2021/05/20
知覚の地図XXI 裏庭の眼球の巣穴
1,2 Olympus μ2 + Fuji presto400
3 Nikon Coolpix S9700
眼球は単純にバタイユの「眼球譚」なんて云うのを開いていた時に、これはタイトルに使えると思いついて、シュルレアリスティックでエロチックでフェティッシュ、呪物そのもののオブジェでもあるし、人の体の一部としてもかなり特異な位置を占めている器官だと思う。街中で「眼」を見つけたらシャッターを切ると以前かなり妄想的に書いたことがあるくらい、「眼」はわたしにはかなり憑りつかれたような感覚を呼び起こす。シュルレアリスム的なものとしては相当なキー・オブジェとなりがちなので、あまり正面切って使うような作品はないかもしれないけど、オディロン・ルドンの作品に現れるような夢魔的な「眼」はかなり好きだ。単眼症などある種の聖痕のようにさえ見える。
そして裏庭。裏庭は何かが潜んでいそうな、人知れず何かがひそかに待ち続けていそうな場所だ。
オディロン・ルドン「起源Ⅲ 不恰好なポリープは薄笑いを浮かべた醜い一つ目巨人のように岸辺を漂っていた 1883年(岐阜県美術館)」 それにしてもこんなのを挟み込むと、リトグラフの静謐で端正なタッチやそのモチーフの衝撃で、我が写真が簡単に吹っ飛んでしまうなぁ。
バタイユの「眼球譚」は今、光文社が過去の有名作品を新訳で読みやすくしたのを文庫で出版している中の一冊にも入ってるんだけど、タイトルまで新訳で「目玉の話」なんていうものに変えてしまっている。いくらなんでも「目玉の話」はないだろう。「眼球譚」という言葉が持っていた含みを全部完膚なきまでにかなぐり捨てて、そっけないことこのうえもないじゃないか。内容のオーラまで奪ってしまうようなタイトルってどうなんだ。
最近街歩いて、京都のような一見いつも代わり映えのしないように見えるところでも、それでも気がつけば結構新陳代謝を起こしている場所もあるんだなぁと思うことあり、と云っても元々京都人は新し物好きな面もあるから、細かいところで次々と古い殻を破り捨てていくのを躊躇わない部分も多々あったりはする。
先日、ここでもちょっと書いたけど高瀬川沿いを、別に桜見物でもなくただ単純に三条から四条まで移動するためだけの目的で久しぶりに歩いていて、川沿いの立誠小学校跡がホテルに変身していたのを見てちょっと吃驚した。廃校後学校そのものは保存した状態で中の教室等をイベントに使うような利用の仕方をしていたし、その状態で安定してずっと続いてるものだと思っていたのに、外装と内部の雰囲気だけは残してるようだけど中身を大胆にホテルに変えてしまって、グラウンドは一面芝生を敷き詰めた、おそらく寛ぐための空間へと変貌していた。
その日帰宅してからネットで調べてみると、立誠小学校のあったエリアを立誠ガーデン ヒューリック京都という名前の複合施設として再始動、ホテルはザ・ゲートホテル京都高瀬川 by HULICという名前のホテルがその一部として組み込まれている。
内部の写真なんかを見ると、高い窓が並ぶ壁面から入ってくる柔らかい光が、広く伸びる廊下に落ちているというような学校的な空間を、ユニークな発想をもとに寛ぐための空間へとかなりうまく変貌させていて、小学校で寝泊まりってどうなの?と思った懸念を見事に吹っ飛ばすような出来栄えとなっているようだった。
ホテルのホームページで、写真がいくつか見られる。Schoolhouseなんてカテゴライズされていてこの独特の雰囲気が売りになってるんだろう。
探索するほど広い施設でもないし、ホテルは宿泊客でもない限り冒険することも気が引ける。後日GW中にまた傍らを通り過ぎたら、もとグラウンドの芝生の上には車座になって座り込み寛いでいるグループが多数で、一面の芝生の平面空間という抽象的な空間の味わいはまるでなくなっていた。ということで宿泊客以外ではあまり楽しめそうな空間でもなさそうではあるんだけど、多少は写真を撮れそうな物珍しさもあって、久しぶりにカメラ持ってまた来てみようかなと思った。
ホテルとしてのロケーションは少し歩けば祇園や東山へと抜けていけるし、高瀬川の真横、傍らには先斗町に河原町や新京極、寺町なんかの花街、繁華街があって、まぁ繁華街は今ではあまり大したこともないんだけど、それなりに便利で京都っぽい雰囲気も味わえるんじゃないかなと思う。
ホテルと云えば鴨川をそのまま南に下って五条まで来ると、その一帯は昔遊郭だった五条楽園という場所に出てきて、ここの遊郭のはずれに任天堂の創業のビルがあり、これがホテルへと改装されて再起動すると云うことだ。この辺は元遊郭というのに加えて会津小鉄会の本部があったり、この任天堂があったりでなかなかのカオスなエリアではある。
