2006年09月11日

シュジェール ゴシック建築の誕生 森洋~「SD4」1965年4月より抜粋

「SD4」1965年4月 特集・フランスのゴシック芸術より抜粋。 

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シュジェール ゴシック建築の誕生 森洋

《もしも我らガリア(フランス)の教会のなかに、大いなる主(神)の大いなる家の、名誉の器たるものがあるとすれば、又もし主の帝国のために力をつくす忠実なタヴィデたるものがあるとすれば、私の判断ではそのものこそ尊ぷべきサン・ドニ修道院長シュジエールその人でありましょう。私はこの人物をよく知っていますが、俗世のことどもに忠実で慎重である一方、霊的なことどもにも熱心で謙虚であり、聖俗両面にかかわりあって-このことは誠に困難なことなのですが-何らの非難もうけずにすごしています。》

 これはシュジエール(1081-1151)について、聖ベルナール(1090-1153)が、その弟子である教皇エウゲニウス3世(1145-1153)宛に書いた推薦状の一節である。12世紀中葉のあらゆる教会事件に関係をもつとさえ言われる聖ベルナールのこの言葉から、われわれは当時のシュジュールの一般的な評価を汲みとることが出来よう。事実この時期のシュジエールの存在は極めて大きい。特に19世紀の歴史家たちが、ルイ6世(1108-1137)を、フランス統一の促進者、コンミューヌ都市の解放者としてきわ立たせようと努力した際に、この国の助言者であり、伝記《ルイ6世伝》の著者であるシュジュールに、殆んど超人的なイマージを与えてしまった.このことは、シュジュール自身が、その死後、伝記作者として、伝記よりはむしろ頌辞のみを書いた弟子ギヨームを有していたことにもよるが、19世紀の歴史家たちが描き出した像は、20世紀に入ってから、それに付け加えられた多少の修正はあっても、今日依然としてその基本線をくずしてはいない。それらを要約すると、シュジエールは、修道院長としては、破綻にひんしていた修道院財政を建てなおし、腐敗していた修道院の規律を正し、こうして生じた財源をもって、修道院付属教会堂をゴティック様式に改築した。彼はこの改築工事によって、ゴティック様式建築の祖であるのみならず、そのガラス絵によって、ゴティック・イコノグラフィーの祖である。サン・ドニのフランス大年代紀編纂事業が、彼の《ルイ6世》伝にさかのばる所より、フランス歴史学の祖であり、また修道院に残る写本類によって判断すれば、ゴティック書体の祖でもあり得る。多くの対立点があるにもかかわらず、彼は修道院改革を通じてエトー派の聖ベルナールと親しく、またクリュニー修道院長ピエール・ル・ヴェネラブル(1094-1156)とも疎遠ではなかった。彼は生れは卑しかったが、サン・ドニの分院レストレで、未来のルイ6世の学友となり、以後王の側近として、殆んどすべての重大事に参画した。特に叙任権闘争の結果、一時フランスに逃避した教皇パスカリス2世(1099-1118)に随行して以来、しばしば王の使節として各地の公会議やローマにおもむき、以後エウゲネス3世にいたるまで、8代の教皇の知遇を得た。彼はまた各地の司教、大司教、あるいはシャムパーニュ伯ティボー、アンジュー伯ノルマンディ侯にして、後に
イギリス王となったへンリー1世、シチリア王ロジェ2世等とも親しく、しばしば彼ら相互問あるいは王と彼らとの紛争を調停し、《平和の帯》と呼ばれた(ギヨーム)。またルイ6世はその子ルイ7世(1137-1180)の教育を彼にゆだねたが、後にルイ7世の十字軍出征中(1147ー1149)は、摂政に選ばれ、その間の功績の故に、《祖国の父と呼ばれた》(ギヨーム)。

 こうしたシュジュール像は、一見して明らかに偏平な印象を与える。このことは、この像を描く場合に、.その史料の大部分を、ギヨームの伝記と、シュジエール自身の手になる《ルイ6世伝》、更に彼が修道院長として行なった事柄を自らの手で記録した《その統治中になされた事どもに関する書》(以下《統治記》)及び《サン・ドニ教会の献堂に関する書》(以下《献堂記》)によらざるを得ないための偏りとも考えられる。12世紀前半に、これだけの史料によって裏付けられる人物はそう多くはなく、更にその所与を一層客観化する史料が極度に乏しいのも事実であるが、われわれはもう少し幅ひろく当時
の社会を視野にとり入れることによって、多少はこの像に奥行を与え得るのではないかと思う。

