アラン・ドロン死す 〜フランス語修得の原動だった
(映画「太陽がいっぱい」から)
8月19日(月)の朝4時のTBSニュースで、「アラン・ドロン死去」と短く報道されました。しかしその後何処にも続報が出ないので、「稀代のイケメン俳優も過去のものとなったか」と思っていました。ところがどっこい、夜になると続々と訃報を報じるニュースが出てきました。若いひとにはあまり馴染みないと思いますが、やはり忘れてない中高年は多いのですね(笑)
何を隠そう、私がこの年になるまでフランス語を話し、読みそして書けるのは(読み書きは専らフランスの友人たちとのメール)アラン・ドロンの影響です。それをすっかり忘れていましたが、今回の訃報に接し改めて思い出しました。1971年の「ダーバン」の広告に出たドロンの台詞。
D'urbain, c'est l'elegance de l'homme moderne.
ダーバン、セレレガンス ドゥロムモデルヌ
(私の訳:ダーバン、現代を生きる男の気品)
カッチョイイ!!小学生だった僕はアホだったので、シビレました。おれもこういう事言ってみたい!バカの一念、岩をも砕く。大学に入って第2外国語はもちろんフランス語。その後もNHKラジオフランス語講座を聞いたりして磨きをかけました。そして留学。日本人には難しい「R」の発音もフランス人並みとなり、日常会話ならフランス人たちが異国人と気づかぬ程度に話せるようになりました。このダーバンのドロンの台詞ですが、今聞くと2つの点に気づきます。まず「レレガンス」の「ガン」の鼻母音。この鼻にかかった発音が如何にもフランス語らしい。もう一つは「ドゥロムモデルヌ」がどうしても「ドゥラモデルヌ」としか聞こえないこと。moderneは男性名詞ですから、もし冠詞をつけるならdu moderne「デュモデルヌ」となるはずです。最近まで「l'homme」が入っていると分かりませんでした。パリに住むフランス人は地方と比べてかなり早口で、注意して聞かないと細かい単語を聞き落とします。
冒頭の写真は「Plein Soleil」(太陽がいっぱい)のアラン・ドロンです。アメリカの映画俳優にはまず見ないタイプです。「太陽がいっぱい」は1991年にマット・デーモン主演の「リプリー」でリメイクされました。しかし申し訳ないながら、イケメンのマット・デーモンでもドロンには全然かないませんね。ドロンが演じたトムの特徴は、イケメンでありながら暗い陰があり、秘めたる野心と欲望が随所に出てくる点です。「野獣の雄」という感じ。実際のアラン・ドロンもこの配役通りの生活で、恵まれない幼少時代とすさんだ青年時代を過ごしています。ダーバンの広告ではフランスの大人の魅力を漂わせていますが、実際のドロンはそんなものじゃなかった。僕がアラン・ドロンの本性に気づいたのは、フランスに渡ってしばらくした頃にテレビで久しぶりにこの「太陽がいっぱい」を観た時です。しゃべり方やアクセントが如何にもチンピラなんですわ。自分が仕事場で接するフランスの同僚たちは主に研究者ですから、少なくとも中流階級以上の家庭に育っています(中には貴族の子孫もいた)。彼らが話すフランス語と映画でドロンが話すフランス語の違いに驚きました。映画だからじゃない?とも言えそうですが、おそらく素のアラン・ドロンそのままの演技と思います。フランスは18世紀の革命以降「自由・博愛・平等」の社会ということになっていますが、実相はまったく違います。厳然とした階級格差はあり、教育はともかく結婚などの交流はまったくありません。こういう階級差を知るのはフランスの男性の場合、兵役に就いた時だそうです。「彼ら(下級労働者)と僕たちはとても分かり合えるものじゃない」とフランスの研究者の友人は言っていました(註:今フランスは徴兵制でない)。
アラン・ドロンはこの「太陽がいっぱい」で一躍スターの座についてからも変わらなかったようです。女に関してはご存じの通り。もう手当たり次第といってもよく、数々の女性をものにしています。彼がたびたび来日したのも、実は日本の性風俗店にぞっこんだったせいと聞きます。しかし、アラン・ドロンのヤミは女だけではないのです。今までそういうヤミ社会との黒い噂は聞いていましたが、今回の訃報で出た経歴で秘書兼ボディガードの殺害事件を知り、それを検索して初めて実相を知りました。いわゆる「マルコヴィッチ事件」です。かなり複雑なので、「アマルコルド」さんのブログ記事「アラン・ドロンとマルコヴィッチ殺害事件」から簡潔に引用させていただきます。
マルコヴィッチ殺害事件の概要を述べてみる。1968年10月、この年の1月までアラン・ドロンの第一秘書兼ボディガードを務めたユーゴスラビア人ステファン・マルコヴィッチの射殺死体が、ヴェルサイユ近郊のエランクール町の公衆ゴミ捨て場で念入りに縛った大きな麻袋の中から発見された。彼は自分が消される可能性があることを認識していたようで、生前故郷に住む兄アレクサンダーに手紙を送っている。その手紙には「もし自分が殺されたならば、それは間違いなくアラン・ドロンとフランソワ・マルカントーニの仕業である。」と書かれていた。マルカントーニとはパリでナイト・クラブを経営するコルシカ・マフィアで、暗黒街の顔役であった。彼はアランとも知り合いの仲である。
