いや、「Fw:本当に考えたの?(それは「考えた」と言わない。)」で引用した森博嗣さんの「本当に考えたの?」というエントリーのことですけど、
こういうのは、僕の場合「考えた」とはいわないのである。
といっても、森さんは別に「考えていない」とか「考える努力をしていない」なんてことを言っているわけではないはずです。
森さんが言いたいのは、むしろ「努力は認めてもその考え方では考えはまとまらないよ(あるいは、まとまっても非効率だよ)」ということを学んでほしいということなんだと思うんですよね。
考えるのにはもっと効率的な方法があるよねということだと思います。
あの書き方だと、そう思えないことがあっても仕方がないのかもしれませんが、僕が引用した箇所には、すくなくとも「学生に」という条件指定があります。
であれば、学生は森さんとの関係において何かを学ばなくてはいけない状況だと思います。
この場合、情報が足りないので推測でしかありませんが、森さんが学生に学んでほしいと考えているのは、答えではなく、考え方・考えるという方法なんじゃないかと思うのです。
頭のなかで考える、紙に書いて考える。それは単に出力先の違い
その効率的な考え方というのが出力を増やす方法だと思うのです。こう書くと「考える」のと「出力する」のが別の行為だなんていう人がいます。
でもね、「考える」のと「出力する」のが別の行為だなんていう認識が、そもそも「考える」という行為をむずかしくしちゃってるんじゃないかなと僕は考えます。
「考える」ということの既成概念はいったん忘れて、考えてみてください。
- 一般的に「考える」ということで想像されるであろう、頭のなかで考えるって行為は、意識のうえにいろんなものを思い浮かべて、それをうまい具合に組み合わせたり並べ替えたり適切な素材をあてはめたりする行為なんだと思います。
- であれば、それは紙の上やPC上で同様の行為をすることとあんまり変わらないんじゃないかと思うんです。
- つまり、頭のなかで意識として出力するのと、紙やPC上などに言葉や絵で出力するのは、単に出力先、出力メディアが違うだけです。
「考える」のと「出力する」のが別の行為なんじゃなくて、それは単に頭のなかを出力先にして考えるか、物理的なメディアの上を出力先にして考えるかの違いです。
「考える」ための素材をどこで料理するか
意識とは出力にほかなりません。それは考えるための素材です。出力が物理的か、意識という仮想的な存在であるかの違いはあったとしても、それはとにかく出力していじくりまわせるような形=素材にならない限り、それを使って何かを生み出すことなどできないはずです。だからこそ「仕事のOS:語学力は反復とか記憶以前に感受性」で書いたような使用語彙の多さが「わかる」とか「考える」とかがうまくいくかどうかに関わってくるんだと思います。
素材は多いほうがそれを組み合わせてつくるもののバリエーションも増えます。また、素材はある程度あったほうがその場に必要なものを選ぶ際にも「これだ」って思うものを見つけられる可能性が高くなるんじゃないでしょうか。
「考える」ってのは結局、頭のなかであれ、紙の上であれ、PC上であれ、選んだメディアのうえで、使用可能な素材を組み合わせて、何かを生み出すことでしかありません。
僕が「考えるということは頭ですることじゃなく手を動かすこと」と書いたりするのは、
- 頭のなかだけでその作業をするより、実際に目に見える形で紙などに書きながら、組み合わせを検討したほうがラクだと思うからです。
- そのほうが効率的に組み合わせを吟味できますし、なにより見えているから、その組み合わせがいいのかわるいのかも判断しやすいんだと思うんです。
- また、見えているからこそ、そこから新しい発想が生まれてくる可能性がある。
- 人間は目に見えないものを扱うより、目に見えてるもののほうが扱いやすいはずだから、物理的なアウトプットしながら考えたほうがいいですよ、と言ってるわけです。
ようするに他人にアウトプットしなさいってことじゃないんですよね。僕がアウトプットが大事というのは、自分がわかりやすいようにまず自分に対してアウトプットしてあげなさいっていうことなんです。
他人のアウトプットでひらめくことは多いのに、なぜ自分のアウトプットでひらめこうとしないのでしょうということです。
卑屈にならずもっと自分のアウトプットを信じてあげてほしいなって思います。
最初からブラインドタッチはできないよね
