2019/09/18
挑発する大陸、チビッコビルの七夜の罠。 機械式辻占師言行録Ⅴ




2017 / 02 伏見 (1)(2)(3)
2016 / 10 藤森神社 (4)
Fuji Cardia Travel Mini Dual-P / Nikon L35 AF
目についた単語を並べて冒険小説風のタイトルやね。どうもやはり意味から離れられないのが突き抜けていないところではある。チビッコビルで過ごす七つの夜に仕掛けられた罠とは一体なんだろう。七日間、夜毎に罠をクリアしないと挑発するらしい大陸から生還できなかったりするとかハードルはきわめて高そうだ。あるいはチビッコビルは人の名前のようにも見える。西部劇に出てくる悪党、小さいくせに子供のように無邪気に残忍で、極悪非道な悪党の名前のようにも響いてくる。この前コメントの返事を書いていて、いつもの呪文に「チープ」というのも付け加えてもいいかななんて思った。似たような観念にキッチュなんていうのもあるけど、キッチュなものとかまるで興味がないので、似ているけど非なるものとして「チープ」。それと「寡黙」というのもわたしの志向としては追加しておきたい。チープなものは往々にして饒舌であったりするから、これと寡黙さは相容れないものかもしれないけど。そこにあるオブジェとして、自らがそのオブジェであることしか語ろうとしないもの。自らの物質性をそっちのけにして意味について饒舌になろうとする対象よりも、あるいはその幻想性について言葉多く語りたくてうずうずしているものよりも、それははるかに幻想的なオブジェとして立ち現れるんじゃないかと思う。今回のは随分前に撮ったつもりだったものの日付を見れば2017年とそんなに昔でもなかった。今撮っている写真とは違わないようで違うというか、自分にとっては微妙な感じがする。こういう被写体を選ぶ好みは変わってないはずだけど撮り方は違ってくるかもしれない。話は全然違うんだけど、このところ一斉に「違くて」なんていう言い回しが、まるで解禁されたかのように耳についてくるようになった。わたしがこの言い回しを最初に目にしたのはそれこそ20年くらい前になるか当時リビドーっていうエロゲームのメーカーがあって、そこの広告か何かの文章の中でだった。未だにこんなことを覚えているのは、まず最初にこれどう読むんだ?と読み方の予想もできなくて、「ちがくて」???こんなの日本語じゃないだろうと首を捻った印象が強烈だったからで、わたしの眼の中には違えようのないシンプルな言葉ゆえの異物感そのものとして飛び込んできた。それがこのところ急に当たり前の言い方として身の回りに溢れかえってくるようになっている。CMの歌の歌詞の中にも現れるようになったし、先日なんか病院の看護師が「それとは違くて、どうのこうの」なんて喋っていた。作詞はこんなに言葉に鈍感であっても出来るものなのか。20年来の異物感が、リビドーなんていう今はもう存在しないゲームメーカーを伴って最近になってまた目の前に浮上してきたわけだが、この「違くて」とか「違かった」なんていう言い方、ことのほか「違かった」なんて一体何?もっと普通にたった一文字しかか違わない今までの「違った」でいいじゃないか。それともなにか、「違った」だと命に関わるような不都合でもあるのか?なんて思いかねないほど日本の言語感覚とはずれているんだけど、こういう言葉使いを気持ち悪く感じない人って、少なくともこういうのはまともな書物の中には絶対に出てこない言い回しだし、本を読んだことが無い人なんだろうかとも思ってしまう。もっとも言葉としてはリビドーの例の如く20年位前に既に使われていたようで、話によるともっとはるかに昔からの関東のある地方の方言だということも目にした。ちなみにリビドーは仙台の会社で確かチビッコビルとかいう異様な名前のビルに居を構えていたことまで、あまりにも異物感が横溢していて、別に覚えていたくもないのに記憶の片隅に居座り続けている。この記事を読んだらわたし同様に、おそらく一生の間どのような瞬間がやってきてもまるで役に立たないに違いない知識、昔仙台のチビッコビルというところにリビドーというエロゲーのゲームメーカーがあったという知識が脳細胞のいくつかに染みついてしまうことだろう。わたしの仲間となるのだ。どうでもいい話からちょっとだけ写真の話へ戻す。今回の写真は昔のオートフォーカスのコンパクトフィルムカメラで撮った。現役当時でもそんなに高級なカメラでもなかったように思うが、いまや見つかるとすれば誰も手を出さないような中古ワゴンの中にワンコインでも買えるような状態で転がっているのがほとんどじゃないかなぁ。ちなみに以前河原町のサクラヤで、両方とも「写ルンですよりも安い!」なんていう札を貼って、値段のつかない安物中古を集めた段ボール箱の中に投げ入れられていた。デジのAFコンパクトカメラとやってることは大して変わらないと思うけど、デジでは当たり前の速度感といったものが、こういうお手軽カメラを使うことで、元々スローなフィルムという場ではより顕著に写真に現れてくるんじゃないかと感じるところもあり、一眼レフのような重厚なものとはまた方向性が違う、結構好きな類のカメラとなっている。なによりも所詮ファミリーカメラ、大した写真なんか撮れないと思われがちなカメラを使うっていうのが饒舌嫌いチープ好きにとっては小気味良いし、意外と著名な写真家がこの手のコンパクトフィルムカメラを好んで使っていたりする。たとえばロバート・フランクがオリンパスのμ2を構えている写真を見たことがある。今現在は、これはかつての高級コンパクトフィルムカメラになるコンタックスのT3にフィルムを入れて、後7枚ほどで撮り終える状態。遠出を許してくれない病気の合間に撮ってるにしてはわりとペースはいいほうかな。先日いきなりまるでホースでぶちまけたような豪雨に見舞われて、わがT3もずぶ濡れになってしまい、しばらくはこの雨の影響で挙動に不安が残る状態にはなってるんだけど、壊れて欲しくないなぁ。

