2006年08月14日

ゴシック建築の成立/堀内清治~「SD4」1965年4月より抜粋

「SD4」1965年4月 特集・フランスのゴシック芸術より抜粋。 

###############################
ゴシック建築の成立/堀内清治

初期の教会堂建築

1世紀に発生したキリスト教はその後、年とともに信者を増し、5世紀には各地に彼ら自身の教会堂を持つに至っていた.しかしこれらの教会堂はごく特殊な例外を除き、4世紀初めの迫害によって取りこわされてしまった。従って具体的な遺溝による教会堂建築の歴史は、515年のキリスト教公認以後に始まると言ってよい.やがて526年にはキリスト教がローマ帝国の国教となり、教会堂建設はローマの政策的事業として、帝国の力を背景にして精力的に行なわれることになった。この頃には既に教会堂の形式は完全に出来上がっていたらしく、ローマ帝国内の大都市にはほぼ同じような教会堂が次ぎ次ぎに建てられている.これらの教会堂は、それぞれ少しづつニュアンスの違いをもって、「初期キリスト教建築」「バシリカ(式教会堂)」「へレニスティック・バシリカ」などと呼ばれている。その骨子は、中央部に高い身廊があり、その両側に一段低い側席があって、身廊と側廊は列柱で仕切られ、身廊の壁には高窓が開けられていて、そこから直接採光するものであった(挿図l、なおこのような形式をバシリカ形式と呼ぶ).身廊の奥は半円形の張り出しがあり、これをアブスapseと呼ぶ。身廊とアブスの聞にはしばしば袖廊transeptが設けられている。2段切妻形の正面には、前庇のようなナルテックス narthex があり、その前には柱廊でかこまれたアトリウム(前庭)atriumがある(挿図3、4)。

 このような教会堂はいわばオフィシャルな形式として、ローマ帝国の全域にわたって伝えられたのである。地方の小都市の教会堂は経済的、技術的な制約があって、これ程完備したものではなく、また大理石やモザイクで華やかに装飾されるというわけにはいかなかったことは勿論であるが、西ヨーロッパの教会堂もまた初期キリスト教のバシリカ形式をもとにして出発したのであった。しかしそれら古代の教会堂は、民族大移動、西ローマ帝国の滅亡に続く中世初期の暗黒の時代に、あらかた消失してしまった。5世紀以後、西ヨーロッパの建築界の状況は悪化の一途をたどることになる。

 一方コンスタンティヌス大帝は、330年に首都をローマから今のイスタンブール(コンスタンティノポリス)に移した。元来オリエントの地方は、2世紀以後のローマ帝国の一般的な衰退の中にあって、東西貿易を背景として繁栄を続けた地方であり、当時もなお活動的な芸術の中心であった.このような地方に首都建設の大工事が始まったことは、沈滞したローマ建築界に力強い新風を吹きこむことになった。それまでオリエントの各地で行なわれて
きたさまぎまな試みが、ローマの伝統や技術と結びついて、遂にはビザンチ
ン様式と呼ばれる新しい建築を創造するに至ったのである。殆んど専ら木骨天井に終始していた西ヨーロッパの初期キリスト教バシリカと違って、ドームやヴォールトを駆使したビザンチン建築は、ユスティニアヌス(483~565)の時代にアヤ・ソフィアHagia Sophia(552~557)やラヴェンナのサン・ヴィターレS.Vitale(526~547)を造って、最初の、そして最大のマニフェストを示したのである。これらの建築の特質を今ここで論じるわけにはいかないけれども、それがアジアとヨーロッパの古代建築が究極的に融合した姿を示すものであり、古代世界の最後を飾る大傑作であったことは恐らく異論のない所であろう。

 こうしてコンスタンティノポリスは地中海世界の建築の最大の中心となった。その後ビザンチンの建築家は、煩項な官僚機構や職業世襲化などのため、われわれの眼から見ると非常に息苦しい状態に追いこまれていったようであるが、そのことは彼らの創造力を必ずしも枯渇させてしまわなかった。また7世紀以後、イスラム教徒の進出によって領土は大幅に縮小してしまったけれども、なおコンスタンティノポリスは約100万人という驚異的な人口を擁しており、芸術のメトロポリスとしての地位を長い間保ち続けたと考えられる。たとえばダマスクスの大モスク(707-715)、カイルワン(チュニジア)の大モスク(670創建)、コルドバの大モスク(785創建)などの回教寺院の形式や、ゴスラール(ドイツ)にある皇帝の宮殿(1150頃)などをラヴェンナのサン・タポリナーレ・ヌオヴォS・Apollinare Nuovoのモザイクに表わされたビザンチンの宮殿に比較すると、ビザンチンの影響力が国境や宗教宗派を越えてきわめて広く、長く続いたことが理解されるだろう。