ようするに、キーボードになれない人は無理してブラインドタッチするより、キーボードを見ながら打ったほうが時間がかかってもちゃんとした文章が打てるのとおんなじことだと思います。キーボードに馴れてきたらブラインドタッチをはじめればいいのであって、最初からブラインドタッチができる人なんていません。それとおんなじでなんでもかんでも頭のなかだけで「考える」なんて、そもそもむずかしいことなんだと思います。
まわりにいる人が頭のなかだけで考えて次々といろんな答えを導き出しているようにみえても、それは単にその人がすでに「考える」経験を積んできてブラインドタッチができるようになってるだけです。キーの位置が見なくても身体に染み込んだらブラインドタッチができるようになるように、自分が使用可能な素材をいちいち物理的な出力にしなくても、それぞれの素材の扱い方が身体に染み込んでいるから「考え」が頭のなかで完結するようになっているのにすぎません。
それは経験が豊富で、頭のなかだけでもいろいろ「考える」ことができるようになった人に向いてる「考え方」であって、そうじゃない人は頭のなかだけで考えるよりも、紙などに書きながら考えたほうが結局近道のはずです。そうやって「考える」ということを身体になじませていくんだと思います。ギターの練習をしたり、野球の練習をしたりすることと、「考える」練習をすることにはまったく違いはないと思っています。
ビジュアルがヒントを示してくれる
森さんや、僕が物理的なアウトプットを重視するのは、頭のなかだけで考えるのは、そもそも紙に書いたりしながら考えるのより、はるかにむずかしいことだということを知っているからです。僕だって、人の話を聞きながら答えを出すより、その人がホワイトボードに自分の話した内容の要約を書いてくれたりすれば答えは出しやすいですし、自分でその人が話している内容をメモしながら、言葉と言葉のあいだを矢印で結んだり、しゃべってくれたことの要素を円で囲ってカテゴライズしながら聞いたりしたほうが、相手に適切な答えを返してあげやすかったりします。
また、頭で考えてるだけじゃまったく答えがでてこない企画も、とりあえず与件の整理やら、思いついた単語を並べたり、適当に丸で囲ったりしながらビジュアライズしていくうちに答えが見えてくることもあります。見た目のイメージが思わぬところからヒントをもたらしてくれるということは結構あると思います。
だからこそ、頭のなかで考えるより、紙などに自分の手を使って出力しながら考えたほうが、目の前の素材と頭のなかの素材を両方使えるから考えがまとまりやすいんだと思うんですよ。
だって、そもそも本などを読んでいても、文章だけで説明されるより、図などを使って表現されたもののほうがわかりやすかったりするじゃないですか。結局、それとおんなじ効果なんだと思うんですよね。描いているうちに見えてくるものってあるんだと思うんです。
こんなにブログを書いてるのだって、頭のなかだけじゃ整理できないから、文章に書き出してみることで考えをまとめているわけです。それぞれのブログのエントリー自体は大したもんじゃなくても、一回書き出しておくと後でより複雑なことを考えなきゃいけない場合の素材になることもあるからです。
それにしゃべってるうち自分が言いたいことに気づいたなんて経験は一度くらいあるんじゃないでしょうか。
完璧な答えより、考える方法を
結局、森さんはそんな風に「考える」方法にもいろいろあるということを学んでほしかったのと、あの状況では完璧な答えを出すことより、考える方法を自分で学んでいくほうが大事だということに気づいてほしかったんじゃないかと思います。だって、どうせ努力してもらうなら、非効率な方向で努力してもらうより、ちゃんと効率的な努力方法を学んでそのうえで努力してもらいたいじゃないですか。
もちろん、すべての「考える」において、このアウトプット形式の「考える」が効率的で優れているなんてことを言ってるわけじゃありません。散歩しながら考えたりする場合はアウトプットなんてできないし、頭のなかで「うーん」と唸って答えを出すほうだってあります。
ようは「考える」方法にもいろいろあって、使い分けてみるのもいいでしょうってことです。引き出しは多いほうがいいと思うのであって、このアウトプット形式で「考える」方法が好みじゃない方が無理にその方法をとる必要もないと思います。
まぁ、僕自身もそうですけど、せっかくそういうことを言うのなら森さんももうちょっと伝え方を工夫したほうがいいのかもしれませんね。そのあたりはなんとなく同意。
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