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日常考えたことを書きます

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「謎の海洋王国ディルムン」

―古代オリエントにも貿易中継国家があったのか


今高齢化が進行する日本ではお葬式も年々増えています。私は自分が死ぬ時散骨がいいなと思っておりますが、多くの方はお墓を希望されるでしょう。「お墓も増える一方になるけど、用地は十分にあるのかな?墓仕舞いという言葉も聞いたことがあるけど、それってどうするのかな。」など考えてしまいます。考えてみればお寺の檀家制度が確立した江戸時代以降相当な数のお墓ができたはずですが、墓地や霊園の広さには限りがあるはずです(特に都市部)。どうやって整理していくのかと私は思っています。
 私が妄想する「お墓だらけの国」とは、まさにこのディルムンの姿なのでしょうか。ペルシャ湾に浮かぶ現在のバハレーン島に今から4千年以上前にあった国家、ディルムンをこの本は活写しています。古墳だらけで都市としての姿もありましたが、まさにお墓に賭ける生活と言っていいのでしょう。古代メソポタミアに東方からの物資を運ぶ中継点として栄えたようですが、高校世界史では扱わない内容です。本書ではディルムンの発掘調査に関わる歴史にも丁寧な説明がされておりますが、日本の研究者も1960年代から携わっていることを知りました。最近のカリキュラム改訂で、高校歴史の教科書にグローバル化の視点を入れるようになっていますが、その意味でディルムンの記載なんかもっと前からされていても良かったのにと思いました。残念ながら文物が多くないため、王朝や生活についてはわからないことだらけです。しかし遺物から出土するゴミで、タイやハタ科の魚、ナツメヤシ(デーツ)を食べていたと推測されています。ハタは美味しい魚ですよね。中東は今禁酒もあって甘いものが好まれますが、ディルムンも同じだったのでしょうか。「むし歯が多かった」そうですが、折角の美食も歯痛があったら楽しみ半減です。
 お墓が尊重されるディルムンではどういう死生観念だったのでしょう。「子供古墳」を「大人古墳」の周囲に配置したところをみると、記述通り「ある程度の年齢(おそらく結婚前後)になったらお墓準備を始める」が常識だったと思われます。幼くして亡くなった子供の墓をおそらく親と思われる成人の墓周囲に配置できたのは、親の墓が事前に準備されていたからなのでしょう。
 BC1700年頃に突如滅びたディルムンですが、著者はその原因を「キプロスからの銅輸出との対抗に負けたため」と推測しています。しかしディルムンは中継貿易国で、その銅はオマーン半島からの輸入品です。他にも東方からの物資がいろいろあったので、それだけで滅亡とは?と思いました。真相は不明ですが、もしかすると貿易ルートの変更、例えば航海技術の発展でディルムンに寄港しなくても済むようになったのかもしれないとか考えました。バハレーン島周囲の海域にある沈没船などの遺跡・遺物調査はまだこれからとのことですが、色々と空想を張り巡らしてみたくなる本でした。


「謎の海洋王国ディルムン」安倍雅史著 中央公論新社 2022.1.10

團伊玖磨さんのこと(「パイプのけむり」など)

いちごの季節 〜日本のいちごは美味しい


今「パイプのけむり」でググってみると、随筆の「パイプのけむり」は検索上位には出ないことを知りました。「パイプのけむり」はホテルや喫茶店の名前で上がってきますが、名付けた方々はきっと團伊玖磨の随筆を愛読されているのでしょう。


 團伊玖磨さんの随筆ではアサヒグラフの「パイプのけむり」の連載が一番有名ですが、僕が最初に読んだのは「エスカルゴの歌」です。当時小学5年か6年で、湘南に住んでいた頃でした。海辺近くだったので砂浜散策が多かったですが、貝殻もよく拾って持ち帰りました。サクラガイが一番きれいでしたね。ところが「エスカルゴの歌」に出てくるルリガイ、アサガオガイは初耳でした。「台風の後で打ち上げられていた」とのことで、僕も台風の後に砂浜に行ってみたけどついぞそれらしきものは見つかりませんでした。今検索してそれらの貝を見ると、思っていたより地味です。知り合いの画伯にガラス絵にしてもらったというので、もっと透明感がある貝を想像していました。もしかすると見逃していたのかもしれません。