12世紀の前半は、一般に《王様の覚醒》の時期といわれている。このことは、987年に一種のクーデタによって《フランス》王位についたカベー家が、その優位が他の領邦諸侯にくらべて相対的なものでしかなかったこと、その時から12世紀にいたる間の《王権》が、当時唯一の知識階級であった教会人の間以外では、単なる理念でしかなかったことを示している。こうしたカペー王の存在が、12世紀前半にいたって、急速に実効性をもち始める筈がない。今日の研究段階からその実体を要約すれば、理念的には現在のフランス全領域の王であるフランス王は、実質的にはパリを中心とするイル・ド・フランスの領邦主であり、この狭義のフランスはその内部に多数の反抗的な小領邦主を含んでいた。ルイ6世が王位についた1108年頃の実状は、王直轄領の大部分が集中していたパリ =エタンプ=オルレアンの間を王が安全には通行出来ない程度であった。12世紀前半とは、こうした社会を規制する力として、封建法の秩序が、次第にドミナントなものになっていく時期である。

 こうした情勢は、程度の差こそあれ、シャムパーニュ、ブルゴーニュといった領邦にもあてはまることである。しかしそれらの領邦主と王との相違は、前者の領邦内の人的関係を封建法的にかため、あるいは婚姻その他の手段で領邦を拡張した場合にも、領邦主として優位に立つにすぎないが、後者の場合に同様の操作は、領邦主としての王の優越性を約束する点である。この倒錯した論理は、シュジュールによって現実に利用された論理であった。

 これに対して教会の世界は、ローマ帝国ゆずりの組織と法とを受けつぎ、さらにそれを現実に適応させる努力をおしまなかった。従って問題は、その組織を生かす人物であるが、9、10、11世紀を通じて聖職売買(シモニー)や聖職者婚姻(ニコライスム)が絶えず、特に高位聖職者には必ずしも適任者を得なかった.

 こうした現象は一面ではメロヴィィンガ朝以来累積されてきた莫大な教会財産の存在が招来したものでもある.財産管理は当然俗権的な才幹を要求するし、また中世を通じての各職務には必ず裁判権を伴なうと云う原則は、それが高級裁判権である場合に《教会は血を欲せず》という鉄則と衝突した。こうして教会領の多くは、聖職者の名によって裁判権を行使し得る俗人の管理にゆだねられざるを得ず、それらの俗人は社会一般の、いわゆる公権の私有化の風潮の下にそれぞれ事実上の独立をかちとっていき、併行して教会そのものにも席敗をもたらした.11世紀後半のグレゴリクス教皇の教会改革がしばしば凄惨な闘争に発展したのは、こうした歴史的背景によるものである.

 修道院については、サン・ドニニのごとく自主的な起源をもち、王の認可でさえも7世紀にさかのぽり得る存在は、ベネテイクトウス戒律が適用されているという理由のみで一応はベネディタト派と呼ばれてはいるが、それらは、グレゴリウスの改革の呼び水ともなったクリュニー修道会(10世紀に成立)や、更にクリュニー会に対抗する意味で11世紀に成立したシトー会のようなまとまりを持っていたわけではない。しかもクリュニー会もシト一会もともに、ベネディクトウス成律の厳格な適用を叫びながら成立したことこそ、当時の修道院一般の腐敗の程度を物語るものである。特にサン・ドニの場合、7世紀のタゴベルトゥス王以後、王の墓所の格式を誇り、同王の奉献をはじめ、歴代諸王の寄進が累積していたから、その財産は莫大なものであり、しかもその所領は、俗人代官(アドヴォカトウス)の管理に、ひいては彼らの私有化にゆだねられていたのである。

 教会の一般的な腐敗現象は、必ずしもグレゴリクスの改革で一掃されたとはいえず、特に聖職者の俗権移住の問題は、フランスの場合に12世紀を通じての課題になるが、しかも教会には、在俗教会であれ修道院であれ、一つの利点があった。12世紀の一般社会では、すでに生れによる階層がほぼ確立していて、下層から上層に上がる機会は絶無に近い。一方教会は、不自由・半自由身分のものはこれを峻拒したが、自由人である限り、能力に応じてその階層を上がらせるという原則を変えたことがない。司教や修道院長の職は、その地方の名門の子弟によって占められる傾向は著るしいが、しかも12世紀後半、ルイ7世の治世を通じて、来歴がつきとめられる高位聖職者は半数以下であり、その数の中には、パリのノートル・タムの建設者たる司教モーリス・ド・シュリー(1160-1196)等のように、生れが卑しいと記録されているものも2、3にとどまらない。下層の能力あるものにとって教会は当時の唯一の登竜門であること、また封建法によって高貴であるとみなされるものが、封をもつもの、即ちそれによって完全武装し、年間40日間の従軍に耐えるものに限られていた当時に、唯一の文官供給源は教会・修道院以外に存在し得なかった事実こそは、銘記さるべきである。

