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「「私」という男の生涯 」〜ヨットそして死


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「「私」という男の生涯 」〜ヨットそして死


「私」という男の生涯 」は最初からヨットのエピソードで始まります。死ぬ前最後の南西諸島航海となった2013年のクルージングで、その昔不倫していたおんなYを乗せて、伊豆七島を尋ねた記憶を思い出しています。伊豆七島の航海では新島西沖の「地内島」にヨットクルーとそのYとで行き、そこで前もって地元の若い漁師から聞いていた「えび穴」でイセエビを獲ります。

クランク状の小広い穴があり、行き止まりの水中の洞窟に洋服屋の棚に飾られたシャツみたいにイセエビが密集し、張りついていた。そして洞窟の奥には大きなアジの群れが大きな輪を描いて泳いでいて、その真ん中に空恐ろしい姿の二匹のミノカサゴが漂っていた。魚の群れ全体が何かの巨きな目のように見える光景に。しばらく見とれていたものだった。


 簡単に十数匹手で捕らえたイセエビを船に持ち帰って海水でボイルし、冷やしておいたシャブリを開けての豪華な昼食だった。真昼の太陽の下、日差しを浴びながら風が吹き晒すコックピットでクルーたちとした、あの昼食の満喫は忘れられない。そしてその日は彼女の誕生日だった。

作家だけに、パノラマを見るような見事な描写です。慎太郎はYとの不倫に本気になり、友だちのひとりナミレイ(浪速冷凍機工業)経営者一族の松浦良右とそのイギリス人彼女と4人でコスタリカに行ったときは、そこでYと一生暮らしてもいいと思ったと書いています。まさに「火宅の人」!


*松浦良右:朝堂院 大覚(ちょうどういん だいかく)を名乗る大阪の右翼フィクサー


そこまでのめり込んでいた不倫相手Yは「あなたとの付き合いは不毛だった」と言って幼なじみの別の男と結婚してしまい、石原は初めて相手から振られる打撃を受けたと述懐します。それを「テニスコートで」という小説にわざわざ書いて感傷にふけり、かつ結婚した後も「恋の墓標」とかいう詩を書いて送り、子どもが生まれて出産祝いを贈ったりしてます(女々しい奴め!)。このYとはその後、焼けぼっくいに火がついたような不倫をします。Yは結婚した相手が他所におんなを囲って浮気を続けてるのを知り、石原に連絡してきます。「抱いて」というYの求めに応じてセックスし、かつそのセックスには「薹(とう)が立ったおんなは不味かった」という身勝手な感想を語っています。本書出だしで折角美しい描写で引きつけながら、実にクダラナイ後日談でそれを台無しにしています。しかし、ここは石原慎太郎という人間の本質をよく暴き出しています。


 ヨットの趣味は慎太郎が少年時代逗子に移り住んだ時、父親が兄弟にディンギーを購入してくれたときに始まっています。運動神経がよかった裕次郎の方が巧みに操ったようですが、石原兄弟の人生を彩る趣味となりました。ヨットは金がかかり、一般人の趣味としてはとても維持できません。自分の大学時代の印象として、ヨットと馬術は金がかかるアマチュアスポーツの双璧です。ましてや1950年代なら大半の日本人は依然として戦後の貧しい生活から抜け切れておらず、ヨットは完全に大金持ちの趣味です。1964年の東京五輪で江ノ島にヨットハーバーができましたが、近くに住む我々にとってあのヨットハーバーは完全に別世界でした。この本には出ていませんが、石原慎太郎が堀江謙一のヨット航海にケチをつけたのは有名な話です。

石原慎太郎は堀江謙一の277日間単独無寄港世界一周成功を全否定した。週刊プレイボーイ1975年11月25日号で「堀江クンの世界一周は、ヨット仲間の常識からいってウソなんだ。絶対にやってないよ。あのときつかったヨットではあんな短期間に世界一周ができるはずはないんだ。彼のほかにも、イギリスのロビン・ノックスが312日間、チャイ・ブロイスチャイ・ブロイス――(以下略)」また、朝日新聞社の取材ヘリが堀江のマーメイド号から航海日誌を吊り上げ回収したことに「国際法違反だ」と指摘した。本多勝一は、『貧困なる精神 』において、この石原の行為を「小心者の卑劣な嫉妬心」と批判した。

