ジョイス『ユリシーズ』校訂をめぐるゴシップなど

バージェスの、ジェイムズ・ジョイス解説書を訳してるのはご存じの通り(かな?)

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で、ときどきバージェスの引用と、ぼくの使っているUlyssesの原著とがちがっていて、なんでかなと思うことがあった。ぼくの使っているのはこれ。

なんでかなと思ったら、Gablerという人がいろいろ原稿とか手紙とか雑誌掲載分とかゲラとかを元にして、それまで出ていたやつを5000ヶ所も直して決定版テキストというのを1984年に作って、いまやそれがスタンダードになっているということらしい。バージェスは、それ以前のバージョンを元にしているので、少しちがってくる。

もちろん『ユリシーズ』なんてあんな本なので「これで完全不動の完成版!」なんてのがあるわけではなく、ジョイスも生きていたら、あとから思いつきで「あ、これも入れよう」「こんなやり方もあるかな」でいくらでもいじり続けられたはず。またゲラの書き込みも、ジョイスがやったのか校正者がやったのかよくわからんのもあるらしく、どれを採用するかはかなり恣意的な判断もまじってくる。

その判断の差で、『ユリシーズ』がまったくちがう本になるかといえば、そんなことはない。たとえば『ジョイスプリック』pdf版p.58にあるけれど、surrounding countryがsurrounding landに改訂されたりしている。これを元にcountryだと国のニュアンスが入りナショナリズムへのなんたらがあるのに対しlandでは土地とのつながりが重視され神話的な性格がいっそう強まり〜なんてことは言えるだろう(たぶん実際にこんな議論をしてる論文もどっかにあると思うよ)。それはそうかもしれないけれど、一般人が読むにあたっては、何ら問題にならない。それが5000ヶ所積み重なると、何か決定的な差になるか? そういうものではない。

いくつか、重要な点はあるだろう。9章の図書館の議論で、「愛、そう。すべての人間が知っていることば」なる一節があり、これが以前は削られていたけれど改訂で復活させられ、その是非についていろいろ議論があるんだって。ジョイスはもっと持って回った言い方をするはずだ、いやこれはウンヌンだとか。いろいろ考えることはできる。

が、もちろん学者的には重要だろうけれど、普通に読むにあたってはあまり変わらないはず。バージェスは古い版で読んでいたからまったく『ユリシーズ』を読み違えていただろうか? そんなはずはない。

そんなわけで、もちろんこのGabler校訂に文句のある人はたくさんいて、その筆頭格がジョン・キッドという人で、Gablerの校閲をぼこぼこにけなして、独自版を出しそうになっていた……ところでいきなり消息を絶ってしまった。で死んだと言われていたけれど実はブラジルにいたんだって。以下はその物語

www.nytimes.com

結局かれの版はなぜか出ることなく葬り去られ、『ユリシーズ』は5000ヶ所も直したってことで改訂版として著作権延長の対象となり収益が続くので、Gabler版を正式版とすることでジョイスの遺産管理財産も合意し云々、と結構卑しい取引があれこれあり、とのお話。大人の世界ってむずかしいのね。

ちなみにそのキッド版は、発行寸前までいっていたのに、その後すでに散逸してキッドの書いた序文もどっかにいってしまったとのこと。やれやれ。ちがう版とかいろいろ出てもいいと思うんだけどねー。いまパブリックドメインで出回っているのは、古い版となる。もちろん、それで読んでも一般人にとっては何らちがいはない。

ちなみにGablerは、キッドに指摘された明らかなまちがいをこっそりその後のバージョンで取り入れているんだけれど、キッドのことなんか聞いた事もないふりをしているのこと。わはは。

このNYTの記事を見ると、キッドも細かいミスを一つ見つけるたびに「このような粗雑な作業がまかり通るとは、文学者としての良心などないのか、校閲者は居眠りでもしていたのだろうか、実在の人物かどうか確認しようとすら思いつかないとはまったくもってゴミクズとしか言いようがない」とか余計な罵倒をいちいちつけて、みんなの神経を逆なでしたというのはあるみたい。文学屋ってホントくだらないところでは繊細で心が狭い人も多いし。もうちょっと仲良くすればいいのに、とは思うんだが、まあそうはいかないんだろうね。やれやれ。

バージェス『ジョイスプリック:ジェイムズ・ジョイスのことば入門』

昨日のBester ”Decievers” とともに、ずっとハードディスクの肥やしになっていたのが、このバージェス『ジョイスプリック』の翻訳しかかり。

これはかの「時計仕掛けのオレンジ」で知られるアントニイ・バージェスが、ジェイムズ・ジョイスについて書いた短い本だ。ずっと前に読んでいて、この冒頭部の、普通小説風 (この本の表現では、第一種の作家風)に書き換えた『ユリシーズ』冒頭部というのが大好きで、そしてこれを考えることでジョイスについての理解はかなり深まった……というのは大げさだな。ぼくはジョイスのそんなにいい読者ではない。『ユリシーズ』も途中をかなり飛ばして雑にしか読んでいない。でも、そこで何が行われているのかは、少しわかったように思う。

多くの人は文学というと、すばらしい壮大な、風景が目に浮かぶような流麗に書かれた作品だと思っている。カズオ・イシグロとかね。だがバージェスは、そんなのがほしけりゃ映画でも見てろ、という。ジョイスのすごさは、読んでいてそんな風景とは無縁の、変にひっかかる部分だ。そしてそれは、ことばが描くものではなく、描いていることば自体へのこだわりから生じる、と指摘する。

が、そのこだわりって何? 多くの人はジョイスを見て、なんかオノマトペ使っているとか造語をたくさんとか、そんなことで感心してみせる。俗語使うとか、ダジャレ使うとか。でも、本書はそれがもっともっと深い水準にまで貫徹し、ちょっとした仕掛けがものすごく深い意味を持つ様子を、本当にさりげなくお手軽に描き出す。が、そこで言われていることは、ちょっとやそっとの理解では表面も引っ掻けない水準の指摘。すごい。

かつてその話をちょっと、かの『たかがバロウズ本。』でもやった。でも、実物を読んでもらうに越したことはないと思って訳しかけていたんだが…… まず、英語の視覚的なことば遊びの話が多く、翻訳できない、そのまま見せねばならないところが多い。それよりもっと大きかったのは、こう、発音記号がたくさん出てくるんだよ。

発音記号何するものぞ、天下のユニコード様に当然収録されているだろう、と思って(されてます)、コード表からコピペしてやってみたんだが、フォントが対応しておらず、全部空白になる。そこを飛ばしたら、何言ってんのかわからなくなる。これはいずれやり方を調べようと思って放ってあった。

が、tipaというすばらしい環境がLaTeX配下にあるのを発見。

ctan.org

おおお。これを使えばできるのかな、と途中で放ってあった訳に入れてみたら、すばらしい、できた! ちゃんと記号が表示される!