 シュジエールは自らも《ルイ6世伝》に記し、ギヨームもそれを裏書きしているように卑しい生れである。生地はパリとサン・ドニの中間にあたるアルジャントゥイユで、その父の名をユリナンといった.兄弟達の名も諸種の紀録に散見しているから、彼の生れは一部で云われていたような農奴身分ではなかったと思われる。彼がサン・ドニに入れられたのは10歳(1091)の時であるから、最初から自から悼むところがあったとは考えられないが、1094年から1104年の間未来のルイ6世の学友であった事実、更に1104年にはすでにその宮廷に招かれている事実等はその少青年期の資質を物語っている.彼は生涯を通じてやせており、背が低く、酒をのまず少食でしかも精力的であった。この外貌はある種の秀才のタイブを想起させる。彼は修道士たちの切なるすすめがあったとはいえ、自らの事績を相当の誇りをもって文字に書き残した。また彼は、後に教会堂の祭基部を改築した時に、教会長軸上の放射状祭室の受胎告知の図の中に、聖母の足下にひれふした姿でではあるが、自らの肖像と、《Sugerus abbas》(修道院長シュジュール)の銘を入れさせた(P.68写真参照)。これらは12世紀当時にあっては常識外のことともいえ、いずれも彼が相当の野心家または見栄坊であった事を物語っている。一言にしていえば彼は当時の下層生れの秀才の野心家が恐らくは誰でも考えたであろうように、最も手近かな修道院で典型的な出世コースを歩み出したのである.

 修道士としてのシュジュールは、多くの時間を修道院の文書庫で過ごした.そこには、修道院の、即ち聖者ドニの所有を証明する多くの文書や、不入権(インムニタス)文書があり、それらの所有の多くは、災厄のために事実の証明が困難になっていた(統治記)。彼はそれらの文書を整理しながら、一方では修道院の全財産を頭に入れ、一方では、慣習法しか一般に通用しなかった当時の法知識や法実務を学んだのであろう。他方彼は図書館でも時をすごし、聖書、教父やラテン古典文学一役は特にホラテイウスを愛した-を学んだが、その面での彼の教養は、その著書から判断して、当時といえども決して一流のものとは考えられない.

 法実務の面での彼の手腕は、修道院長アダムによって高く評価されたようである。シュジュールの最初の役職は、ノルマンディのベルヌヴァルの修道院荘園の代官(プレヴォ)であった。これは1107年、彼が27才の時である.この荘園は当時修道院からは永く放置されて荒廃し、しかもノルマンディ侯(イギリス王)へンリー1世の会計官(エシキエ)の手がのびて、ここから重税をとりたてていた。シュジュールの文書庫がよいは早速役に立ち、彼は文書にもとずいて、へンリー1世の巡回裁判官に訴訟をおこし、修道院の属する地域であるイル・ド・フランス慣習法と、ノルマンディ慣習法の相違という困難にうちかって、勝訴に導いた.ついで彼はその経営を改良し、修道院に多くの収入をもたらすようにした。

 この成功によって彼はついで1109年にトゥリー・アン・ボースの代官(プレヴォ)の地位を与えられた。この荘園はパリ王オルレアンの公道に接し、《サン・ドニの有名なしかも他の荘園の頭である》(統治記)所領であった。この公道ぞいの王の直領地と同じ災厄がこのトゥリーにもふりかかっていた。即ちピユイゼ城主ユーグの掠奪放火等々の行為である。この城主の行動はすでに1108年以来多数の訴えが王のもとに寄せられていたので、シュジュールは一種の聖戦の名目で、王の軍隊を動かすことに成功した.ビユイゼ城の包囲攻撃は困難をきわめ、その櫓(ドンジョン)が炎上して城がおちた時にはルイ6世はこれを奇蹟とまで呼んだ。ユーグが決定的に屈服したのは1118年のことである。シュジュールは1118年からこの荒廃した荘園の経営改善にのり出し、特に駐屯兵をおき、金曜日の市を新設し、この市は栄えた.

