せっかく「わかる」の話なのだから,理解語彙と使用語彙の違いを意識すると面白くなりそう。意味は知っていても使えない言葉は「わかっている」と言えなくて,仕事にも活用できない的な方向とか。
なるほど。理解語彙と使用語彙というのですね。
昨日、あのエントリーを書いているときも意味がわかる語彙と書いたり話したりするときに使える語彙の幅ってイコールじゃないはずだと思っていたのですが、それをなんと呼べばいいか、それについて書けなかったんです。ようするに「理解語彙」と「使用語彙」という語彙が僕の使用語彙にはなかった。これこそ使用語彙が少ないと思考が進まないっていう実例ですね。
Wikipedia「語彙」から引用すると、
「理解語彙」は、見聞きして意味が分かることばの集まりである。一方、「使用語彙」は、自分が使うことのできることばの集まりである。一般に、誰でも、理解語彙のほうが使用語彙よりも範囲が広い。
だそうです。
使用語彙の多さって、僕は言葉のにおいを嗅ぎわける力だとかそういう感性に関係してるんだと思うんですよね。言葉の違いに敏感じゃなきゃ、わざわざ使い分ける必要はなくて最低限の語彙数ですませようと考えるのかもしれませんけど、やっぱり言葉ひとつひとつはもってるにおいが違うんだと思う。そういうことに敏感な感性がないと言葉の違いがわからなくて、結局、使用語彙数が増えていかないんじゃないかな、と。
yumizouさん、勉強になりました。ありがとう。
使用語彙の量と仕事のできる/できない
さて、yumizouさんのコメントにあった「意味は知っていても使えない言葉は「わかっている」と言えなくて」という指摘は、僕も非常に正しいと思っていて、まさに語彙量が仕事のできる/できないに関わってくるのは、理解語彙の少なさよりも、使用語彙の少なさにあるんだと考えています。「ボキャブラリが少なければ他にどんなすごい技術を~」では、「ボキャブラリが少ない人が仕事ができない3つの理由」として、「他人の話の理解力が低くなる」「物事の整理ができない」「細かな差異の蓄積ができない」の3点を挙げましたが、これはどれも理解語彙というより使用語彙の少なさからくる問題だと思うのです。
昨日も議事録の話を書きましたが、他人の話を聞いて、まったく理解できないということは実は議事録を書く上ではそんなに問題になることはなくて、実は問題は話を聞いていたときにはなんとなく理解できていたと感じていたはずの話の内容があとで自分で再構成できないという問題なのだと思います。
これはまさに「物事の整理ができない」ということとも関連した話で、使用語彙が不足しているために話の整理のためのカテゴリーが十分に用意することができなくて、結局、議事録がきちんとまとめられないということになるのだと思います。
わかっているつもりなのに、うまくまとめられない、表現できないというのは、議事録に限らず、企画書などのドキュメント作成能力にも関わる問題です。
関係性を読み解く力は仕事をする上での基礎能力
以前から「関係性を問う力、構造を読み解く目がなければデザインできない」などで言い続けていることですが、物事の関係性を構造的に整理し、把握する(「わかる」)力はデザインや企画のみならず、どんな仕事をするうえでも大事な能力です。それがあるから相手の言葉をきちんと捉えたうえで自分の意見や感想を述べるというコミュニケーションが可能になるだし、ある問題を適切に捉えた上で最適な解決策を見出すという行為を他人との協働作業によって行うことが可能になるのだと思います。
こうした基礎能力がなければ、やっぱり「他にどんなすごい技術を身につけても仕事はできない」のではないでしょうか。だって、何を期待されているのか、相手にとっての問題は何かという仕事を行ううえでの自分が置かれた状況にまつわる関係性を構造的に捉えられなければ、正しく問題を解くことはできないのですから。それはテストの問題文を理解できず正しい解等が導き出せない状況とおなじです。問題を正しく理解できなければ適切な結果を導きだすことはできません。それはつまり仕事ができないということです。
使用語彙の少なさはこの仕事にとって基礎的な能力である、物事の関係性を構造的に整理し、把握する力を著しく低くしてしまいます。
問題や変化を受け入れられる感受性の幅
ところで、僕がこの語彙と仕事のできる/できないの関係性について考えるきっかけになった、原研哉さんと阿部雅世さんによる対談集『なぜデザインなのか。』のなかで、原さんはこんな風にも言っています。豊かな自然環境で育って、物事に感動する感受性のキャパシティがしっかりしていると、やっぱり言葉もしっかりしてくる。言語は、非常に曖昧でデリケートなものに、感受されるべき輪郭を与えていくものです。輪郭が与えられないと曖昧なまま見過ごされてしまう。原研哉/阿部雅世『なぜデザインなのか。』
「言語は、非常に曖昧でデリケートなものに、感受されるべき輪郭を与えていく」という言葉の捉え方は、「ボキャブラリが少なければ他にどんなすごい技術を~」でも引用した、『「わかる」とはどういうことか―認識の脳科学』のなかで山鳥重さんが言っている「名前にはこの掴まえがたい記憶心象を掴まえる働きがあります」という言葉の捉え方と共通するものがあります。
言葉は感受性が自身のキャパシティのなかに受け入れた記憶心像を安定化させ、輪郭を与えてくれます。使用語彙がしっかりしていれば、耳で聞いた他人の話や、頭のなかでなんとなく整理した物事の関係性を安定させ、曖昧な状態になってしまうことを回避させてくれます。使用語彙の量が、仕事や生活の場で起きる様々な問題への対処や変化への対応に対して、自分が受け入れられる幅を広くしてくれ、いちいち慌てなくていいようにしてるのだと思います。
語学力は反復とか記憶以前に感受性
僕がおもしろいなと感じたのは、原さんがこんな風に言っているところです。語学力というのは反復とか記憶以前に感受性だと思います。原研哉/阿部雅世『なぜデザインなのか。』
また、原さんは、対談者の阿部さんの「本を読んで、たくさんの表現の仕方に触れることで、コミュニケーション能力は耕されていくのかもしれませんね」という発言に対しては、
コミュニケーション能力というか、感受性そのもの、どういう風に感じられるかという感動の幅が生まれる。原研哉/阿部雅世『なぜデザインなのか。』
とも言っています。
コミュニケーション能力以前に、感受性、感動の幅だというのは僕もそのとおりだといいたい。それこそが先に書いた「受け入れられる幅」です。また、他人を理解したり、自分の「わからないをわかる」力につながるものだと思うからです。
「本を読んで、たくさんの表現の仕方に触れることで」耕されるのは、コミュニケーション能力以上にこの感受性なのだと僕も思います。自分が知らないたくさんの表現、豊かな自然環境に触れていかなければ、物事に感動する感受性のキャパシティは広げられず、使用語彙の量を増やす環境も用意することができないのではないか、と。
当然、この感受性のキャパシティが少ないと、好奇心も活発化しないでしょうし、他人の話に耳を傾けたり、異分野の人とのコラボレーションを楽しんだり、新しい分野への挑戦意欲も高まらないでしょうしね。自分自身の感受性のキャパシティに注意をむけるのは大事なことなんじゃないかなと思います。
というわけで、仕事の行き帰りや休日には、こうした自身の感受性のキャパシティと使用語彙の量を増やすトレーニングにきっちり時間を割いていかないといけないかな、と。
じゃないと、他にどんなに実戦的な仕事のスキルを学んだところで、それらのアプリケーションを動かすOSが必要スペックを満たさないなんてことになりかねないんじゃないでしょうか。
まぁ、苦手だと認識したら克服する努力をしてみるってことが大事だってことです。
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