ということで、みなさん最初の1.5章7.1章分くらいだけど、お読みなさいな。これだけでもすごいよ。

アントニイ・バージェス『ジョイスプリック:ジェイムズ・ジョイスのことば入門』(8章途中まで)

柳瀬尚紀の『フィネガンズ・ウェイク』訳はもちろん翻訳史上に残る偉業だと思う。ちなみに『ユリシーズ』も、ぼくは丸谷他訳よりも柳瀬尚紀のほうが、原文の変な感じをもっとうまく出せていると思う。が、それでもこういう水準のすべてを訳することはできない。訳すべきかどうかさえわからん。その一方で、柳瀬訳も丸谷他訳も頑張っているわな。それを理解し享受する意味でも、見といて損はないと思う。

続きは、まあこれも気が向いたら昨日のベスターとともにいろいろやりましょう。ちなみに、これはかなり短いんで、興が載ればすぐ終わるかも。

追記

……といっている間に第5章まで終わったぜ。あと、表紙のつけかた、これまではpdfにしてから足していたが、LaTeX内部から自動的に足せることが判明。ありがとうございます。表紙も作っちゃったぜ!

blog.goo.ne.jp

あと、やっているうちに丸谷他訳に少しケチを感じはじめて、それについても入れてある。

ベスター『Deceivers』(1981)

セネガルから帰ってきたら、SSDの奥底から昔のが出てきたんで、1章分だけやっちゃいました。

 

アルフレッド・ベスター『たばかりし者たち (The Deceivers)』(1981)

 

あの『コンピュータ・コネクション』と『ゴーレム100』の間の佳作となる。

 

 

英語圏の評判を見ると、ウィキペディアでもそうなんだが、この晩期の作品はどれもあまり評価されてなくて、ぐちゃぐちゃでわけわかんなくて、晩節を汚すものとして罵倒されている。

日本では、『ゴーレム100』はぼくが一生懸命誉めたおかげも多少はあるのか、みんな特に翻訳の超絶技巧に感心してくれてはいる。コンピュータ・コネクションは、野口幸夫が最もよかった時期の翻訳の1つだったと思うんだが、そんなに評判いいわけでもなさそう。ぼくはどっちもおもしろくて大好きなんだが……

 

この「Deceivers」はその間の作品で、作風もちょうどその中間くらいというところか。この冒頭の部分からも、すでに変な言葉遊びでわけわからなくなっているけれど、話はこの後、どんどんむちゃくちゃで支離滅裂になる。が、一応最後は収拾がついてしまうという。ベスターは『虎よ、虎よ』でも、だいたいそんなもんだと思うんだがねー。

 

翻訳はかなりやっつけで、この話者をどういう口調にすべきか、まだ固まっていない。が、こんな感じでよいのではと思う。題名も、これではなかなか伝わらないのでなんか独自の邦題をつけたほうがいいんだろうね。が、まあそこまで考えるのもめんどいので、こんな具合ですよという雰囲気だけでもつかんでください。

 

すでにどこかで翻訳が進んでて邪魔すんな、というのがあれば引っ込めますのでご一報を。

 

余談:モーレツ営業係長としてのチェ・ゲバラ、および商品としての革命

Executive Summary

チェ・ゲバラのキューバ革命とそれ以降の成功と挫折は、上(カストロ) がお膳立てしたうえでのモーレツ営業係長的な成功と、そしてそれが勘違いしたまま部長になってしまい、お膳立てがなくなって思うように事態が進まなくなったときの困惑、シバキ主義とパワハラ化、一気に立て直そうとする焦り、かつての栄光を夢見ての挫折、といったプロセスで説明できるのではと思う。

そしてそこでは、その営業係長として売り込んでいた「革命」という商品の変化も効いてくる。20世紀社会主義革命は、機械化と量産による生産性向上と、その恩恵の平等な分配で万人にパンを与えるというパッケージ商品。だがもし機械化が成功しすぎてパンくらい無人でも平気で提供するようになると、そもそもの労働が不要になるために逆に合理化/機械化反対を余儀なくされ、イノベーションも否定することになり、一方で人民の「パン以外もよこせ」の要求に対応する生産調整もできなくなったはず。そう考えると、社会主義というのも外部条件のえらく微妙なバランスがないと成立しない、ずいぶんつらい仕組みなんだなあ。


モーレツ営業係長としてのチェ・ゲバラ、および商品としての革命

懸案のアンダーソン『チェ・ゲバラ伝』邦訳がついに出ました! すばらしい。いろいろおもしろいので、是非ともお読みください。上巻の見所は幼少期とキューバ革命武勇伝、そして最初の奥さんへのあまりにひどい扱いです。

下巻の見所は、硬直ぶり(革命で覚醒した人間は💩しない!)による革命キューバでの失政の連続、さらには同じ原因からくる国際舞台での失敗、コンゴでの挫折、ボリビアでのダメ押しの死。

それにしても、なぜみんなの大好きなチェ・ゲバラの決定版伝記がこれまで邦訳されなかったのか、と考えて見るに、やはりこの本がチェ・ゲバラ大絶賛になっていないことが大きな原因としてあるのだろう、とは思う。彼は当然ながら、特にキューバ革命成功後はまったくといっていいほど成功がない。そしてそれはすべて、かれ自身のせいだ。その青臭い頭でっかち、現実感覚の欠如、社会経験欠如、最初の成功からくる思い上がり。

そこらへん、本書の特に下巻を読むと痛々しいくらいにわかってしまうのがつらい/都合が悪い、ということなんだと思う。その都合の悪さはかなりのものらしく、別の本の後書きで、訳者の後藤政子が未訳の本書をわざわざ名指しで、しかもほとんど言いがかりに等しいまったくピントはずれなやり方でdisっている。

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学者だからある程度の中立性はあらまほし、とは思うんだけれど、そうもいかないらしい。

でも、そのゲバラの後年の失敗と挫折の連続を見ているうちに、雑ながらそこそこわかりやすいアナロジーを思いついた。彼はね、革命/ゲリラ暴力革命という商品を売り込む、モーレツ営業マンなのだ。

モーレツ営業係長としてのチェ・ゲバラ

チェ・ゲバラ伝読むと、彼は目標と指針とリソースを適切にお膳立てしてくれる部長の下で、猪突猛進のすさまじい営業成績をあげるモーレツ (死語) 営業係長だが、部長にしたら、リソース管理できず、自分と同じ「頑張ればできるはず」「なぜできない」と言うだけのブラックパワハラ部長になるタイプ。

