり大げさで作為的な演技をしてるんですがそのくらいやらないとこのとんでもない外見に負けてしまうんでしょう。わたしはマッドハッターを処刑する広場で、蜂起しかけた民衆にむけて赤の女王が放ったジャブジャブ鳥を見た時の、マッドハッターの驚きの表情がツボに嵌ってしまって、この大げさな表情は今でもきちんとわたしの頭の中に刻印されてしまってます。
ただ、デップの演技は適切でマッドハッターというキャラクターを上手く造形していたとしてもマッドハッターの設定についてはかなり疑問符がつくようなものに思えました。
映画では唯一アリスを覚えていて、お茶の会を開いてアリスが再びアンダーランドに戻ってくるのを待ち続けた人物。白の女王の帽子職人として仕えていた時に赤の女王の襲撃によって仲間を失い、その復讐を果たせる唯一の人物アリスと再会した後アリスをサポートしていく人物という、物語の進行に深く関わってくる人物なので、きちんと話が通じるようにしてあるんですね。本来は全く意思疎通が出来ないからこその「マッド」なのに。しかも物語の途中で「自分は頭がおかしくなった」とアリスに嘆いて、アリスが昔父親に云われた「優れてる人はみんな頭がおかしい」っていう言葉で慰められるシーンまである。
こんなマッドハッターなんて有り得ないです。
ルイス・キャロルの原作の特質は「少女の聖性」の他にもう一つナンセンスというものがあります。数学者だったキャロルらしく論理を下敷きにしてその論理の関節を外してしまうような文字通りのナンセンスで、面白おかしいだけのギャグのようなものよりも、論理で成り立つ世界の秩序を崩壊させるようなはるかに強いパワーを持ったナンセンスさといえるようなものです。わたしは「アリス」といえばこの常軌を逸したナンセンスさがかなり好きなんですけど、この映画「アリス・イン・ワンダーランド」では物語の進行上話がまともに通じるようになってしまったマッドハッターと云うあり方が代表してるように、こういう「アリス」を特色付けていたナンセンスが完全に影を潜めてしまうことになってしまいました。
考えてみれば原作「アリス」を特徴付けてる「少女の聖性」も「ナンセンス」もこの映画の中には見当たらないことになって、やっぱりこれは本当にアリスを名乗れる映画なのか?なんて思ってしまいます。
ヘレナ・ボナム=カーターが演じた赤の女王イラスベスも印象は強烈で、異様さではジョニー・デップのマッドハッターにも決して負けてはいませんでした。
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まともに立って歩けるのが不思議なくらい巨大な頭と、真っ白に塗った顔についてるワイパーがふき取った後みたいな形の水色のアイシャドウと唇の形なんか丸っきり無視してハートに模られた口紅。巨大頭に関しては日頃頭のサイズが大きくて被れる帽子が無いとか悩んでる人が見たら、同類がいると安心するよりも自分のウィークポイントを見事に突かれたような暗澹たる思いになりそうな造形になってます。
でも始めて画面に登場して、従者の蛙が並んでる中からおやつのタルトを盗み食いした蛙を見つけるや否やためらいも無く「首を刎ねよ!」と叫ぶ姿はとても衝撃的なんですけど、暫く眺めてるうちにその衝撃力は急速に衰えて、この赤の女王の外観は割りと早く飽きてきてしまうんですね。でか頭で出てきては事あるごとに同じような調子でエキセントリックに「首を刎ねよ!」って云ってるだけのワンパターンな印象に修練していってしまう。異様さではマッドハッターに匹敵しても、衝撃的な印象が持続しないという点ではマッドハッターに何歩か譲ってしまうようなところがありました。
劇中では赤の女王は悪役を割り振られてますが、典型的な根っからの悪人という描き方はされてませんでした。何かといえば首を刎ねたがるという描写に終始してるところはあるんですが、実際に恐怖政治を敷いてる具体的な場面はあまりなく、体の大きくなるアッペルクーヘンを食べ過ぎて巨大化してしまったアリスを大きいからという理由で簡単に受け入れてしまうような優しい描写のほうがメインになってたりします。大きな頭にコンプレックスを持っていて、体の一部あるいは全部が巨大化した者に対しては凄く優しいという面も持ってるように描かれてるんですね。
赤の女王イラスベスは、頭が大きいという異形のせいで満足に愛情を得られなかったから、愛されないくらいならまだ憎まれるほうがいい、憎しみであってもその感情で人が関わってくれるなら愛されないで忘れ去られてるよりもずっといいという風に考える人物として登場していて、一応ヒールとして登場はしてるし主人公のアリスと最後には対決する人物でもあるんですが、でか頭に生まれて無かったら、アリスに見せた親しみのように本当は善人だったのかもしれないというようなニュアンスも含めてちょっとだけ複雑な性格付けをされてるようにわたしには思えました。
