第37回 サビよりさき怪物領域へ――ミラー『見知らぬ者の墓』(執筆者・佐竹裕)

 
 巷を席捲している村上春樹の長篇小説『騎士団長殺し』の内容をごく大雑把に説明してしまうと、肖像画家である主人公が離婚問題を機に長い放浪の旅を経て移り住んだ友人の父親(高名な日本画家)宅で、タイトルと同名の「騎士団長殺し」なる絵画を見つけたことで次々と不可思議な体験をするというもの。そこには物語を歪ませていくキーマンとして頭髪が真っ白な謎めいたナイスミドルの隣人が登場するのだけれど、なんとも捉えどころのない人物として「四十五歳から六十歳までのどの年齢だと言われても、そのまま信用するしかないだろう」と表現される。村上作品の文体はそもそも翻訳小説っぽいのだけれど、そこでふと、マーガレット・ミラーの『まるで天使のような(How Like An Angel)』(1962年)の中の一節を思い出した。探偵役の元ホテル保安員ジョー(晩年のシリーズ・キャラクター、トム・アラゴンを想起させる)がひょんなことから関わることになる新興宗教団体の教祖らしき男が、やはり「五十から七十までの何歳でもおかしくなかった」と表現されていたのだ。初読の際に、うまい言いようだなと感心したことを思い出したのだった。
 
 それがきっかけとなって、1960年代あたりのミラー作品を再読してみたのだけれど、いやはや、凄いっ。村上作品を読了するまでに5作も読んでしまった。たしかに、晩年の作品『ミランダ殺し(The Murder of Miranda)』(1979年)の最後の1行に唸らさせられた記憶があったけれど、『耳をすます壁(The Listening Wall)』(1959年)、『見知らぬ者の墓(A Stranger In My Grave)』(1960年)、『まるで天使のような』、『心憑かれて(The Fiend)』(1964年)、『これよりさき怪物領域(Beyond This Point Are Monsters)』(1970年)、『明日訪ねてくるがいい(Ask for Me Tomorrow)』(1976年)と、そのほぼどれもに共通するのが、最後のページでそれまで物語全体を覆っていた霞が忽然とふり払われ、何が語られていたかが判然とするという趣向。まさに、サプライズ・エンディングの見本市なのである。
 もとよりロス・マクドナルドのハードボイルド作品が大好きだったこともあって、奥方であるミラーの作品もそれなりに読んではいたつもりではいたんだけれど、文章の素晴らしさ、テーマの深み、人間洞察など、その特長をほんとうの意味ではこれまで正しく理解できていなかったのかもしれない。
 
 今回の一連のミラー再読ツアーのなかでも、『見知らぬ者の墓』に寄せられた翻訳家・柿沼瑛子氏による解説は、作家・我孫子武丸氏の解説(創元推理文庫版『まるで天使のような』所収)と並んでミラー論としてきわめて秀逸で、あらためて大きな収穫でありました。1957年発表の代表作『殺す風(An Air That Kills)』冒頭に掲載されたA・E・ハウスマンの詩の一文から「わたしは二度と帰れない」の1行を引き、そこにミラーが晩年まで追い続けていくテーマがあるとしている。ミラー唯一の法廷もの(?)『これよりさき怪物領域』では、行方不明となり殺害されたものと考えられる男性の少年時代の自室の扉には「これよりさき怪物領域」と記した紙が貼られていたというあたりの描写に言及。ある範囲を超えた人間は“怪物”と化してしまうという、ある種のメタファーを用いて、人間が行きつく地獄を描こうとしているのだと。
 さらには、この時期に発表された作品で邦訳されているものの多くが、メキシコを舞台にしたもの、もしくはメキシコ人が登場するものばかりであることも指摘されている。禍々しい血の国メキシコは、ミラーにとっての行きつく先の地獄だったのかもしれないというのである。以前にドン・ウィンズロウの『ザ・カルテル(The Cartel)』(2015年)を取り上げたときに(第33回 やるかたなくなる『ザ・カルテル』)、チリの文豪・故ロベルト・ボラーニョの大部な遺作『2666(2666)』(2004年)を例としてあげて、犯罪の国メキシコの残虐な横顔について触れさせていただいたけれど、当時のメキシコの国と人種とが与えるそんな酷薄な一面もあるというイメージが、ミラーにとっての怪物領域へと導くキーワードとなっていたということだろうか。
 