営業成績あがらないと、馴染みの大口取引先 (ソ連) について「こんないい商品買わないなんて客がバカだ」から「俺たちをもり立てるのが大口顧客の責務だろう!」とか公言しはじめ、客先からの苦情が殺到。みかねた元部長(現社長)が、「あー、チェくん少し新規開拓の現場 (コンゴ) に戻ってみては」と言ったらそこでも強引な押し売りやって自滅、そして「いや、前から温めていた腹案があるんです、そっちをやらせてくれ、満を持して!」とアルゼンチン革命の前段としてボリビアに出かけて、同じ押し売りで失敗して爆死という感じ。

彼自身は純粋で真剣で「頑張ればできる」「なぜできない」「サービス残業しろ」と言う時にはいじめてる意識はなく、本気でそう思っている。いるでしょう、「なんでできないかなあ」とかまったく悪意なく首を傾げて、なおさら部下を追い詰めてしまうタイプ。自分も深夜残業したり「オレも休日出勤つきあうよ!」と言って、部下もやらざるを得なくなり、本気で応えようとはするが……つぶれてしまう。手柄を横取りしたり、怒鳴って殴ったりするパワハラではないが、ある意味でなおさらたちが悪い。

当初は隣に、もっとおおらかで雑駁なカミロ・シエンフエゴス係長もいて「ぐわっはっは、おいチェ、無理すんなよ、飲みにいこうぜ」とガス抜きもしてやったが、部長と営業方針で対立し、うとましく思った部長が、社長になったとたんに彼を左遷(暗殺)しちまって、なおさらゲバラ係長は孤立。

シエンフエゴスは、ゲバラの最初のできちゃった婚奥さんにも、部長が孕ませた愛人にも気を遣ってあげる(比喩でなくホント)実に気の利くタイプで、彼が専務とかになってたらキューバもずいぶんちがったかも、とは思う。彼が(おそらく) カストロに殺されたのは、カストロがカミロの人望を恐れて/嫉妬してのこと。キューバ革命政府に共産党が急速に入り込むのに反対した友人マトスに共鳴していたので、カストロはマトス拘束にまさにそのカミロを遣わせるという嫌がらせをして、その帰りにカミロの飛行機を撃墜させている。カミロが残っていれば、共産化も少しはペースが下がり、ゲバラのスターリン型集産主義導入も少しは緩和され……が、実際に専務になったのはけんかっ早いだけのガリガリの赤、ラウル・カストロだったという……

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フィデルも本当にはえぬき営業部長タイプで、社内の旧派閥に属する共産党こと生産部門や財務部門のことは何もわからずに、威勢のいいスローガンと宴会芸と社内政治でいきなり成り上がったが、部長の頃はむちゃくちゃなスタンドプレーやっても、他の部の部長がそれをある程度は抑えられていた。それとカストロは山の中にいたので、むちゃくちゃ言っても最終的にないものはないのだ、と我慢するしかなかった。

そして同時に、すべてを仕切る給湯室一般職お局様ともいうべき旧派閥のセリア・サンチェスと不倫関係になって、彼女が他の部長との交渉仕切りをなんでも手配してくれて、それだけで切り盛りできてたという感じ。ゲバラが動けたのも、カストロ部長のおかげというより、セリア・サンチェスの調達能力のおかげが大きい。

ところがカストロ部長は、社長になっても同じノリ。もう抑えのきく他の部長も物理的制約もないし、営業の大風呂敷が世界相手となると、セリア・サンチェスの社内調整だけではまわらなくなる。そのうち、社内の仕組みはこれまでカストロにヘコヘコしつつも様子をうかがっていたキューバ共産党に地道に抑えられてしまったけど、カストロは自分の地位さえ保てればよかったので、それを見すごして……

そのカストロは社長になったら、まずは社内政治にばかりかまけて粛清三昧。シエンフエゴス係長は出張させてなぜか事故死。国の切り盛りはすべて思いつきレベル。それでも、客先 (ソ連) をあれこれ言いくるめて援助 (and/or ミサイル) を分捕ってくるという、大事な仕事はこなし続けたので、会社はなんとか潰れずにはすんでいる。

そして実際の商品である「革命」の営業はパワハラのゲバラ係長にぶん投げている。それのみならず生産と財務部まで、こともあろうに何の経験も知識もないゲバラ係長に丸投げしてしまう。具体的には、ゲバラは対外ゲリラ革命輸出の人材育成 (つまり革命の「生産」)をやり、工業省で物資兵站の生産も担当し、さらには中央銀行総裁も引き受けて、財務担当までやっている。

もちろんゲバラ係長は営業一筋なので、そんなものは一切知らない。ゲリラ山中でパン焼きとか靴づくりとかちょっとやった経験はあるくらい。だが真面目なので、財務部長になってから (前部長は追放されその部下もすべて逃げ出している) 日商簿記3級の勉強から徹夜して始めるが……そりゃゲバラも潰れるわ。

商品としての革命の価値提案

営業係長の比喩はあくまでお笑いではある。が、それをもう少し敷衍するなら、チェ・ゲバラについてはかならず「純粋」「信念の人」「理想に殉じ」みたいなことが言われる。これはつまり、彼がモーレツ営業係長として、自分の扱い商品の優秀性を本気で信じていたということ。そしてその信念が、彼の営業成績に大きく貢献したのはまちがいない。

当然ながら、そこでの扱い商品というのは「革命」だ。社会主義革命ではあったんだけれど、キューバ革命の過程では、それは前面に出してはいけないことになっていたので、単なる「革命」であり、一歩踏み込めば反米帝となる。

そしてフランス革命でもロシア革命でも中国革命でも、「パンがなければケーキ(実際はブリオシュだけど)を食べればいいじゃない」と言ってのほほんとしていた階級に対して「ふざけんな、こっちはパンも食えずに飢えて苦労してるんだ」という民衆の怒りが基本だった、というのが公式のストーリーではある。これはキューバ革命でも同じだった。

つまりその場合、革命としての価値提案というのは「みんなパンは食えるようにしますよ」という話。そして20世紀の科学的社会主義の革命において、それは集産農業や機械化に伴う合理化と量産を裏付けとした主張ではあった。

ここらへんはむずかしい話ではある。一方で、社会主義の一つの源泉は、産業革命でこれまでの繊維工業の労働者が機械化により買いたたかれ、失業してしまったことからくる、悲惨な暮らしに対するエンゲルスの怒りがある。だから、社会主義運動の根底にある種の反合理主義みたいなのがあるのは否定できない。

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その一方で、全員を食わせられるようにするためには、機械化・合理化による生産性向上も必須だった。それはエイゼンシュテイン『全線』で主張されていることだ。富農のお情けにすがる必要はない。機械化で生産力をあげよう。コルホーズで大規模農業により効率化しよう。それをみんなに行き渡らせよう——それが「革命」の価値提案だ。