 また、たとばえゴシック建築の歴史では極めて有名な人物であるサン・ドニの修道院長、シュジュールは、「エルサレムからの旅人が来る度に、コンスタンティノポリスの宝物や、アヤ・ソフィアの装飾にくらべて、ここ(サン・ドニ)のものが何らかの価値があると言えるかどうかを尋ねるのが常であった」という意味の言葉を残している。世界の首都とその大会堂の盛名は、遠く離れた12世紀の北フランスにおいても、決して地に落ちるどころではなかったのである。

 ローマ帝国の内に、もとから存在した東方と西方の相違は、東西ローマ帝国の分立という形で具体化された(395)。この傾向はキリスト時教代になっても改善されることなく、8世紀から11世紀にかけて、長い論争の末、オーソドックスとカトリックの二つの教会に分裂してしまった。西ヨーロッパは言うまでもなくローマ・カトリック教会に属し、聖ベテロの司教座を守るローマ法王の指導下にあった。中世の全期間を通じて、西ヨーロッパ人のローマに対する尊敬は失われなかった。なかんずく、サン・ピエトロ、サン・ジョヴァンニ、サン・パオロ等々の大教会堂は、教会堂建築の古典として高く評価されていた。しかし中世期におけるローマ市の衰退ぶりは想像以上であつて、人口約1万の小都市に転落してしまっていたと言われる.しかも上にあげた教会堂は、いずれも1万数千人の信徒を収容するに足る規模をもっていたのである。したがって中世のローマには、新しい教会堂を建設する現実的な必要性はなかった。彼らにとっては古い教会堂を維持していくことが精一杯の努力だったことだろう。こうしてローマでは、ルネサンス期まで、初期のバジリカ形式を忠実に守りつづけることになるのであった。このようなローマには、その時その時の教会堂建築の形成に指導的役割を果たす活力はなかったと言わねばならない。いっぽう西ヨーロッパに定着したゲルマン人がキリスト教を受け入れ、彼らの教会堂を造りはじめた時には、その社会的
条件も教会堂建築に対する要求もローマ末期とは勿論非常に違っていた。その新しい要求に応じる建築的方法に関して、何かの模範を求めようとすれば、それは主として東ローマの建築でなければならなかった。

 フランスにある現存最古の教会堂といわれるポワチエのサン・ジャン(6~7世紀)、アーヘンにあるカール大帝の宮廷礼拝堂(792-805)あるいはジェルミニー・デ・プレGermigny des Presの教会堂(806)などにはいずれもビザンチンの影響が色濃く現われていて、むしろ田舎くさいビザンチン建築と言ってもよい。これらはどちらかと言えば特殊な例であるが、一般的に言っても中世ヨーロッパの教会建築では、その西正面の取りあつかい、内部の配置、壁面の装飾など、殆んどすべての細部にわたってオリエントの教会堂にその先例をみないものはないと言っても過言ではないのである。

 中世ヨーロッパの教会堂建築は、このようにローマやビザンチンの、言いかえれば地中海世界の建築の影響を受けて生まれ発展した。しかしアルプス以北のヨーロッパでは、地中海世界の華やかな建築伝統にあこがれ、これを学びながらも、遂にこれと同化されてしまうことはなかったのである。

 ゴシックの時代になっても、中北部ヨーロッパの建築は、地中海をめぐる建築界の動きと決して偶然とは考えられない併行現象でつながれている。しかし同時に、ゴシック建築の中には、言葉では表現することは難かしいけれども、ある非地中海的な性格が明瞭に感得されるのである。この非地中海的性格こそヨーロッパ建築の特質をなすものであった。そしてこの特質は萌芽約にはヨーロッパ中世建築のそもそもの発端から姿を現わしていたのであった。