再起動では新風館も何だか知らない間に新生していて、こちらもホテル絡みだった。最初に古い殻を破るのに躊躇わないみたいなことを書いたものの、全部ホテル絡みと云うのは古い殻を破るというほどの新鮮味もないか。いかにも観光都市らしいと云えばそうではあるんだけど、泊まる理由もない身としては、ここは観光都市以外の面での再起動を期待したいところではある。たとえば自然史博物館が京都にはない。街中の、変わった本を扱っていた魔窟のような本屋や古書店はカラオケや居酒屋に蹴散らかされて消えていく一方だ。幾多の小さな映画館も全部虚空に消えてしまった。観光都市以外の本来だったら多彩さを見せていた面が削ぎ取られていってる。
フェリクス・J・パルマの「時の地図」(ハヤカワ文庫 NV 上・下)を読む。
入手したのはかなり以前で積読状態になっていた本だ。スペイン発のエンタメ小説で本国ではベストセラーになった本らしい。と云っても手を出したのはそういう評判を知ったからではなくて、単純にタイトルが興味を引いたから。しかも中を見ればH・G・ウェルズが登場人物に名を連ねている。これはひょっとして時間を弄び頭の中がぐちゃぐちゃになってしまう類の話なのか?作者の素性も評判も知らない小説でも、これは以前から書いてることだけど、時間がどうのこうのという気配を察した以上は、わたしとしてはどうしても放置しておけなくなる。
ちなみにH・G・ウェルズはわたしが子供のころに一番最初に買った文庫本の作者だった。角川、あるいは創元だったか、まぁそのどちらかだったと記憶してるけどその名も「タイム・マシン」と題された文庫。文庫という形式の本に対して、こんなミニチュアみたいな本が世の中にはあるんだと最初に思ったのは今でも覚えている。「タイム・マシン」のお話も強烈だったけど、異界へと通じている扉を見出し、見失う「白壁の緑の扉 」も印象的だった。アドレッセンスの時に確かに通じていた異界への回路が、その時期を過ぎれば閉ざされて二度と赴くことができなかったっていう話は、その郷愁と後悔に似た感傷に寄り添うような馴染みがあって、わたしには稲垣足穂の「山ン本五郎左衛門只今退散仕る」もそのタイプの話となる。
文庫にして上下巻の二冊、三章構成の大部の内容なんだけど、長編と云うよりは章ごとに一区切りある連続した中編のつながりといった感じの構成になっていて、ウェルズがその間の橋渡しでもするかのように全章に絡んでくる。ベストセラーだけあって、リーダビリティは確かにあり、ボリュームがあるにもかかわらず最後まで面白く読める。でもその読後感はなんだか読んで思ったことに必ず留保がついてしまうといったものでもあった。例えばリーダビリティがあって確かに面白いんだけど…、古風で懐かしい、子供の頃に読んだような冒険小説的な感触は楽しいんだけど…、時間にかかわるお話でタイムマシン好きには確かに心躍るところがあるんだけど…、ウェルズを始めエレファントマン、切り裂きジャック、ヘンリー・ジェイムス等、当時の実在した人物総出で賑やかな話になっていくんだけど…、とまぁこんな感じ。すっきりと面白かったと、どこか言い切れないところを必ず残していってしまう。とびっきりの絶景が周囲に広がる大河の上を豪華な設備満載の船で旅していくような装いのもとで、実はその傍らを流れる規模の小さな川の上を下って、その大河から見渡せる絶景を傍から眺めてるというような感じと云うか。このたとえは上手く伝わらないだろうなぁ。
で、このタイトルのもとで、全編にわたってウェルズが活躍するとなれば、先に書いたようにもう読む前からこれはタイムトラベルの話だと簡単に予想がついて、確かにそういう内容に沿って進む話ではあるんだけど、はっきりと云ってしまっても興を削ぐことはないと思うので云ってしまうと、じつはこれ、時間移動を繰り返す話であっても、タイムマシンの話、タイムトラベルの話、タイムパラドックスが縺れこむような話じゃ、一切ない。
恋人を切り裂きジャックに殺されて、恋人を救うために切り裂きジャックが凶行に及ぶ直前へと時間移動しようとする話であったり、時間の狭間の空間が発見されてその空間を通って未来のある時点へ行けるようになり、そんな世界で、その未来へのツアーを商売にしている会社が引き起こす話であったり、その未来の世界が機械との戦争で荒廃して、その戦争に人類が勝利する要となった人類軍のリーダーである将軍が、時を隔てて19世紀末のこの物語の現在へと極秘任務でやってきて、その古風な現在の女性と恋に落ちるような話へと広がっていこうと、この小説は一切タイムトラベルの話として結実しない。最終章のみパラレルワールドの話題に触れていくのでこれは多少はタイムトラベルっぽくなっていくんだけど、そこに至るまでの内容はたとえどんなに時間を自在に操っているように見えてもタイムトラベルの話とは違う操り方をして各章ごとに着地を決めている。
こんな書き方をすると、切り裂きジャックが凶行に及ぶ前に犠牲になった恋人を救うような話を、逆にタイムトラベルを絡めないで着地させるにはいったいどんな搦め手の方法を使ったんだろうと別の興味がわいてくるだろう。わいてこないか?
