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学士会館の閉館 〜わざわざ見に行ってきた!


NHK「坂の上の雲」のアンコール放送、録画して見ております。色々なところでロケしていますが(1990年代、日本はまだお金があったなあ)、その中でどうも学士会館で撮影したと思えるシーンがこの前ありました。「おお、懐かしい」と思いましたが、その後に続けてこれまた録画してあった東テレ「新美の巨人たち」を見たら、学士会館を特集していました。見ていると、なんと今月で閉館(12月29日)と言っているじゃないですか!確かに間もなく閉館になるという話はどこかで聞いていたが、これはいかん!閉館する前に目にとどめておかねばということで、何とか時間を捻出して見に行きました。


 学士会館は文字通り「学士の会館」という意味ですが、ただの学士ではありません。「旧制の帝国大学およびその後継大学を卒業した学士のみ」が会員になれます。北から北大・東北大・東大・名大・京大・阪大・九大の7大学の卒業生です。僕は私立大ですから会員資格がありません。福澤諭吉がつくった銀座にある「交詢社」の方がOBクラブとして格式や伝統があるからどーでもいいやとは思ってましたが(別に社員でないけど)、やはり学士会館は気になる存在です。以前は東大本郷キャンパスに分館もありましたが、利用が一番多いのは東大出身者でしょう。学士会館に行くと、1階の談話室で東大OBと思われるおじいさんたちがよく碁を打ったり将棋を指したりしていたのを思い出します。東大を卒業した友だちが、「結婚式は絶対に学士会館で挙げるのよ!」と母親に念押しされたと言ってましたね。畏るべし、学士会館。


 学士会館は神田錦町にありますが、ここにもっとも近い国立大は東大でなく東京医科歯科大(現在の東京科学大)です。実は医科歯科の先生方はこの学士会館にやたらこだわっていて、学会とか研究会を催した後などのパーティ会場としてよく使っています。はっきり言ってしまうと、医科歯科でも特に医学部は東大医学部に対して相当コンプレックスがあります。一期校・二期校時代は言うまでもなく、今も東京近辺で国立大医学部を目指すならトップ層は東大理科三類ですが、その層の後期出願は圧倒的に医科歯科医学部です。東大理三を落ちて(あるいは断念して)医科歯科に進学する者が今も昔も多いです。医科歯科は国立医学部序列でいうと、旧帝大→旧六医大→新八医大の「新八」です。医科歯科の受験難易度や研究力がいかに上がろうと、文科省の格付けは厳然として変わりません。これが帝大コンプレックスとなって相当に悔しいのでしょう。しかし学士会館の会員資格がない医科歯科が、なぜここを利用できるのか?それは医科歯科の先生方には東大の非医学部を卒業した学士編入や再受験者がとても多いからです。そういう人たちにお願いして学士会館を使うのですね。


 さて上の写真は下の地図の位置で撮りました。

近づくと、「日本の野球発祥の地」の記念碑があります。

学士会館は東大の前身「開成学校」が創設された場所にあり、明治5年(1872年)開校時ここで教えたアメリカ人のホーレス・ウィルソン氏が野球も生徒たちに教えたそうです。「坂の上の雲」の主人公のひとり正岡子規は、明治10年(1877年)開成学校の後継校・東京大学予備門に入学し、野球に熱中したといわれています。子規もこの地で野球に汗を流したのですね。


 中に入ると閉館のお知らせが。


内部インテリアは荘重で、「坂の上の雲」に限らずいろいろなドラマや映画のロケがおこなわれてきました。下のショットは見覚えがある方も多いのでは?


そう、ドラマ「半沢直樹 第二部」で、半沢が大和田常務から「お・し・ま・いDEATH!」と宣言される場面です。「半沢直樹 第一部」では上階の宴会室が東京中央銀行の会議室の場面に使われ、ラストで大和田常務が役員会議で半沢に屈辱の土下座をしましたね!ああ懐かしい!


学士会館を去る時、懐かしい扉を押して出ました。歴史を感じさせ、とても威厳があります。

現在の学士会館の建物(旧館)は昭和3年(1928年)に竣工されており、昭和11年(1936年)年の2・26事件の際には、第14師団東京警備隊司令部が置かれた場所でもあります。


外に出てみると、いろいろな人たちが学士会館を写真に撮っていました。お父さんが学士会館を背景に家族4人で仲良く撮っているのにも出くわしました。きっと、結婚式を学士会館で挙げた方なのでしょう!