 その後も「パイプのけむり」など團さんの随筆は学生時代熱心に読みました。團さんは当時から海外を旅していて、色々珍しいものを記載していました。小さいアーティチョークの生がサラダに出て、食べられなかったなんて記載もありました。僕もフランスに居た時アルティショーを食べるようになりましたが、大きいのは生なんて絶対無理です。小さいアーティチョークの瓶詰めはその後知りましたが、まあ生はキクの香りが強すぎて、普通無理でしょう。どんなサラダだったのか、色々想像してしまいます。
 国際線機内で知り合ったスチュワーデスに割ってもらったフストックというナッツは、とても美味しかったと書いていましたが、どんなナッツか?と想像しました。これ今となると、ピスタチオで間違いないと思います。ピスタチオ、私は大好きですが、1960年代の日本でピスタチオなんて何処にもなかったのでは?と思います。
「フランスで食べたカキで、発音に自信ないけどブロンとかいう丸いのが美味かった。」と書いてあり、ふーんどんなカキだろうと思いました。そもそも日本にはカキの種類なんてのが、昔はなかった。フランスに行ってから魚屋によく行くようになりましたが、このブロンはなかなかお目に掛かりませんでした。何でもウイルスの流行で激減したそうですが、ある日とうとうBELONを見つけました。普通のカキの3〜4倍高かったですが、思い切って買いました。早速食べてみると確かに美味しい。金属的えぐみが少ない穏やかな味です。「そうか、團伊玖磨はこういうのを食べていたんだ」としみじみ思いました。
 また好奇心も旺盛でした。カツオにまつわるイタリア語の話は、正直びっくりしました。團という漢字もひわいな意味があると書いてましたが、僕は後年イタリアに行った時にこのカツオの件は思い知らされました。身バレになっちゃうけど、トスカーナに滞在した時海辺のレストランで予約しようとして自分の名前を告げたら、若い兄さんに「ヒャハハハ!」と大笑いされてしまいました。「嗚呼、あの時の團さんの話はほんとだったのか!」と。しかし鰹節を男性の逸物の干物と思う神経はこれ如何に!


 ついつい食べ物関係ばかりの紹介になってしまいますが、團伊玖磨さんの硬骨ぶりにも感心しました。「映画なんてあんな缶詰に(フィルムで)保存するものは、芸術じゃない!」と断言してましたが、後年は映画の芸術性も認めたようです。祖父の団琢磨の暗殺にも触れていました。戦前の血盟団事件の一環ですが、その時團伊玖磨が裕福な家に生まれたことを知りました。なるほど逗子から東京までの横須賀線を、一等車に乗るだけのことはあります。
 團さんは頑固な一面人間観察は鋭く、本当におもしろかったです。「田谷の洞窟」は痛快でしたね。大船近くにある常泉寺の修行僧が昔掘ったとされる洞窟だそうですが、私は行ったことがありません。何やら由緒ありげに書かれた由来に反して、ぼんやりとほの暗く見える壁に彫られている仏像が割と素朴で俗っぽいと團さんは書いています。そして極めつけは、洞窟を出た後に出会った和尚です。如何にも俗っぽい人物だったようですが、バケツをぶら下げています。見るとザリガニがいっぱい。「バタライスにして食うとうまいんだ」とのことで、殺生を禁じられているのにいいんかい?といったことを書いていました。それを非難するというより、戦後の混乱期をたくましく生き抜く庶民が好きだったのでないかと思います。
八丈島が気に入って家を建て、定期的に滞在していました。「パイプのけむり」では、そこで食べた古い食べ物にあたって、蕁麻疹に苦しめられたことが書かれてます。吃驚したのは折角治療して治ったのに、どれであたったかを調べるためにまた候補食材を試していたこと!結局、それはアンキモだったように記憶します。八丈島での生活はNHKの「趣味の園芸」でも、書いていました。その創刊号で「野生ランの楽しみ」を寄稿し、台風で飛んできたセッコクやフウランを育てていたことを書いています。野生ランが好きな私としては、うらやましい生活でした。


