yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

亡霊の悲しみを生きて魅せた片山九郎右衛門師の『熊坂 替之型』in 「片山定期能九月公演」@京都観世会館 9月16日

以下が当日の演者一覧。

前シテ:赤坂宿の僧     片山九郎右衛門

後シテ:熊坂長範の亡霊   片山九郎右衛門

ワキ:旅の僧        福王和幸  

アイ:土地の男       茂山忠三郎

 

後見            味方玄  小林慶三

 

笛     森田保美 

小鼓    曾和鼓堂 

大鼓    河村眞之介 

太鼓    前川光長

 

地謡    大江広祐 河村和貴 宮本茂樹 大江信行

      分林道治 古橋正邦 武田邦弘 片山伸吾

舞台が「いきもの」だと思い知らされた。

九郎右衛門師は直面、頭にはワキの僧と同じ被り物でしずしずと登場。その瞬間、舞台がまるで生き物のように活気を帯びるのが感じられた。九郎右衛門師が発した電流が演者たち全員の身体に入り、彼らの身体を通過した電流が舞台に放射され、四方に広がる感じがした。収斂と拡散とが同時に起きていた。このダイナミズムが舞台を「いきもの」に変えていた。一つの事件に立ち会った気がした。この方を戴いて京都観世があるのだということが、ストンと腑に落ちる瞬間だった。

前場でも「事件」は起きていたけれど、後場ではエネルギーの放出がよりダイナミックに、より華やかに起きていた。熊坂長範の亡霊に乗りうつられたかのような九郎右衛門師。薙刀を勢いよく、かつ優雅に振り回しつつ、軽やかに舞う。なんどもくるりと回転する身体。いささかもブレない。しかも回り終わった際の姿の美しいこと。身体の線、腕の線は完璧。調和の中にひとつの宇宙が生まれていた。何よりも感動したのは、薙刀を持ち上げた腕の角度と足の開きの角度がこれ以上なく決まっていたこと。動と静とが円環を描いて舞台におさまっていた。閉じた円環。いささかのノイズも入り込めない。ピリオドが打たれた瞬間。すごい方です。でも奢りはいささかも感じられない。ごく自然体なのに、技の秀逸が、品格の高さが自ずと顕れ出ている。 

森田保美師の第一声も素晴らしかった。力強いと同時に、どこか悲しげだったのが、シテの運命を暗示しているようだった。曾和鼓堂師の小鼓も河村眞之介師の大鼓も舞台の雰囲気を醸し出す演奏だった。太鼓の前川光長師の演奏もかなり抑えた感じのものだった。すべてが見事に調和していた。おそらくは勇猛な武士だった熊坂長範。それを示すいかつい面に扮装。でも途中からそれが泣いているかのように見えてくる。小僧のような牛若丸に討ちとられてしまうんですからね。無念さと同時にどこか諦めたような感じも見え隠れしている。

ワキの福王和幸師、アイの茂山忠三郎師もいつもより抑えめの演技だったように感じた。シテの無念に共鳴してるかのようだった。

 そういった雰囲気が満ちる舞台。私たち観客はその想いに自分の感情を共振させながら、舞台を見つめている。それもひとつの事件だった。

以下に「銕仙会」の「能楽事典」からお借りした概要をアップしておく。

概要

旅の僧(ワキ)が美濃国赤坂宿にさしかかると、一人の僧(前シテ)が呼び止め、今日はある人物の命日なので弔ってくれと頼む。彼の庵室へと案内された旅の僧が目にしたのは、所狭しと並べられた武具の山。彼は、この辺りには盗賊が出るのでその対策だと教えると、旅の僧に休むように言い、自らも寝室に入ってゆく。その刹那、庵室はたちまち消え失せてしまうのだった。

土地の男(アイ)から、かつてこの地を騒がせた大盗賊・熊坂長範の故事を教えられた旅の僧は、先刻の僧こそ長範の霊だと気づく。やがて旅の僧が弔っていると、長範の亡霊(後シテ)が現れ、今なお略奪に生きた生前の妄執に囚われつづけていることを明かす。長範は、三条吉次の一行を襲撃したところ牛若丸によって返り討ちに遭ったことを語り、最期の様子を再現して見せるのだった。

『熊坂』は二本目の能。最初の能、『野宮』も素晴らしかったけれど、別稿にする。この日のプログラムがチラシになっている。以下にアップしておく。とにかくすべてが「京都観世ここにあり!」といった舞台だった。

 

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