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営業係長としてのゲバラは、この価値提案に自分も洗脳され、そしてそれを本気で純粋に信じていたので、それを積極的に他の人たちにも勧めた。そこで彼は「あんたらがパンも食えないのは米帝、およびその傀儡バティスタとかのインチキ搾取の下だからだ、それでは何も残らない。オレたちは生産性をあげて、みんなにパンを食わせるぜ!」と主張していた。ゲバラがこれを信じていたことは、革命政権樹立直後に、キューバの生産性はこれで爆上がりしてすぐに食料のほぼ完全自給自足を達成するぞと宣言していることからもわかる。そして彼はそれを実現すべく、工業省のトップとなる。

そのわずか七ヶ月後にそれが破綻するんだけど。

彼がいかにそれを盲信し、いかに現実感覚を欠いていたか示すエピソードがある。カストロは、キューバ経済を存続させるため、アメリカ (またはソ連) が市場より高い金額でキューバの砂糖をどんどん買え、と要求した。ところがゲバラは、それこそが米帝の搾取なのだと罵倒した。米帝が市場より高めの金額で砂糖を買って甘やかすから、キューバは砂糖にばかり依存した単一作物経済になってしまう、これは米帝の陰謀なのだ、と公然と主張し、カストロにさからった。それがなくなれば、キューバは砂糖依存から抜け出せて、豊かな工業国に発展できるのだ、というわけ。シバキ主義極まれり。もちろん、そんな都合のいい話はないんだけど。

が、営業係長/営業部長なら、そういう勢いだけの宣言だけでよかったかもしれない。それで売上がたったら、あとは彼らの知ったことではない……んだが、困ったことに彼らはもはや営業だけをやっていたわけではなかった。生産部門も財務部門も彼らがいまや握っているので、自分の勢いとノリだけの営業トークの責任を負わなくてはならなくなった。

そして革命して農地や工場や機械を接収すれば、それだけで自分たちも以前と同じ生産が維持できると思っていたら、そんなオイシイ話はなかった。トラクターがあれば生産性が上がるわけではない。トラクターをどう使うの? 農地があれば自然に作物ができるわけではない。施肥はどうするの? 石油精製プラントがあれば自然にガソリンができるわけじゃない。

が、そういう知恵を持っている人を、彼らは殺すか追放するかしちゃったんだよねー。そして小学校出たくらいの知識しかない人々に生産現場を任せ……何もかもが破綻した。

そしてその結果として導入されたのは、配給制となる。写真は今も続くキューバの配給所だ。ベーシックインカムならぬ、ベーシックヒューマンニーズ保証というわけ。

そういえばある意味で、ベーシックインカムの提案というのは、配給制復活の提案ではあるんだなあ。

ちなみに配給制がどんな位置づけかは、こんなあたりを参照。

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さてこれで、革命営業の約束は果たされた……はずなんだが、これですらカツカツで、大口顧客さんのお情けでなんとか存続できていたようなもの。

でもその一方で、ゲバラその機械化による社会主義に成功していたら?

これまた社会主義が直面した大きな問題だった。効率が上がりすぎて、みんなにパンが行き渡る程度の生産力は一瞬で実現できてしまうはずだから。

もともと、エイゼンシュテインが描いたような機械化のイメージでは、そんなに生産性があがるはずではなかった。みんな頑張って労働して、たまにビールが飲めるくらいには豊かになりましたねー、という程度の話のはずだった。従来の生産方法なら、完全雇用でも生産が不足してみんなヒイヒイ言ってるのが、機械化で生産量が二割アップくらいにして、ちょっと余裕ができるくらいの印象。みんな、生き生きとゆとりをもってやりがいを感じながら働ける、そんな状況になるはずだった。

ちなみに、技術による自動化はいくない、とか言うアセモグルのようなラッダイト経済学者も、そういう状況を理想としている。

ところが、もちろんそんな生ぬるいことではすまなかっただろう。ソ連も、馬鹿なルイセンコとかやらずにまともに科学的な農法をやって緑の革命の成果も入れて、というのをやっていたら、そしてそれがキューバに入っていたら、そして農機もちゃんと使えて保守管理もできていたら (そして輸送もまともになって低温保存もできてあれやこれや……そうやっていろいろ考えると、これがソ連やキューバにできたはずはないから、これはすべて妄想ではあるんだなあ)、キューバの食料自給くらいはかんたんにできるようになり、そうするとゲバラ部長はこんどはあまりに生産力が改善しすぎて過剰な労働力問題に直面するようになったはず。

さらにパンが食えるようになったら、みんな「パンがあっても、ケーキもたまには食いたいよ」と言い出す。パンストもほしい。チョコレートもほしい。すると、過剰な労働力をケーキ部門にまわしていろいろな生産の調整を行わねばならなくなり……

ゲバラは(そしてキューバは) ずっと生産力低迷の中で活動していきたので、こんな悩みには対応せずにすんだ。これまた、もともとはないはずの悩みで……

……なんかこの下書きでは、ここから政変を期待して経済制裁するのがいいのか、という話につなげるはずだったことになっているんだが、どんな理屈でつなげようとしたのか覚えていないや。思い出したら続きを書こう。

リックライダー「コミュニケーション装置としての コンピュータ」 (1968)

Executive Summary

コミュニケーションは、お互いの心的モデルを変えるということ。ネットワーク化したコ ンピュータは、利用者の心的モデルの外部化を可能にし、従ってコミュニケーションを大幅 に改善する。これや協働的な創造的作業を飛躍的に改善させる。対面コミュニケーションす らコンピュータの支援を受けるようになる。そのためにはコンピュータが、メッセージ処理 装置 (いまならルーター) 経由でネットワーク化され、インタラクティブな利用が進み、 あらゆるオンラインのリソースが相互に使えるようになる必要がある。費用も決して高く はない。実現すれば社会は、地理的制約を超え、関心に基づくオンライン・コミュニティが 花開く。そしてそのネットワークのソフトデバッグ業務で失業もなくなる!(要約訳者)


リックライダー「コミュニケーション装置としての コンピュータ」 (1968) (pdf, 1.6MB)

リックライダー「銀河間計算機ネットワークのメンバー向けメモ」(1963)

Executive Summary

インターネットの生みの親の一人とされるリックライダーが全地球的、宇宙的な壮大なネットワーク構想を抱いていたという根拠としてよく持ち出される文書。ただし実際の中身は、宇宙はおろか地球全体といった話はほぼ出てこない。計算機センターの相互運用を高めるための標準化やRFC的なコンセンサスの必要性をめぐる漠然としたアイデア。言語の標準化、ネットワークのプロトコルめいたものの必要性、さらにネットワーク上のリソース共有の方法について議論しようという、会議のためのアイデアメモ。


ADVANCED RESEARCH PROJECTS AGENCY (高等研究計画局 / ARPA) Washington 25, D.C. April 23, 1963