でも晩年になってくると、次第に淡々とした描写が増えてきたように感じました。「なんか、昔と違うなあ」と感じるようになり、あまり読まなくなりました。連載していたアサヒグラフが2000年廃刊となり連載終了、そして2001年中国で客死したというニュースを、新聞で知りました。今wikiをみると、1997年に心筋梗塞で入院していたと出ています。この頃からあまりむちゃなことをできなくなっていたのかもしれませんね。團伊玖磨はむろん作曲家として有名です。その縁から「前進座」を支援していたことも知りました。前進座の舞台は後年観ましたが、おもしろいものの松竹歌舞伎座の力にはなかなか勝てない現実の厳しさも知りました。そういう前進座にも全力で支援し続けた團さんは、政治的にも色々考えていたことがあったのでないかと想像します。一度お目に掛かって、直にお話を聞きたかった方でした。

サラガイ(シロガイ) 〜オホーツク沿岸で獲れる貝


エゾイシカゲガイ 〜日テレ「満天☆青空レストラン」



今月本当に久しぶりに純粋な観光旅行をしました。新型コロナが流行する前から子供のことで気ぜわしく、なかなか長期旅行できませんでした。今春懸案がようやく片付いたので、かねてから計画していた北海道を旅しました。昔からずっと行きたかった道東をこの歳にして初めて訪れました。天候に恵まれ、快晴の中暑くもなく寒くもなくの旅で、感激しました(生きててよかった〜)。


 さてその道東で訪れた網走のホテルでチェックインする時、夕飯のオプションとしてホタテガイかサラガイのバター焼きは如何でしょうという提案がありました。ホタテガイなら関東でもいくらでも食べられますが、サラガイは珍しい。思わず2皿も注文しました。かなり以前ですが、秋葉原の貝料理専門の居酒屋でサラガイを食べた記憶がありますが、それ1回限りです。どんな味だったかも定かでないですが、美味しかった記憶があります。


 さて夕飯で出て来たサラガイですが、昔の記憶通り白くて楕円形の大ぶりな貝殻が開いて身が見えます。美味しそう。早速食べてみましたが、アサリより上品な味でハマグリみたいに固くない。あっさりしていますが、甘みもあって美味しい貝でした。バイキングで出ていた茶色グレー色の道東アサリも大粒で美味しかったですが、サラガイの方がずっと美味しい。東京でも人気が出そうな貝ですが、デパートでも見たことがないです。


 早速調べてみると、北日本に多い貝ですが、北海道だけでなく東北や北陸でも採れると出ています。地産地消なのでしょうか。もしかするとアサリなどと違って鮮度を保ちにくいのでしょうか。成長が非常に遅い貝で可食の大きさに達するのは7〜8年と書いてあります。ホッキガイとも似ている成長の遅さです。そうそう、ホッキガイと混獲されるとも書いてあります。ホッキガイこそ最近は関東でも冬に出回りますが、サラガイはないですね。あまりたくさん採ると絶滅してしまうかもしれません。ホッキガイも資源保護に注意が払われていると聞きますので。


 訪れたモヨロ貝塚で貝塚断面の模型がありましたが、出土するのはカキが大半だそうです。オホーツク人は結構グルメだったようです。他の貝殻はあまりないそうですが、ホタテ、ホッキガイ、アサリそしてこのサラガイは食べてなかったのかなと思いました。アサリ以外は結構深いところに住んでいて、オホーツク人の漁獲技術では難しかったのかもしれません。最近日本近海での漁獲量は激減していて、魚好きの私としては大変心配です。資源保護に注意しながら、将来も豊かな海を維持し続けたいと願うばかりです。