 学士会館は本日をもって休館となり、来年4月から解体工事が始まるそうです。現地でのファサード保存はされず、ただしどこかに旧館部分だけを移転・保存する計画はあるとのこと。そうか、そうすると新館部分の外にある、あのちょいと小粋な小さなエスカレータはなくなるのか。残念ですが仕方ない。5年後に再開予定だそうですが、昭和初期の雰囲気を色濃く残す荘厳な学士会館とは間もなくするとお別れになります。

大川原化工機の冤罪事件 〜警視庁公安部員を逮捕せよ!


この事件ほどひどい人権侵害は、21世紀の日本でそうそうなかったと思っています。毎日新聞の記事です。

<追跡公安捜査>警視庁、大川原化工機の冤罪巡る公益通報への連絡放置 違法の可能性

12/24(火) 8:00配信

毎日新聞


 化学機械メーカー「大川原化工機」(横浜市)の社長らの起訴が取り消された冤罪(えんざい)事件で、警視庁が2023年、捜査の違法性を指摘する公益通報を3件受けたにもかかわらず、通報者に調査の可否を3カ月以上、通知しなかったことが判明した。公益通報の調査の可否は、受理から20日以内に通報者に伝えるものと解されており、有識者は公益通報者保護法の趣旨に反すると指摘する。


また、警視庁は調査の着手時期や進行状況について、通報から1年以上たった今も通報者に伝えていない。有識者には、調査をしていない可能性を指摘する声もある。


 ◇ファクスされた32枚の「内部告発」


 関係者によると、3件の公益通報は23年10~11月、警視庁の警察官が内部通報窓口にファクスで送信した計32枚の文書。

 冒頭に「大川原化工機事件捜査について、法令違反があったので、内部通報を行います」と記されていた。

 内容は①大川原化工機の同業者の聴取結果を記した報告書が、実際には聴取せずに作られた報告書だった②大川原化工機元取締役の供述調書を取調官がシュレッダーで故意に細断したのに、過失だとする報告書が作られた③噴霧乾燥器の温度実験で、測定データの一部を除外する報告書が作られた――とするもの。

 それぞれ虚偽有印公文書作成・同行使、犯人隠避などの刑法犯に当たるとして、関わったとされる警視庁公安部の捜査員の調査を求める通報だった。

 通報者の警察官は匿名で、連絡先として私有のメールアドレスが記されていた。

典型的な公益通報で、事実かどうかの調査を進めなければなりません。ところがです。

◇問い合わせを受けるまで「放置」


 通報窓口は、警察官の懲罰を担当する監察部門がある警視庁人事1課。人事1課は、①②についてはファクス受信から5日以内にメールで通報者に受理連絡をしたが、調査するかどうかを伝えず、③は受理連絡もしなかった。

 24年2月、通報者から受理の可否や調査状況を問い合わせるメールがあり、人事1課は3月に「気付くのが遅くなってしまい、申し訳ありませんでした。しっかりと調査させていただきます」と返信した。①の通報から5カ月近く、③の通報からも3カ月以上たっていた。

 しかし、人事1課はその後に一切の連絡をせず、現在に至るまで調査の着手時期や進行状況について通報者に伝えていないという。

 消費者庁が定めている公益通報者保護法の指針やその解説によると、企業や行政機関は内部通報を受理した場合、原則調査しなければならない。正当な理由があれば調査を免除されるが、解決済みの事案に関する通報の場合などに限られる。

 調査する場合の着手時期や、調査中の進行状況も適宜知らせるのが望ましいとされている。

「気付くのが遅くなってしまい、申し訳ありませんでした。しっかりと調査させていただきます」かあ?ウソつくのもいい加減にしろ!都合が悪いので、人事1課は通報を握りつぶそうとしたのでしょう。警視庁公安部が警視庁の中でも特別な位置づけにあり、他の部門がそれにもの申すのを憚られる雰囲気があったとしか思えません。そもそも、大川原化工機の冤罪とはどういう事件だったのでしょうか?wikiから引きます。

