葉鍵系の源流を〈1980年代後期少女まんが〉に求めてみる

 このエントリーは id:genesis:20060215:p1 の焼き直しです。傍論として「ついでに」書いておいたところを id:REV さんに注目していただき,それが縁となって『カトゆー家断絶』でもご紹介いただきました。おそらく関心を持たれたのであろうゲーム論に関する部分を,読みやすいように取りだして書き改めました。

 私の認識不足でなければ,1980年代後期の少女まんがについての考察が,マンガ研究という分野では抜け落ちているようです。時期的には,柊あおいが乙女のバイブル『星の瞳のシルエット』(1985年)を描き始めてから,原作版『耳をすませば』(1989年)を送り出すあたりまで。具体的な作家としては,わかつきめぐみ/谷川史子/岡野史佳など。
 特徴づけるならば,等身大の少女と少年が日常を繰り広げるなかで関係性を形成していく〈ガール・ミーツ・ボーイ〉もの。
 マンガ研究の中では顧みられることが少なく,カテゴリーに呼び名も付いていないのですが,ギャルゲー表現(特に葉鍵系)の源流は此処にあると思うのです。両者の接続は,更科修一郎に先に言われてしまいましたけれど*1。
 現在において新井葉月や山名沢湖が「大きなおともだち」のアンテナに引っかかってしまうことの説明にもなるでしょう。
http://d.hatena.ne.jp/genesis/20060215/p1 の脚注

星の瞳のシルエット (1) (りぼんマスコットコミックス) 耳をすませば (りぼんマスコットコミックス) きみのことすきなんだ (りぼんマスコットコミックス)
 以下,補足です。だいぶバイアスが掛かっていますが。

前提知識 :: 少女まんがの系譜

【0】 未分化な時代
  手塚治虫『リボンの騎士』など。
【1】 1970年代初頭――24年組
 一般に「指が細くて瞳が大きくキラキラしていて」というイメージで語られる時期。代表的なものに,大島弓子『綿の国星』,萩尾望都『ポーの一族』,竹宮恵子『風と木の詩』,池田理代子『ベルサイユのばら』など。近親相姦/同性愛(少年愛好)/吸血鬼/SFなど特異なモチーフを採用するものが多い。文学性の高さに特色がみられる。この時期に,まんがにおいて主人公に〈内面〉が発見される。参考資料として,大塚英志『教養としての〈まんが・アニメ〉』(ISBN:4061495534)第3章。
【2】 1970年代末――乙女ちっく少女まんが
 田淵由美子,陸奥A子,太刀掛秀子など。保守反動として「わかりやすいエンターテイメント」を志向し,「少女たちがやがて直面するであろうありふれた恋愛の風景」を描く。そのため,学校を舞台とするものが増える(学園まんがの確立)。〈かわいい〉という記号が消費される。「誰にも理解されない私の内側を理解してくれること」が〈恋愛の成就〉であるとする恋愛観が提示され,「自分探しの手続」がモチーフとして採用される。参考資料として,大塚英志『たそがれ時に見つけたもの』(ISBN:4872330218/ISBN:4480030174)。
 この潮流は1974年頃に始まって1983年頃に終息。さくらももこが1984年にデビューしているが,〈乙女ちっく少女まんが〉を読んで育った世代である。
【3-a】 1980年代後期
 大塚史観では,岡崎京子や紡木たくらを少女まんがのメインストリームとして位置づける。ただし,その終焉として……。前掲・『教養としての〈まんが・アニメ〉』第5章を参照。
【3-b】 1985年から1989年にかけて――[名称未設定]
 これが,先ほど私が提示したもの。次項との関係では,1991年まで範囲を広げた方が良いのかも。
 仮に名付けておくと〈乙女のバイブル〉路線。〈乙女ちっく〉では「空想世界における夢」として恋愛が描かれていたが,こちらでは少女まんがが「現実世界における恋の教科書」として機能している。
【4】 1990年代
 1991年,武内直子が『美少女戦士セーラームーン』の連載を開始。1993年には,CLAMP『魔法騎士レイアース』が連載開始。〈あざとさ〉が意識的に取り込まれる。あえて参考資料を挙げるなら,斎藤環『戦闘美少女の精神分析』(ISBN:4872335139)だろうか。
 なお,この地殻変動に際して,[名称未設定]に分類できそうな作家の少なくない数が,古巣の少女漫画誌から離れている(その受け皿となったのが〈大きなお友だち〉向け媒体)。新井葉月(1988年に中学生でデビュー)は,空白を挟んで『なかよし』から『コミックハイ!』へ。岡野史佳(1985年デビュー)は『LaLa』の看板作家だったが,いろいろあって『ガンガンパワード』と『月刊ホークス』へ。劇的なところでは,筆を断ってしまった野村あきこ(少し遅れて1991年のデビュー)。『なかよし』が変わってしまったイラ立ちを,救いの無い結末にぶつけて引退……。
倫敦館夜想曲 (講談社コミックスなかよし)

