2010/08/24
【展覧会】【洋楽】「フィギュアの系譜 - 土偶から海洋堂まで」展について +暑さ疲れを癒せるかもしれない曲をいくつか。
先日「フィギュアの系譜 - 土偶から海洋堂まで」っていうタイトルの展覧会に行ってきました。場所は烏丸御池を北に少しいったところにある京都国際マンガミュージアムというところ。
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ここは去年のちょうど今頃に妖怪展をやっていて、それの記事を書いたことがあります。その時に書いたようにここは小学校だったスペースを、校舎もそのままに漫画の図書館のようにした場所で、そのなかにあるもとは教室だった空間を利用してこういった展覧会、催し物なんかを開催してます。
表通りである烏丸通に面してるミュージアム入り口付近はおそらく昔の小学校のグラウンドだった場所だと思うんですけど、ここにはいつも、館内の漫画を持ち出して敷いてある芝生の上で寝転がって読んでる人とか、コスプレして写真を撮り合ってる人のグループとかが見られます。
今回の展覧会を観にいったのは先月末の土曜日のことで週末だったからなのか、あるいは撮影会の日だったからなのか、この日のグラウンドではとにかくコスプレをする人がやたらと集まってごった返してるといった方が云い様な状態でした。グラウンドのいろんなところに少人数のグループが出来て、それぞれが思い思いに撮影会をしてました。館内に入っても状態はほぼ同じ。通路なんかのいたるところで座り込んでポーズ取ってるような人とそれをカメラに収めようとする人がいて、なかなか進み辛いような状態になってました。
館内の目に付くところにはコスプレーヤーを写真に撮る時は必ず承諾を得てくださいという張り紙が何枚もしてあります。おそらく撮影させてと頼めば、コスプレ姿を披露しに来てるのが目的だろうから絶対に拒否はされないと思うんですけど、なんか人数の多さと結構自己完結してるような雰囲気を纏ってる人、コスプレサークルで閉じてしまってるような雰囲気のグループが多かったので、あまりこういう光景を見慣れてないわたしとしては好奇心が発動しかけてたんですけど、それよりもその数の多さと迫力に気が引けてしまって、声をかけてまで撮影する気にはなれなかったです。もっともわたしは人見知りなので、そんな条件がつかなくてもよほどのことでもない限り気軽に声はかけられなかったと思いますけど。
展覧会はそんなコスプレーヤーが行き来したり座り込んだりしてるのを掻き分けて進まなければならないほど、マンガミュージアムの奥まったところで開催されてました。去年妖怪展を開催してた結構広めのスペースが今回も会場だろうと思ってたら、その場所は全然違う目的場所になっていて、さらにミュージアム空間の奥へ進むことに。
コスプレーヤー以外にもいつもあらゆるところであらゆる姿勢で漫画を読んでる人がいるので、そういう人を避けながらもと学校の狭い廊下を曲がりつつも進んでいくと今回の目的の場所にたどり着きました。
会場はこの正面入り口の奥に一つと右脇に出入り口がある2箇所でした。そのまま奥に進んでいくのがフィギュアの変遷テーマの会場でそこを一回りして見終わってからもう一度戻ってきた正面入り口から、その右にある開口部を潜ると第二のテーマである海洋堂の歴史を扱う会場に続きます。会場の広さは元が学校なので分かりやすく、第一会場は普通の教室一つ分程度の規模、第二会場が教室二つ分くらいの広さになってました。
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第一会場の「変遷」をテーマにしてる展示は最初に遮光器土偶が出迎え、出口ではスターウォーズや、超合金ロボットなどのフィギュアで見送ってくれるような形で展開していきます。
変遷テーマを展開する論調は江戸までと明治以降の二つに大きく分けられ、人形に対する感受性がこの地点で大きく変化したという立場を取ってました。
自然界にある人に似た形をしてるものも、人に似た形をしているということ自体に、人間の感覚の中に特別に呼び起こすものがあって、呪術的な畏怖の対象になっていったということ。それが人の手で人の形のものを創るような発想に発展していった段階でも受け継がれ、江戸時代までの人形的なものは流れとしては玩具的な方向へと展開して行ったけれど、多かれ少なかれ呪具的な側面を手放すことはなかったと。
こういったことを展覧会では「他者」という言葉でも纏め上げています。作り上げられた人形は、手足の数もそろって生きてるものに似てはいるけれど、あくまでも人の領域に属さない何かって云う感じでしょうか。