大川原化工機事件(おおかわらかこうきじけん)は[1][2]、生物兵器の製造に転用可能な噴霧乾燥機を経済産業省の許可を得ずに輸出したとして、2020年3月11日に警視庁公安部外事一課が神奈川県横浜市の大川原化工機株式会社の代表取締役ら3人を逮捕するも杜撰な捜査と証拠により[3]、冤罪が明らかになった事件[4][5]。


代表取締役らは一貫して無罪を主張。しかし保釈は認められず、その間に相談役は進行胃がんと診断され入院した。2021年2月5日、代表取締役と常務取締役は11か月ぶりに釈放されたが、7日に相談役は病死した[3]。数十回にわたり取り調べを受けた女性社員はうつ病を発症した[6]。亡くなった相談役は、入院治療の必要があると弁護士が訴えたにもかかわらず、病気発覚以前からのものを含めれば保釈要請は計7回も認められなかったという[7]。その一方で、捜査を主導した警部及び警部補は事件後に昇任した[8]。東京地方検察庁は第1回公判直前の7月30日、公訴を取り下げ、刑事裁判を終結させた[4][9]。


9月8日、代表取締役と常務取締役、相談役の遺族は、国と東京都に対して約5億6500万円の損害賠償を求める訴訟を東京地方裁判所に起こした[10]。公判で、事件に関わった現職警察官がでっち上げだったのではないかと問われたことに対して捏造だと、研究者が捜査報告書に書かれた自身の意見が実際に語ったはずの発言内容と異なっていると証言するなど、異例の展開となった[11]。2023年12月27日、東京地裁は警察・検察の違法捜査を指摘し、国と東京都にあわせて1億6200万円余りの賠償を命じる判決を下している[12]。

もうメチャクチャな話で、戦時中の横浜事件を彷彿とさせる警察の横暴を際立たせる事件でした。
 そもそもどう考えて警視庁公安部は立件したのか?

2013年10月、貨物等省令が改正され、一定の要件を満たす噴霧乾燥機は兵器転用が可能であることから、これらを輸出する際に経済産業省の許可を要することとなった。噴霧乾燥機分野の国内市場70%をシェアする都筑区に本社がある大川原化工機株式会社は、法改正にあたって積極的にヒアリングに応じ、経産省や安全保障貿易情報センター(CISTEC)に対し、全面協力をした[4][9]。


2016年6月2日、大川原化工機は噴霧乾燥機「RL-5」をBASFの子会社へ納入するため、中華人民共和国に輸出した[13]。


貨物等省令の定める噴霧乾燥機の規制要件は以下のとおり[13][注釈 1]。


  1  水分蒸発量が1時間あたり、0.4キロ以上400キロ以下のもの。

  2  平均粒子径10マイクロメートル以下の製品を製造することが可能なもの。または噴霧乾燥機の最小の部分品の変更で平均粒子径10マイクロメートル以下の製品を製造することが可能なもの。

  3 定置した状態で機械内部の滅菌または殺菌をすることができるもの。


これら3つの要件にすべて当てはまるときは経産省の許可が必要となる。噴霧乾燥器で生物兵器を製造しようとした場合、機械内部に残る有害な菌に、製造にあたる作業員が暴露するのを防がなければならないが、そのためには「定置した状態で(=機械を分解しない、そのままの状態で)」機械内部に残る有害な菌を殺滅できる性能が噴霧乾燥器に備わっていることが必要となる[5]。会社側は輸出した製品に3.の能力がなく、規制対象に該当しないと確信していた。ところが警視庁公安部は「ヒーターを空焚きして装置内部の温度を上げれば、一部の菌を殺すことは可能ではないか」という論拠を組み立て[9]、2017年5月頃から「大川原化工機が生物兵器の製造に転用可能な噴霧乾燥器を無許可で輸出した」として捜査を開始した[4]。捜査は、ロシアとヨーロッパの諜報活動を捜査する外事一課第五係が担当。外事一課の渡辺誠管理官と第五係長の宮園勇人警部が指揮した。