 470年頃建てられたトウールのサン・マルタンSt.Martin,Toursは、正面と交差部に塔を持っていたらしい。塔と会堂という全く性格の違った建物をひとつに結びつけるというやり方は、古代のギリシャやローマでは見られなかつたし、へレニスティック・バジリカにもなかったことである。この意味からトゥールのようなやり方は非古代的であると感じられる。こういう異
質の要素を組み合わせて複合的な総合をなすことはヨーロッパの建築のひとつの特質だと説明されることがある。或る意味ではこの意見は恐らく正しいであろう。しかしここで述べている正面や交差部の塔に関してはオリエントに前例があるし、やはり複合的性格をもっていたヘレニズム建築を受けついでいる、4~6世紀のシリアの教会堂では、正面に塔をつけることがむしろ常套手段であったと言ってもよい。従って教会堂に塔を組み合わせること自体は別にヨーロッパの独創とは言えない。トゥールのサン・マルタンの塔がどんな形をしていたか今では知るよしもないが、記録によってかなり具体的に知り得るアベヴィルのサン・リキエ St.Riquier,Abbeville(800)の六つの塔(挿図5)や、現有するアーへソの礼拝堂或いはジェルミニー・デ・プレの教会堂(挿図7)などに共通して見られる特徴は、高さへの指向という点であった.ことにサン・リキエのごとく、上にいくほど細くなり、はては尖塔となって空に溶けこんでいくようなシルエットは、それまで地中海世界には知られなかったものである.たしかに軽快さ、上方への指向ということは、ヨーロッパ建築だけにみられる性格ではなくヘレニズム後期以後地中海世界の建築全体の基本的傾向のひとつに考えることができるものであった。しかしビザンチンでは、それは幾何学的なコンポジションに従ってもっと抑制された形をとっているし、イスラムではもっとソフィスティケイトされた表現をもっている。比例を無視してまで上へ上へと立ち上がるダイナミックな力の表現はヨーロッパだけのものであった.

 ヨーロッパの建築の上方への指向というのは、あたかも植物の成長のように、明確な終りというものがなく、いつでも何かを上につけ加えることができるものであった。このような性格を最も明瞭に表わしているゴシック建築には、「その建物の芸術的価値をそこなわずにひとつの石を加えることも、減ずることもできない」という意味での完成というものはない.このようなコンポジションの欠如が地中海的教養に育った人びとからは冷笑を買うことになるのであるが(「ゴシック」には「ゴート人の」言いかえれば「野蛮人の」という軽薦の意味が含まれていた)、ブラッドフォード・オン・エイヴォンの教会堂(973頃?)平面やロマネスク教会堂の内陣部の発展を考えると、常に何かを加えることができる複合的性格もまたやはりヨーロッパの特質とみなすべきであるかも知れない。ブラッドフォードの教会堂は、内陣部とポーチをそれぞれつけ足して出来上がっているし(挿図2)、フランス・ロマネスクのシュヴェ(内陣部)はアブスのまわりに回廊と祭室をつけ加えて成立しているのである(挿図6).

 9世紀のヨーロッパは、カール大帝(742~814)の宮廷を中心にして、古代文芸の研究が盛んにおこなわれた時代である。アーへンのドームやサン・リキエはこのカロリング王朝のルネサンスの大きな建築的成果であった。しかしその復古的努力を通じて、或いは復古的労力に反して、造られた作品には新しいヨーロッパ的性格が徐々に浮かび上がってくるのが見られることは興味深いことであった.

ロマネスク時代

紀元1000年頃から1200年頃にかけておこなわれた建築様式をロマネスクと呼んでいる。カロリング朝の建築が帝国的な画一的傾向をもっていたのに反して、ロマネスクの建築は極めて地方色豊かな建築であった。その主な流派を簡単に紹介するだけでここに与えられた紙数は優にこえてしまうだろう。ここではロマネスク建築全般を要約することが目的ではないので、次の4点だけについて考えてみたい。すなわち切石技術の復活、仰高的デザインの発展、ベイシステムの完成、ヴォールト架構の問題である。