 修道院長に就任した後も、彼はこうした所領の回復とその経営改善の手をやすめず、ために修道院の収入は《2倍あるいは4倍した(統治記)》。所領の回復については、サン・ドニの所領がたまたま王領と併行して存在する場合が多いために、王の力を借りることが多かった。この事は容易そうにみえて、実は相当の外交的手腕を必要とする。何となれば、同じくパリ周辺に多くの修道院領を擁していたサン・ジェルマン・デ・プレ修道院は、その所領維持に、その手を借りることはできなかったからである。経営改良法は彼の場合に一つの典型的な様式をとる。第1に彼はそこにのびている他の俗権の手をたち切り、可能な限り 《不正な》慣習的貢納を廃止する。修道院長イヴ(1071-1094)が制定したといわれるマンモルト(主として農奴にかかる遺産相続税)の廃止が新規入植者の誘致を容易にした。第2に有輪犂を適当に配給し、穀倉を建てる。第3に城を建てるか、あるいは他の防衛施設をもうける。この方式は、この当時から次第に盛んになり、恐らくシュジュールがそれを行なった最初の1人であろう所の、新規開墾荘園(ヴィル・ヌーヴ、ヴオークレソン)において特に顕著である。穀倉中心の生産物管理、生産の合理化、そして生産物地代(サンス)に主力をそそぐ収入増、これらは必ずしもシュジュールにのみイニシアティヴを帰し得ないにせよ、フランスではその後次第に一般化していく経営法である。こうして得られた収入増は、169所領中
のあるものは10倍にも達し、平均すれば彼自身がいうように《2倍または4倍》 したであろう。その財源は、まず修道士の給養、病人の保養、貧者等へのほどこしにむけられ、ついで、新しい教会堂の建設資金となり、最後にルイ7世もそれに加わった第2回十字軍、その崩滅後の新十字軍(実現せず)の費用にあてられた。

 修道院長という名の聖職者として、彼がまず直面した問題は、修道院改革の問題である。1122年に彼が前任者アダムの後をついだ時のサン・ドニの腐敗は、特に聖ベルナールの目からみて、看過し得ないものがあった。《修道院内は、戦争屋と事件屋で一杯である。広間は子供たちが遊ぶ叫び声でがんがんしている.より悪いことには、婦人の出入すらも厳格にはとりしまられていない》と彼は1125年に書いた。その騒々しさは、当時ここの修道士であったアベラールを逃亡せしめたくらいであった。シュジエールは聖ベルナール等の要請によって、改革に着手した。しかしそれは、就任後5年目の1197年のことである。教皇イノケンティウス2世や聖ベルナールの衷心からの祝辞をうけたこの改革も、当時の《修道院改革》の常識からはいささか外れたものといえる。何となれば、それと併行して彼は、修道士の給養を良くし、祭室の石造の椅子を木製に改めた。《健康こそは修道士の第一の資格》(統治記)だからである。また彼は、時として徹夜で自分の見聞を修道士たちに語ってきかせた。これはシトー会等の沈黙や日課の厳律からは想像もできないことである。また彼は、その著書の引用からみて、聖アウグステイヌスの愛読者であったにもかかわらず、また当時の《改革》の風潮は、もしそれを彼が欲しさえすれば彼にそれを許したにもかかわらず、聖アウグステイヌスの戒律の適用を避けて、依然として聖ベネディタトクスの戒律にとどまった.こうした所に、彼の極度に実際的な性格が顔を出している。

 従って聖職者としての彼は、神学上の論争に一回も登場していない。このことは有名なアベラールの事件の場合にも同様である。アベラールが、サン・ドニ修道院は、修道院らが主張するごとくに、ガリアの初代殉教者にして使徒パウロの弟子、ディオニシウス(ドニ)・アレオバギータの創建によるものではないという捨てぜりふを残して修道院を去った際も、その後l122年に彼が異端問題を起こし、その身柄をサン・ドニが引きとるべきか杏かが問題になった際にも、彼が他の修道院に入らないという誓約を破って、サン・ジルダ修道院長になった時にも、彼がパリのサント・ジュヌヴィエーヴにまいもどって教鞭をとった際にも、最後に1140年にサンス公会議が彼の説を決定的に異端と断じた時にも、シュジュールはこの元サン・ドニ修道士に対して指一本動かさなかった。この点、アベラールに最後の隠れ家を与えた、ビエール・ル・ヴェネラブルの識見に、彼は及ぶべくもないのである。

