yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

荻田清著『笑いの歌舞伎史』(朝日新聞社2004年刊)

「笑い」を昔の歌舞伎がいかに「開拓」していたのかを知りたくてこの本を図書館から借り出した。とても面白かったのみならず、きわめて啓発的だったので、結局アマゾンで古書も注文した。

著者の長年に渡っての研究成果ここにありという感のある内容である。歌舞伎狂言で「おかしみ」の要素がどのような過程を経て醸造され、そして発展してきたのかを順々と解き明かしている。あくまでも笑いが軸にはなっているが、そこから俯瞰的に見渡す江戸芝居の景色の複雑さ、深さにはただただ圧倒される。当たった資料の数、量ともに膨大なものだったのが想像される。私も刺戟を受けて、遅まきながら『歌舞伎台帳集成』の該当巻をネット古書のサイトに注文した。これは全45巻もあるから、もしきちんと系統立てて読むならば、近場では大阪市立図書館へ出向くしかない。

坂田藤十郎は映画や芝居の『藤十郎の恋』ではオトコマエ役者として登場するが、実際はコミカルな演技を好んで演じたマルチな役者だったということを初めて知った。また、当意即妙のアドリブで観客を沸かすなんてことは朝飯前だったようで、当時の「役者評判記」や「絵入狂言本」などにも描かれていた。今でいう道化は江戸時代は「道外」という文字を当てたといい(英語だったらfool)、当時の芝居には笑いを誘う人物が大歓迎されたのがいろいろな資料から明らかにされている。シェイクスピアの悲劇にも道化はつきものだが、発展途上の歌舞伎では悲劇を演じる役者自体がコッケイな要素をふんだんにとりこみ、芸にしていたことが分る。

博多淡海の「博多俄」は有名だが、当時大坂(大阪)にも俄(にわか)が存在したという。回り舞台、せり上げ、せり下げなどを考案した歌舞伎狂言作者の並木正三なども俄との縁が深かったことを著者は詳細な資料を使い証明してみせる。この辺りのお手並み、実に鮮やかである。

並木正三に続いて並木五瓶も俄をふんだんに狂言芝居に組み込んだのだが、文化・文政期に入ると、当時最も人気があり活躍した上方役者、三世中村歌右衛門はその芸をまさしく俄の上に打ち立てているのだという。あの例の『男の花道』のモデルになった役者である。あの芝居からはちょっと想像がつかないけど。

今では上方は「あほう」、「おどけ」、「やつし」に代表されるようにお笑いのメッカになっているけれど、歌舞伎初期には必ずしもそうではなかったこともわかった。

歌舞伎芝居と笑いの関係を解明する研究がほとんどなかったところを、著者はいわばパイオニアの役を買って出たのである。彼の資料紹介に挙げられていた郡司正勝さんの「道化発生」の論文が収められている『歌舞伎発生史論集』も早速入手した。

この本でいちばん著者の存在を近く感じたのは藤山寛美への言及だった。

観客を笑わせ、泣かせる甚八(京都を拠点にした「阿呆役者」)。われわれはこんな芝居をどこかで見たような気がする。そうだ、亡くなった藤山寛美の芸ではないか。阿呆の若社長が「もしもし、お父さん、あの僕ね」と鼻に抜けた声で電話する台詞は、よく物真似にも取り入れられて一世を風靡した。そんな寛美演じる阿呆役が、幕切れ近くになって、まじめな顔で意見する。若い頃、そんな説教じみた分別臭さがなじめなかったが、今思い出すと、泣き笑いの演技の絶品だったと、なつかしさに目頭が熱くなってくる。

この箇所を読んで私も目頭が熱くなった。