 カロリング朝の建築は小割石をモルタルで固めて造られていた。当時は円柱を切り出す技術も失われていたから、円柱が必要な場合には古代の建築物から取ってくるのが例であった。アーへンの宮廷礼拝堂の円柱はわざわざローマから運んだものである。古代の建築がいかに豊富であったといえ、このような状態がいつまでも続くものでもないことは自明の理である。手軽に建築材料を取り出せる古代建築遺跡の枯渇と、各地方の採石場の開発、建設需要の増加があいまって、ロマネスクの時代には古材転用の習慣は殆んどなくなっていた。同時に採石技術、石材加工技術も大幅に改善され、小割石に代わって切石が主要な建築材になった。小割石をモルタルで固めるコンクリートは、切石で包まれた壁の芯部に限られるようになる。切石造の壁は小割石、煉瓦、コンクリートなどの璧と違ってそれ自体で充分美しい仕上面となるの
で、以前のように壁体に漆喰を塗ったり、壁画、モザイクで装飾する必要がなくなり、切石績みが内外壁面共に露出されることが普通になる。教会堂の内部は、厚いモルタルの目地をはさんで積まれた切石の厳しい構造的な美しさが支配するようになった。また切石技術の発達は石像彫刻技術とも関連があって、彫刻が教会堂装飾の主要な部分を占めることになった。

 建築壁面に仰高感を生み出す装飾的モチーフとして最も普通におこなわれたものは、壁面にバトレスをつけることであった。このテクニックは昔から ビザンチンにも(たとえばラヴェンナのサン・ヴィターレ)メロヴィング、カロリング朝時代の建築にも(たとえばジェルミニー・デ・プレやポーヴェのバス・ウーヴル)見られたが、バトレスの鋭い垂直線はもともと建物の規模に比較して丈の高い北ヨーロッパのロマネスク建築に、近づき難い程俊厳な仰高感を産み出している(挿図9)。バトレスはこのような仰高感情の荷ない手であるばかりでなく、長大な壁面を分割し、リズミカルな整備感を造り出すモメントとしても大いに活用された。従ってその断面形やプロフィルは使われ方によってさまぎまの変化に富んでいる。

 バトレスは、控壁としての構造的意味のあるものも、純然たる装飾のためのものも、独立して壁面についていることがあるが、その上端をアーチによって互に隣りのバトレスとつながれているものも多い。また連続アーチ形装飾帯(ロンバルディア帯)と一緒に使われることも多いのであって、この場合には装飾円柱とバトレスの区別がつかなくなってしまっている(挿図9)。

 連続小アーチ形装飾帯は、ロンバルディアのロマネスクの建築に最初に流行したので、ロンバルディア帯Lombardian bandと呼ばれている。しかしこのモチーフも御多聞にもれず起源はオリエントにあった。レヴァント地方ではこのモチーフは少なくとも2世紀まで潮ることは確実であり(ペトラの神殿に実例がある)、その後引き続いて教会堂の装飾に使われていた。挿図11はその1例であるが、ここではアーチ列を支えている円柱がまだ古代の彫塑的意義を失ってしまっていない点に注目される。このモチーフがイタリアをへてヨーロッパに輸入された時には、ヨーロッパ人は人体に基礎をおいた古代のオーダーの彫塑的意義には殆んど無縁の人びとであったから、彼らはこれを単にリズミカルな躍動感を壁面に与える華やかな装飾的モチーフとして受け取り、活用した。円柱は壁面に活気を与える垂直線として、古代的比例に制約されることなく、必要に応じて自由に伸縮して使われるようになった。このような円柱の使用法はイスラムに先例があり、ロマネスクの時代にはヨーロッパ人も必ずしもその重要性を完全に認識していたわけではないが、ともかく細い円柱やアーチの線で壁面を活気づけ、壁面にある表現力を与えることができるということを知ったことは、ゴシック〉建築の前提条件として極めて重要な点であった。