 彼はしばしばローマに赴き、あるいは公会議に出席した。しかしこれは終始王の大使、王の代弁者としてであった。その間に彼は、フランス王と教皇との伝統的な同盟関係をより緊密なものとすることに成功した。しかし彼の立場は、王の宮廷に出入しながら、絶えず教会の利害を説き続けた聖ベルナールのそれとは反対に、こうすることが、ドイツ皇帝の轍をふまずに、王権の理念を理解する唯一の世界である教会を味方につける近道であると判断したからである。事実彼は、教会の俗権叙任の問題に関して、徹底的に王の側に立ち続けた。1122年、彼がローマに使節として赴いた帰途、前修道院長アダムの死と、彼が後任に当選したことが伝えられた際にも、彼はその選挙が、当時の慣習法に反して、王の許可なしに行なわれたために予想される、王の怒りをおそれ、教皇に仲裁を依頼した。同様に彼は当時の慣習法である、司教・修道院長空位期間中、王がその教会財産に対して行使する用益権(レガリア)を、一度も否認しなかったし、ルイ7世が十字軍に出征中の摂政としての彼は、積極的にシャルトル(1149)からこれを取り立てさえした。こうして彼は王が聖地で作った莫大な借金を返済し、しかも王の帰還の直前には、書面で《陛下の土地も人も、裁判収入も、封建的収入も、収入はすべて保全されています》と報告し得たのである。

 シュジエールの王に対する忠誠は、少年期以来サン・ドニ修道院でつちかわれてきたものともいえようが、それ以上に封建的義務感に支えられていたように思われる。封を媒介とする主君と封筐の関係は、当時にあっては多岐を極め、サン・ドニと王との間でも、ある封については後者が前者の主君であり、他の封については、後述するヴェクサンの場合のように、その反対である。この関係は封臣に、主君の宮廷で助言を義務づける。従って、もしシュジュールが法実務家として、より劣った能力の持主であったならば、その生涯は、彼の親友たるソアッソン司教ジョスラン(1126-1152)のように、宮廷の文書局長くらいで終わったかも知れない。彼はその有能さの故に、宮廷文官のフリーランサーとしての活躍を課せられ、その義務を裏切らなかったのである。後は更にこの封建関係を活用した。1124年、ドイツ皇帝やイギリス王の連合軍がフランスに侵入しようとした時、ルイ6世はサン・ドニに赴き、サン・ドニの封であり、《もし王でなかったならば、サン・ドニに臣従礼(オマージュ)を行なったであろう》 ヴェクサン伯領の旗を受けて、これによってフランス軍を導こうとした(ルイ6世伝、統治記)。この時から、王が出征に際して、ヴェクサンの旗をサン・ドニから受ける慣習と、王が封臣である場合には、如何なる封についても、彼が王である限りは臣従礼を行なわない慣習が生まれ、いずれも14世紀まで維持されたのである。封建法を極限まで利用して行なわれたこの演出は、次第に王とサン・ドニ修道院の地位を、封建法を越えて高めることになった。

 このエピソードは、シュジエールの基本的な性格を最もよく示すものではないかと思われる。彼は徹底的に実際家であった。従って与えられた現実を、ほとんど無条件に肯定し、これに変更を加えることを欲しかった。唯彼の実務家としての頭脳は、いくつかの現実を組み合わせて、最善の解決を導き出す演出法を心得ていためである。

 1137年から1143年までの間、彼は宮廷から遠ざかっていた。サン・ドニ教会堂の改築部分が完成したのは、正にこの期間中である。この改築が、各地のさまぎまな建築要素の総合を、しかもそのほとんど唯一の合理的解決法を示すものであることはあまりにも知られている。しかし彼は《献堂地》の中で、各部分につけた銘文(そのいずれにも自分の名が入っている)を書き残し、それらを通じて神学的な理由づけを行なおうとした.しかしその思想は、この修道院の創設者ディオニシウスのものと当時信ぜられていた《上昇の方法》と呼ばれる神秘主義や、アウグスティヌスの神都論や、光の形而上学等
の、彼なりの総合にすぎない。ガラス絵のイコノグラフィにもわれわれは同様な現象を指摘し得る。ここでも彼は、実際的な演出者であったのである.冒頭にかかげた聖ベルナールの言葉の中には、理想家であるがゆえに絶えず紛争をまきおこし、また紛争をおこすことによってしか事柄を解決し得なかった彼の、自分自身は神から与えられなかった資質に対する、羨望の念がこめられているのではないだろうか.  
 
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posted by alice-room at 14:35| 埼玉 ☁| Comment(0) | TrackBack(1) | 【備忘録A】 | 更新情報をチェックする
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