yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

玉三郎・児太郎の舞踊劇「二人静」in「芸術祭十月大歌舞伎」@歌舞伎座 10月21日夜の部

以下に「歌舞伎美人」からの配役、みどころをお借りする。

静御前の霊    玉三郎

若菜摘      児太郎

神職       彦三郎

 

みどころ

現し世と常世の交わる幻想的な舞

 若菜摘が、吉野勝手神社の神職に遣わされて、若菜川で若菜をつんでいます。そこに一人の女が現れ、自らの供養のために写経を行うことを若菜摘に頼みます。若菜摘が神職にそのことを告げていると、先ほどの女の霊が若菜摘にのり移ります。神職はその霊が静御前の霊だと悟り、舞を所望すると…。
 静御前の心情を、静御前の霊とそれがのり移った若菜摘の二人で表現する、能を題材とした舞踊をご堪能ください。 

 

今月の歌舞伎座公演で最も良かった演目。自身の舞踊を直に若手に伝承するという玉三郎の強い意思を感じた。「娘道成寺」でも、菊之助、七之助、児太郎、梅枝たち若手踊り手と組み、細かく指導した顛末がシネマ歌舞伎になっている。しかも題材が能由来のもの。玉三郎の「道成寺メイキング」を撮ったドキュメンタリーでも、彼の能への強い思い入れが伝わってきた。

能から歌舞伎になった作品なので、原作は世阿弥。玉三郎がそれを歌舞伎に移し替えた。初演。相手は未来の歌右衛門である児太郎。この、「相手が児太郎」というのが妙に腑に落ちた。児太郎はいずれ歌右衛門を継ぐ。でも父の福助、歌右衛門家(成駒屋)の、もっといえば六世歌右衛門の技の伝承をできる状態にはないだろう。今、歌舞伎舞踊の女方最高峰の舞踊を児太郎に伝授できるのは、やはり玉三郎をおいていはいない。その悲壮感が伝わってきた。途中で、玉三郎がうれしそうに微笑んでいる場面があった。悲壮であると同時に、彼の喜びも伝わってきて、ほろりとしてしまった。

能の構成をそのままに、それを歌舞伎調(花柳流)の華やかな舞台に置き換えている。玉三郎がこの「置き換え」を、振り付けを花柳壽應・壽輔の両氏、作詞は小鼓の田中傳左衛門さんが担当。もちろん能のお囃子もそのままに、三味線伴奏が付く。あくまでも華やかに、そこに静の無常感が重なるという形の舞踊。みどころは最終場面の舞。二人で舞う姿が美しく、かつ哀しい。 

玉三郎の舞踊は瑕疵がまったくない。少しの動きにも意味がある。児太郎はそれについて行くのがまだ精一杯の感じ。すり足も「あれ?」ってところがあった。でも必死さがひしひしと伝わってきた。これにちょっとほろり。

でも私にとっては「二人静」はやっぱり能なんですよね。シテがツレを引き連れて舞う姿、一度見たら忘れられない。私がフルで見たのは大津での片山九郎右衛門師と味方玄師の『二人静』(於大津市伝統芸能会館)。昨年一月に見て記事にしている。

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このお二人の組み合わせは、現在考えられる能の演者としては最高のものだろう。二人連れで舞う華やかで、哀しい舞姿が忘れられない。