 教会堂の外壁面にみられたこのような動きは、内部の壁面にも直ちに反映している。ヴェロナのサン・ゼノS・Zeno(1123頃)の身廊の壁には太い附け柱がついている(挿図12)。この柱は床から天井まで達しているが、この教会堂は木造天井で覆われているので、せっかく天井まで伸び上がった柱は、その上に支えるべき特別のものが何もないことになる。合理主義的建築観の洗礼を受けたわれわれには、この柱は無用の長物にみえる。しかしこの教会堂は最も美しいロマネスク建築のひとつであって、この教会に入った時に受ける強い感動にこの柱の存在が関係していることも確かである。このような柱をもった建物はほかにもいろいろ実例がある。ジュミエージュの教会堂もそうだし、カーンのサン・テティエンヌ St・Etienneも後代ヴォールトが架けられて分かり難くなっているが、当初はやはり同様であった(挿図15)。これらの建物の建築家は長大な壁面を区切る垂直線が欲しかっただけで、これらの柱は構造的に何の意味もない。ただこのような何も支えるもののない柱は、われわれと同様、当時でもやはり奇異な感じは免れなかったことと思われる。従って、外壁と同様にこれらの柱の上部をアーチで連らね、そこに架構的意義を与える工夫が一般的になっていった。そのアーチは璧にそって設けられるものもあれば、身廊を横ぎって璧から壁にかけ渡されるもの(横断アーチ)もあった。このような架構的解決によって仰高的デザインとしての柱は一層強い表現を獲得することになった。その最も良い例はシュバイヤーの大会堂(1062)であろう。そこではそれまでの平板な壁面が背後に退がり、それに代わって力強い上昇感をもったピアと、それに続く附け柱の垂直線が堂内の主役を済じている(挿図14)。この建物はその年代の古さにもかかわらず、ゴシックに最も接近した教会堂のひとつということができる。

 サンクト・ガレン St.Gallen の修道院には820年頃書かれた修道院の計画図が保有されている。これは同修道院の要請に応じてカール大帝の側近が与えた修道院の理想的計画案であったと考えられ、カロリング朝の建築を知る上で貴重な資料である。ところでこの計画図に描かれた教会堂の外陣部は身廊、側廊共に四つの部分に区画され、全体が12の礼拝堂の集合のごとき観を呈している。これは広大な教会堂内部を単一空間としてみなれているわれわれには不思議に思われる。これらの結界は教会堂内部の空間的効果を阻害するように見えるからである。これは修道僧が毎日ミサを捧げるため、祭壇を多く設ける必要がある修道院教会堂としての実際的要求から考えられたことであろう。やがて教会堂の中に多くの祭壇を設けるという要求は、放射祭室(アプスの回りに回廊を設け、これに放射状に祭室=祭壇をならべること)(挿図6)の発明に至る別の方法で解決されていき、その後のロマネスクの教会堂では内・外陣の境の他には床の上にいくつも結界を造るという例は少ない。しかしロマネスク教会堂の身廊内部にも違った形で区画を設けることが行なわれた。その最も単純な方法は大アーケイドの円柱を1本おき(或る場合は2本、或いは5本おき)に積柱(ビア)に変えることである。こうすることによって柱列にそってスムースに奥に向かって導かれていく視線の流れを、異質なビアが引きとめることになる。言いかえると円柱の間にあるピアが心理的なブレーキの役を果たすことになるのである。この作用は、このビアに前述した天井まで達する付け柱が加われば一層効果的になるし、その附け柱の上に横断アーチが架けられれば更に完全になる(挿図17)。これらのピアや横断アーチは教会堂の中を歩く人にとって現実には何ら支障を与えないのであるが、心理的にはある抵抗を感じさせる。つまり横断アーチから次の横断アーチまでをそれぞれ半ば独立した単位と感じさせる。この単位をべイbayと名づけるのであるが、ロマネスクの教会堂はいくつかのベイをつなぎ合わせて構成されていることになる。このようなベイの独立性はドームや交差ヴォールトを架けるロマネスク建築ではことに重要な意義をもっている.(p.25 写真2)。

 ロマネスク時代は教会堂全体をヴォールトで覆うことが追求された時代でもあった。始めはスパンの小さな側廊だけに限られていたヴォールトが、ロマネスク後期にはスパンの大きな身廊にも可能になった。これはヨーロッパの教会建築史上特筆すべき技術的成果である.天井の高い教会堂全体をヴォールトで覆うという困難があえて克服されたのは、それが火災予防上必要であったからだということはしばしば指摘されるところである。しかしこれとならんで意匠上の必要も見逃がしてはならない。前に述べたような壁面の仰高的デザインが発展すればする程、壁面とその上にある水平な木造天井の違和感が強くなっていき、壁と同じ材料によって天井をかけることによって壁面のデザインを完結させたい造形的要求が強くなっていったに違いない。天井まで伸び上った附け柱は、その上にアーチやヴォールトを架ける以外にうまいまとめ方はないだろう。事実ロマネスクの教会堂には当初木造天井で建てられ、後にヴォールト天井に変えられた建物が沢山あるが、それらはいずれも最初からヴォールト天井を計画していたかのごとくうまくマッチしているのである(挿図18)。