メモ: 銀河間計算機ネットワークのメンバーおよび関係者向け

Memorandum For Members and Affiliates of the Intergalactic Computer Network

FROM: J. C. R. リックライダー

Translated by: 山形浩生 ([email protected])

SUBJECT: 来る会議での討議内容

まず、パロ・アルトでの1963年5月3日予定の会議を延期したことについて真摯にお詫びする。ARPAの指揮統制研究局は、ちょうど即座に開始すべき新たな責務を割り当てられたので、今後一週間丸ごとそれに専念しなくてはならなくなったためだ。この優先事項は外部から強制されたものだった。5月3日を予定していた諸君に迷惑をかけたのは本当に申し訳ない。今週はこれからずっとケンブリッジにいることになるので、会議の日時と場所を5月10日にパロアルトにリスケするよう、ここの同僚たちにお願いする。

この会議の必要性と目的は、私が直感的に感じたもので、何か明確な構造をもったものではない。この事実は、以下の文を読んでもらえれば露骨にわかってしまうだろう。それでも、全体としての事業と、その中の各種活動の相互作用の可能性について、多少の背景となる材料を提示してみようとは思う。その全体事業を何と呼ぶべきかは、上の題名からもご明察の通り、自分でもよくわからないのだが。

そもそも、我々の中には個別の (個人、そして/あるいは組織の) 野心、努力、活動、プロジェクトがいろいろあるのは明らかだ。それらは、思うに、情報処理の技芸または技術、知的能力 (人間、人間=機械、機械のもの) の発展、科学理論へのアプローチという点と、何らかの形で関連しているはずだ。個別の部分は、少なくともある程度は相互に依存し合っている。前進するためには、それぞれの活発な研究はソフトウェアの基盤と、ハードウェア設備が必要となるが、それはその人物が自分だけで、現実的な時間内に作り出せるものよりも複雑で広範なものとなる。

こうした個別の目標を追求するため、グループの各メンバーは監視ルーチン、言語、コンパイラ、デバッグシステム、文書化方式、重要な計算機プログラムを実効的に用意することになる。これらはおおむね、汎用的に役立つものだ。この会議の目的の一つ——おそらく主要な目的——はこうした活動でお互いに役に立つような可能性を検討することだ——だれが何について他のだれに依存しているかを見極め、グループ内で他のメンバーのどんな活動から、他の人がおまけの便益を得られるかを見極めることになる。もちろん、価値だけでなく費用も考慮することは必要だ。それでも、計画を完全に固める前に、お互いの暫定的な計画を観ておくのは、不利益よりも利益のほうがずっと多いように思える。これは別に、プログラムの互換性を最大化するために、何やら硬直したルールや制約の仕組みにみんなを従わせるべきだとか論じるつもりではない。

しかし、いくつか予想される活動の主要部分を全部黒板に書き出して、見てみるべきだとは思う。そうすれば、それをしない場合よりも、ネットワーク全体としての決まりがどこで役にたち、それぞれのグループの利益に個別に任せるのが最も重要なのはどこなのかについて、もっとはっきりするとは思う。

もちろん「グループの利益」とは何かを決めるのはむずかしい。が、私自身(あるいはARPAの) 目的と「グループ」の目的をごっちゃにしかねないとはいえ、ある意味で、グループやシステムやネットワークの必要としているものを、いくつか挙げてみよう。

プログラミング言語、デバッグ言語、TSS制御言語、計算機ネットワーク言語、データ・ベース (またはファイル保存抽出言語)、さらに他の言語もあるだろう。こうしたものが乱立してしまうのを禁止したり制約したりするのは、いい考えかどうかはわからない。だがこれらの言語の間で、「訓練の移転」を促進するのが望ましいという点については、疑問の余地はあまりないように思う。こうした移転を促進する一つの方法は、各種言語の設計と実装において登場する、恣意的またはかなり恣意性の強い決断を行うときに、グループのコンセンサスに従うことだ。例えば、「何かの内容」「何かの内容の種類」を示すシンボルが、個人ごとあるいはセンター毎にちがうのは、まるで意味がない。ある言語システムのサブ言語集合において、現実的に実現可能な限りの統一性を維持するのは望ましいように思う。たとえばQ-32上のJOVIALに関連したプログラミング、デバッグ、TSS制御言語、あるいはQ-32計算機用のAlgol (それが開発され、JOVIALセットとはちがったものになったとするなら) に関連した各種システムや、7090か7094用FORTRAN関連の言語セットなどは統一性を持っていいはずだ。

いまの段落を口述したことで、以前よりもはっきり認識するようになったことだが、相関する言語セットの中で統一性を実現するという問題を困難にしているのは、各時点において、ある計算機上で稼働しているTSSはたった一つしかないが、その上で同時に使われているプログラミング言語は、それに関連するデバッグ言語とともに、複数あるということだ。TSS制御言語は、どれか一つのプログラミング言語/デバッグ言語のペアとしか強い相関を持てない。だからシンタックスに関する限り、それぞれの計算機設備やシステムについては「推奨」言語を決めて、TSS言語はその推奨言語と整合させるべきかもしれないようだ。意味のほうを考えるなら——少なくともある記号をある制御機能と関連させるという話であるなら——複数のちがった個別語彙を使う、複数のオペレータの使途に供するのは、可能ではあるが、不便かもしれないな。いずれにしても、この領域では問題、あるいは問題群があるように思う。

ネットワーク化された計算機の制御の問題においても、似たような問題がある。おそらくこちらのほうがむずかしいだろう。複数のセンターがネットでつながれ、各センターがきわめて独自化されていて、独自の特別な言語と、独自の特別なやり方を持っている場合を考えよう。すべてのセンターが、「どんな言語を話しますか?」といった質問をするときに、何か言語、あるいは少なくとも慣行について合意しておくのが望ましいか、必要ですらあるのでは? 極端な話として、この問題は基本的にSF作家が論じている次のようなものと同じだ。「まったく相関性のない『知能を持つ』存在同士でそのようにコミュニケーションを開始しようか?」 だがここでは、相関性のなさについてあまり極端な想定をしたくはない (知能についてはいくらでも極端な想定をしよう)。もっと実務的な問題は次の通り:ネットワーク制御言語は、TSS制御言語と同じものなのか? (もしそうなら、共通のTSS制御言語があることになる)。ネットワーク制御言語は、TSS制御言語とはちがっているのだろうか、そしてネットワーク制御言語は、複数のネット接続された設備の間で共通なのか? ネットワーク制御言語などというものはあり得ないのか? (たとえば、すでに稼働しているネットワークのどんな部分にでも好き勝手に接続するよう、各人が単純に自分の計算機を制御して、つないだら適切なモードにシフトすればいいのか?)

