ジョイス『ユリシーズ』校訂をめぐるゴシップなど

バージェスの、ジェイムズ・ジョイス解説書を訳してるのはご存じの通り(かな?)

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で、ときどきバージェスの引用と、ぼくの使っているUlyssesの原著とがちがっていて、なんでかなと思うことがあった。ぼくの使っているのはこれ。

なんでかなと思ったら、Gablerという人がいろいろ原稿とか手紙とか雑誌掲載分とかゲラとかを元にして、それまで出ていたやつを5000ヶ所も直して決定版テキストというのを1984年に作って、いまやそれがスタンダードになっているということらしい。バージェスは、それ以前のバージョンを元にしているので、少しちがってくる。

もちろん『ユリシーズ』なんてあんな本なので「これで完全不動の完成版!」なんてのがあるわけではなく、ジョイスも生きていたら、あとから思いつきで「あ、これも入れよう」「こんなやり方もあるかな」でいくらでもいじり続けられたはず。またゲラの書き込みも、ジョイスがやったのか校正者がやったのかよくわからんのもあるらしく、どれを採用するかはかなり恣意的な判断もまじってくる。

その判断の差で、『ユリシーズ』がまったくちがう本になるかといえば、そんなことはない。たとえば『ジョイスプリック』pdf版p.58にあるけれど、surrounding countryがsurrounding landに改訂されたりしている。これを元にcountryだと国のニュアンスが入りナショナリズムへのなんたらがあるのに対しlandでは土地とのつながりが重視され神話的な性格がいっそう強まり〜なんてことは言えるだろう(たぶん実際にこんな議論をしてる論文もどっかにあると思うよ)。それはそうかもしれないけれど、一般人が読むにあたっては、何ら問題にならない。それが5000ヶ所積み重なると、何か決定的な差になるか? そういうものではない。

いくつか、重要な点はあるだろう。9章の図書館の議論で、「愛、そう。すべての人間が知っていることば」なる一節があり、これが以前は削られていたけれど改訂で復活させられ、その是非についていろいろ議論があるんだって。ジョイスはもっと持って回った言い方をするはずだ、いやこれはウンヌンだとか。いろいろ考えることはできる。

が、もちろん学者的には重要だろうけれど、普通に読むにあたってはあまり変わらないはず。バージェスは古い版で読んでいたからまったく『ユリシーズ』を読み違えていただろうか? そんなはずはない。

そんなわけで、もちろんこのGabler校訂に文句のある人はたくさんいて、その筆頭格がジョン・キッドという人で、Gablerの校閲をぼこぼこにけなして、独自版を出しそうになっていた……ところでいきなり消息を絶ってしまった。で死んだと言われていたけれど実はブラジルにいたんだって。以下はその物語

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結局かれの版はなぜか出ることなく葬り去られ、『ユリシーズ』は5000ヶ所も直したってことで改訂版として著作権延長の対象となり収益が続くので、Gabler版を正式版とすることでジョイスの遺産管理財産も合意し云々、と結構卑しい取引があれこれあり、とのお話。大人の世界ってむずかしいのね。

ちなみにそのキッド版は、発行寸前までいっていたのに、その後すでに散逸してキッドの書いた序文もどっかにいってしまったとのこと。やれやれ。ちがう版とかいろいろ出てもいいと思うんだけどねー。いまパブリックドメインで出回っているのは、古い版となる。もちろん、それで読んでも一般人にとっては何らちがいはない。

ちなみにGablerは、キッドに指摘された明らかなまちがいをこっそりその後のバージョンで取り入れているんだけれど、キッドのことなんか聞いた事もないふりをしているのこと。わはは。

このNYTの記事を見ると、キッドも細かいミスを一つ見つけるたびに「このような粗雑な作業がまかり通るとは、文学者としての良心などないのか、校閲者は居眠りでもしていたのだろうか、実在の人物かどうか確認しようとすら思いつかないとはまったくもってゴミクズとしか言いようがない」とか余計な罵倒をいちいちつけて、みんなの神経を逆なでしたというのはあるみたい。文学屋ってホントくだらないところでは繊細で心が狭い人も多いし。もうちょっと仲良くすればいいのに、とは思うんだが、まあそうはいかないんだろうね。やれやれ。