 前述の『見知らぬ者の墓』は、メキシコを舞台としているわけではないが、メキシコの血そのものが大きく影を投げかけている作品だ。ミラーの代表作のひとつだとするミステリー通も多く、今回はこの作品に焦点をあてさせていただく。まずはストーリーをば。
 
 カリフォルニア海岸沿いの町に母親アナと新婚の夫ジムとともに移り住んでまもなく、自分の名前が刻まれた墓石を見つけるという奇妙な悪夢を見た裕福な若妻デイジーは、夢の中で見た墓が実際にあるかどうかを調べようと決意する。墓碑に刻まれた自分の死んだ日のことを再現してみようというのだ。一方、アルコール依存などが原因で母親と別れた父スタンが町にふらりと現れて酒場で騒ぎを起こし、拘置所に入れられ金の無心に連絡をしてきた。ファニータというウェイトレスを夫の暴力から救ってやろうとしたらしい。代理人として連絡をしてきたのはスタンの保釈保証人となった私立探偵で、メキシカンとの混血と思われる私立探偵ピニャータだった。渡りに舟とデイジーは自分の夢についての調査も彼に依頼することになった。
 デイジーとピニャータが調査を続けるうち、どうやら件のファニータという娘は、デイジーが以前勤めていたクリニックの常連の問題患者で、デイジーが死んだとされる日に、自分の子どもたちを軟禁状態で放置したとして保護観察処分を受けていたことがわかってくる。しかも、ファニータの母親あてに夫のジムが弁護士を通じて毎月大金を支払っていて、どうやら夫はかつてファニータを身籠らせてしまったことがあるらしいことまで判明する。
 
 ファニータを軸としてなんとも複雑な人間関係が露わになっていくのだけれど、その後、ある意図があって彼女を連れだそうと店に寄った父スタンは、彼女と同じ名前の女性のことをうたった歌があると口を滑らしファニータに疑念を抱かれてしまう。じつは保護監察局の回し者なのではないかと疑い彼の言葉を信じないファニータは本当にそんな歌があるなら歌ってみせろと執拗に迫るので、歌の苦手なスタンは困ってしまうのだ。そこに店の女将が助け舟を出して一緒に朗々とファニータの歌を歌いだすというシーンがある。
 これまでで記憶に残っているかぎりでは、アメリカ探偵作家クラブ(MWA)最優秀長篇賞受賞作『狙った獣(Beast in View)』(1955年)に合唱曲が数曲、『これよりさき怪物領域』ではヒロインの義母が夫婦喧嘩の際に弾きまくる賛美歌かマーチくらい。音といった音が登場しない印象のミラー作品にはめずらしく、今回はこの情熱的なヴィクトリア朝時代の古いラヴ・ソングが作品に彩りを添えている。「ニータ・ファニータ(Nita Juanita)」。女権論者にして作家・詩人のキャロライン・ノートンによって1855年に書かれたもので、「スペインのバラード」とサブタイトルがつけられている。
 サビの部分では、まさに「ニータよ、ファニータ/おまえの胸に訊くがいい/別れて後悔しないのか/ニータよ、ファニータ/飛び込んでこい、この胸に」と、この奔放なウェイトレスの娘に呼びかけているかのような歌詞。それも丸ごと引用として書き出されるなど、この歌に関するシーンに数ページ割くという力の入れようだ。
 