アン・ハザウェイが演じた白の女王ミラーナは見た目はこの中では一番おとなしいんですが、でも白の女王なのに妙に黒っぽい口紅をさしていたりしてどことなく異物感があるような雰囲気はきちんと備えてました。
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歩いたりする時のひらひらと動かす手の表情がこれまた異様。赤の女王のような見た目の異様さは少ないけどその分内在する異様さといったものを有してるような感じです。
劇中では悪である赤の女王に対抗する善の役割で登場してますが、赤の女王が単純な悪ではなかったように、白の女王ミラーナも単純な善としては描写されてません。
わたしは生き物は絶対に殺さないといいながら、怪物ジャバウォッキーとの戦いをアリスに押し付けて自分は手を出さない位置に収まっていようとするし、アッペルクーヘンを食べ過ぎて巨大化したままのアリスを元のサイズに戻すための薬を調合してる最中に微笑みながら唾を吐き入れるし、最後の裁定では殺生しないという自分の信条に反するという理由で、孤独を強いるある意味一番無慈悲な決断を下すし、みかけは大人しそうに見えて結構一筋縄でいかないようなかなり腹黒い印象で描かれてます。
女王姉妹にはこういう風に表面的な役割とは正反対の性格をそれぞれ割り振っていて、それで人間の描写が深くなったとしたいのかもしれないですけど、でもどちらかというとわたしには対立するものを入れておけば複雑化するって云うような単純な発想によってるとしか思えませんでした。特に赤の女王が最後は哀れみまで感じさせるほど悪役の位置からぶれてしまってるのは、物語の輪郭までぶれさせてしまってるような気がしました。
結局本当は善であるかもしれない悪と本当は腹黒いかもしれない善が戦うお話で、複雑に見えても結構単純で図式的。わたしはこういう図式のものよりも輪郭のはっきりした極悪と腹黒の戦いの方が見ていて面白かったんじゃないかと思います。
ミア・ワシコウスカが演じたアリスは、19歳という中途半端な年齢を上手く表わしてたと思います。ただ終始眉間にしわ寄せて、しかめっ面をしてるようなイメージがあったのがもう一つでした。最後の剣士になった時の甲冑姿のアリスが巻き毛をなびかせて凄くかっこよかったです。ジャンヌ・ダルクみたいなイメージっていうのか、ちょっと倒錯気味の美しさがあって、ひょっとしてこの姿を画面に出したいからこんなドラゴン退治の話にしたのかなと思ってしまうくらい見栄えがしてました。
☆ ☆ ☆
わたしはティム・バートンの映画といえば細部の表現は凝っているものの全体は冗長っていう印象を受けることが多いです。そういう意味ではこの「アリス・イン・ワンダーランド」もアンダーランドの世界構築、キャラクターのデザイン、衣装など、そういう部分は凄く凝ってるのに、お話は単純で一本調子という、まさしくティム・バートンの映画にわたしが感じるものを備えていたように思えます。ここに出てくるアリスのように世の中とは少し異なった感受性を持ってるために世間からのはぐれ者になってしまったというようなタイプのキャラクターもバートン映画にはよく見られて、そういう逸脱した者に対する共感といったことが映画の中に垣間見えるのもバートンらしいということなんでしょう。
でも映画館を出てわたしが感じてたのは、バートン映画としてはいいのかもしれないけど、アリスとしては違和感があったなぁっていうこと。アリスはやっぱり成長物語なんていうものを盛り付ける器には使って欲しくなかったって云うことでした。
ティム・バートンはオリジナル・アリスは変わったキャラクターが出てきてアリスが一々驚いたり不思議がったりするだけの、ストーリー性を欠いたお話だと云ってるようですが、わたしは妙なストーリーをくっつけるくらいなら、そういうアリスをお得意のダークワールド満載で見せて欲しかったと思います。
☆ ☆ ☆
今回もパンフレットを買いました。700円だったかな。これも「アバター」のパンフレット同様に紙質はいいし読むところもそれなりにあるので、値段の割には出来がいいパンフレットだと思います。写真も多いけどこれは宣伝とかポスターに使ってた観たことがあるものが多かったです。わたしはこの映画、衣装デザインが結構気に入ったんですけど、パンフレットにはこのデザインスケッチも数点掲載されてます。小さい絵だし数も少ないのが難点ですが、このパンフレットの中ではわたしはこれが意外に興味深かったです。
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Alice in Wonderland - New Official Full Trailer (HQ)
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原題 Alice in Wonderland
監督 ティム・バートン
公開 2010年
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