サングラスはあれからまたいくつか買って、買っているうちに勢いがとまらなくなって今年の夏はなぜだかサングラス三昧の夏になってしまった。あれから追加になったものにはボストンなんて中途半端な丸型じゃない正真正銘のラウンドのものとかウエリントンタイプの、まぁ3COINSのバーゲンで100円で売っていたほとんどおもちゃみたいなものがある。この欲望の発露の源流には普段用の眼鏡を色々と増やしたいというのが確実にありそうで、そのシミュレーション的に安いサングラスで遊んでるんだろうと思う。なにしろ高くても1500円程度のものばかりだ。いろんなフレームのサングラスをかけてみてあらためて思い知ったのは形としては好きなのに丸顔にはあまり似合わないと痛い自覚をしてしまった丸眼鏡の真実と、キャットアイフレームが丸顔には意外と合うという新発見。でもサングラスではいいかもしれないけれど、普段用の度を入れた眼鏡にキャットアイフレームは冒険のしすぎだろうな。丸眼鏡といえば今やっている大河ドラマ「いだてん」に登場する人物、男も女もみんな丸眼鏡でみんなきっちりと似合っているのは見事。薬師丸ひろ子の丸顔でさえも似合っているんだから、これはもう一体どうなっているんだろう。彼女の丸眼鏡には何かの魔法がかけてあるとしか思えない。「いだてん」はエピソードが積みあがっていくだけでその場で足踏みしているような印象のまま折り返し点を過ぎ、頭に残っているのはこの丸眼鏡の競演と高橋是清を演じる、これが最後の役となった萩原健一のかっこよさばかりだ。

上のブルーのがWEGOで売っていたラウンドのミラーサングラス。セールで500円ほどだった。下のは10年以上前に眼鏡研究社で作ったもので、写真ではちょっと分かりづらいけどこれが今風ラウンドなのか、上の今年買ったもののほうがレンズは大きい。眼鏡研究社のは鼻パッドがない一山のクラシック仕様である一方、今年買ったほうは普通に鼻パッドがついている。そういえば「いだてん」に登場する丸眼鏡はすべて一山で、こういうところもそれなりに時代考証されていた。眼鏡のことを知らないと一山の眼鏡という存在自体まず知らないはずだから、劇中に小道具として眼鏡を調達してきた人はこういうことを知っていたということだろう。といっても鼻パッドは1920年代には既に発明されていたそうだから、登場人物全員が一山の眼鏡だということにリアリティがあるのか、古さの演出だけのことなのかどうかは正確には分からないけど。