マルコヴィッチが兄に宛てた手紙から、警察はサントロペで『太陽が知っている』の撮影中だったアランを訪ね、尋問をした後、アランの邸宅を家宅捜査した。翌69年1月、フランソワ・マルカントーニ殺人共犯の疑いで逮捕され、告訴に至った。同月、アラン、ナタリーの夫婦、及び側近らが重要参考人として召喚された。但し妻ナタリーはローマで『姉 妹』の撮影中だった為、召喚には応じていない。アランはこの時、35時間も拘置された上、3月にも再度召喚を受けている。
一方、警察の捜査が進むにつれて、マルコヴィッチがエトワールに近いポール・ヴァレリー街(パリ16区)で高級娼家「マダム・クロードの家」を経営し、そこで夜な夜な政財界の要人、映画界の著名人を集めては秘密の乱交パーティーを繰り広げていたことが明らかになった。当然アラン・ドロンも出入りしていたものと思うのが自然だ。マルコヴィッチはその現場を写真に撮っては、大物著名人を強請っていたのだ。
そもそもマルコヴィッチがドロンの第一秘書になったのも前任者の別のユーゴスラヴィア人を「消した」結果で、彼の採用もその「消した」前任者の妹がマルコヴィッチの情人だったからのようです。性豪のアラン・ドロンもこのナイトクラブに出入りしていたようで、その模様もマルコヴィッチに撮影されていたようです。しかし、この事件は驚くべき展開になります。
捜査状況が急変したのはマルコヴィッチが大切に持っていた住所録の中に、当時ド・ゴール大統領下で首相を務めていたポンピドゥー氏とその妻の名があったことから、事件は政界を巻き込んだ大スキャンダルに発展した。ポンピドゥー首相は次期大統領選に出馬表明していた為、このスキャンダルは政敵によるポンピドゥー氏追い落としの謀略とも囁かれた。
その直後、政界から圧力がかかったのか、捜査は一旦中断となった。一説にはアランが乱交パーティーで自分と肉体関係があった政界(ポンピドゥー首相)、警察の大物に便宜を図ってもらい、捜査を打ち切らせたと言われている。結局、今一つ決め手となる証拠を欠き、アランは不起訴。マルカントーニは釈放された。そしてポンピドゥー氏は無事この年、大統領に就任したのである。
!!アラン・ドロンはジョルジュ・ポンピドゥーと肉体関係があった?ドロンは女だけでなく、男もいける両刀遣いだったのか!ポンピドゥーはフランス屈指の名門校エコール・ノルマル(パリ高等師範学校)の卒業です。「師範学校」なら学校の教師養成校だろうと侮ることなかれ。有名なフランスの哲学者ジャンポール・サルトルの母校でもあり、文理いずれのフランス知識人も多数輩出しています。大学とは異なるグランド・ゼコールの中でも屈指の難関校で、入試の倍率も50倍近いです。自分が接したノルマリアン(パリ高等師範学校卒者)の印象からすると、日本で東大に入るよりは確実に難しいです。強いて言えば文一とか理一の上位1割くらいでしょうか。ポンピドゥーはエコール・ノルマルに入学して4年後にアグレガシオン(1級教員資格)を取得となっていますが、これも異例に早いと思います。アグレガシオンはリセ高等教員の資格で、フランスの大学で博士の学位を取るのと同じくらい難しいです。そのようなスーパーエリートのポンピドゥーが映画俳優とはいえ下層階級のチンピラ アラン・ドロンが仕掛けた狡猾な罠に溺れていたとは!
その後、マルコヴィッチ殺害事件は何の進展もないまま時を重ねた。70年4月、アランはポンピドゥー大統領宛てに公開嘆願状を提出し、身の潔白を訴えると共に彼を何とか逮捕しようとする当局の陰謀を告発した。
かくしてマルコヴィッチ殺害事件はポンピドゥー大統領就任と共に実質これ以上の追求が不可能になり、いつしか人々もこの事件への関心が薄れていったのである。
アラン・ドロンはフランス大統領の権力すら操って巧みにスキャンダルをもみ消したということです。しかしポンピドゥーはイケメンでもなし、第一この時期もうジジイです。もしかしてドロンは最初からそれを狙って、自分の美貌を武器にポンピドゥーに近づいたのでは?まさに映画を地でいく話になります。フランスに居た4年弱の間テレビを随分観ましたが、アラン・ドロンが出てくるのは観たことがありませんでした。唯一の例外が上記の「太陽がいっぱい」の再放送だけです。当時フランスで人気があった男優はジェラール・ドゥパルデューで、彼はしばしば登場していました。フランス人達はドロンのすさんだ出自や怪しいヤミの経歴を暗に嫌悪していたのでないかと思います。アラン・ドロンは「日本は僕を大歓迎してくれるけど、フランスで僕は日本でほど有名でない」と語ったと言いますが、あながちウソではないでしょう。フランスの新聞「リベラシオン」を読むと、アラン・ドロンを国葬にするかどうかまだ決まってないようです。少なくとも本人は生前「国葬を希望しない」と言っていたようです。そして「愛犬たちが眠る墓地で一緒に眠りたい」とのこと。その眠る愛犬ですがなんと45頭もいるそうで、ドロンは相当な愛犬家だったのですね。
「僕は寂しい」
生前のドロンはよくそうつぶやいていたと言われます。栄光の座についたとはいえ、恵まれなかった幼少時代の家庭環境は、生涯にわたって他人への不信と羨望を抱かせる影を落としていたのかもしれません。
このブログへのコメントは muragonにログインするか、
SNSアカウントを使用してください。