 細長い教会堂の上に石で天井を造る、最も単純な方法は円筒ヴォールトである。このやり方は、中南部フランスを中心としてさまざまな方法が工夫された。ロマネスクの円筒ヴォールトにはその下面に横断アーチが加えられるのが普通である。横断アーチは、身廊壁面につけられた付け柱の上昇運動を更にひきのばし、頭の真上まで持ってくると同時に、各ペイの区画を明示する役目をも荷なっている。円筒ヴォールトや横断アーチの形は、半円形が普通であるから、ロマネスクの内部空間は、天井を以て完結されているのであるが、中にはオータンAutunの大会堂(1120頃~1132)のように、ヴォー
ルトを尖頭形にして、柱とアーチの荷なう上昇運動を、天井の限界をこえて更に上方に引き伸ばそうと試みるものもあった。これもゴシックの原則のひとつである。

 北フランスやドイツでは、、ロンバルディアと同様に交差ヴォールトをかける努力が続けられた。円筒ヴォールトを二つ、直角に組み合わせた形の交差ヴォールトは、正方形平面の上に架ける場合が最も容易であるから、これらの地方では、身廊も側廊も共にいくつかの正方形の連続となるように柱位置が割りつけられ、スパンの大きい身廊のひとつのヴォールトに対し、側廊には二つの交差ヴォールトが架けられることが多い.この場合身廊のひとつのべイに対して、側廊の二つのべイが対応することになって、大アーケイドの柱は太い柱と細い柱が交互に配置されることになる。このようなダプル・べイのシステム(挿図15)が最初のゴシック建築の出発点となるのであった.

 古代ローマの交差ヴォールトと違って、ロマネスクの交差ヴォールトには、ヴォールトとヴォールト境に太い横断アーチがつけられていた.この意味は前に円筒ヴォールトについて述べたのと全く同じことである.ただ当時の交差ヴォールトには、中央部のふくれ上がったドーム状のヴォールトがみられることや、タフルべイシステムがとられることなどから、交差ヴォールトをかけた正方形のべイの独立性は、円筒ヴォールトの場合より強かったのである。

 北部ヨーロッパで交差ヴォールトが採用された理由はいろいろ考えられるが、ともかく身廊部の高窓を大きく明けるという点から考えれば、円筒ヴォールトより交差ヴォールトの方がはるかに有利であって、ゴシック建築が交差ヴォールーの伝統の上に出発したことは幸いなことであった。というのはこの頃発達し始めたステンド・グラスがゴシックの時代には不可欠的重要性をもつに至るのであって、窓の拡大、すなわちステンド・グラスの面積の拡大ということが、ゴシック建築の本質とつながりをもっているからである.

 ゴシックの本質をなす諸特徴は、このようにロマネスクの時代にはあらかた出揃ってきた。ゴシックは、ヨーロッパの各地で別々におこなわれてきた試みの根底にあった意図を、明確に表現する方法を示したのである。従ってひとたぴゴシック建築が創造されるや、たちまちにしてそれは単に北フランスの様式にとどまらず、ヨーロッパ全体に受け入れられる国際様式となったのである。

ゴシック建築の成立

ゴシック建築は1140年頃、バリを中心とする北フランス(当時の王領)で発生した。ゴシック建築は日本人にもすでになじみ深いものであって、その解説も多数出版されているので、ここではリブ・ヴォールトを中心とする仰高デザインの展開、飛梁を中心とする技術的問題、それにステンド・グラスなど、ゴシックの成立という主題に閑係の深い問題のいくつかに限って述べることにする。

 1136年から44年にかけて、修道院長シュジュール Suger の指揮のもとにおこなわれた、サン・ドニ St.Deni s修道院教会堂の改造工事を以ってゴシック建築の開始とみなすことほすでに定説になっている。シュジェ-ルの仕事は、現在サン・ドニの入口(ナルテックス)附近と、内陣回りの回廊及び放射祭室の部分に見られる。これらの建築はほぼ同時代のサンスの大会堂(1143以前)と共に、それまでのロマネスクの建築と比べると完全にゴシック風のリブ・ヴォールトを備え、軽快な律動感にあふれて、新しい時代の到来を物語っている(p.26 写真-6)。