この物語で二十一世紀の世界として語られる機械との終末戦争が、実際にはそんな未来にはならなかったことがすでに分かっているこのわたしたちの現代に、このわたしたちと同時代を共に生きている作者によってそういうことがある現在として書かれていると云うこと、感がいい読者ならこれだけである種この物語の核心に近づけるかもしれない。
物語は絶えずはぐらかされながら予想しない位相へと変転しつつ進む。驚きがあるかといえばどちらかというとはぐらされる感じのほうが強くて、堂々とした大河の旅で絶景を眺めることを期待していると、確かにそういう光景は見えるんだけど、思っていた大河を下る豪華な旅じゃないぞと気づき始める。
わたしにとって意外と面白かったのは19世紀末のロンドンを舞台とする懐かしい冒険小説のような物語の風合いといったものよりも、この中で語られる、未来への開口部を発見することになった時間の狭間の世界の描写、この異世界ぶりのほうだった。物語の分量としては中盤の最初くらいに出てくるだけの世界なんだけど、その黄昏の場所はこの世界に入ってみたい、この世界を中心に最後まで物語を展開してほしかったと思うくらい魅力に富んだ異世界ぶりを見せていた。それともうひとつ面白かったのはこの小説、ウェルズの伝記もののような一面があって、ウェルズのタイム・マシンを発表するに至った人生の起伏、それまでやそれ以降の思いや苦悩の描写を通して、小説「タイム・マシン」の作者と云ういささか記号的な存在に過ぎなかったその人となりを魅力的に伝えようと苦心しているところだった。音楽室に飾ってある写真と大して変わらなかったウェルズが血肉をもって目の前を動き回るってわけだ。
それにしても思うのは、たとえばそれまでの歴史の中で、あの時失敗したなぁとか、あの日に帰りたいなぁとか、漠然として人に寄り添うようにしてあったに違いない希薄な願望のようなものに、ウェルズは「タイム・マシン」というアイディアを持ち込むことで、明確な形を与えたということだ。ウェルズ以後、人が時間に対して抱く複雑な思いは明確で自覚的な観念として、輪郭も際立つ形を携えて立ち上がることになった。これは凄いことだと思う。そういう形を伴わないままあった願望を掬い上げるようにしてタイム・マシンという形に託し、結実させたウェルズの想像力は驚嘆すべきものだったと思う。
すべてのもととなった、このもはや古典的とも云うべきウェルズの「タイム・マシン」は今読んでも、この中に描かれた、何十万年後かの、80万年後だったか、遥かな遠未来の、人類なんかとっくの昔に滅んでしまい、得体の知れない何かが海面の下で蠢いているだけの、死滅の間際にある地球の様子は、暗い想像力を刺激してやまない。この「時の地図」の中でも一部紹介でもするように描写されるところがあるけど、その異世界は時を超えて心を奪いにくる。
Music From The Penguin Cafe | The sound of someone you love who's going away and it doesn't matter
静かで瞑想的な音楽が広がっていくうちに、7分を超えたころから不協的な何かが紛れ込み始める。崩壊を内に秘めながらも展開する緊張感を伴う平穏な音空間。矛盾してるなぁ。
ちなみにサイモン・ジェフは京都に住んでいたこともあるそうな。そのまさしくペンギンの如く風変わりで愛らしくて茫洋として先鋭的な、ジャンル分け無用の音楽を携えてさっそうと登場した人も今やすでに故人となった。みんな洗いざらい奪い去って、時の流れは情け容赦ない。