本多勝一が指摘するまでもなく、石原の言動は眉をひそめさせるもので下劣です。しかし、石原はこの「「私」という男の生涯」でこの件について一切触れていません。私が想像するに、石原慎太郎・裕次郎兄弟は戦後の日本のヨット界の草分けでプライドがあったのでしょう。そこに堀江謙一とかいう無名の高卒の学歴しかないヤカラが、悠々と先を行ったことに我慢ならなかったと思われます。湘南高校時代から石原慎太郎と深い交友があった評論家で慶應大教授だった江藤淳も堀江謙一に対して見下した印象記を記しています。要するに堀江謙一は上流階級のスノッブ趣味に反逆した許されざる下人という捉え方といっていいでしょう。しかし石原慎太郎たちは上流階級かといえばまったくそうでない。流行に乗って稼ぎまくった単なる成り上がりです。アラン・ドロンと同じですが、石原は頭がかなり良かった点が違うかな。でも思考の貧しさと低俗さは隠しようもなく、馬脚を現しました。逗子に豪邸を持とうが田園調布に豪邸を持とうが、そんなこたぁ精神的な高さとはまったく関係ない。さすがの慎太郎もこの件は恥ずかしくてとても書けなかったのでしょう、


 石原慎太郎はこの本で自分の死について幼少時からずっと考えていたことがわかります。少年時代の小樽で、石原裕次郎がふざけて子犬を小さな箱に乗せて川に流してしまう事件の記憶に始まって、旧制湘南中の通学で同級生が線路脇の鉄柱と激突して即死するのを目撃すること、政界で盟友とした中川一郎の自死、フィリピンの政治家ベニグノ・アキノのマニラ空港におけるマルコス大統領による卑劣な暗殺。僕がもっとも印象深かったのは、1962年11月の初島ヨットレースでの遭難事故です。小学校5年教科書に出た”ヨットのそうなん”から引用します。

昭和37年11月3日夜、相模湾で行われたヨットレースで、思いがけないことがありました。

参加した43隻の大型ヨットのうち慶應義塾大学の「ミヤ号」(乗組員4人)と早稲田大学の「早風号」(乗組員6人)が突然の暴風のために行方不明になり、さらにほかの艇に乗っていた慶應義塾大学の一人に波にさらわれてしまいました。

家族の人や両大学の友人や関係者、海上保安庁、自衛隊、そして各地の漁協や消防署まで、大勢の人々の捜索活動が続けられましたがヨットは発見されませんでした。

計11人の慶應と早稲田の学生が死亡するという大惨事になりましたが、この時のレースには石原慎太郎のクルーも参加しています。「「私」という男の生涯」から引用します。

折から西に発生した寒冷前線が相模湾でずたずたに裂けて通過し、それぞれの前線の下で突風が四方八方から吹き回り、険しい三角波をつくって船を叩いた。船はまるでロデオの馬に乗っているような体たらくだった。そのため舵は全く利かなくなった。私の船は(註:コンテッサ(伯爵夫人)二世号)早稲田の「早風」とアメリカ海軍の「カザハヤ」を押さえトップに立っていたが、三崎の城ヶ島の手前で決心し、レースを諦めて間近な油壺のホームポートに引き返した。

「カザハヤ」はその以前にリタイアしてい、「早風」はそれを見てそのままフィニッシュライン、横浜を目指して難所の多い金田湾に突っ込んでいき遭難してしまった。

 あの時クルーを預かる艇長として私にレースを断念させたのは、間近な城ヶ島の灯台から差しかける強い明かりが船の帆に映し出した、船の横で躍り上がる三角波のシルエットだった。それは異形で空恐ろしい生まれて初めて見る、まるで狂女が髪を振り乱して踊るような姿で、あれはまさに「死」そのもののイメージだった


・・・・。散々石原慎太郎の悪口を書いて来ましたが、この圧倒的表現力には脱帽です。石原慎太郎が感じた「狂女」という死のイメージ、まさにおんなを人とも思わなかった石原がそのしっぺ返しを恐れていたようにも感じます。


 終章で石原は賀屋興宣(かやおきのり)の言葉を引きながら、自分の死生観について語り出します。


(註:賀屋興宣(1889年- 1977年)旧制一高・東大法学部卒、大蔵次官を経て、東條内閣で大蔵大臣として戦時財政における中心的な役割を担った(賀屋財政)。戦後、A級戦犯として極東軍事裁判で終身刑となるも1955年釈放。衆院議員、池田内閣法務大臣などを歴任)


石原との対談で、賀屋は自分が今一番関心があるのは死だと言います。
賀屋「死ぬというのはつまりませんなあ」
賀屋「死にますとね、まず私の死を悼んでくれた者たちは直ぐに私のことを忘れてしまう。そしてその後、私は暗い暗い道をひとりでどこまでもとぼとぼと歩いて行く。寂しいものですよ」
それに対して石原はこう言います。
石原「しかし先生、その道の先にあなたは、かつて熱愛された奥様や幼い頃から互いの片思いで結ばれることのなかったあの思い出深い女性とも、あのオルフェのように出会うことになるのでありませんか」


