数学者であり作家でもあったフランスのコンドルセ侯爵(1743-1794年)は、貴族でありながら初期のフランス革命に対して寛容だった。ルイ16世の処刑に反対した彼は、恐怖政治下で身を隠すことになるが、その間に科学と理性が導く未来を描いた『人間精神進歩の歴史』を著している。逮捕されると、侯爵は死刑を待たずに獄中で自殺した。
コンドルセの精神はしかし、今も世界中で採用されている計測方法の中に生きている。メートル法(メトリック法)だ。「人々が真に平等であるため、また真に自由であるため」には、普遍的で統一された基準によって人々が自らの利益を計算できるようになることが必要だと彼は考えた。
乱立しすぎた単位
1789年のフランス革命当時、パリは世界における科学の中心地だった。「サヴァン」と呼ばれる学者たちが、物理学、化学、生物学等において歴史的な功績を残した。革命によってフランスの封建制の残滓が一掃されたことはよく知られているが、この時、貴族たちが自身の領地で独自の計測法を用いる権利も失われることになったのだ。(参考記事:「フランス革命の発火点 民衆に襲撃された監獄とは?」)
フランスほかヨーロッパ各国では元々、古代ローマに由来する計測法が用いられていた。ローマ帝国が崩壊して何百年もたつと、フランスの中でも地方ごとに無数の異なる計測法が乱立していく。サヴァンたちが改革することとなったのは、トワーズ、リュー、クオート、ピントをはじめ、800種類もの単位が混在する複雑極まりない状況だった。
中には、あまりに素朴な計測法もあった。18世紀初期のボルドー地方における土地の単位は、人の声がどこまで届くかが基準とされた。一般的な基準というものは無いに等しかった。パリでは1ピントが0.93リットルに相当したが、サン=ドニではこれが1.46リットルだった。布を測るためのオーンという単位は、それぞれの土地の織機の幅に基づいていた。このような混乱した仕組みでは、詐欺が横行し、国内外の取引がなかなか発展しなかったのも仕方があるまい。
初めは、パリの基準を地方にも適用しようという提案がなされた。しかし、これはサヴァンたちの目には恣意的で非科学的な基準と映った。外交官のシャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴールは、計測法の基本的単位は不変の基準によって定められるべきと考えた。いずれ諸外国も同じ単位を採用し、スムーズな国際取引がなされるようにと期待してのことだった。
国民議会はこの提案に賛同し、コンドルセ率いる科学アカデミーに新しい基本単位を定めるための委員会を設置させた。1790年、共和政府は「一つの法、一つの重量、一つの度量」をフランス国民に約束したものの、承認までには10年、普及までにはさらに長い時間がかかった。
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