yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

今回のフィラデルフィア行き

先週の今ごろはまだフィラデルフィアだったと考えると、なにか不思議。もちろん、その間には帰国の際のうんざりするほど長時間のフライトが入っているのだけど、七年前くらいからそれがあまり苦ではなくなった。ビジネスクラスの座席だともっと快適に決まっているのだが、どこか「分不相応」な気持ちが働いてしまう。もちろん費用のことも大きい。

今回のフィラデルフィア行きの大失敗はホテル。知り尽くしているはずのフィリーでの失敗なので、自分が許せない。 アドに“Days Inn at Convention Center” とあるのをみて、「あの辺りなら大丈夫」と早とちりしたのがよくなかった。Convention Center(会議場)の2ブロックも続く巨大駐車場を通り過ぎないとホテルに行き着かない。夜そのブロックを歩くのがオソロシイ。その上、ホテル隣りはホームレスのシェルターだった!この人たちが危険というわけではないけど、それでも雰囲気は良くない。先週の日曜日に私をホテルに迎えにきたディオンヌが、「シェルターの隣りは売春酒場で、最近警察の手入れを受けたのよ!」と呆れていた。だから夜の観劇は諦めた。それがいちばんの痛恨事。

帰国のときのフライトが早朝だったので、ホテルでタクシーを頼んだ。フラットレイト(28.5ドル)だったから、そう高い訳ではないのだけど、でもタクシーを使うなんて、これもちょっと「分不相応」な感じがした。フィリーにいるときは、早朝のフライトは友人が車で空港まで送ってくれることが多かったし、それがない場合は空港シャトル(チップを入れても12ドル)を頼んだ。このシャトルは到着するのがアポよりしばしば遅れて、イライラしたものだけど。

日本に帰ると、いつも最初に「きれい!」と思う。アメリカの大都市はホントに汚いから。ちまちまとした家が整然とまるで箱庭に置かれたように並んでいるのをみると、「日本に帰ってきた」と感じる。「安全、安心」とも感じる。でも、それってどこか刺戟的ではない。アメリカにいると、いつもどこか構え、緊張していなければいけないけど、そういうのが「社会」だと納得させられている。常に社会とそして自身とをコンフロントさせられる。逆に日本のような「ぬるま湯」の弛緩した状態に馴れ合ってしまうと、何が大事で何を捨てるべきなのか、永遠に分らずじまいで終わりそうな気がする。永遠に自分とも社会ともコンフロントしないままで。