展示物は意外といろんなところで見慣れてるはずの遮光器土偶が新鮮でした。というのも思いっきり小さいんですよね遮光器土偶。この会場にあったものが特別に小さくて、これ以外に大きいものもあるのかもしれないけど、それはともかく展覧会にあったのは身長10センチくらいのかなり小さいものでした。わたしは写真なんかで観てる今までのイメージとしては30センチくらいは確実にあると勝手に思ってたので、会場に入ったとたんにいきなり予想を覆されてしまったというわけです。他には人の代わりに厄災を引き受けてくれる人形がいくつか展示されていてその中だと堤人形というのが印象的でした。細部を細かく作り上げるわけでもない子供を思わせるような素朴な土人形なのに呪術的な何かを背負わされてるというアンバランスさと「便所神」という怪しすぎる性格付けが、確かに目の前の小さな土人形の中に何かがありそうな気分に誘ってくれるようでした。
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明治以降になるとこういうあり方だった人形との関係が劇的に変化します。文明開化という急速な近代化の中で、江戸時代の人形などのその時点での同時代的な文化が廃れていく一方で、そういう時代の流れに馴染めなくて、より古い玩具に意義を見出しコレクションするような人が出始めるということがあったらしいです。こういう人たちは自分たちのことを大きくなってからも子供のように玩具で遊ぶという意味で「大供」と呼んでいたそうです。
これはわたしは始めて知ったことで、ちょっと面白かったです。要するに今で言う「おたく」なんですよね。「おたく」の起源は文明開化にあったと。「大供」という言葉の、落ち着く先のないような異物感も「おたく」っていう言葉の畸形的な語感と何か似てるところがありそうな気がします。
この流れは大正時代になって郷土玩具を収集するという形になっていったそうです。会場にはその当時のコレクターが集めた郷土玩具がいくつか展示してありました。文明開化のころは近代化以前の世界への回帰という形を取ってたのに、そこへさらに地方色といったものが関心の対象となってそれを具体化するのが郷土玩具だったようです。郷土玩具をコレクションするのは昭和の初期に大ブームになったとありました。
でも文明開化の時期に懐古趣味に走るのは分かるにしてもなせそれが郷土玩具って云ういささか唐突なものへの指向にターゲットを絞り込んでいったのか、地方色といったものが昭和に入ってなぜ関心の的になっていったのか、わたしにはこの展覧会では今ひとつ理解しにくかったです。一例としてこけしが挙げられていて、こけしももとは東北に限定されてたものがこの懐古趣味的な動きによって全国的に知られるようになったんだとか。
展覧会にはこけしのコレクションとともに当時の雑誌の広告も展示されていました。これがまた本当にこけしを紙面一面に隙間なく並べた今では有り得ないような広告で、日本中の人がこけしを欲しがってたんだという時代の雰囲気が感じ取れました。日本中がこけしに夢中だなんて、なんだか結構異様な雰囲気でもあります。
その後竹久夢二や高畠華宵の絵をモデルにした土人形、戦争中ののらくろだとかのキャラクター人形の展示などを経て展覧会は戦後の人形へと移っていきます。
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明治以降の収集の対象になった人形のあり方については展覧会は「他者」から「自己(の拡張)」として変化していったと説明しています。今の時代の人形を取り巻く様相から人形を「フィギュア」と「ドール」の二つにカテゴリー化して、フィギュアは収集することで自己を拡張していくものでこれは男性が好む形態とし、一方ドールは一体の人形と向き合い、自己を投影しながら人形との関係を深めていくような形態でこれは女性が好む形としていました。そして展覧会ではこういう視点の下で戦後に登場した人形たちがいくつか展示されてました。
このコーナーではビスクドール、文化人形、ポーズ人形と展示が続き、大体このあと辺りに来て始めて、わたしが直接知ってる人形が現れてきます。ドール系はリカちゃん、ジェニー、ブライスと並んで、フィギュア系では怪獣、妖怪といったもののソフビ人形なんかが展示されてました。
リカちゃんはファッションブランドとコラボした特別仕様のものが当時売られた箱入りのままで展示されていて、実はわたしもピンクハウスのリカちゃんを箱入りのまま保存してたりするので、ひょっとしてわたしのも値打ちあるかなと思ってしまいました。
