13 秋田御前の五輪の塔 (能代の歴史ばなしより)
13 秋田御前の五輪の塔
JR秋田駅からバスで秋田県庁へ行く途中、山王十字路の少し手前の右側に広い墓地のあるお寺があります。浄土宗の当福寺です。ここに「秋田御前廟・蓮生院殿香襟(れんじょういんでんこうきん)大姉」の文字を刻んだ五輪の塔があります。その隣には少し小形のがあって、「寛永10年7月19日敬白」とあります。寛永といえば357年前です。お寺の伝承によると、墓の主は、南部藩祖信直の二女蓮姫(はすひめ)で、安東実季(さねすえ)の弟、忠次郎実泰(さねやす)に嫁したが、実泰が病没して離縁となり、生家に帰って生涯亡き夫を恋うる歌作(うたづくり)に明け暮れ、元和6年(1620)7月3日に没して青森県三戸(さんのへ)町の南部家の菩提所長楽寺に葬られたといいます。不思議なことに、蓮姫は南部では檜山御前と呼ばれ、秋田では秋田御前と呼ばれているようです。
檜山御前というからには、能代の檜山にゆかりのある方でしょうが、まず秋田家系図を調べてみると、蓮姫の夫実泰は実季の弟で忠二郎ともいい、英季(ふさすえ)ともいいます。没年は、寛永12年(1635)です。秋田御前がなくなったとき、英季はまだピンピンしていたことになり、お寺の伝承とはくい違ってきます。
考えてみると、安東家と南部家は敵国同士でした。双方が平和裡に婚姻成立が考えられるのは極く限られた短期間だろうと思います。秋田家系図によりますと、英季は10歳のとき父愛季(ちかすえ)と死別して兄実季の養子となりました。それは天正15年(1587)9月1日でした。湊合戦の終結に伴い、実季は湊城へ移ると同時に、檜山に舎弟英季を置いたといいます。その後大館城代へ移っています。年代は明らかでないが、大館城代のころ蓮姫と結婚したのかもしれません。英季もそろそろ適齢期が近いと思います。また秀吉の私戦禁止令が南部、安東両家の和平を余儀なくした時代だったでしょう。それは時の間(ま)の和平かもしれません。
その後、英季は兄実季の命により若狭国小浜にある勅願寺羽賀寺(はがじ)造営の作事奉行(さくじぶぎょう)として派遣され、またその途中で実季に率いられて大坂両陣に参加しています。その後幕府の老中でもある小浜城主酒井忠勝に取立てられて代々仕えることになります。
やがて南部氏と安東氏は縁遠くなって蓮姫を生家に引き取る理由として英季の病没という虚偽の事情を設定したのではないでしょうか。老獪(ろうかい)な側近にとって若い姫君をだますことくらいは容易だったことでしょう。
盛岡市の南部氏菩提寺で所蔵の檜山御前の夫恋い文をしたためたと伝えられる扇面一対を以前に見せてもらいましたが、古今集や万葉集の相聞歌などを引用して恋しさを綿々と綴った文章が、細かい文字で記されていました。当福寺の五輪の塔はあるいは英季が蓮姫の悲恋をあわれと思って建立したのではないか---、私はそのように想像しています。
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JR秋田駅からバスで秋田県庁へ行く途中、山王十字路の少し手前の右側に広い墓地のあるお寺があります。浄土宗の当福寺です。ここに「秋田御前廟・蓮生院殿香襟(れんじょういんでんこうきん)大姉」の文字を刻んだ五輪の塔があります。その隣には少し小形のがあって、「寛永10年7月19日敬白」とあります。寛永といえば357年前です。お寺の伝承によると、墓の主は、南部藩祖信直の二女蓮姫(はすひめ)で、安東実季(さねすえ)の弟、忠次郎実泰(さねやす)に嫁したが、実泰が病没して離縁となり、生家に帰って生涯亡き夫を恋うる歌作(うたづくり)に明け暮れ、元和6年(1620)7月3日に没して青森県三戸(さんのへ)町の南部家の菩提所長楽寺に葬られたといいます。不思議なことに、蓮姫は南部では檜山御前と呼ばれ、秋田では秋田御前と呼ばれているようです。
檜山御前というからには、能代の檜山にゆかりのある方でしょうが、まず秋田家系図を調べてみると、蓮姫の夫実泰は実季の弟で忠二郎ともいい、英季(ふさすえ)ともいいます。没年は、寛永12年(1635)です。秋田御前がなくなったとき、英季はまだピンピンしていたことになり、お寺の伝承とはくい違ってきます。
考えてみると、安東家と南部家は敵国同士でした。双方が平和裡に婚姻成立が考えられるのは極く限られた短期間だろうと思います。秋田家系図によりますと、英季は10歳のとき父愛季(ちかすえ)と死別して兄実季の養子となりました。それは天正15年(1587)9月1日でした。湊合戦の終結に伴い、実季は湊城へ移ると同時に、檜山に舎弟英季を置いたといいます。その後大館城代へ移っています。年代は明らかでないが、大館城代のころ蓮姫と結婚したのかもしれません。英季もそろそろ適齢期が近いと思います。また秀吉の私戦禁止令が南部、安東両家の和平を余儀なくした時代だったでしょう。それは時の間(ま)の和平かもしれません。
その後、英季は兄実季の命により若狭国小浜にある勅願寺羽賀寺(はがじ)造営の作事奉行(さくじぶぎょう)として派遣され、またその途中で実季に率いられて大坂両陣に参加しています。その後幕府の老中でもある小浜城主酒井忠勝に取立てられて代々仕えることになります。
やがて南部氏と安東氏は縁遠くなって蓮姫を生家に引き取る理由として英季の病没という虚偽の事情を設定したのではないでしょうか。老獪(ろうかい)な側近にとって若い姫君をだますことくらいは容易だったことでしょう。
盛岡市の南部氏菩提寺で所蔵の檜山御前の夫恋い文をしたためたと伝えられる扇面一対を以前に見せてもらいましたが、古今集や万葉集の相聞歌などを引用して恋しさを綿々と綴った文章が、細かい文字で記されていました。当福寺の五輪の塔はあるいは英季が蓮姫の悲恋をあわれと思って建立したのではないか---、私はそのように想像しています。
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