いまのいくつかの段落で、ややこしい話のど真ん中にいきなり飛び込んでしまったようだ。別の出発点からアプローチしてみよう。明らかに、この事業のメンバーの中には、FORTAN [ママ]、JOVIAL、ALGOL、LISP、IPL-V (またはV-l, V-ll) をコンパイルする既存プログラムを改変するようなコンパイラ(複数かもしれない) を用意しているところがあるだろう。いま挙げたそれぞれや、私が予想もしなかった何かについて複数のものがあれば、そうした予想されるプロジェクトの互換性を検討しておくとよいはずだ。さらには、想定されている活動を見て、その固有の特徴が何かを調べ、望ましい特徴の集まりを定義して、それを一つの言語や一つのコンパイラシステムに入れ込むのに何か意味があるかを考えるのは、望ましいんじゃないかと私は少なくとも思う。ALGOLやJOVIALの要素の可能性として、リスト構造の特性が重要なのだという議論には感心している。リスト構造を核とした言語構築をやるのと同じくらい、リスト構造的な特徴を既存の言語に組み込む活動もすべきだという議論は一理ありそうだ。

システム全体の計算機がすべて、あるいはそのほとんどが統合ネットワークの中で協働で動く場合はごくまれだということになるかもしれない、というのはわかっている。それでも、統合ネットワーク運用能力を開発するのは、おもしろいし重要に思える。私が漠然と考えているそんなネットワークが運用にこぎつけたら、少なくとも大型計算機4台、小型計算機が6台か8台かな、さらに大量のディスクファイルや磁気テープユニット——さらにはリモートコンソールやテレタイプ局が山ほど——がすべて同時に稼働することになる。この問題へのアプローチは、個別利用者の観点からやるのがいちばんよさそうだ——その人が何を持っていそうで、何をやりたそうかを考え、その要件が満たされるようなシステムをどう作るかを考案しようというわけだ。利用者が持ちたい、またはやりたそうなこととしては、こんなものがある:

(仮に、私がCRTディスプレイとライトペンとタイプライターを持つコンソールの前にすわっているとしよう)。「リスニングテスト」というテープにある実験データ集合を読み出したい。そのデータは「実験3」という名前だ。このデータは基本的に、各種のS/N比の比率だ。こうした実証関数はいろいろある。この実験はマトリックス型で、聞き手は数人、提示方法は数種類、信号周波数も複数、その期間も複数だった。

まず、「理論的」な曲線を実測データにフィットさせたい。これを予備的にやって、割合とS/N比の理論的な関係についてどの基本関数を選ぶべきかを調べたいわけだ。「カーブフィッティング」と名付けた別のテープには、直線やべき乗関数、累積正規曲線にフィッティングを行うルーチンを保存してある。だが他のものも試してみたい。最初は、私がプログラムを持っている関数から始めてみよう。困ったことに、私はよい散布プロットプログラムを持っていない。それを拝借したい。単純な直行座標で十分だが、軸の目盛の細かさや、その凡例は指定したい。その情報をタイプライターから入力したい。システム内のどこかに、これに適した散布プロットプログラムはあるだろうか?

現状のネットワークのドクトリンを使うと、まずは自分のいる設備を調べて、それから他のセンターを調べることになる。たとえば私がSDCで働いていて、使えそうなプログラムがバークレーのディスクファイルで見つかったとしよう。私のプログラムはJOVIALで書かれている。だがシステムを通じて見つけたシステムはFORTRANで書かれている。それを移植可能なバイナリプログラムとして持ってきて、それを「導入時点」または「実行時」に、自分のカーブフィッティングプログラムのサブルーチンとして使いたい。

いま述べたステップを実現できたとして話を進めよう。直線、二次曲線、四時曲線などではデータがうまくフィットしないことがわかった。最高のフィットでもオシロスコープで見たらかなりひどい。

計測データを累積正規曲線にフィッティングさせると、どうしようもないほどひどくはない。検出プロセスについての何かの理論と整合させるよりも、少数のパラメータで制御できる基本関数を見つけるのがこちらの眼目なので、システム内のだれかが、利用者の提供する曲線にデータをあてはめたり、たまたま累積正規曲線っぽい(だが非対称)関数が組み込まれたりしているような、カーブフィッティングプログラムを持っていないか知りたい。仮にいろいろファイルを調べたり、あるいはマスター統合ネットワークファイルがあってそれを調べたりして、そんなプログラムはないことがわかったとしよう。したがって、正規曲線で行くことにする。

こうなると、プログラミングをしないといけない。自分のデータは手元において、正規曲線にフィッティングするプログラムも手元に置き、拝借したプログラムを表示したい。実験の順序尺度または比率スケールの次元のそれぞれを進めつつ、各種の対象について少しずつちがった境界値群を与え、平均と分散がゆっくり変化するよう制約をかけながら、自分のデータの各種サブセットを累積正規曲線にフィッティングさせたいわけだ。そこで次にやりたいのは、カーブフィッティングのルーチンに境界値を設定するような、一種のマスタープログラムを作り、そのフィットがどれほど高いかを、図化すると同時に数値でも表示させ、ライトペンと境界値の図示と独立変数の対比をオシロスコープの画面上に表示し、いろいろやってみて、各種の(私から見れば) 無理のない設定を試してみる。実データに対して、すでに述べたサブプログラムを使い、繰り返しプログラムを行い、うまく動くようにしたい。

仮にやっとこれが成功して、まあまあの結果が出て、実証データと「理論」曲線の両方を示すグラフを写真に撮って、新しいプログラムを将来も使えるように保存したとしよう。このプログラム群全体のシステムを作り、それを「制約境界正規曲線フィッティングシステム」と題して保存しておきたい。

が、そこで仮に、私の直感的には自然なシステム命名方法が、ネットワークのプログラム命名に関する一般指針に適合していないとしよう。そうした慣行との不一致については教えて欲しいと思う。だって私はプログラムライブラリや有用なデータの公開ファイルの話となると、良心的な「組織的人間」なんだから。

いまの話で、私はいくつかのネットワークの特徴を活用しているはずだ。念頭にある要件を満たすようなプログラムを探すシステムを通じて、情報の抽出を行った。おそらくこれは、記述子か、それにかなり似たものに基づくシステムで、遠からぬ将来には、自然言語に対する計算機適用に基づくものになるはずだ。だが前衛的な言語学の能力をある程度利用できたら嬉しいだろう。拝借したプログラムを使うにあたり、自分のプログラムと拝借したものとの間に、何らかのリンクを行った。できれば、これはあまり手間をかけずにできてほしい——願わくば、リンクまたはそのリンクを行うための基盤は、そのプログラムが使っているシテム[ママ]の一部として持ってこられたときに設定されていてほしい。データは何も拝借していないが、それは自分の実験データで作業をしていたからだ。何か理論を試そうとしていたなら、プログラムだけでなく、理論も拝借したかったはずだ。