こういう売られていた状態そのままで博物館的に陳列されてるのを見ると、なんだか価値が激減しそうで自分のも箱から出せなくなってきそうでした。箱から出してもらえず、遊んでももらえない人形はちょっと可愛そうですけど。
怪獣もののソフビ人形も、東宝や大映の怪獣映画でよく見知ったものが登場して、わたしとしては素性が分かる分興味を持ちながら見ることが出来ました。こちらも似たようなものは持ってはいるんですけど、わたしのはどこにでも売ってるような代物なのであまり値打ちは出ないかな。それとも時間が経つことでわたしの持ってるようなのでも希少価値は出てくるんでしょうか。
(わたしが持ってる、500円ほどで売ってた値打ちなどいつまでたっても出そうにないありふれた怪獣もののソフビ・フィギュア。両方とも昭和のデザインのものです)
ドールとフィギュアというカテゴリーに分けて、自己というキーワードの元に拡張と仮託という違った側面で人と人形の関係を浮かび上がらせる視点は面白いと思ったものの、でも人形そのものの中でも、それに接する人の中でも、これはそれほど明確に区分できるものでもないだろうなぁとも思いました。
たとえばわたしはブライスがとても好きで、この展覧会のカテゴリー分けではブライスはドールの範疇に入るんですけど、でもわたしはブライスというドールに対して、たとえば髪形が違うものを一杯集めたいとか、いろいろとフィギュア的な欲望を持ったりしてるんですね。ブライスの中にもコレクションを促す要素は入ってるし、わたしのなかでも男性女性原理で分けられたこの二つの側面は同居し、ドールに対してフィギュア的な感覚をクロスさせることも当たり前のようにやってるような感じです。展覧会の区分は単純で明解だとは思うんですけど、実際はもうちょっと入り乱れた形で混沌としてるんじゃないかと思いました。
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教室だった空間の壁面に沿って巡り、怪獣のソフビ人形の後、超合金ロボット、グリコのおまけ、見て一番つまらなかった筋肉マン消しゴムなどの展示の前を通り過ぎると、入り口だった場所に戻ってきます。そしてここから一度出て脇にあるもう一つの入り口から第二会場へと進むことになります。脇の第二会場への入り口は写真で云うと受付の人とその背後に見える大魔神の間にあります、気づかなければそのまま受付の人の脇を通って目の前にある出入り口から出てしまいそうなちょっと分かりにくい進路になってました。
第二会場は今出てきた会場の大体二倍くらいの広さ。この広さ全部を使って現代を代表するフィギュア・メーカー「海洋堂」のフィギュアが展示されてました。フィギュアの系譜展というよりこの会場は第二会場全部を使って海洋堂の社史を展示してるような感じです。海洋堂はフィギュアの世界ではトップに君臨するメーカーだし、そのメーカーの歴史を追うことで確かにフィギュアの変遷を辿ってはいるんですけど、海洋堂にそれほど思い入れがなければ接点の持ちようのない可能性も含む展示状態になってるようでした。
展示物は主にアニメやゲームのキャラクターが中心で、これはもとのアニメ、ゲームを知らないと、もちろんフィギュアとしての精巧さは分かるにしても、取り付く島がない部分も結構出てくることになります。
わたしは北斗の拳、一連の宮崎アニメのキャラクター、ときめきメモリアルの美少女たち、エヴァの登場人物、涼宮ハルヒなどは知ってましたけど、ロボットものの多くは何だかよく分からないといった感想に留まる部分も多かったです。
キャラクターものの他にはガシャポンや食玩として売られていたものも展示されてました。こういうのを売る時の形は、ある統一したテーマの元に何種類かフィギュアを作って、全○種類で完結といった形になることが多いです。そしてそのシリーズは往々にして中身を選べないような形で売られることになります。買う側は当然順調に全種類揃えられなくて、何度も同じものを引き当てては海洋堂に貢ぐ形になるわけです。
今までにいろんなテーマでこういうシリーズものが展開されていって、展覧会にはそういうものが一堂に展示されていたんですけど、なぜかコンプリートした形で全種類展示されてないものが多かったです。こういうシリーズがありましたって云う紹介程度の展示に終始してる感じで、海洋堂のガシャポン、食玩を紹介するにしては社史のようになってる展覧会なのにものすごく中途半端な印象でした。
(たとえば会場にも展示してあったシリーズの一つ、アルフォンス・ミュシャの絵画を立体化したフィギュア。でもこれも全種類展示してなかったような)