噴霧乾燥機とは水分を含んだ流体を空気中に噴霧し、水分を気化させて乾燥固形粉末をつくる装置です。ラーメンの粉末スープなどをつくるときに使う器械です。しかし、警視庁公安部は、最初から大川原化工機の噴霧乾燥機の中国輸出に強い疑いの目を向けていたことがわかります。
2017年5月18日、宮園の部下の安積伸介警部補は防衛医科大学校を訪れ、微生物学を専門とする防衛医科大学校の四ノ宮成祥教授と面会し「滅菌」と「殺菌」の定義について意見を求めたが、事件の捜査であることは伏せられた。面会は翌年まで何度も行われた。2018年3月28日、来訪した安積は突然ノートパソコンを取り出し、四ノ宮に供述調書を取りたいと言った。安積はあらかじめ作成した文書を画面で見せながら、四ノ宮に確認させた。画面を使っての確認を終えると、同伴の刑事が持参したポータブルプリンターで印刷した。四ノ宮は深く読み返しもせず、ひとつも修正しないまま、署名押印に応じた。公安部は2017年11月15日に作成した「捜査メモ」(乙8号証の33)で決定的とされる捏造を行った。メモには四ノ宮の言葉として「噴霧乾燥機は、末端付近まで100度以上の熱風がいきわたるのであれば、細菌は水分が枯渇すれば死んで感染能力を失うため、機器が機能として持つ温度で殺すことができる」「乾熱による滅菌・殺菌は、蒸気などと同様に一般的な方法であることから、乾熱で大腸菌などを殺菌できるのであれば、特段問題なく輸出規制に該当する機器と判断できる」と記されていた[17][18]。これらの報告書は、警視庁の殺菌理論の根拠として経産省の説得に用いられた。四ノ宮は当該事件の国家賠償請求訴訟に提出した陳述書で「私は機械の専門家ではないので、機械の性能について事細かに話すことはない。安積刑事が話したことを敢えて否定しなかったか、完全に作文しているかのどちらかだと思う」と述べている[。
防衛医大の四ノ宮教授もきわめて脇が甘いというか、強制される環境でもなかったのに唯々諾々と署名・捺印した責任の重さがよくわかってない人物と見受けます。「滅菌」と「一部の細菌を殺す」は根本的に違うのは、医者なら常識でしょう(四ノ宮成祥教授高知医大の卒業)。

2017年10月6日、公安部外事一課第五係は経産省との打ち合わせを開始した。捜査を開始した頃、第五係は部内から「目立った成果を上げていない」と見なされており、幹部は「このままでは人員を減らされ縮小させられる」「経産省に『殺菌概念が無い』と言わせるな。経産省がそれを言ったら事件は終わり」と話していた。

官僚にありがちな「既得権益の死守」がありありと出ています。しかし、こんな理由で無実のひとたちを逮捕し、死人や病人まで出していたのか!しかも証拠ねつ造の繰り返し。そして、担当係は廃止されるどころか、異例の昇進人事まで受けています(大川原社長ら3人が起訴されるや、外事第一課が組織として警察庁長官賞と警視総監賞を受賞。宮園勇人警部が警視に、安積伸介警部補が警部補から警視に昇進)。2017年といえば第四次安倍内閣が発足した年で、その後森友学園や加計学園の認可を巡って内閣支持率が大きく下落した時期です。その前の2015年の安全法制の改定でも内閣支持率の下落を招いており、安倍首相が内心焦っていたのは想像に難くないです。まさかと思うが、そういう状況の安倍首相に忖度してこういう立件の強行を警視庁公安部が図ったとすれば、許しがたい犯罪行為です。

 おそらくですが、警視庁人事部も安倍晋三の威光を恐れて、これだけめちゃくちゃな行動をする公安部の調査に手をこまねいたのだと想像します。今故安倍晋三をもてはやす空気が世間に拡がっていますが、たとえ死しても彼の悪行は絶対許せない。官僚たちの卑怯で自己保身的な策動を助長したという意味でも、未来にも大きな禍根を残した人物だと私は思います。

追伸:
 まったく個人的な感想ですが、押井守監督の映画「人狼 JIN-ROH」を思い出すな。

昔東大文一はずば抜けて難しかった 〜宮沢首相がこだわったのもわかる気が



1970年〜1980年代の大学受験組として、文系では東大文科一類が他より頭が一つ抜けて難しかったように感じます。「ように感じます」というのは私自身は理系だったから正確には知らないからですが。しかし、文系受験の友人でも東大文一を志望しながら、浪人してもどうしても点数が伸びずに文二に切り替えて進学した者が何人かいました。今のように合格最低点で文一が文二や文三に抜かれたりすることを聞くと、隔世の感がありますね。プレジデントオンラインの記事から引用します。

