yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『通し狂言 壽三升景清 』@新橋演舞場1月8日昼の部

「歌舞伎美人」掲載の写真が以下。

配役は以下。

<配役>  
悪七兵衛景清 市川 海老蔵
阿古屋 中村 芝 雀
猪熊入道/秩父庄司重忠 中村 獅 童
梶原源太 中村 萬太郎
梶原妹白梅 坂東 新 悟
尾形次郎 大谷 廣 松
うるおい有右衛門/岩永左衛門 片岡 市 蔵
花菱屋女房おさく 市川 右之助
源範頼 市村 家 橘
仁田四郎 大谷 友右衛門
鍛冶屋四郎兵衛実は三保谷四郎 市川 左團次

海老蔵がここ数年温めてきた「成田屋復活狂言」の一つだそう。海老蔵自身がこの景清という人物への思い入れが強く、「関羽」、「鎌髭」、「景清」、「解脱」の四作品を通し狂言で演りたいとのことで、脚本を川崎哲男、松岡亮両氏に依頼して実現したのだという。ただ、元は独立していた話を一つにまとめ上げるのは、少々無理があったように思う。私の前の席の二人連れはイヤホンガイドを利用していたが、正解だった。私も筋書と首っ引きでストーリー展開について行こうとしたけど、これがなかなか大変。歌舞伎本来の華やかさを、あるいはその荒唐無稽さを楽しむだけならそれでもよいのだろうが、「心理劇」を思わせる場面があったりするので気が抜けない。ただ、海老蔵の意欲は伝わってきた。それは一昨年8月(於新橋演舞場)去年5月(於京都南座)の『伊達の十役』の折と同じである。『伊達の十役』が成功したのは、「心理を描く」ことをあえてしなかったからではないだろうか。純然たる歌舞伎劇に徹していた。いろいろな題材をコラージュさせて新たなものを創りだすのは、成功するよりも「すべる」可能性が高い。そこにあえて挑戦するという意気込みはすばらしいと思う。

でも、あの以前の荒々しさ、暴力的なパワーがなかった。計算し、考えながら演じようとしているのが分かった。しかも、かなり無理をして繋ぎ合わせた四つの狂言を人物造型に齟齬のないように演じなくてはならない。私としては人物の演出が多少ズレても海老蔵の、もっといえば成田屋のお家芸である「「荒ぶる心」をもっと前面に出して欲しかった。

景清という人物のキモは、海老蔵の理解ではその「青髭」にあるのだという。全身正義の権化たるヒーローではない。での今回の演出ではそれがあまり伝わって来なかった。去年5月に南座で観た「鎌髭」のときの方がずっと成功していたように思う。そのときの演者は何人かを除いてそのままだった。左團次と市蔵がそのときと同じ役で出たのはよかった。たしかにこの「三升」のついた演目に、市川宗家の分派である左團次は外せないだろう。でも猪熊入道の獅童は猿弥の方がはるかにはまり役だった。獅童の口跡が、例えば左團次と同じ場面に立っていると、あまり感心したものでないのが分かり、辛かった。古典向きでないのかも。

発端と序幕が丸本歌舞伎の体裁で、第二幕は歌舞伎調で華やかに明るく、大詰は能の趣向で演出されていた。それだけ見てもいかに「盛り沢山」な要素を詰め込んだかが判るだろう。しかも全体の音楽は上妻宏光が担当だった。彼自身も三味線演奏を第二幕第二場でその華麗な演奏を披露してくれた。残念だったのは、これらすべてが「まとまった統一体」("integrated")になっていたとは云えないこと。

今回、雑多なモチーフをまとめる役を果たしていたのは、成田屋の紋、「三升」のロゴだったように思う。海老蔵の衣裳すべてにこれが付いていて、なんだかうれしくなった。

もうひとつうれしい気分にさせてくれたのが「大詰」での「三升席」。舞台上、上手、下手に役20名ばかりが座れる席が設けられた。この場が開くと、あらかじめ申し込んでいた観客がぞろぞろとその席に移動。海老蔵たち役者の奮闘を間近でみることができていた。羨ましかった。これもおそらく海老蔵の提案なのだろうが、すぐれて歌舞伎的。江戸時代の歌舞伎を思わせた。もっともお客さん達は、江戸の観客と違い至ってお行儀良かったけど。