 にもかかわらず、数ある歌のなかでミラーがこの歌をあえて選んでいる理由についてはどうにも調べがつかなかった。女性の権利擁護のために戦った運動家であったノートンは、じつは夫による家庭内暴力の犠牲者でもあり、このオーソドックスなラヴソングをソプラノ歌手(女性)用に書いたそうだ。つまりは女性への情熱的な歌を女性が歌うことになる。というわけで、女性の進歩的な恋愛への応援歌だったという説もあるという。実際には、スペイン系女性へのラヴソングというシンプルな発想で、ミラーはこの歌にこだわっただけかもしれない。実際、小説のなかでこの歌のサビ部分を聴いたファニータは自分のことが歌われていると御機嫌になってスタンと行動を共にする。そして悲劇は加速していくわけだから。
 とはいえ本作には、そもそも人種の問題(もちろん差別意識も含む)がテーマとして深く根底に敷き詰められているのは事実(これ以上は言えないことだらけなんだけど)。探偵役のピニャータにいたっては人種だけでなく孤児施設出身という十字架まで背負合わせているし、そんな彼と街中を歩くというだけで、デイジーもまた周囲から好奇の目で見られてしまう。むろんファニータとその母親も抱える問題だ。貧富の差や人種問題、日常的暴力。そんな、人間が怪物の領域へとスライドしてしまいかねない可能性を持ちうる場として、ミラーは当時のメキシコをあえて選んだのかもしれない。
 
 カナダ出身で、アメリカの女性ミステリー作家のなかでもヘレン・マクロイらと並び、心理サスペンスの大家の一人に数えられたマーガレット・ミラー。いまでも思い出すのが、いつだったか『ミステリマガジン』(1992年11月号?)に掲載されたミラーのインタビューだ。アルツハイマー病を患った夫ケネス・ミラー(ロス・マクドナルド)が、家じゅうの紐靴の紐を縛ってつなげてしまい、その紐を一つ一つ解いていたときに思わず涙が……というエピソードだったと思う。それをミラーは淡々と語っていた。思えばロスマクもミラーも、疑似を含めて家族関係の喪失の悲劇を描き続けた作家だった。おしどり夫婦作家と呼ばれただけに、ロスマクが1983年に逝去してからのミラーはどんな日々を送っていたのだろうか。実際、その後のミラーは1986年に『Spider Web』を発表したきり。そして、1994年に79歳で息をひきとった。いや、だがしかし、読者にとって幸いなことに、まだまだ未訳の作品が残されている。先だっても旧作『悪意の糸(Do Evil in Return)』(1950年)が本邦初紹介となった。引き続き、ゆっくりとでもいいので邦訳を進めていただきたい。
  

Collected Millar: The Dawn of Domestic Suspense: Fire Will Freeze; Experiment In Springtime; The Cannibal Heart; Do Evil In Return; Rose's Last Summer

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Collected Millar: The First Detectives: The Invisible Worm; The Weak-Eyed Bat; The Devil Loves Me; Wall of Eyes; The Iron Gates

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 それに関連してちょっとした朗報を。ポール・プライ博士を主人公とした『TheInvisible Worm』(1941年)、『The Weakly-Eyed Bat』(1942年)などの初期作品、『It’s All In The Family』(1948年)、『The Cannibal Heart』(1949年)といった普通小説など、数作ごとにまとめたオムニバス全4冊が、Soho Syndicate というニューヨークの出版社から大型ペイパーバック版で順次刊行される予定。まずは、5月頃にその選集の第1巻が入荷予定だとのことなので、せめてそれを愉しみに待ちたいと思う。
 
◆YouTube音源
●“Juanita” by Corinne Morgan and Frank C. Stanley

*コリーヌ・モーガンとフランク・C・スタンリーによる1905年の録音とのことなので、おそらく現存する最古の「フアニタ」の演奏かと。
 
●“Nita Juanita” by Rod McGahon

*アイルランドのバリトン歌手ロッド・マクガホンによる「ニータ・フアニタ」。 

 


佐竹 裕(さたけ ゆう)


 1962年生まれ。海外文芸編集を経て、コラムニスト、書評子に。過去に、幻冬舎「ポンツーン」、集英社インターナショナル「PLAYBOY日本版」、集英社「小説すばる」等で、書評コラム連載。「エスクァイア日本版」にて翻訳・海外文化関係コラム執筆等。別名で音楽コラムなども。
  好きな色は断然、黒(ノワール)。洗濯物も、ほぼ黒色。
 

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