(註:オルフェ(オルフェウス)はギリシャ神話に出てくる詩人。死んだ妻エウリュディケーを取り戻すために冥界に入った。冥王ハデスは、「冥界から抜け出すまで、決して後ろを振り返ってはならない」という条件を付け、エウリュディケーをオルフェウスに従わせた。冥界から抜け出すところで、不安に駆られたオルフェウスは後ろを振り向いた途端、エウリュディケーは冥界に引き戻されてしまった。)


賀屋「そんなことはありませんな。そうやって自分一人で歩いている内に自分で自分のことを忘れてしまうからですよ。だから死ぬというのはつまらぬことなんですな。だから私は死にたくありませんな
薄い微笑でそう語ったそうですが、賀屋氏は自分の死が遠くないことを悟っていたのでしょう。石原はこの言を聞いて愕然としたと思います。
死ねば俺が愛したおんな達がまた集まってきてくれて、冥界で酒池肉林のセックスライフができるんじゃなかったのか!
きっとそう思ったに違いない。だからこの本の最後はこう締めくくられています。


あの賀屋さんが言っていたとおり死ぬのはやはりつまらない


2022年2月石原慎太郎が膵癌で亡くなる時、「最後の1週間だけ迫り来る死と闇夜を怖れているように見えた」と次男の石原良純が証言しています。石原慎太郎の生涯をひとことで言うと、「はったりと自惚れ」です。男に対しては虚勢を張り、女に対しては傲慢に接する。いろいろな交友を書いていますが、果たして石原に「他人とのこころの真の響き合い」はあったのだろうか?頭脳の良さと鋭い文才に恵まれながらも、本当の意味で他人とは打ち解けることができない先天的な感覚のデフェクト(欠陥)を自覚していたのでないか?それがために自信がない小心者だったように思えます。だから石原は自分がかつて馬鹿にして横柄に振る舞ってきた相手が、最後にしっぺ返ししてくるのが怖かったんじゃないかな。そう、それは死んだ後に自分が無視され忘れ去られてしまうという型でね。「「私」という男の生涯 」はそれに抗いこの世にしっかりと自分の爪痕を残そうとした石原慎太郎最後の意思と感じます。私自身が死に近づいた時、どう感じるのかな?それこそ自信がないけど、自分が生を受けて分離した地球に、また帰っていくイメージを考えています。そう考えると安心できる予感がします。


2022年4月、3月に一周忌を終えた石原慎太郎の散骨式がおこなわれました。逗子葉山経済新聞から引用します。

作家で元東京都知事の故・石原慎太郎さんの海上散骨式が4月17日、葉山の海で行われた。


 2022年2月に亡くなった石原慎太郎さん。式を行った近くには慎太郎さんの弟でヨットマンだった裕次郎さんの三回忌に合わせて建てられた葉山灯台(通称¬=裕次郎灯台)があり、慎太郎さんの息子4人がそろって参加した。


 散骨式は、慎太郎さんが名誉会長を務めていた葉山ヨットクラブの会長・石原伸晃さんとのご縁で、同クラブが主催した。11時10分に霧笛が鳴り、献鐘後、紙に包まれた遺骨を海に撒いた。30艇以上の船が海に出てクラブ仲間が式を見守った。


 慎太郎さんの長男・伸晃さんは「気の合った仲間と一緒に俺の骨は海に戻してくれと言われていた。遺言とはいえ寂しいが、古い仲間がたくさん集まってくれて本人は幸せだと思う」と話す。


 葉山ボートサービスの鈴木さんによると、小学生のころ逗子に越してきたという慎太郎・裕次郎兄弟は父親と共にヨットに親しんでいたという。


 同クラブ理事長で海上散骨式実行委員長を務めた真野泰人さんは「ヨット界の黎明期におけるけん引者の一人であり、日本のヨット界および外洋レースの発展に貢献してこられた石原名誉会長の散骨式を葉山ヨットクラブ主催で運営させていただけたことは、大変名誉なこと。慎太郎さんにはクラブのNPO法人化や約20年間続く『葉山-初島レース』開催のきっかけなどをつくっていただいた」と振り返り、「名誉会長の名前を冠した『石原慎太郎杯 葉山・初島ヨットレース』は、葉山ヨットクラブの大切な行事として継承していきたい」とも。


石原慎太郎、ほんとにしょーもない男で最期まで我を貫きました。家族に感謝しろよ、慎太郎!