わたしとしてはどちらかというとそれほど海洋堂に思いいれもないので、この展覧会の後半を占めてるパートは一つ一つそれなりに丹念に見たつもりだったんですけど全体的な印象はそれほど強いものとしては残らなかったです。むしろ海洋堂以外のメーカー、わたしは人体模型のフィギュアを作ってたユージンとか最近の食品サンプルのミニチュアで知られるようになったリーメントなんかが、この場所では海洋堂一辺倒になったために、まるでフィギュアの歴史には入らないかのようにフィギュアの変遷から排除されてしまってることのほうが物足りなく感じられた展覧会だったといえるかもしれません。
(他にもねんどろいどなんかも海洋堂製じゃないから展示されずに、フィギュアの歴史に存在しないような扱いでした。ちなみにこれは「涼宮ハルヒの憂鬱」に登場する長門有希とハルヒのねんどろいどです。こういう写真を撮るつもりならミニスタジオくらい用意した方が良さそう、生活臭に満ち溢れたわたしの部屋の様子が入らないように写そうとしたら、俯瞰しか構図が取れないです)
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こんな風に、このキャラクター懐かしいとか、この食玩のシリーズ持ってるとか、これは最後までコンプできなかったシリーズだとか、元のキャラクターが誰だかわからないとか、色々思いながら会場を巡り、出口付近にあった海洋堂の造型師へのインタビュー・ビデオを仕上げに見てから、会場を後にすることになりました。
見終わって後、再びコスプレーヤーの跳梁跋扈するミュージアム内を歩いている時わたしが抱いたこの展覧会に対する全体の感想を云ってみるなら、こんな風に話題に取り上げておいて云うのもあれなんですけど、あまり面白くなかったかなというようなものでした。部分的には見入ったり興味をひかれるものもあったことはあったけれど、全体的には正直なところ呆気なさ過ぎる展覧会という印象が強かったです。
会場がまず小さすぎなんですね。結局全体あわせても、普通に学校で見られる教室程度の大きさの空間を3つほど連ねたに過ぎないスペースで、まるで学園祭にフィギュア部が研究発表してるのを見にきたみたいな気分で見終わり、「もう終わりなの!?」って結構驚きながら会場を追い出されることになります。面白いものを観て堪能したって云う感じじゃなかったです。
場所の規模が通常展覧会といった時に想像できるようなものからは桁外れに小さいので、必然的に展示されてる展示品の数も少なくなってきてます。あるいは逆に展示物が少ないからこの規模の展覧会になってしまったというほうが本当のところかもしれません。
普通展覧会といえば様々な展示物を集め、連ねることで、その展示物の集積からある種のテーマを浮かび上がらせるというのが本来的なやり方だと思うんですけど、この有り得ないほど展示物の少ない「フィギュアの系譜 - 土偶から海洋堂まで」という展覧会はそういう方法とは真逆で、まず展開するべき論考があって、その論考を補強するために展示物が持ち出されてるという感じに見えました。こういう主張があって、その考えを裏付けるために証拠品として展示物を一つ披露するっていうようなやり方ですね。
でもたとえ展開される論考が素晴らしくても、展示品、作品で見せようとしない展覧会は駄目です。今回も売店で売ってた目録を買ったんですけど、こういうことを暗示してるかのように展示されたものの記録ではなくてほとんどが文字ページで、言葉で変遷史を解説するっていうような内容の代物でした。
論考を見せる気はあるけど、展示品を見せる気が余り無い展覧会、まとめてみるなら「フィギュアの系譜 - 土偶から海洋堂まで」という展覧会はこういうコンセプトで成立してる展覧会だったんじゃないかと思います。
そしてその見せようとしていた論考もなるほどねと納得する程度のものが多くて、そういうことだったのかといった新しい発見、認識に導かれるようなものはわたしにはほとんどなかったような気がしました。
もう一つ、海洋堂の会場には展示順路の途中にケンシロウとかベルダンディーが、出口付近のフィギュア展示の締めくくりの場所には綾波レイの等身大フィギュアが置かれてたんですけど、こういうのを置いてしまうところにこの展覧会の企画にはフィギュアに対する論考はあるにしても、フィギュアを手にするものの感受性といったものに関しては若干鈍いんじゃないかと思われるところもありました。フィギュアやドールに関して、わたしも好きだから、そういうものがわたしの中にかなり強い衝動として存在するのも自分の事としてよく分かってるんですけど、小さくなったものに対して偏愛する感覚といったものがあると思います。この展覧会では第一会場のグリコのおまけを展示してるところで、小さいことがコレクションを促すとか、はっきりとどう書いてあったかは忘れてしまいましたが、フィギュアが小さくあることの意義みたいなものが書かれていたのに、展覧会の終わりのほうででかい綾波tレイを置いてしまうことからして、こういうことに関しては一応触れはしたけどそれほど重要視してないようでした。
