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知覚の地図Ⅰ

解ける螺旋





窓辺の幾何





黄色いサイン

2019 / 4~10 宇治
CONTAX T3 / CANON DEMI EE17
Lomography Colornegative 400

たとえば、何でもいいんだけど、宇治の平等院と天ヶ瀬ダムと目の前の真新しい電子炊飯ジャーは等価である。平等院と天ヶ瀬ダムと目の前の真新しい電子炊飯ジャーを撮る時の態度には何も変わるところがない。それは対象に特別な意味を認めないということであり、対象に意味を求めないのなら、写真はそのほとんどすべてが私的な感覚に帰結するのかもしれない。意識であれ無意識であれ、あらゆる知覚を巻き込んで流動していくその広い、あるいは狭い、流れ、渦巻きの中で、棹差す如く突き出た杭に引っかかり、流れが滞っている場所ではその淀む流れに沈殿していくように、写真のあらゆる光、陰、暈、滲み、粒子、エッジ、コーナー、曲線、色面が寄り添い集まってくる。その流れの中の散在する特異点に呼び寄せられ堆積していく写真の、そのあらゆる断片、要素が、その配置によって意識、無意識、そして意識無意識でもない何か、云うならば流動する茫漠とした全知覚領域の上へ極私的な地図を作っていく。とまぁちょっと思いついてこんなことを書いてみると、いつも近代的な自我なんて相対化する対象だとか、個性なんてまるで信じないなんていう言い方をしているわりに、写真はむしろ私小説的なものじゃないかと、自分はそういう風に把握してるところもあるのかもしれないと思い至って我ながらちょっと吃驚する。写真は極私的である。社会性とは無縁の場所で成立し、他者にとって理解不能で一向に差支えがない。個的な知覚を普遍化させようなんて意図もなく、その知覚の個的地図の中で固有の文様を作って立ち尽くすだけという孤独な存在、わたしが写真に夢想するものはそういうものなのか。藤枝静男は私小説に特化する道筋で幻影への地平を開いた。こんな書物を紐解いていると私小説的なものは幻影への扉を開く可能性を持っているとの確信へと導かれる。写真においてもそういうことは可能なんだろうか。

今回の写真はなかなか撮りきれないと書いていたCONTAX T3に入れていたフィルムから。そう、このフィルム、ようやく撮り終えることができて先日現像に出してきた。フォトハウスKの店長さんもわたしのことは忘れずにいてくれて一安心。一応病気になってあまり来れないかもしれないけどまたよろしくと近況を伝えておく。久しぶりの仕上がった写真を眺めていて、何か病気とはまるで関係ない場所から撮っているような感じがする。病気の影響は写真を撮りに出かけられないという形で出ているだけで、内容に関してはあまり露にはなっていないようだ。たまに体調がよくてカメラを持って出かける気になったら、そういうことが出来る喜びのほうが写真に出て、病気だからといって陰鬱なものとなるよりも、むしろ明るい写真が撮れそうな気もする。能天気なほど陽気な病んだ写真というのも存在としてはなかなかひねくれていて、撮れるなら面白そうではある。