先行研究

 〈80年代少女まんが〉と〈ギャルゲー〉の接続について,与えられていた示唆は以下のようなもの。
 ササキバラ・ゴウが『傷つける性 団塊の世代からおたく世代へ――ギャルゲー的セクシャリティの起源』*2において提示したことをまとめると,概ね次のようになる。

 〈乙女ちっく少女まんが〉を読んだ男の子たちは,女の子キャラが〈内面〉を持つものであることを認識する。〈内面〉の存在に気づいた男の子は,自分の欲を発動させると〈ぼくの好きな女の子〉がそのせいで傷つく。男という性は〈傷つける性〉なのである。

 そして更科修一郎だが,2001年の時点で次のような発言をしていたようだ。

 30代後半の友人に A I R を説明した時、「『綿の国星』と『ポーの一族』を足して、乙女ちっく系を加えて煮詰めた感じの作品」と言ったら、妙に納得されてしまって、逆に困ったことがある。
http://www.cuteplus.flop.jp/works/column02.html 「2001=1978」

 1970年代の末期、主に少女まんがの表現として完成された、乙女ちっくな少女趣味=少女幻想は、当時の少女たちが、性的な自己主張を抑圧されていたが故に発展した特殊な表現だったのだけども、1980年代に入り、「少女」というイメージがメディアに曝され、世の男性たちにポルノグラフィな記号として消費されていった結果、少女たちはそのイメージを逆手に取り、欲望を直接的に表現する強さを身につけていく。
 しかし、少女まんがというフィールドに居場所を失ったはずの少女幻想は、男性向けのポルノメディア、特に、おたく男子の愛玩物として、美少女まんがや美少女ゲームという場所で、生き延びることになってしまった。
http://www.cuteplus.flop.jp/ncp/cpg16.html 「システム化された幻想に対する違和感と、誰かを思い出せない理由。」

 また『美少女ゲームの臨界点』(ISBN:4990217705)所収の 「『雫』の時代、青の時代。」にも次のような指摘がある。

 『To Heart』は,オタク的に先鋭化した[物語]たる『エヴァ』に対する保守反動(=1980年代ラブコメの正統な後継者)である。
 『Kanon』までの短い期間に,〈零落したマッチョイズム〉と〈少女幻想〉が融合した「乙女ちっくイデオロギーの楽園」が構築された。

 これらでは,呼び名の付いている〈乙女ちっく少女まんが〉が挙げられています。しかし,もし1980年代後期に現れた系統群に名称が与えられ分析が試みられていたのなら,構造的により近い《名称未設定のあれ》の方が参照されていたのではないだろうか? というのが,冒頭に掲げた拙稿の意図なん*3。
 なお,ヤマダトモコ「「萌え」と「乙女ちっく」のあいだにあるもの、あとからくるもの」*4が(マンガ研究側の視点として)私の問題関心と近い。「〈乙女ちっく〉からすこし遅れて,でもその定型を踏まえつつ登場した」作家として谷川史子を挙げているので(142頁)。


▼ 追記

#cubed-l 『この文脈で、葉鍵、とまとめてしまって良いんだろうか』

 あぅあぅ。痛いところを突かれました。正しくは「1990年代後期に隆盛を誇ったギャルゲー表現の特質」ですね(^^;)


▼ 関連

「萌えキャラ」みたいのの基礎付けとして参照される『美少女戦士セーラームーン』が講談社「なかよし」であることは大事だと思います。(中略)
「やおい」に傾倒してきた人たちは一橋系のマンガに影響を受けて育ってきたと明言してますし、実際、「24年組」も「乙女ちっく」も小学館、集英社、白泉社なわけで。
http://d.hatena.ne.jp/tdaidouji/20060220#p1

 言われてみれば〈一ツ橋系〉と〈音羽系〉におけるという対比の構図(作用‐反作用)で有効に語れそうですね。上記の文では野村あきこを半ば強引に押し込んでいるのですが,どうも不自然ですし。

*1:更科修一郎「『忘却の旋律』序論――からっぽの概念を忘却することなく、貫く矢を放つために」『「戦時下」のおたく』(ISBN:4048839292)149頁)

*2:『新現実 vol.2』(ISBN:4047213926)所収

*3:知らない人のために。これは〈阿梨さん語法〉なん。

*4:『ユリイカ』2006年1月号(ISBN:4791701429)所収