yoshiepen’s journal

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映画『バリー・リンドン』[Barry Lyndon] (1975) BSプレミアム4月26日放映

作品と監督

関連サイトからの作品紹介amass.jp。

【監督】スタンリー・キューブリック,【出演】ライアン・オニール,マリサ・ベレンソン,パトリック・マギー,【原作】ウィリアム・メイクピース・サッカレー,【脚本】スタンリー・キューブリック,【音楽】レナード・ローゼンマン

鬼才S・キューブリック監督が18世紀のヨーロッパを舞台に、一人の青年が貴族にまで成り上がり、やがて国を追放されるまでの流転の半生を描いた華麗なる歴史大作。徹底的なリサーチに基づいた美術や衣装、新たに機材を開発し、ろうそくを光源に撮影された繊細で重厚な映像は、究極の映像美の一つとして高く評価されている。ヘンデルやアイルランド民謡を使った音楽も深く印象に刻まれる。アカデミー撮影賞など4部門を受賞。

キューブリック監督の作品群

スタンリー・キューブリック監督はまさに異才、鬼才?と呼ぶにふさわしい監督。ただ、この作品に関しての評判は芳しくない。発表当時はあまり評価されなかったらしい。一見伝統的な手法で撮ったように見える作品。だからか、毀誉褒貶が著しかったとのネット情報。この作品前後の彼の製作したものの一覧が以下。

• ロリータ Lolita (1962年)
• 博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか Dr. Strangelove or: How I Learned to Stop Worrying and Love the Bomb (1964年)
• 2001年宇宙の旅 2001:A Space Odyssey (1968年)
• 時計じかけのオレンジ A Clockwork Orange (1971年)
• バリー・リンドン Barry Lyndon (1975年)
• シャイニング The Shining (1980年)
• フルメタル・ジャケット Full Metal Jacket (1987年)

ポストモダンを先取りした?

これら一覧の作品群を一望する限り、『バリー・リンドン』があまりにも「ふつう」(ordinary)に見える。ふつうでない作品を作るのがS・キューブリックだと思っていたので、正直この作品は意外だった。でも、見終わって、やっぱりキューブリック臭が歴然とあるのに気づいた。この異様さは彼ならではのもの。英国貴族の臭みをこれでもかと描き出しつつ、それでもどこか超越的な視線を感じてしまう。「そんなことを描いて一体何になるの?」っといった問いがここかしこに配されている。超越的視座からの視線を感じるのだけれど、でもそれに固執しない。むしろそれをあえて外した視点(脱構築視点)を導入したりもする。見ている側は間違いなく混乱する。それを面白がっている監督がいる。こういう姿勢はきわめてポストモダン。キューブリックという監督がいかに時代を先取りしていたかが分かる。

一つ残念なことは、私が見たのは第二部のみで、第一部を見逃していること。たまたま出くわした作品。見る気もなかったのにぐいぐいと引き込まれ、結局最後まで見てしまった。それにしても3時間を超えは長い。第二部でもその半分はあったわけで、ダレて当然なのに、緊迫感は最後まで持続した。「おみごと!」としかいいようがない。さすがキューブリック監督。

時代がかった「包装」

残念ながらサッカレーの原作は読んでいない。『虚栄の市』ですら途中で投げ出した記憶が。はるか昔の二十代の頃。Wikiで見てみると、第一部には「レドモンド・バリーが如何様にしてバリー・リンドンの暮しと称号をわがものとするに至ったか」、第二部には「バリー・リンドンの身にふりかかりし不幸と災難の数々」と副題が付いている。こういう趣向はヨーロッパの古い小説を想起させる。例えばフランスならフランソワ・ラブレーの『ガルガンチュワとパンタグリュエル』、イギリスならヘンリー・フィールディングの『トム・ジョーンズ』等。サッカレーは時代はずっと下って19世紀の作家ではあるけれど。時代がかった物語、一大サーガを構築するのに、こういう手法を採ったのだろう。

古めかしい意匠はそのままストーリーに反映。おそらくこういうのは現代(といってもすでに40年以上前の映画ではあるけれど)の観客には異様なものとして映ったに違いない。キューブリック監督はそこに挑戦したのだと思う。それは異化効果を狙ったものでもあったはず。私が興味を惹かれるのは、それをあえて試み、初めから「失敗」を承知で大衆の前に映画作品として差し出したキューブリック監督の尋常でない強い意思。彼は映画を見る大衆の反応がどういうものかは予想していたはず。その前にこの作品を投げ出したんですよね。一見したところ英国史好きに「秋波を送る」ふりをして。もちろん大衆はそれを拒否。評価は惨憺たるものだったはず。それも彼の想定範囲内だったのだろう。あまりにも時代を先取りしてしまったキューブリック監督。こんな監督はそこらに転がっているはずもない。「前衛」という言葉すら陳腐に見える。現代の映画監督にここまでの覚悟を持った人はそういないだろう。

リンドンという人物のリアリティ

感動的だったのは主人公のバリーとその義理の息子の決闘場面。汚い手を使って成り上がってきたバリー。彼に決闘を申し込んだ彼の義理の息子、つまりバリーが結婚した貴族女性の前夫との間の息子。息詰まるような場面。バリーは義理の息子を撃ち殺せたのに、あえて外す。義理の息子はそのバリーを遠慮会釈なく撃つ。この場面にバリーの良心(って言って良いのかどうか)と、「悪者」にも一部の魂的な人間らしさを感じた。第一部ではおそらく成り上がるためには手段を選ばなかったであろう「悪徳」バリーが描出されていたと思われるのに、それを覆すようなこの決闘場面。人間には色々な側面があることがこの場面一つをとってもわかる。このリアリティ!ライアン・オニールはリアルなリンドン像を立ち上げていた。また、義理の息子を演じたレオン・ヴィタリは屈折した心理を描いて見事だった。

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