物理的なアウトプットのすべてが必ずしも表現の結果だとは限りません。
物理的なアウトプットというと何か頭のなかにあるものを表現することだと思ってしまうかもしれませんが、僕は物理的なアウトプットが必ずしも表現だとは限らないと思っています。
いや、むしろ、身体を通じて物理的につくりだされるものの多くは表現ではないほうが多いはずです。身体は意識を媒介せずに実に多くのものをアウトプットしてくれるんだと思う。
それは表現技術ではなく、また違った身体能力で、「頭の中にあることを瞬間的に出せる訓練をしないとコンセプトもへったくれもない」で引用した原研哉さんのクロッキーの話は、むしろそういう文脈で読まなくてはいけないんだと思います。
最初はやっぱり上手に描こうとしてしまうんですが、反射的に描くのがだんだん楽になってくる。恥ずかしくなくなるんです、描くということが。原研哉/阿部雅世『なぜデザインなのか。』
ここで「表現ではない」と書いているのは、頭で思い浮かべた意識の写しではないという意味です。頭で思う「上手」な表現として描くのではなく、「反射的に」描くということ。何かをアウトプットしようとするとどうしても上手に表現しようとしてしまいがちですが、普段やりなれていて恥ずかしさも感じないような多くの物理的なアウトプット(例えば、友達とのおしゃべりとか)というのは、むしろ意識を通さずにアウトプットしているはずです。
「「考える」方法を学ぶ」で書いた、言語として浮かぶ心理的アウトプットとしての意識と物理的なアウトプットが重なるのは、まさにこの意識を通さない物理的なアウトプットとの関係においてなんです。
語彙としてのボキャブラリ、身体的創作力としてのボキャブラリ
つまり、そうした意識を介さず身体的に行われるアウトプットの創作力というのは、言語における語彙と同様に、身体が利用可能なボキャブラリなんだと僕は考えます。「ボキャブラリが少なければ他にどんなすごい技術を身につけても仕事はできないのかもしれない」では狭義の言葉の語彙という意味で「ボキャブラリ」という言葉を用いましたが、実はこの身体的なボキャブラリというのも仕事をしたり、何かを創造したりする上では無視できないものだなと思いました。
ただ、そのボキャブラリは表現能力とはちょっと違うと思うんです。頭で思い浮かべたものをアウトプットするのは表現能力ですが、頭で(意識的に)思い浮かべずに身体的にアウトプットを創作する能力としてのボキャブラリは、創作力の1つではあっても表現能力というのとはちょっと違うのではないかと考えます。
もちろん、一般的にはそれが表現能力と呼ばれることは僕だって知っています。ですから、ここではあえて一般的な用語法とは異なる使い方で「表現能力」と「創作能力」という言葉を使い分けています。頭のなかにあるものをアウトプットする力としての「表現能力」と、そうではなく意識を介さずにむしろ出力そのものからイメージを頭のなかでつくりあげる形の「創作能力」という風に。そして、後者の「創作能力」は言葉の場合の語彙に相当するような、身体的ボキャブラリが身についているからこそ発揮される力なんだろうと考えるのです。
普通にできることのレベルをあげるための練習
ここで僕が思い出すのは昔、聞いたマラソンの高橋尚子さんの話です(この話は実はずっと前にも「無駄な訓練はない」というエントリーで書いていたのをさっき思い出しました)。一流のマラソン選手というのは辛い練習をするのではなく、普通にできることのレベルを高くする練習をするんだそうです。辛い練習は結局続かないし、身体を壊すことにもつながりやすいからです。
何マラソンだったか忘れたけど、高槁尚子さんがすごい記録を作ったとき、実は高槁さんはその前に脚を痛めてまったく走る練習ができなかったそうです。
じゃあ、どうやって高橋さんはそんなすごい記録を本番でたたき出すことができたのか?
高橋さんは走ることができない代わりに、彼女は毎日朝から晩まで歩いたんだそうです。歩くことは誰でもできることです。ただ、高橋さんはその「歩く」のレベルを普通の人ではできないくらいのレベルにあげた。
そして、彼女は知り合いのコーチに言ったそうです。私はこの数ヶ月世界一歩いたから絶対に負けるわけはない、と。言葉通り彼女は勝ったそうです。しかも、当時の世界記録で。
高い意識をもたないと続けられないような練習では、本当にレベルをあげることはできないのでしょう。そうではなく、むしろ、意識しなくても当たり前にできることのレベルをあげる練習こそが、本番での実力発揮を助けることになるんだと思います。
そして、これは何もスポーツ選手に限った話ではなく、芸術の分野でもそうなんだと思います。さらには普通に僕らが仕事をする場合でも。
普通にできることのレベルが高くなるような練習を日々積んでいるからこそ、さまざまな問題にもあわてふためくことなく素晴らしい解決策を導き出すことができるようになるんだろうと僕は思います。
頭にあるイメージを外に出すことだけが創作ではない
頭にあるイメージを外に出すことだけが創作ではないはずです。描くこと、弾くこと、身体を動かすことで、頭のなかにイメージができあがってくることは、素人が考えている以上に多いのでしょう。むしろ、いちいち意識したものを表現していたのでは、まともに創作なんてできないはずです。
言葉での表現だとあまりそういうケースは少ないのでしょうけど、絵や音楽などであれば、頭よりも身体が覚えた身体的なボキャブラリが意識を媒介せずになにかを創作するということは少なくはないのではないでしょうか。それらは創作ではあっても表現ではないのではないか、と。
創作能力は、意識との一致を目指すというよりも、身体が覚えているボキャブラリによってつくりだされるイメージをあとから意識がコントロールしようとする形で発揮されるのだと思うんです。そういう意味で、「「考える」方法を学ぶ」で書いた「頭のなかで意識として出力するのと、紙やPC上などに言葉や絵で出力するのは、単に出力先、出力メディアが違うだけ」なんです。もちろん、そうした創作能力による物理的なアウトプットが成り立つためには、意識が語彙を必要とするのと同様に、使用可能な身体ボキャブラリが多くないといけないはずです。
だからこそのクロッキーなんでしょうね。
心理的アウトプットとしての意識のための語彙の強化と、身体的なアウトプットのための身体的ボキャブラリの強化。
この2つは創造力を向上させるための基礎体力として、日々練習して身につけていかなくてはいけないんでしょうね。普通にできることのレベルをあげるための練習として。
関連エントリー
- 「考える」方法を学ぶ
- 無駄な訓練はない
- Fw:本当に考えたの?(それは「考えた」と言わない。)
- 仕事のOS:語学力は反復とか記憶以前に感受性
- ボキャブラリが少なければ他にどんなすごい技術を身につけても仕事はできないのかもしれない
- 語彙が少ないと仕事の能率もわるい?
- 好奇心とは独創的な問いを発見する情熱である
- 頭の中にあることを瞬間的に出せる訓練をしないとコンセプトもへったくれもない
この記事へのコメント