昭和(特に戦後~バブル前夜あたり)の時代、圧倒的な地位を築いていた東京大学文科一類の入学難度についても詳しく見ていきましょう。

〜中略

昭和後期には、文一と文二・文三との間には偏差値で言うと5~10程度の差があったと言われ、文一は圧倒的な地位に君臨していました。東大の文系入試で最も合否を左右する科目である数学では毎年4問出題されるのですが、当時文三は一問完答、文二は二問完答、文一は三問完答する必要があると言われていたそうです。

 この頃の予備校のデータを見てみると、当時の東大文一合格者の高2時点の文理共通の数学の問題での平均点は京大理学部合格者のそれを上回っていることが確認できます。文系でありながら東大京大(医学部除く)の理系をも凌駕する数学力まで兼ね備えていたのです。

うーん、当時の東大文一の合格者の数学力が京大理学部の合格者より高かったとは、たとえ高2時点ではあるにせよ驚きです。大学受験で難関校の合否は理系だと数学の出来でほぼ決まるのは今も昔も同じですが、文系でもこの時期は数学力が大いにものをいったのですね。当時の文一の難しさは平成以降とは大分違っていたようです。この時期、慶應医学部の学生には東大文一とダブルで合格した者もいました。東大は辞退して慶應に入学したわけですが、あの先輩ただ者ではなかったのだな。

しかし現在、東大文系の合格最低点は文一、文二、文三の間で大差がなくなってしまいました。2021年入試では、なんと文二、文三の合格最低点を文一が下回ってしまうという、この世代の受験生からしたら信じられない事態が起こっています。

〜中略

ちなみに、この時代の東大文一を受験した有名人に岸田文雄前首相がいます。

 岸田首相は3度の東大受験に失敗し、早稲田大学法学部に進学しており、ネット上では「東大落ちたくせに」と叩かれていることも多いです。

 たしかに岸田首相は東京大学文科一類の受験に失敗していますが、前述の通り全盛期の文一を受けているという点にご留意ください。当時の文一は圧倒的であり、不合格者でも文二や文三であれば受かっていたということは十分ありえるでしょう。

 そういうわけなので、岸田首相を叩くのは大目に見てあげてほしいというのが正直なところです。

そうかもしれませんね。

名門鳩山家の生でも屈指の「受験天才」


 第一章では戦前の神童エピソードを紹介しましたが、もちろん戦後にも天才は現れます。

 鳩山邦夫さん(1970年東大法学部卒)は個人的に推している天才の一人です。

 そもそも鳩山家といえばとんでもない学歴エリート家系として知られており、なんと5代連続で東大生を輩出しています。

 学者や政治家の家系で3代連続東大といった例はそこそこ見られますが、5代連続となるとかなりのレアケースでしょう。

 名家揃いの政治家一族の中でも鳩山家はひときわ注目を集めており、『鳩山家の勉強法』という教育本が学習塾から出版されているほどです。

これねえ、私は祖母からも鳩山家の偉業を言われましたよ。別に東大を出たから格段に優れているというわけでもないことは、ルーピー由起夫氏が証明してしまってますが、こと受験に関してはすごい一族です。その中でピカイチに有名だったのが、鳩山邦夫氏。

内閣総理大臣を2人も輩出した秀才揃いの鳩山家の中でも、とりわけ「受験天才」の才能が光っていたのは、鳩山由紀夫さんの弟である邦夫氏です。
 邦夫氏は幼少期から神童と呼ばれ、数々の神童エピソードが語り継がれています

1.高校時代、駿台全国模試で全国1位連発

2.駿台模試初の現役生での全国トップとなり週刊誌から取材を受ける

3.東大法学部を首席で卒業(元都知事の舛添要一と首席争い)

4.写真記憶(カメラアイ)ができたと言われている

5.参考書を買ったことがない(立ち読みで覚えていた)