先日胃カメラをやってきた。初体験ではないものの以前に検査したのは10年以上前、最近胸焼けや痛みを覚えることがあるので潰瘍性大腸炎の診察のついでに云ってみると、逆流性食道炎だと思うけどしばらく検査していないなら、一度胃カメラしておくか?と提案されての結果だった。検査中に見た目変なところがあったらしく生検もとられて、検査直後の診断では画像を見て結構酷い逆流性食道炎だなぁと云われ、あとは生検の結果待ち。そして2週間後に生検の結果を聞きにいくと、結構酷い状態だと云われたのに反して、これは特に問題なしということだった。結局わたしの胃は酷い有り様だけど大層な事態に見舞われているいるわけでもないという状況で、胃酸を制限する薬が出ただけで一件落着だった。それとは別に今回の検査は今までの胃カメラにはなかった不思議な体験が出来て、これがちょっと面白かった。なにしろあとで振り返ってみればげろげろした状態になったという記憶がすっぽりと抜け落ちていた。それだけじゃなくこれもあとで気がついたんだけど胃カメラが喉に入ってくる瞬間もまるで記憶にない。大体喉の麻酔なんぞかけてもそんなのまるで役に立たずにげろげろ状態を回避できるわけでもないというのが今までの胃カメラ体験だったのに、今回に関してはこの苦痛の時間がまるでなかったというのがあとで思い返すとなんとも異様な印象だった。これ、端的に云うと鎮静剤の結果だ。この鎮静剤の動きの不思議だったのは、喉に胃カメラが入ってきた瞬間を覚えてないとか、げろげろした記憶がないというのに、そのあいだ眠らされていてたわけじゃなく、検査中に覚醒していた記憶は確実にあり、ここ、変になっているから生検を取っておこうなんて呟いてる検査医師の声も聞こえていて、変なところって一体何?と思ったことも覚えていた。なのに、あとで思い返すと、あれ?そう云えば一体何時胃カメラのチューブが喉を通っていったんだと、そういうところだけはさみで切り取ったように完全に記憶から脱落してしまっていた。げろげろ状態は奇跡的に上手く麻酔が効いて体験しなかった可能性もあるけど、検査をやっておいて胃カメラが喉を通っていかなかったことなんてありえないわけで、眠ってもいないのにこの挿入そのものの記憶がないというのはまるで理にかなっていない。診察後に渡された検査の明細に、使用した鎮静剤はミダゾラムとあった。検索してみると、この鎮静剤には前向性健忘効果があるとされている。前向性健忘というのは発症以降の記憶を保持できなくなるということらしくて、この場合の発症というのは鎮静剤の投入時のことになるんだろう。体験的にいうなら、何らかの障害というか苦痛というか、そういうのが発生した時点のみを選択的に記憶から除去しているような感じで、なんとも都合の良いというか不思議な効果の薬剤ではある。わたしが潰瘍性大腸炎で診てもらっているこの病院で、これまで大腸内視鏡とこの検査をやってみて、両方ともまるで苦痛を感じなかったのは振り返ってみれば驚きだ。大腸のほうも空気を入れるから普通は検査後も空気が排出されるまで結構長い間腹痛が続くんだけど、空気を入れなかったんじゃないかと思うくらい検査後は普通だった。ここだけ特別なやり方でもしてるんじゃないか。今回の胃カメラにしてもよく鼻から入れるほうが苦痛が少ないなんていう提案をするところもあるのが、まったく無意味になるような検査体験だった。

数日前にGYAOで無料配信されている映画、というより映画未満、映画もどきのとんでもないものを見てしまう。無人島に数人のランジェリー姿の女が漂着して何かいろいろやってるという内容らしいんだけど、基本的になにが云いたいのかまるで不明。さらに無人島といいながら遠くに見える海岸線には明らかに街並みが見えているし、浜辺で格闘しているランジェリー女の背後の海ではジェットスキーで遊ぶ人が堂々と横切っていったりするとんでもない代物だった。これでお金を取ろうとした製作者の根性がもう理解不能。こんなもののクレジットに名前を載せられて平気だった人の感覚も信じられない。こんな映画もどきの作り手として名を名乗り人目にさらして恥ずかしくなかったんだろうか。見てしまうといっても最初の3分もたたないうちに耐え切れなくなって、あとのほうは細切れに飛ばして確認した程度だった。おそらくこの見るということだけで体感できる苦痛をはねのけながら全部見てしまったら、時間の大切さについて今さらの如く身を切るような認識を強いられることになっていたと思う。ちょっと今GYAOに戻ってタイトルを確認してきたら「無人島ランジェリーロワイアル」だった。酷く、さもしいタイトルだ。無人島はおそらく物語的世界を構築するだけの能力も予算もないというところからの、想像力を必要とするようなことは何もしなくてすむという意味合いの設定だろうし、あとは下着姿での殺しあいみたいなのをイメージさせて男どもを釣ろうという魂胆だったのだろう。心底くだらなそうなタイトルと、その酷評で溢れているレビューからどれだけ酷いものなのか怖いもの見たさの好奇心が発動した結果覗いてみただけだったんだけど、好奇心は猫をも殺すの実証となったかもしれない。無料配信は12月12日まで。随分と長い。そしてその間にどれだけの人が時間の大切さについて思いを馳せることになるのだろうか。というか最初からこんなの見ようと思う人もほとんどいないか。