大平原
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/04 04:41 UTC 版)
南北戦争の間も白人とインディアンの抗争は続いていた。1862年のダコタ戦争(実際は暴動)は、アメリカとスー族の間の最初の大規模衝突であった。原因は、アメリカ政府の怠慢にある。サンテ・スー族(ダコタ族)は、当時、狭い保留地に強制移住させられ、11年に渡って保留地管理事務所からの食糧配給が滞ったため、飢餓状態になっていた。 あるとき、狩りから戻る途中の4人の戦士が、いざこざで白人農場主の一家を殺してしまい、酋長会議が開かれ、殺人者を引き渡すか、全面戦争かの協議がなされた。ここでタオヤデドゥタ(小さなカラス)酋長は当初戦闘に反対したが、部族の窮状に不満のたまっていた他の戦士達に押し切られて交戦となり、ミネソタ州全土を覆う6週間の戦いとなった。500名以上のアメリカ軍兵士と入植者が死んだ。それ以外にも小さな襲撃や捕虜となった後にさらに多くの者が死んだと信じられている。 この蜂起で死んだスー族の数は文献には残されていないが、戦争後に303名のスー族が殺人と強姦で告訴され、アメリカ軍の軍事法廷で死刑の宣告を受けた。死刑判決の大部分は減刑されたが、1862年12月26日、エイブラハム・リンカーンの指示によって、ミネソタ州マンカトで38名のダコタ・スー族戦士が絞首刑に処せられた。これはアメリカの歴史の中でも最大の同時執行であった。飢餓状態に陥った少数民族が反乱を起こし、国家によって武力鎮圧されたこの事件は、「ダコタ戦争」と呼ばれてはいるものの、実質的には「暴動」である。基本的に保留地政策の欠陥に原因があるこの暴動も、リンカーン大統領は注意を払わなかった。合衆国の無関心によって、インディアンはさらに飢えた。またリンカーンはミネソタ州からすべてのスー族を追いだすと宣言、スー族皆殺し政策をミネソタと共に行い、ミネソタの彼らの保留地の保留を解消して領土を没収した。 1864年にはサンドクリークの虐殺と呼ばれる悪名高いインディアン虐殺が起こった。コロラド州南東部のシャイアン族とアラパホ族のティーピーのキャンプを土地の民兵が襲い、およそ150名の男女、子供を殺し、男女の性器や頭の皮を剥いだ。サンド・クリークに住むインディアンは連邦政府によってその時に住んでいる領土内での安全を保証されていたが、インディアンに反感を抱く白人入植者が暴走した。シャイアン族はティーピーに白旗を掲げて不戦の意思を表していたのに、それは無視されたのである。後に連邦議会による調査が行われ、インディアン虐殺者に対して短期間ではあるが大衆の抗議が続いた。 1876年、ダコタ・ゴールドラッシュがブラックヒルズに巻き起こった時に、最後の重大なスー族戦争が起こった。ブラックヒルズ一帯は「ララミー砦の条約」では、スー族の不可侵領土だったが、金が出たあとはまったく無視され、白人の荒らし放題だった。合衆国軍はついに条約を自ら破り、スー族の掃討作戦に出た。幾つかの小競り合いの後で、カスター中佐はスー族、シャイアン族、アラパホー族総計1500人が宗教儀式のためにリトル・ビッグ・ホーン河畔に野営しているのを見つけた。カスターは功を焦ってこれを奇襲し、リトルビッグホーンの戦いとなった。本隊とは離れて行動していたカスター将軍の部隊は、戦術的な利点があり数的にも上回ったインディアンに全滅させられた。インディアン戦士には、オグララ・ラコタ族の名高い戦士、クレイジー・ホースも参加しており、シッティング・ブル(戦には参加せず)の勝利の予言によって鼓舞されていた。 その後の1890年、サウスダコタ州ウーンデッド・ニーに連行されたゴーストダンス信奉派のミネコンジュー・スー族の「シハ・タンカ・バンド」に対し、米軍騎兵隊は武装解除を強制して銃撃戦となり、兵士達はおよそ300名の非武装の老若男女のインディアンを殺した(ウーンデッド・ニーの虐殺)。死亡した29名の兵士には、友軍の銃撃で死んだ者もいる。 これらの凄惨なインディアン戦争とは別に、グレートプレーンズのインディアン人口減少の背景にはバッファローの絶滅があった。平原のインディアン達は衣食住の柱として4000万頭を超えるバッファローに頼っていたが、1870年代から1880年代にかけて生活の糧を求めるべく行なわれたMarket huntersと呼ばれた白人とメティによる乱獲で大平原から絶滅寸前(750頭)まで追い込まれたため、グレートプレーンズでは生活が成り立たなくなり移住せざるを得なくなったのである。
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