14 多賀谷宣家(のぶいえ)の周辺 (能代の歴史ばなしより)
14 多賀谷宣家(のぶいえ)の周辺
佐竹氏が秋田に遷封された時檜山城に最初に配されたのは、小場義成(おばよしなり)でした。小場氏は佐竹氏の一族で佐竹西家(にしけ)ともいいました。小場氏は檜山城代として約6年間勤め慶長13年(1608)に大館城代に転じ、その後任に仙北郡白岩城の多賀谷宣家が着任しました。宣家(のぶいえ)は藩主義宣(よしのぶ)の4弟、母は伊達晴宗(はるむね)の娘宝寿院だから輝宗(てるむね)と兄妹、従って佐竹義宣、多賀谷宣家らは伊達政宗とは従兄弟(いとこ)同士です。
宣家は慶長3年(1598)に下妻(常陸)城主多賀谷重経(しげつね)の養子となりその娘を妻にしました。その2年後の慶長5年(1600)7月徳川家康は上杉討伐のため小山に軍を進め佐竹、多賀谷に合流を促します。ところが義宣はひそかに家康の本陣が白河に入ったら上杉景勝(かげかつ)と家康をはさみ打ちすべく、重経もまた家康が小山を発したら兵を挙げる約束でしたので、義宣も重経も病と称して動きません。家康は使者を送って不参加を責めたので、重経はことの露見をおそれ、ひそかに下妻を脱出して武蔵の府中に身を潜めました。
その2ヵ月後に関ケ原役です。石田方が敗れて佐竹方の陰謀も失敗に終りました。重経も降伏を申し出なかったため欠席裁判のうえ庶民に下し生涯蟄居(ちっきょ)、近江の井伊家お預け、下妻領6万石は没収となりました。
一方、豊臣方に終始した真田幸村は、大坂夏の陣で戦死し、妊娠中の妻隆清院殿と娘お田(でん)は徳川方に連行されました。しかし幸村の兄信之の計らいによって京都梅小路家にお預け、お田は人質として大奥勤めとなりました。その後3年お田の年季も明けて京都の母を訪ね、初めて見る弟幸信とともに母子再会を悦び合ったといいます。お田は16歳でした。
秋田藩主佐竹義宣は多賀谷宣家を従えて京都に上りました。宿所の朝、裏手で女衆の掛け声が聞こえてきました。宿の給仕に出る娘がりりしい装束をつけて他の女衆に薙刀(なぎなた)の指南をしているのです。娘の気高い容姿に感じ入った義宣は身元を聞き質(ただ)して幸村の忘れ形見と判りました。さっそく弟宣家の側室に迎えました。宣家の妻とは琴瑟(きんしつ)相和せず別居生活を続けていたのでした。
寛永5年(1628)、佐竹宗家の後嗣に亀田の岩城義隆(よしたか)が当てられ、亀田2万石の後嗣に檜山城主多賀谷二世重隆(しげたか)が命じられ、重隆がまだ2歳の幼少のため宣家も一緒に岩城家に入り宣隆(のぶたか)と改名しました。お田も亀田へ同行して顕性院殿と称し日蓮宗に帰依し彼女の創建した顕性山妙慶寺には遺愛の日蓮上人木像と薙刀(なぎなた)が伝えられています。重隆は長じて歴代領主中の明君と仰がれ、さすがに顕性院殿の子どもにふさわしいといわれました。
宣隆(のぶたか)は寛永12年(1635)山形城在番を命ぜられ、従五位下但馬守に叙され、番代勤め30年、老後は隠居所に入り88歳まで長生きしました。多賀谷氏は横手の戸村隆経(たかつね)が継ぎました。
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佐竹氏が秋田に遷封された時檜山城に最初に配されたのは、小場義成(おばよしなり)でした。小場氏は佐竹氏の一族で佐竹西家(にしけ)ともいいました。小場氏は檜山城代として約6年間勤め慶長13年(1608)に大館城代に転じ、その後任に仙北郡白岩城の多賀谷宣家が着任しました。宣家(のぶいえ)は藩主義宣(よしのぶ)の4弟、母は伊達晴宗(はるむね)の娘宝寿院だから輝宗(てるむね)と兄妹、従って佐竹義宣、多賀谷宣家らは伊達政宗とは従兄弟(いとこ)同士です。
宣家は慶長3年(1598)に下妻(常陸)城主多賀谷重経(しげつね)の養子となりその娘を妻にしました。その2年後の慶長5年(1600)7月徳川家康は上杉討伐のため小山に軍を進め佐竹、多賀谷に合流を促します。ところが義宣はひそかに家康の本陣が白河に入ったら上杉景勝(かげかつ)と家康をはさみ打ちすべく、重経もまた家康が小山を発したら兵を挙げる約束でしたので、義宣も重経も病と称して動きません。家康は使者を送って不参加を責めたので、重経はことの露見をおそれ、ひそかに下妻を脱出して武蔵の府中に身を潜めました。
その2ヵ月後に関ケ原役です。石田方が敗れて佐竹方の陰謀も失敗に終りました。重経も降伏を申し出なかったため欠席裁判のうえ庶民に下し生涯蟄居(ちっきょ)、近江の井伊家お預け、下妻領6万石は没収となりました。
一方、豊臣方に終始した真田幸村は、大坂夏の陣で戦死し、妊娠中の妻隆清院殿と娘お田(でん)は徳川方に連行されました。しかし幸村の兄信之の計らいによって京都梅小路家にお預け、お田は人質として大奥勤めとなりました。その後3年お田の年季も明けて京都の母を訪ね、初めて見る弟幸信とともに母子再会を悦び合ったといいます。お田は16歳でした。
秋田藩主佐竹義宣は多賀谷宣家を従えて京都に上りました。宿所の朝、裏手で女衆の掛け声が聞こえてきました。宿の給仕に出る娘がりりしい装束をつけて他の女衆に薙刀(なぎなた)の指南をしているのです。娘の気高い容姿に感じ入った義宣は身元を聞き質(ただ)して幸村の忘れ形見と判りました。さっそく弟宣家の側室に迎えました。宣家の妻とは琴瑟(きんしつ)相和せず別居生活を続けていたのでした。
寛永5年(1628)、佐竹宗家の後嗣に亀田の岩城義隆(よしたか)が当てられ、亀田2万石の後嗣に檜山城主多賀谷二世重隆(しげたか)が命じられ、重隆がまだ2歳の幼少のため宣家も一緒に岩城家に入り宣隆(のぶたか)と改名しました。お田も亀田へ同行して顕性院殿と称し日蓮宗に帰依し彼女の創建した顕性山妙慶寺には遺愛の日蓮上人木像と薙刀(なぎなた)が伝えられています。重隆は長じて歴代領主中の明君と仰がれ、さすがに顕性院殿の子どもにふさわしいといわれました。
宣隆(のぶたか)は寛永12年(1635)山形城在番を命ぜられ、従五位下但馬守に叙され、番代勤め30年、老後は隠居所に入り88歳まで長生きしました。多賀谷氏は横手の戸村隆経(たかつね)が継ぎました。
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