友が病気になったり亡くなったりして思うこと

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最近、友人が病気になって入院したり亡くなったりすることが多くなり、明日は我が身かな、としみじみと思う。朝、目が覚めると、今日もまだ生きていたかとほっとすると同時に、あと何年生きられるだろうかとマジで考えるようになった。60代までは、残りの人生はせいぜい20年~30年と頭ではわかっていても、心のどこかでまだ無限に生きられると思っていた。

年寄りと若者を分ける最も簡単な基準はまさにここにある。実年齢にかかわらず、客観的にも主観的にも人生は有限だと思うようになった人は年寄りであるし、客観的にはともかく主観的には人生は無限だと思っている人は若者なのだ。私がまだ70歳になる少し前、若い時に親しかった二人の友人が相次いで亡くなった。お一人は東大教授で科学思想史が専門の金森修君、もう一人はハナノミとカミキリムシの分類学者・高桑正敏君である。

経緯は、かつてこのメルマガに書いたので詳細は省くが(『正直者ばかりバカを見る』角川新書に収録)、訃報を聞かされた私が真っ先に思ったことは、可哀想に運が悪かったのだ、であった。確かに金森君は61歳であり、働き盛りであったので、夭折に近い感じがしたが、68歳の高桑君は、私が成人になった頃の男性の平均寿命(1960年代後半の男性の平均寿命)だったわけで、まあ歳だから、と思われても仕方がない年齢ではあったのだけれどもね。

しかし、主観的には自分の寿命はまだ無限だと思っていた当時の私にしてみれば、両名の死は理不尽極まりないもので、当然両名とも私と同様に自分の寿命は、主観的には無限だと思っていたに違いなく、さぞや無念だっただろう。金森君は大腸がんが肝臓に転移しての、高桑君はすい臓がんでの死であったが、巷間でよく言われるように早期発見して適切な治療をすれば、助かったかもしれないのに、とは全く思わなかった。

がんは遺伝子の突然変異が原因であり、突然変異は偶然なので、がんが発生するのも偶然なのだ。例えばあるがんの発現に6個の遺伝子が関係していたとして、5個の遺伝子が異常になっており、あと一つが異常になれば発がんするという状態にある人はがんになり易いことは確かであるが、それとて絶対になるわけではなく、偶然なのだ。たまたま発がんというロシアンルーレットが当たったのが友人であり自分でなくてよかったというのが正直な気持ちであった。

ということは、がんで亡くなった友も、口には出さなくとも、何でよりによって自分に当たったのだと思うのは当然で、そういうことも含めて、この年代の友のがん死は、とても切ないのである。エリザベス・キューブラー・ロスはベストセラーになった彼女の著『死ぬ瞬間:死とその過程について』(中公文庫)で、死病を宣告された人が辿る心理的プロセスを5段階に分けて解説している。

最初は「否認」。自分が死ぬなんて――(この記事は約18分で読めます ※6,822文字)

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image by:Shutterstock.com

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