『テヅカ・イズ・デッド』の擁護文の2

この本で「キャラ/キャラクター」を要素としてクローズアップした理由は、第一に実際の作品の観察・実作上の経験*1に拠っている。マンガを構造として語ろうとした場合まずコマや吹き出しに目が行くけれども、ではコマが存在しない、もしくはコマ配列では説明できない手法はどう説明するかという必要性から、コマの枠組みを破壊するものとして登場人物の絵が、吹き出しを破壊するものとしてモノローグなどの言葉が見出される。とりあえず単純に考える分には学問研究なんだから実際に使われている手法から発見していくのが最も適切なので、これらの接続要素を「マンガ研究」に使用する分には全く問題ない。要するに主体性を持つかのように思われるモノ、もしくはその延長上のモノであるならコマを侵犯できるということ、そのように作品が成立するための手法や構造を侵犯できるほどに描写されるモノが主体性を獲得するためには受け手と送り手双方がコマ文法を既存のものとして受け取れるほど熟知していること、といった話。
で、物語てのは人間とシステムが組み合わさったものなので、絵でも文章でも音声でも何でも意味を見出せたならさらに人間を見出すことは可能です。人間が何割配分なのかは物語それぞれによるんじゃないかしら、と想像。だから物語を記述する上での「絵」を記号レベルにまで還元していくと「キャラ/キャラクター」になる、というのは原理的には別に問題ないと思われ。
なお、この場合

ちなみに夏目表現論では線とコマを最小要素とみなしていまして、線こそがマンガを特徴付ける基本要素であるというところまで還元しようとしたわけです。
id:laco:20060216:p1

のように言及されてる「描線」は全く別の軸となると思われ。個人的には「描線」と「枠線」の問題は質量を孕む/孕まない線というような形で映画で言うところの「光と影」のような話に発展してくれないかなあと希望する次第。スクリーントーンの話も入れて欲しいですしね。そうすると今度は「つながり」の対極の概念として図像性であるとか現前性であるとかの先に「ひろがり」の概念が見出されてきて、なんとなく上手いこといくんじゃないかな〜と。
 
あとは、「萌えキャラ」の件についてはササキバラ・ゴウ『〈美少女〉の現代史』のような形のアプローチでリアルタイムの変遷を追いかけていくしかないと思われます。『〈美少女〉の現代史』の整理も不満が残るんですが、P238のようにいきなり『MASTERキートン』と『ツバメしんどろ〜む』を並べるのは単に「マンガの領域はここまで幅がある」というだけの話になるな〜と。それに関連してid:genesis:20060217:p1の話とも重なりますが、「萌えキャラ」みたいのの基礎付けとして参照される『美少女戦士セーラームーン』が講談社「なかよし」であることは大事だと思います。
蜜の厨房で指摘されてますけど、「やおい」に傾倒してきた人たちは一ツ橋系のマンガに影響を受けて育ってきたと明言してます*2し、実際、「24年組」も「乙女ちっく」も小学館、集英社、白泉社なわけで。個人の観測ではアニメの『聖闘士星矢』の時間枠から『きんぎょ注意報!』『美少女戦士セーラームーン』と移っていった流れのほうが、萌えキャラの話をするのには向いてるんじゃないかと。

とりあえず、80年代末に東映動画が「魔法少女もの」を復活させて「アッコちゃん」や「サリーちゃん」をリメイクしたあたりで玩具屋さんの関心が少女方面を向きはじめ、「きんぎょ注意報!」で少女まんが的表現が拡張され、「セーラームーン」で大きな業界の波になって新番組が次々に現われ、やがて「ウテナ」あたりにまで至るのが、ひとつの大きな流れですから、これをじっくり再検証しているところ。けっこう大変。
http://homepage3.nifty.com/sasakibara/past2004.htm

私なんかは、このへんの検証本が出るのを待ってるわけですが。特に『ちびまる子ちゃん』のアノ「縦線」であるとか『きんぎょ注意報!』の「漫符を顔の外側(空中)に浮かせる手法」「極端なデフォルメキャラへの変身」であるとかが動画に輸入され(積極的に受け入れられ)たことは「感情表現が記号として身体から分離されキャラクターが表情変化や身振りの少ない(現実から参照されない)マネキンと化す」転換点だろうと勝手に思ってるので。
 
とりあえずここまでで終わります。

*1:P232など

*2:「BBSやおい夜話」参照のこと