小早川隆景 単語

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コバヤカワタカカゲ

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小早川隆景こばやかわ・たかかげ 1533年日未詳 - 1597年7月26日)とは、日本の国武将・戦国大名である。

人物概要は以下の通り。

 

生涯

父の駒として

文2年(1533年)に、毛利元就の3人息子として生を受ける。幼名は徳寿丸。
利発な性格で、容姿も端麗なイケメンだったとされる。その容姿が時の大大名だった大内義隆に止まり、長毛利隆元ともども2人は義アッー!な関係に(ry

毛利元就政治的布石として、次である吉川元春と共に他の養子となった。
小早川竹原)に養子として入り、同の有する地元軍勢力を取り込む。その後、分筋である小早川沼田)も統合して継承し、毛利力を徐々に安芸全体に浸透させていく。
この政争劇の裏で、田坂全慶を始めとする反毛利勢力の多くが粛清されていったわけだが、はこの時期(まだ10代!)から既に元就の謀略に動的に参画していたとされる。

の統率力と智謀は凄まじいものがあり、小早川軍勢力とこれに付随した情報網を束ね、毛利の重要な補となるまでに時間はかからなかった。1555年の厳島の戦い、続く1557年の防長経略、1560年代の尼子との戦いにいては元就の右腕として、最重要の役割を果たした。

元就の隠居、隆元督継承後は、世にも有名な「三本の矢」そして「毛利」の1人となる。隆元が急逝すると、隆元の一人息子(つまり甥)毛利輝元を当として補佐するにあたり、更にその立場を強めていく。

2年(1571年)に毛利元就が、75年の寿を全うして逝去。の遺志を継いで毛利の守成に従事していくことになるが、彼の人生の正念場は、むしろこれからと言えた。

 

両川の片翼として

創業者(正確には中の祖だが)である毛利元就が逝去し、守成の時代を迎えたはずの毛利だったが、そこに思わぬ強敵が現れる。織田信長であった。しかも間の悪いことに、織田信長と敵対した元将軍足利義昭が、1576年に毛利を頼って落ち延びてきてしまった。
更に悪いことは重なるもので、信長包囲網の中心的存在であった本願寺が、毛利に救援を要請してきたため、先の義昭の件も重なって、毛利はこれに応えざるを得なくなった。

織田信長と、その配下であった羽柴秀吉は、硬軟織り交ぜた様々な策略で毛利の力を削いでいった。
吉川元春ともども、両導力を遺憾なく発揮してこれに対抗するも、中央を押さえていた織田信長の勢いは凄まじく、盟友・上杉謙信の病死、第二次川口の戦い(1578年)、三木合戦(1580年)や鳥取における敗北1581年)などが重なり、毛利は徐々に劣勢となっていく。

正10年(1582年)には、ついに要衝である備中高松までもが織田軍(羽柴秀吉軍)に全に包囲され、攻めに遭ってしまう。この時点では、織田軍に単独で勝利する論見を捨てており、安国寺恵瓊を通じて織田と和交渉を図っていたとされる。
だが、その和は、意外な形で成立することになる。

本能寺の変により、織田信長が横死したのである。羽柴秀吉は停戦を受け入れた毛利軍をに、中国大返しを行って明智光秀を討ってしまう。
この時、の元は「秀吉を追撃すべき」としたが、秀吉を評価し、その天下統一を予見していたは追撃を却下したとされる。(これには異説もある。だが、この時の遣り取りと確執が元で、は元との仲を壊してしまったらしい。事実、元はこの直後に隠居し、秀吉距離をとった。)

 

豊臣政権下の実力者として

本能寺の変に伴う騒動の後、秀吉に接近し、四国攻め、九州征伐、小田原の役などに参加。その天下統一事業を積極的に支援し、毛利豊臣政権下の大大名(中国地方を中心とする8カ半、およそ1205000石)として守り通すことに成功したのである。
自身も、四国攻めの後は伊予を、そして九州征伐後には筑前を中心とする3カ、およそ37万石を有する大名として取り立てられる。だがは、これを「私を毛利から引き剥がそうという秀吉の謀略であり、その手には乗らない。領地は一時的に預かっておくのみ」として、領地は一度毛利本家に収めさせ、そこから改めて拝領するという形をとり、終生毛利一家臣としての立場を貫き通した。