 リブ・ヴォールトというのは、交差ヴォールトの稜線にアーチ(リブ)をつけたヴォールトのことであって、そのものの起源はやはりローマ時代に遡り、イスラム建築にもさまぎまな形で登場していた。ヨーロッパでは、ミラノのサン・タンプロジオS・Ambrogio(11~12世紀)を代表とするロンバルディアの教会堂やイギリスのノルマン建築であるダラム大会堂(1093~1113)などに先例があり、北フランスにも、12世紀前半にはモリアンヴァル(1122)その他に採用されていた。ヴィオレ・ル・デュクなど19世紀の学者は、リブ・ヴォールトは、あらかじめリブによって骨組みがつくられ(挿図16)ヴオールトはリブの間を埋めるパネルにすぎないから、ごく薄くてもかまわない。またヴォールトの安定はリブの安定に置き換えられ、尖頭アーチ形をとるリブは、面構造のヴォールトよりも弾力性に富むので、リブ・ヴォールト全体は交差ヴォールトより堅牢であると考えていた。しかし現代は、このようなリプ・ヴォールトの解釈をはじめとする、19世紀の合理主義的ゴシック観が反省しなおされる時期に釆ているようである。

 リブの実際の力学的役割りはどうであれ、それは形からいえばアーチである。そしてアーチは柱と同様、明らかに荷重を支えるための装置であることをわれわれは直観的に了解している。しかしゴシックのヴォールトを支えるアーチ(リブ)は、決して重い石のヴォールトを支えるに足る程頑丈な形は与えられていない。それらは巧みなモウルデイングによって、実際の断面積にくらべて極度に細い外観が与えられている(挿図19)。ここにリブがヴォールトを支えているという、殆んど本能的といってもよい論理的判断と、荷重を支えるなど思いもよらない細さという眼に見える事実との食い違いが見られるのである。この食い違いがゴシック建築の壮大なトリックの最大の秘密であると私には思われる。われわれの眼に感じられる、石のヴォールトの大きな重量と、それを支えていると見える、リブの信じられない細さ(の外観)が、われわれの合理的判断を狂わせ、あたかもヴォールト全体か超自然的な力で支え上げられているかのような、非物質的軽快さを印象づけるのである。このような効果をもったリブ・ヴォールトがゴシックのヴォールトであった(p.51写真-20)。

 ヴォールトに見られたと同じ方法が壁面にも現われている。リブは壁につけられた非常に細い円柱で支えられている。リアが実際にヴォールトを支えていたことが疑わしい以上に、これらの円柱がリブを支えているとは考えられない。リブやヴォールトの大きな荷重は実際には円柱の背後にある巨大な壁体で支えられている。しかしこの円柱はいかに細いとはいえ、柱頭やベースを備えた立派な柱の形をしている。そしてここでもまた、荷重を支える機能をもった円柱の形に、われわれの判断は狂わされてしまう。われわれはヴォールト支持の機構としてリブと細い円柱に気をとられ、背後の壁体から注意をそらされてしまうのである。壁体やヴォールトに、荷重と支持の関係を論理的に象徴する、リブや円柱の細い線を加えることによって、いわば石から重量をとり去ったような軽さを与え、ロマネスクの静かな仰高感を息づまる程の激しい上昇運動にかえたのであった。この上昇運動はリブの尖頭形によって、現実の天井面をこえて更に天空高く、目に見えない無限の高さに達しているかのごとく感じられ、物質に対する精神の勝利を象徴しているのであった。

 ふりかえってみると、後期のロマネスク建築、たとえばイギリスのダラム大会堂、ドイツのマインツやウォルムスの大会堂、中南仏のクリュニー等々の建築とゴシック建築の差は、意外に小さいのである。しかしリブや円柱に、このような価値を認め、それにふさわしい形を与え、遂にはそれらの力線によって教会堂の内部に精神的な別天地を創造するに至ったのは、サン・ドニやサンスを造った北フランス建築家の天才的な洞察力の功績であった。

 1140年頃発見されたゴシック建築の方法は、約50年の洗練を経て、シャルトル(1194~)、ランス(1211~)、アミアン(1220~)の大会堂を創造するに至った。中でも天井高さ42・3メートルに達するアミアン大会堂は、さきにゴシックのトリックと呼んだリブと、附属円柱の効果が最大限に発揮された傑作であって、堂内に入った人は誰も、ゴシックの呪縛に圧倒され、精一ばいの精神的緊張を強要されるのを感じる。