計算機が私のプログラムを処理するとき、その処理は私の居場所だと想定したSDCの計算機で行われただろう。だがそれは単なる憶測レベルにとどめてもいいはずだ。高度なネットワーク制御システムがあれば、そのデータを送信して別のところのプログラムに処理させるのか、あるいはプログラムを読み込んでデータを処理させるのかという選択を自分ですることはない。自分でその決断を下すのに、少なくともいまのところは特に反対する理由もないが、原理的には、その判断を計算機またはネットワークが下したほうがいいように思う。自分の作業が終わったら、いくつかをファイルにしてしまい、それを他の人にも有用となる形で行った。これはおそらく、何か慣習をモニタリングするシステムが関与することになる。そうしたシステムは初期段階には、ほぼまちがいなく機会[ママ] 処理に加えて人間の基準判定者も入っているはずだ。

いま挙げた (残念ながら長ったらしい) 例は、言わば例のそのまた例となるよう意図したものだ。こうした例を大量に集めたい、あるいはだれかに集めてほしい。そしてそれがどんなソフトウェアやハードウェア設備を含意しているかを検討したい。こうした例の相当部分から出てくる含意の一つは、きわめて大量のランダムアクセスメモリとなることは、十分に承知している。

さてこの問題全体にさらに別のアプローチをするなら、いくつか思いつきをつれづれなるままに述べていこう (ここでちょっと邪魔が入ったので、議論はそろそろ切り替えなくてはならない)。まずは「純粋プロシージャー」の問題がある。JOVIALの新バージョンはプログラムを「純粋プロシージャ」の形でコンパイルするとのこと。

他のセンターの他のコンパイラもそうやってくれるだろうか? 第2に、別のセンターからそのセンターに向けられた要求の解釈の問題がある。入ってくる言語を、その受け手側のセンターが運用する形式の命令や質問に翻訳する、何か通訳システムみたいなものを漠然と思い描いている。あるいはもちろん翻訳は送り手側でやってもいい。また別のやり方は、協調が実に見事に行われてみんな共通の言語をしゃべり、同じ形式群を使うことになるというものだ。第3に、公開ファイルの保護と更新の問題がある。だれかが改変途中のファイルからの材料は使いたくない。我々相互の活動の中で、何か軍のセキュリティ区分と似たようなものがあるかもしれない。その場合にはどう扱おうか?

次に、インクリメンタルなコンパイルの問題がある。パーリスは、「スレッド化したリスト」の話で、その問題やそれに関するコンパイル-試験-再コンパイル問題を基本的に解決したんだっけ?

ハードウェア側では境界レジスタ型問題、あるいはもっと一般的には目盛保護問題がQ-32では解決が高価となり、他のマシンでは高価な上に解決困難となるのではと懸念しているし、コアと二次記憶装置との間で情報をスワップまたは転送する問題が、7090や7094では高価で困難になるのが心配だ——そして高速スワップや転送なしにはTSSがあまり役に立たないのではと心配している。この問題についての最高の考えとは何だろう? 我々の各種または集合的な計画はこれについてどうなっている?

この長ったらしい例で含意されているのは、ランタイムでサブルーチンをリンクするという問題だ。呼び出しそのものは、単純なディレクトリを通じて簡単に行えるが、システム変数を扱うのはそれほど簡単ではなさそうだ。ひょっとすると原理的には簡単でも、テーブルや単純なアドレッシング方式を使ってシステム変数を実行時にリンクさせるのは、ひょっとすると実現困難なのだと言うべきかもしれないな。

この大作をそろそろ終えねばならない。飛行機の時間に遅れそうだからね。ARPAの指揮統制局が持っている、人間=計算機のインタラクションやTSSや計算機ネットワークの改善についておさらいするつもりだった。だがたぶんみんな、こうした問題についてのARPAの基本的な関心はわかってる[ママ]と思うし、必要なら会議の席でそれを手短におさらいしてもいい。実際問題として、私の見たところ、軍はいま作られつつある設備を我々が活用しようとしたときに生じる多くの、いやほとんどの問題について、解決策を大いに必要としている。

我々の個別の活動の中で、協調的なプログラミングと運用に十分な利点が示されて問題が解決され、軍の必要とする技術を我々が生み出せるようになってほしいと思う。問題が軍事の文脈でははっきり登場するのに、研究の文脈では出てこないなら、ARPAはそれを個別に処理するような手を講じればいい。だがすでに述べたように、願わくば問題の多くは軍事の文脈だけでなく研究の文脈でも本質的な重要性を持つはずだ。

まとめると、繰り返すがこれまでの議論で指摘しようとした、セットの中の問題や課題についてかなりしっかりと議論すべきだと私は思っている。すべての問題は指摘できていないかもしれない。願わくば、会議での議論はここで終えようとしている試みよりも多少はまとまりのあるものとなりますように。


リックライダー「銀河間計算機ネットワークのメンバー向けメモ」(1963) pdf版


www.youtube.com


訳者付記

訳書で,リックライダーの壮大なネットワーク構想を示すものとしてえらく持ち上げられていたので、興味をもって探し出してみた。が、題名は単なるシャレで、中身はほとんど関係ないのでちょっとがっかり。

だが、リックライダーの思考のプロセスがわかるという意味ではとてもおもしろい。彼はこれを、口述筆記でタイプさせているんだけれど、口述することでだんだん考えがまとまっていく様子がわかる。それが何かはっきりしたものになっているわけではないが、まさにそのための会議で、見た者は「あー、親分はなんとなくこんなこと考えているのね、こんなことしたいのね」というのがわかる。後半から彼はだんだん自分の世界に入ってしまい、「オレがこんな研究できるといいなあ」みたいなところに深入りしている様子は、おもろいといえばおもろい。

たぶん現代の、無駄な会議をなくすナントカとかいう話になると、こんな長ったらしいメモは論外で、議題をきっちり書き出して決めごとをつくれ、みたいなことになると思う。するとたぶん:


5月10日会議の議題について

  • 計算機言語仕様の標準化および統一化の課題
  • 計算機センター通信のあり方
  • ネットワーク上での各種リソースの形式および命名の基準策定

こんな感じのメモになって、話はいきなりFORTRANの変数命名規則をガチガチに決めようといった話になったとは思う。そしてたぶん、あまり生産的なことにはならなかっただろう。

クルーグマンが自分のキャリアにおいて、ノードハウスの研究室に入って、彼が漠然としたアイデアをいろいろな面から詰めてがっちりした理論にかためるプロセスをずっと見られたのがすごく役に立った、と語る文章がある。

cruel.org

このリックライダーの文章は、そういうプロセスを示している。いくつか問題意識 (相互運用における標準化の重要性) と、同時にあるビジョンを提示している。これを見て部下たちが、あれこれ話をする中で、これはできる、こんなのはどうか、という案が出てきて、やがて現実的な落とし所が出てきて、ビジョンの実現に近づく。