でもわたしは精緻に小さくされたものへ向ける過剰な偏愛って言うこの感覚は、フィギュアに関してはかなり大きな感覚だと思います。
だからフィギュア展示の締めくくりに等身大の綾波レイが無頓着に立ち上がってるのを見て、自分がフィギュアを手にしてる時に抱く感覚をなんだか凄くはぐらかされたような気分になって会場を後にすることになりました。
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この日京都国際マンガミュージアムに出かけた一番の目的はこんな感じでわたしの中に納まったんですけど、この日はもう一つ、ものすごく規模の小さなものでしたけど同じマンガミュージアム内で別の展覧会もやってました。
しかもこちらの方はミュージアムへの入場料だけで入れる無料の展覧会。
何の展覧会だったかというと、イラストレーター村田蓮爾の原画展でした。
わたしはこの人の絵が結構好きで、画集も持ってるんですね。
(会場風景です。手にしてたのがトイデジだったのであまり考えずにそれでスナップ。見事にぶれてました。何枚か撮っておいたのも全部ぶれぶれ。後で調べたらこの時のシャッタースピードは1/6秒だったらしく、これはどうあがいても手ぶれします。室内の写真はドイデジで撮らない方が良いですね。)
(これがわたしが持ってる画集)
少女のキャラクターの可愛らしさはもちろんとしても、この人は男をちゃんと男として描けるのがいいです。少女漫画の顔パーツの位置をそれ風に移動させただけで男だと言い張ってるようなのとは根本的に違う描画力。きちんと骨格がある人体を描けてるのもいいし、メカの類だって質感を持ってかなり上手いです。
こういうのをやってるって知らなかったので、偶然行き当たってしまった形でした。無料ということも手伝って、なんだかなぁの展覧会だったフィギュア展を観た直後で口直しって言うわけでもなかったんですが、喜び勇んでこの会場にも入ってきました。
会場はかなり小さな規模で先ほどからのたとえで言うなら教室の2/3くらいの大きさ。無料展示ということもあってか展示されてる作品数も多くはなかったです。ひょっとしたら売店で画集を売るための販促目的の展示だったのかもしれません。でも数は少なくてもこちらのほうは絵を並べることで何かを見せようとしてる本来の展覧会的な展示だったので、論考を見せるための手段のような扱いだったフィギュア展よりもよほど展覧会っぽい感触で見てられました。
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京都国際マンガミュージアム公式
フィギュア展のほうは来月中ごろまで開催してますけど、村田蓮爾展は今月末の29日までです。
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ミュージアムをでてからその辺を散歩しながら写真を撮ろうとしたんですけど、曇ってたにもかかわらずあまりの暑さで歩き回る意欲があっという間にそがれてしまいました。また曇りの日はやっぱりあまり写真とっても面白くないなぁっていう気分も結構出てきますね。同じ撮るなら青空の方がいいやって。
それに京都の町って碁盤の目の道路だから街角の印象がどこにいってもほとんど一緒なんですね。全部90度で交差してる。被写体を探す気力も暑さのせいでうせてしまいがちだったので、同じ印象の街角ばかり目にしてる気分で、いろいろ歩いてもシャッターを切るところまで行かずに結局写真は終了することになりました。帰ってから撮った写真見ても全然ピンと来ないものばかり。
こんな風にこの日はせっかく出かけてきたものの、ちょっと締まらない終わり方の一日になってしまいました。
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また、音楽をいくつか置いておきます。
Te Quiero Dijiste
「Magic is the Moonlight」というタイトルでも知られてる、確か40年代くらいにメキシコの作曲家マリア・グレベールが作ったラテンのスタンダード曲。
