yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

池波正太郎讃

昨日仕事の帰りに書店に立ち寄り、池波正太郎の本を七冊も買い込んでしまった。たいていはアマゾンで本を買うので、実際に買った本の重みを感じながら、読む楽しみへの期待に胸おどらせるというのは久々である。待ちきれずにバスの中で読み始めた。

アマゾンで求めた『食卓の情景』を読んで以来、どっぷりと池波ワールドにはまってしまっている。先日は図書館で『鬼平犯科帳』シリーズの何冊か、それに池波の「食関係」本(紹介、調理をしたのは彼ではない)を二冊借り出して読んだのだが、特に印象深かったのが食関係の方だった。食を語りながらすでに失われた、あるいは失われつつあった東京の「風景」がいきいきとよみがえってくるのが池波正太郎の随筆である。簡潔でいて奥深さがあり、切れは鮮やか、名文である。江戸前の「気風の良さ」が匂い立っている。それでも彼の食の好みは必ずしも「江戸前」のものにとどまらず、京都、大阪、それに彼が訪ねた地方の「おいしいもの」が紹介される。もちろん彼独自の美学がそこには歴然とあり、一点もゆるがない。なにしろ株屋の「小僧」をしていた十二歳頃から浅草、銀座で「修行」を積んだ強者である。確かな目で料理だけでなくそこに込められた料理人の心意気、哲学といったものを見出している。また確かな舌で料理の真髄の部分を味わっている。その目と舌で確認したことがこれまた豊かな情緒を孕む、それでいてきわめて研ぎすまされた文章となって結実している。でも三島のようなある種の「気取り」はまったくない。あくまでも温かく、そして芳醇な薫りのする文章である。

小説の方は今のところ『春の嵐』というのを読んだのみだけれど、食関係は文庫本の中のめぼしいものを読んだことになる。昨日書店で買い求めた七冊のうち小説は二冊のみ、あとは「食」についてのエッセイである。『むかしの味』、『江戸の味を食べたくなって』、『散歩のとき何か食べたくなって』、『包丁ごよみ』、それと彼のお弟子さんの佐藤隆介さん執筆の『池波正太郎の食卓』、『池波正太郎の食まんだら』。『包丁ごよみ』は図書館で借り出した『そうざい料理帖』、『池波正太郎の食卓』と同じく池波が好んだ、あるいは彼の小説にでてくる料理を再現したものである。ほとんど目を通したのだが、そうなると彼が推挙している料理店に行ってみたくなる。同じ思いの人も多くいるようで、何人かはブログにあげている。「食べログ」でみてみると、彼の紹介した店のレビュー欄に「池波正太郎が好んだ店」という言及があったりする。ただレビューそのものは双手を上げて褒めているものは少ない。時間が料理そのものを変えてしまったのかもしれないし、味わう人たちの味覚も序々に変ってきたのかもしれない。でも総じて高い評価を受けているので、少しほっとする。池波が愛した味が、風情が失われているというのでは、哀しいから。

今でも多くの読者を惹きつけ、ベストセラーでありつづけている彼のシリーズものの小説もおっつけ読むつもりである。彼の師は長谷川伸だったのだが、その長谷川伸の作品も『瞼の母』を大衆演劇の舞台で観て初めてそのすごさを知った。新国劇の座付き作家としてその文士としての経歴をスタートさせた池波の小説がまるで芝居のような構成になっているのも、長谷川伸と共通したものを感じる。また、子母澤寛とも共通性を感じる。彼の随筆によれば、子母澤寛原作の『父子鷹』を池波が脚色、監督、松緑主演で明治座でやった折に、子母澤寛宅に挨拶に行ったのが初対面だったそうである。子母澤寛の経歴をみると、それこそ大衆演劇の芝居の多くがその恩恵を被っているであろうことが、想像できる。「新選組」、「笹川の繁蔵」、「国定忠治」、「弥太郎笠」、「飛騨の兄弟」等々。枚挙に暇がない。子母澤寛が亡くなる直前に(もちろんその前にも)貴重な史料を池波に託していたいうエピソードは胸を打つ。まるで彼らの描いた男の心意気、友情そのものの世界である。

池波正太郎に巡り会うべくして巡り会ったのだという感がする。池波はそれこそ小僧時代から歌舞伎狂いで、新国劇の作家としてスタートし、舞台演出もし、「芝居のような」剣客小説を書いて名をなした。彼の作品はそのままでも舞台に上げれるものだというのも、初めて知った。大衆演劇をみなければ、おそらく出会わなかっただろうと思う。きっかけは芝居とはおよそ関係のない「池波の愛した『万惣』のホットケーキを紹介する」NHKの番組だったが、その彼の文章の奥に「何か」ただならないものを感じてしまった。それで彼の作品に導かれたのだ。出会えたことの僥倖を感謝するばかりである。