おそらくこの会議、短時間で効率よくビチッと決めごとする会議ではなく、ブレーンストーミングに近いような、すごくゆるいものになったとは思う。実際、どんな様子だったのかは聞いてみたいところ。「おもしろいなー」となったのか「また親分が得たいの知れないことを」とみんな思ったのか。

ビジョンとかいうと、ジョブズやイーロン・マスクの、親分がいきなり妄想を掲げて、部下たちをしばいてむちゃくちゃいってやらせる話になるけれど、たぶんこういうリックライダー的な、なんとなく方向性を示しつつ、具体的な話をだんだん作っていくようなやり方のほうが、たぶん一般性はあるんだろうね。それが成功するかは、もちろんいろんな力関係や信頼関係、チームの指向で決まるわけだけれど。

アルセ『チェ・ゲバラ最後の真実』: ボリビアでのゲリラ戦を大量のインタビューで細かく追った良い本

Executive Summary

アルセ『チェ・ゲバラ最後の真実』: チェ・ゲバラの1967年のボリビア侵略とその敗北について、大量のインタビューで追った本。細かい移動、作戦行動、物資、その他いろいろな話を、生き残りや当時の軍人、地元住民などの大量のインタビューで裏付けている。手の切断、デスマスク、防腐処置の詳細まできわめて細かい。インタビューの実際の言葉をそのまま引用してくれているので、迫真性もある。巻末100ページほどは彼の伝記の簡単なおさらいになっており、特に目新しい部分はないものの、写真も豊富でこれもおもしろい。なかなかよい本。


アルセ『チェ・ゲバラ最後の真実』: ボリビアでのゲリラ戦を大量のインタビューで細かく追った良い本

そろそろまとまったゲバラ本もほとんどなくなった。

チェ・ゲバラの伝記ではなく、ボリビアにおける最後の逃走/戦いについてのルポ。一応、最後の1/4ほどでチェ・ゲバラの人生のおさらいは行われるが、かなりの駆け足ではある。

チェ・ゲバラが (当初の公式発表のように) 戦闘中に殺されたのではなく、捕らえられて射殺されたのだ、というのをいちはやく暴いた、というのが売り。だが、いまはすでにもう目新しさはない。原著が出た2008年でも、すでにそれは何度も明らかにされていたので、その部分はあまりありがたみはなかっただろうし、いまやなおさらありがたさはない。

が、本書のいいところは、チェがボリビアのジャングルに入ってからの話を、かなり徹底したインタビューで明らかにしているところ。ヒアリングを要約するのではなく、相手が語ったことを(おそらく)そのまま引用して載せてくれているのは、かなりありがたい。そしてどんな作戦行動が行われたか、物資はどこに置かれたか、だれがいつどんなふうに殺されたか、というのを克明に描き出してくれるのは、非常におもしろい。

また、手をどうやって切り取ったか (ゲバラが殺されたとき、本物かどうか疑念が起こらないように、両手を切り取ったのだ)、デスマスクをどうやってとったか、死体の防腐処置の詳細についても、実際にやった人たちの話が細かく出ていておもしろい。一方で、デスマスクは石膏ではなくロウソクで作ったというんだが、チェ・ゲバラの死体が発見されたとき、ポケットに石膏がついていて、デスマスクをとったときのものだというのがアンダーソンの伝記には書かれてるんだよなー。細かいところでいろいろ齟齬がある。そして死体の処分については、どうもまったく触れていない。この時点では、死体は発見されてそれにまつわる各種の話も出ていたんだが。

その一方で、関係者の証言をどこまで真に受けるか、というのはむずかしいところ。この本によると、チェ・ゲバラは捕まったときに、かなり悠長なやりとりをしている。

(p.241)

うーん、「こちらは天下に隠れもなきチェ・ゲバラ殿であるぞ、控えおろう」ですかー。「私を殴るような真似をしてはならない」っておまえ、ここでの自分の立場わかってんのかよ。相手にえらそうに指図できる立場かよ。これを信じるかどうかは人による。好意的に見るなら、捕まえて連行するプロセスがずっとあって、その間にいろいろやりとりもあっただろうから、その中でこれに類する会話もあったのかもしれない。あと命乞いした説もあることは以前書いた。

cruel.hatenablog.com

関係者がいろいろ尾ひれはヒレをつけるのは、仕方ないことだろうね。確認しようがないから。アンダーソンが伝記初版での命乞い説を削除したのも、いろいろ証言が錯綜しているから、ということかもしれない。

あと、pp.124-125 で、チェ・ゲバラのゲリラ勢がサマイパタ村を襲って、その薬局でチェ用のぜん息薬を手に入れようとした部分がある。そのときの描写は、薬の名称がやたらにくわしく、やりとりが本当に絵に描いたように描写されているんだが、これは証言なのかそれとも著者 (医学の心得がある) が話を作っているのかわからない (詳しすぎるので作っているのではないかと思う。ゲバラの日記にもそんな細かい話は載っていない)。そういうところが混じっていると、ちょっと信用は下がってしまう。

ヒアリングをたくさんやったり、関係者の証言をたくさん集め、それをそのまま載せてくれるのは伝記部分でもありがたい。彼はキューバでいきなり中央銀行総裁になったりして、付け焼き刃で経済学や数学の勉強をしたというんだが、何を勉強したかはよくわからなかった。本書によると、数学では微分方程式までやって、そこから線形計画法の勉強に進んだそうな(日本にも同行したビラセカ博士の証言、p.462)。経済学は、アダム・スミス、リカード、ケインズ、ハンセンを見ていたとのこと (イルダ・ガデア証言、p.458)。ハンセンってことは、つまり一般理論をがんばって理解しようとしていたわけですな。彼がボリビア行きのためにまったく別人の変装をして、自分の子どもたちに会うところでも、娘アレイダによるそのときの状況のかなり詳しい証言インタビューが、6ページにわたりそのまま転載されている。

あといろいろ写真も豊富。ただ、ホントかなと思うようなものもある。ゲバラやカストロが、グランマ号でメキシコからキューバに上陸した瞬間の写真、なるものがあるんだが、そんな悠長に写真撮ってる余裕があった上陸ではなかったはずだがなあ。本当かなあ。それにこんな写真があるなら、到るところで使われると思うんだが、見たことないんだよね。

書きぶりは全体に、チェ・ゲバラに心酔している感じではあるが(特に最後の伝記部分)、ヒアリングの引用が多いために、それで変なロマン主義に陥るような部分は少ない。ゲバラの最期の様子を克明にたどりたい人には決して悪くない。地図とかを広げながらたどっていくとおもしろいはず。まったく期待していなかったけれど、なかなかよい本だと思う。