この曲、実写版のサザエさんでサザエさん役の江利チエミがマスオさん役の小泉博と踊りながら歌うというこれまたビザールなヴァージョンも知ってるんですけど、Youtubeにもあったはずなのに消えてしまってました。ちなみにこの映画版サザエさん、ワカメ役は松島トモ子、ノリ助役はなんと仲代達矢でした。
ここにあげた動画はウォン・カーウァイ監督の映画「花様年華」に使われていたナット・キング・コール・ヴァージョン。
伊東ゆかり 恋する瞳 L'amore ha i tuoi occhi
Gorni Kramer作曲のカンツォーネ。65年のサンレモ音楽祭でイタリア人、ブルーノ・フィリッピーニと伊東ゆかりが歌って入賞した曲です。
日本人歌手がイタリア語で歌ってるのでカヴァー曲かと思えば、この曲は伊東ゆかりのこれがオリジナルだそうです。
何年か前に竹内まりやがオールディーズを集めたアルバムでカヴァーしてますね。
Paroles Paroles - Dalida avec Alain Delon (Edition)
なんだかこれがオリジナルのような印象なんですけど、Gianni Ferrioが作曲してMina & A. Lupoが歌ったイタリアの曲がオリジナルです。私はダリダのものが好きですけど、原曲もそういう構成になってるとは云うものの、アラン・ドロンの語りがはっきり云って鬱陶しいです。
途中でなんか不自然に音量が上がってる部分があるように聴こえるんですけど、わたしの気のせい?
The Zombies - This Will Be Our Year (Mono Mix)
Tell Her No - The Zombies
解散してから大ヒット曲が生まれた悲劇のバンド、ゾンビーズです。上の曲は代表的なアルバム「Odessey&Oracle」に収録。わたしにはどことなくビートルズっぽいアレンジに聴こえます。このアルバム自体がサージェント・ペッパーズ・フォロアーのアルバムだからどこかビートルズっぽいのは割りと納得してしまうところがあります。当時サージェント・ペッパーズに触発されて出てきたいろんなアルバムの中では一番成功したものじゃないかな。
下の曲は3枚目のシングルで、これはヒット曲だったのでゾンビーズのいろんなアルバムに入ってます。最後近くに一回だけ入るハンド・クラップがかっこいいです。
All My Loving
ビートルズを引き合いに出したので、ビートルズも一曲。といってもオリジナルのじゃなくて、オーケストラ版の「All My Loving」です。
イギリスの作、編曲家Arthur Wilkinsonによるアレンジで、ビートルスの映画「マジカル・ミステリ・ツアー」のなかで使われたもの。曲そのものは「The Beatlecracker Suite」というチャイコフスキーの胡桃割り人形に模した形でビートルズの曲を編曲し並べたものの中に入ってます。この曲、もともと旋律が極めてロマンティックで綺麗だと思ってたんですけど、オーケストラにしてここまで映えるのはちょっと予想外かも。
この映画の映像のほうも、写真だったらまるでトイカメラで撮ったみたいな、夢見るようにノスタルジックな映像で凄く素敵です。曲は映画の都合で最後の方は途切れてしまってます。それとバスのなかで窓の外を眺めてるのがリンゴ・スターです。
太陽の子供たち - 小野リサ
これはちょっと音が悪いかな。かなり繊細な音の積み重ねで出来てる曲なのでいい音で聴けるのを持ってきたかったです。この曲確か小野リサさんの作曲なんですよね。もとはみんなの歌に出てたものです。みんなの歌に出てくる曲って妙にアート指向で作った人が一人で悦に入ってるような曲が多いという印象があって総体的にはあまり好きでもないんですけど、この曲はよかったです。子供の歌声が凄く効果的。
(記事を書いた当時の曲は削除されていたので、同曲の別バージョンに差し替えてます。説明内容と合致していないのはそのためです。2017年2月記)
Toots Thielemans & Elis Regina - voce
ここではハーモニカじゃなくて口笛吹いてるのがToots Thielemansです。Elis Reginaもリラックスして、なんだか夢心地のボサノヴァになってます。
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今回の曲の入ったCD情報です。ただし入手不可のものも混じってます。
最後まで読んでくださって有難うございました。まだ暫くは暑い日が続くと思いますけど、皆様体調管理には気をつけてお過ごしくださいね。