6.母親(鳩山安子)曰く、兄の由紀夫はしっかり勉強していたが、邦夫が勉強しているところは見たことがないとのこと

7.大臣時代、膨大な資料を一度流し読みしただけで完全に内容を理解・暗記し、重要部分には漏れなくチェックをつけていた

8.田中角栄から「君は官僚たちとは持っているものが違う。他人とは違うということを理解しなさい」と釘を刺される

まず1と2ですが、僕が浪人時代、駿台新聞に鳩山邦夫氏が寄稿していて、知りました。うひゃー、すごいな!と思った憶えがあります。舛添要一氏は下に出てくる片山さつき氏の元夫でもありますね。4はそれほど珍しくもなく、自分の同級生にも何人かいます。しかし、5〜8はさすがにすごいですね。角さんも政治家としては稀代の天才だったからね。


 そしてこういう特集ならきっと出てくると思っていたのが、宮沢喜一氏です。

昭和を代表する学歴厨とも言われる宮澤喜一さんにも触れないわけにはいきません。

 宮澤喜一氏は東京帝大法学部から大蔵省に入って内閣総理大臣にまで上り詰め、「日本一出世した学歴厨」とも呼ばれる人物です。

 高い英語力にも定評があり、サンフランシスコ講和会議には全権随員として参加しています。

宮沢さんの英語力はあの年代の政治家の中では、かなり目立っていました。今ならさほど珍しくはないけど、戦前のあまり恵まれてない時代の育ちにしてはよくできます。

政界きっての学歴厨であったことで知られており、早稲田大学卒の竹下登元総理に「貴方の時代の早稲田の商学部は無試験だったんですってね?」と煽ったというエピソードや、東京農業大学出身の金丸信に対して、「偉い方ですよ。大学を出ているんですね。知っていました?」「そいつはお出来になりますなあ」と皮肉ったという話も語り継がれています。

 東大法学部至上主義者であったことでも知られ、経済学部などの出身者には「ほう、近頃は法学部でなくても東大って言うんですか」と言い放ったというなんとも強烈なエピソードも残っていたりします。

確か宮沢氏の首相時代の番記者にも東大出がいて、ところが「なんだあなた、東大といっても法学部じゃないの?」とか言い放ったと聞きますね。

1970年頃、さいたま市立高砂小学校では、同校始まって以来の天才少女が現れたと話題になっていました。こちらの天才少女とはみなさんご存じ、今では政治家やコメンテーターとしてご活躍の片山さつきさんであります。彼女は当時から「神童」として近所ではちょっとした有名人だったようです。

 彼女の華麗なる経歴を振り返ってみましょう。

 片山氏は東京帝国大学の数学科を出た数学者・朝長康郎の娘として生まれます。小学校時代は開校以来の受験天才だと持て囃され、当時首都圏の女子で最も難易度が高かった東京教育大学附属中学(現・筑波大学附属中学)に難なく合格・進学します。ここでもトップを独走し、全国模試でもたびたび1位を獲得するなど、神童ぶりを遺憾なく発揮します。

 当時圧倒的な地位を誇った東京大学文科一類に現役合格し、進学します(同じ年に岸田首相も東大文一を受験しておりますが、儚く散っておられます)。

片山さつき氏、そこまですごかったとは知らなかった!岸田さん、涙目。

先ほど取り上げた鳩山邦夫氏(高校の先輩後輩の関係でもあります)との異次元の受験天才トークです。まだ財務省の役人だった片山さつき氏と邦夫氏が受験の話になり、「先生は高校時代、全国模試で1位、1位、3位、1位だったそうですね」と片山氏が尋ねると、邦夫氏は満足そうに「そうだ」と答えます。

 すると片山氏が「私は1位、1位、1位、1位でした」と勝ち誇ったように言ったというのです。これに邦夫氏は「あの女はなんだ!」とご立腹だったということです

ははは!それは嫌みな女ですね。調べたら鳩山邦夫氏は学習院中等科から東京教育大学附属高校に進学しています。この当時は東京教育大学附属(今の筑附)の全盛期で、同じ東京教育大学附属でも駒場(今の筑駒)など目ではなかったです。中学受験でも私立御三家(開成、麻布、武蔵)に合格しても東京教育大学附属中に合格したら、そちらに行く時代でした。


 読んだ感想。この時代の受験話は、最早昔話と同じようなものです。そもそも東大文科一類に進学する価値がいま霞んでしまっています。昨今の受験生にはほとんど理解できないでしょう。