 ゴシック建築の効果が最大限に発揮されるためには、40メートルに及ぶ天井高さが必要とされたわけであるが、この高さはフライイング・バトレスによって可能になった。フライインク・バトレスはヴォールトの水平力を建物の外側に設けられた控壁に伝えるアーチ(挿図20)のことである。この装置はゴシックでは12世紀後半に実用化された。この装置によって身廊の壁は、ヴォールトの水平カから解放され、いくらでも高い天井を造れることになると同時に、壁体を小さくし、窓面積を最大限に拡張することができたのである。また教会堂の内部からヴォールト支持機構の大きな部分をとり去ってしまったことは、ゴシックのあの軽さの表現に貢献するところが大きかった。従って外部にみられる巨大な控壁や、フライング・バトレスの列(挿図8)はいわばゴシック建築という手品の種明かしということができる。

 サン・ドニの放射祭室は回廊と融合してしまって、回廊自身が人間の歩行につれて広くなったり狭くなったりするように感じられ、これまでのように回廊に祭室をつけ加えたという印象はなくなっている(挿図21)。即ち回廊と祭室という別々の部分が一体として、総合的に計面されていることが分かる.ゴシックの初期(12世紀後半)には、ちょっと複雑なプロセスを経て、ロマネスクの特徴的なベイの独立性は再び克服され、教会堂内部はひとつの大きな空間にかえった。これと同時に、袖廊、アブス、回廊、祭室等々が、教会堂に加えられた加算的部分ではなく、これらがより集まって総合的な全体を構成する有機的な部分に変わった(挿図22)。単一空間にかえったゴシックの教会堂は透視の効果として、初期キリスト教のバシリカと同様に、内陣に向かう水平の方向性をも持っている。しかし内陣には、バシリカの半ドームと、厚いアプスの壁に代わって、ステンド・グラスの大窓が正面に見える。多彩な光に輝やくガラスの面は、バシリカの半ドームのようにがっちり
と人の視線を受けとめる代わりに、人びとの注意をガラス面をとおして、光りの源であるガラスの彼方、無限の遠方に導き去っていく.ゴシックの空間は、このように水平と垂直の二つの方向性によって規制されているのであるが、いずれの方向にも建物の壁や天井の限界をこえた無限の彼方に達しているのである。

 シュジュールがサン・ドニの装飾についてのべているところで、さまぎまな宝石の光りについて、これらの多彩な輝きはわれわれの冥想を、非物質約な事柄に導き、われわれをして現世から離れた高い世界にあるかのごとく思わせると言っている。この言葉は、ゴシックの窓にはめられたステンド・グラスの、多彩で強烈な色彩の効果にそのままあてはまる。ステンド・グラスは窓というよりも光る壁というペきであって、教会堂に独特の透明性(トランスパレンシー)を与えている。この透明性は前にのべたゴシックの無限的空間を形成する上で、大きな意味をもっている.それと同時にステンド・グラスは、ビザンチン建築において、モザイクの輝やく面が果たしたよりももっと徹底した壁の非物質化、精神化をなしとげているのである(カラーP.47~50参照)。


以上ヨーロッパのゴシック建築の成立について、仰高的デザインの発展を中心とし、人体を美の基準とする観念の無視、あるいはデザインの論理性などという観点を加えながら述べてきた.そのおのおのの点について、ここでは充分には論じられなかったけれども、これらがゴシック建築の特質として、同時代のビザンチン建築や、イスラム建築と区別する重要な点であると考えられる。

 このような特質の由来について、コナント教授は、中北部ヨーロッパが昔は鬱蒼たる森林に覆われており、先史時代から中世全期間にわたって材木が建築の主要材料であったことを力説し、この木造建築の伝統がいわゆる background architecture としてヨーロッパの中世建築に反映したのだと説いていることを付記しておく.
 
###############################
関連ブログ
「SD4」1965年4月 特集フランスのゴシック芸術 鹿島研究所出版会
ゴシック空間の象徴性/高階秀爾~「SD4」1965年4月より抜粋
柳宗玄「ゴシックのガラス絵」~「SD4」1965年4月より抜粋
posted by alice-room at 00:07| 埼玉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 【備忘録A】 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
コチラをクリックしてください

この記事へのトラックバック