だが、はその後も秀吉の野望に付き合わされる羽になる。彼の最後の戦いとなり、かつ寿命を縮める原因にもなったのが、朝鮮出兵こと文の役である。
立花宗茂島津義弘ら各地の傑達と共に、朝鮮・明軍と闘を繰り広げる。中でも有名なのが諦館の戦いであり、宇喜多秀家と共に最前線に立ち、数的優勢だった朝鮮・明軍を撃破する。だがそれまでの務が祟り、帰後、は病床にせることになる。

4年(1595年)、羽秀俊(後の小早川秀秋)に督を譲り、三原に隠居。2年後の慶長2年(1597年)に、まるで力を使い果たしたかのように逝去した。享年65。
死の少し前、同じく病を抱えていた異穂井田元清と「どちらが先に死ぬかな」と言葉を交わしていた。(結局はが先に逝ったが、元清もそのわずか1ヶ後に亡くなった。)

の遺言通り、毛利を守り通すために全人生げた。だが、そのの苦労が、跡を継いだ元によって危うく泡に帰しかけるのだが、それはまた別の話。

 

陪臣にして、直江小早川衛門監物杯は

下の仕置をするとも、仕兼間敷(しかねまじき)ものなりと、称誉せられけり。

豊臣秀吉       

晩年の豊臣秀吉が、臣達の中で下を任せられる人材はいるか、とかれた際に返した答え。

直江』は、直江兼続のこと。『監物』は、の名宰相と呼ばれた堀直政のこと。そして両者と並び称されているのが、『小早川衛門』こと小早川隆景である。
秀吉から羽筑前宰相、備後中納言などと呼ばれてその才覚をされ、そして同時に警されたという。

 

私の死後、豊前の黒田殿

が領地の中に休憩所を建てたいから土地を貸して欲しい」

と言ってきても、絶対に貸してはならない。

彼の言葉には、裏の意味が必ずあるからである。

が死ぬ少し前に、臣達に言い含めたとされる文言。

豊前の黒田殿、というのは秀吉の軍師として名高い黒田官兵衛のことである。は官兵衛と非常に仲が良かったとされ、互いを『切れ者』『賢人』と褒め称え合う仲だったが、同時に領地を接する仮想敵でもあった。
が死んだ際、官兵衛は「日本からは、これで賢人がいなくなった」と嘆いたと言われているが、これは称賛と同時に好敵手を失った哀惜も含めた物言いであろう。(は官兵衛のことを「殿は即断即決が多すぎる。後悔することが多いだろう」と評していた)

 

逸話色々

新形三十六怪撰における隆景

戦国時代と直接関連はないが、幕末から明治期にかけて描かれた妖怪浮世絵・伝奇物語である『新形三十六怪撰』(著:月岡芳年)に、なんと小早川隆景が主人公として登場する物語がある。それが、29話にあたる『小早川隆景と天狗問答の事』である。

この話を要約すると、このようになる。

朝鮮出兵を論む関白秀吉は、豊臣臣・小早川隆景に軍の大量建造を命じた。はこれに応じて豊前の山に赴き、造のための伐採を行おうとする。
山のの要請に難色を示すも、はこれを説得し、山への入山を許される。だがそこで、は様々な怪異に襲われるのだった。

そしてある晩、の元に大柄な山が姿を現した。山に向かって、「この山の木々は、千年以上も切られたことのない神木である。それを切り出し、軍に仕立てるとは何事か。下に名高き仁将である小早川隆景殿が、そのような非な行いをなさるとは信じられない」と言った。

対するは、山の異様な外見を見て即座に「これは天狗だな」と見抜いていた。そこでは怖じた様子も見せずに、「確かに、このが私利私欲のために神木を切るというのであれば、非難されても仕方がない。だがこれは天子様の代行である関白秀吉殿のご命であり、私はの命に従っているに過ぎない。そういう山殿こそ、たかが神木如きにこだわって儀を蔑ろにしているではないか。それこそが非に値しないのか」と切り返した。

対する山天狗)はに反論することができず、のように消え去ったという。

・・・天狗相手に説教をするとか、どこの高僧か仙人様ですか。

論、これは伝奇物語であり、架の話ではある。だが江戸時代を通じて、小早川隆景という人物が民衆の間でどのような評価を得て、どのように語り継がれていたのかが端的に判る話ではある。

(ちなみに、上の要約文は本来の内容をかなり端折っています。もっと詳しく知りたい人は「 天狗」でググってみて下さい。)

 

信長の野望における隆景

信長の野望」(PCシリーズにおける小早川隆景の力一覧。

元就に匹敵する知略と政治力を持ち、戦闘力も優秀で、まさに元就亡き後の毛利の守護神。また史実で毛利軍を統括した実績も評価されてか、軍適性が高い設定となっている。

軍事 内政
戦国群雄伝(S1) 戦闘 82 政治 88 魅力 89 野望 70
武将風雲録(S1) 戦闘 71 政治 86 魅力 83 野望 48 教養 79
覇王 采配 87 戦闘 75 智謀 79 政治 86 野望 48
天翔記 戦才 150(B) 智才 168(A) 政才 176(A) 魅力 90 野望 70
将星 戦闘 78 智謀 90 政治 92
烈風 采配 83 戦闘 63 智謀 88 政治 92
世記 采配 75 智謀 82 政治 83 野望 95
蒼天録 統率 76 知略 82 政治 84
下創世 統率 77 知略 81 政治 83 教養 72
革新 統率 87 武勇 76 知略 92 政治 94
統率 87 武勇 71 知略 92 政治 93
創造 統率 88 武勇 74 知略 95 政治 95
大志 統率 90 武勇 76 知略 95 内政 85 外政 92

戦国無双

無双シリーズでは長年モブキャラだったが、戦国無双4において念願のプレイヤーキャラとして参戦。
声優岡本寛志。(岡本氏も、戦国無双シリーズでは長年モブ担当だったが、PC昇格に伴いめでたくキャラ担当となった)

ビジュアルは史実通りのイケメン設定(甲斐姫から「ふんわり色男」と評される)となっており、色い頭髪をツンツンヘアーにしている。(どことなく、銀河英雄伝説ヤン・ウェンリーの後継者的な位置に立った某キャラクターexitを彷彿とさせる印元就がヤンをイメージしているからか?)
性格は非常に穏和で、父親である元就には論、下の者や敵方の人間にすら敬語や丁寧語で接するほど生である。常に一歩引いた姿勢で物事に接する謙虚な性格だが、織田信長の苛な侵攻には怒りと嫌悪感を隠さない。読書で、元就の冗長な作品も好んで読んでいる。なぞなぞ問答)が趣味。(文字であり、本を常に持っていないと発作を起こしてしまう、ある意味困った人。)

武器は、ファンタジックなデザインと、振る度にページが弾け飛んで敵を吹き飛ばしたり、流を発生させたり、爆発したりするの本。 と本を交互に振り回して攻撃する他、無双技ではの弾を召喚したり、本そのものを放り投げて大きな竜巻を発生させるなど、攻撃手段もやけにファンタジック。

無双演武では、前半(中国の章)が元就、後半(天下統一の章)は黒田官兵衛との交流が軸となっている。元就との交流は、子関係よりも従(君と参謀)関係に焦点があてられており、元就作戦の大まかな部分を策定し、が細かい部分を補フォローするという流れになっている。
兵衛とは当初は敵対しながらも、心の底に秘めた「優しさ」を互いに感じ取り、後に友誼を結ぶ。官兵衛からは、明言こそされないものの竹中半兵衛に似ていると評されている。

史実では朝鮮出兵の後間もなくしているためか、豊臣秀吉による天下統一後は一切登場しない。このため、ファンからは「影が薄い」「ビジュアルの割に空気」などと言われている。今後の活躍に期待、である。

戦国大戦

『失う覚悟がなければ、何かを得ることはできません』

2.5コスト足軽、武力はやや低めの7だが統率は10、さらに統率を生かせる兵と焙烙を備、そして魅力。
智将っぽいインテリの外見に眼鏡が似合っている。CV:中村悠一

計略は「彗矢の眼」。視線のような自分前方に細長い形で、範囲内の武将は敵味方関係なく武力・統率ともに減する。統率差でダメージが決定する焙烙をぶち込めば、最悪相手は死ぬ
とはいえ範囲そのものは広くなく、自分前方に展開するのでちょくちょく方向を動かさなければならず、動かしているとが撃てないという別問題はあるのだが。後自分のん前は判定がない。

『見せてやろう。小早川が、毛利の頭たる所以を』

Ver2.0で元共々レアリティレアに下がったが2枚が登場した。現在焙烙持ちで一の軽騎隊である。

計略は「焙烙・零式」。ホウロクゼロスタイル
自分の統率が上がり焙烙玉の弾数が回復し、更に焙烙範囲が広がる。
ただし射程距離が短くなり、着弾が非常に遅くなる。通常なら大体着弾までに4弱だが、これを使うと10近くかかってしまう。相手が向かって来ざるを得ないこちらリード時の最後の攻防や、味方攻や筒防衛時に弾幕として投げる事で相手の攻めを牽制するのが的となる。の統率は高いので脳筋達はまともに食らえば兵力半分以上持っていかれ戦闘不能まである。

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