「穂井田元清」(ほいだ・もときよ 1551年~1597年8月21日)とは、戦国時代中期から安土桃山時代にかけて活躍した戦国武将。
概要は以下の通り。
1551年(天文20年)に、元就の側室・乃美大方の初の男児として生を受ける。既に兄達は成人しており、父である元就も老境(当時55歳)であった。
この4年後の1555年(弘治元年)に、毛利家は運命の厳島合戦を迎えることになるが、まだ幼児だった元清には遠い世界の出来事であった。
元清は1566年(永禄6年)に元服するが、この時に加冠の儀式を執り行ったのは、甥の輝元だった。長兄である隆元は、既に没していたのである。
元服後は三兄の小早川隆景に預けられ、主に瀬戸内海と山陽道の経略に従事する。他にも北九州の大友家や備前の宇喜多家など、様々な方面に従軍して備中松山城を攻略するなど、実戦経験を積んでいった。その活躍ぶりを聞いた元就は、側室の息子ではありながらも感動を禁じ得なかったという。(元就は、元清を始めとする側室の息子達を疎略に扱っていた。理由は後述する。)
1571年(元亀2年)に父・元就が没すると、毛利家は織田信長の中国攻めや大友家の反撃など、様々な苦難に晒されることになるが、元清は兄達と共に各地で奮戦し、毛利家の守護に努めた。(この間に、元清は備中国の豪族である穂井田元佑の名跡を継ぎ、穂井田姓を名乗った。)
やがて織田信長が本能寺で死亡し、豊臣秀吉の天下になると、毛利家は秀吉に服属する。元清は直属の上司でもある兄・隆景の下で、四国攻めや九州征伐、朝鮮出兵などに従軍した。(特に朝鮮出兵では、病床にあった毛利輝元の代理として、毛利軍の総大将となった時期があった。)
長男の秀元や兄の隆景、当主の輝元など、多くの毛利一族がそうなったように、元清もまた朝鮮出兵の過酷な軍務と劣悪な食糧・衛生事情によって病に倒れてしまう。帰国後も病状は回復することなく、元清は1597年(慶長2年)に逝去した。享年47歳。
一説では、18歳も年齢の離れた兄・隆景と「どちらが先に死ぬだろうか」と賭け事のようなことをしていたという。結局、先に世を去ったのは隆景だったが、元清が死んだのはそのわずか1ヶ月後だった。誰も報われず、喜ぶ者のいない、無意味な賭けであった。
ぶっちゃけ、あの猿関白のせいで若死にしry
元清が生前に、長男の毛利秀元に向かって言ったとされる言葉の1つ。ここでいう黄梅院様とは、終生にかけて付き従った三兄・小早川隆景のことである。
元清が隆景に寄せた信頼の程は絶大なもので、彼にとっては父親代わりの存在だったのだろう。(そもそも、実父の元就も、元清の訓育は三兄弟達に任せようとしていたらしい。)
毛利元就の四男として生を受けた元清だったが、実父である元就とは疎遠だった。元就からの扱いの悪さと疎略さは、彼が三兄弟に宛てて書いた『三子教訓状』の中の文言にも明確に現れている。
側室達が何人か産んでくれた、虫けらのような子供達がいる。
もしこやつらが賢く、有能であったならば遠方に置くも良し、好きにしてくれて構わない。
大抵は、間抜けで無能であるだろうが。
・・・それが、これである。
無関係の第三者が見ても、なんとも腹の立つ文言が書き連ねてある。愚痴っぽくはあるが、血族や家臣達への書状や文書には細心の注意を払って、自ら筆を滑らせていた元就らしからぬ酷い言い様である。だが、これには当時の毛利家が抱えていた、特有の事情があった。
先述の通り、元清が生を受けた1551年には、元就は既に50代という節目を迎えていた。また周辺は、大内家の内乱や尼子家の勢力伸長、大友家の不気味な蠢動など、きな臭さが増しつつあった。そういった情勢を鑑みて、嫌が応にも次代のことを考えなければならなかったのである。
事此処に至って、元就は側室の生んだ幼い子供達の訓育に関しては、先に生まれた正室の子供達・・・すなわち三兄弟に任せることにした。やがて老い逝く自分よりも、まだ若い息子達の方が、より時代に即した教育と訓練が施せる。そう判断した上で、元就は元清達を、意図的に冷遇することにしたのである。(また、血族支配を前面に出していた毛利家の体制上、正室の息子達と側室の息子達を明確に分ける必要もあった。)
また元就は長男・隆元のように、息子達が自分に依存しすぎることを避けたものと思われる。そうすることで毛利家の世代交代をスムーズに行い、次代に繋げることを狙った。元就が疎略に扱ったのは元清達ではなく、己自身だったのである。(だが、元就が時代に遺した影響力は、自身が思った以上に大きかった。詳しくは当該項目を参照されたし。)
時代は移り、父・元就、長兄・隆元、次兄・元春が世を去ると、毛利家は当主・毛利輝元と三兄・小早川隆景の二頭体制となる。その中で元清は隆景の腹心として活躍し、毛利家の新たな本城である広島城とその城下町の普請奉行を任された。(補佐していたのが、元就の隠し子の二宮就辰である。)
また、当主の輝元が男子に恵まれなかったため、元清の長男である秀元が養子として、本家の後継者となる栄誉にも与れた。(実のところ、秀元の本家入りは、豊臣秀吉が毛利家を懐柔すべく講じた羽柴秀俊=小早川秀秋の養嗣子戦略を撥ねつけるためだった。後に輝元には実子・秀就が生まれたため、秀元は分家を立てた。)
吉川家や小早川家が独立大名に近い形で格上げされていく中、元清はあくまでも毛利家の一家臣として輝元に仕え続けた。晩年になるまで『年寄衆』として毛利家中に残り、独自の領地を拝領することはなかった。
やがて元清が没すると、毛利家は関ヶ原の戦いを迎える。だが毛利両川は既に亡く、当主・輝元の指導力も皆無な毛利家は、家中分裂により敗軍のレッテルを貼られてしまった。
もし元清が存命ならば、間違いなく関ヶ原の戦いへの毛利家の積極的関与もなければ、輝元が西軍の総大将となることもなかっただろう。
結局、毛利家は元就達が50年以上もかけて手にした版図を、半分以下に減らされてしまう。だがその後、毛利家は新たな両川体制(吉川元春の三男・広家と、元清の長男・秀元)によって長州藩の基礎を造り上げた。
『三本の矢』の逸話がある毛利三兄弟と比べて、地味な扱いを受けることの多い彼だが、その功績はまさに隠された『四本目の矢』に相応しいと言える。
「信長の野望」(PC)シリーズにおける穂井田元清の能力一覧。
シリーズ初期はやや凡庸だったが、近年は再評価されてきており能力も上昇傾向にある。特に天道では統率が80代に上昇。更に創造では知略も80代に上がり、優秀な知将として使えるようになった。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | 61 | 政治 | 40 | 魅力 | 80 | 野望 | 48 | ||||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||||
覇王伝 | 采配 | 75 | 戦闘 | 64 | 智謀 | 43 | 政治 | 40 | 野望 | 47 | ||||||
天翔記 | 戦才 | 130(B) | 智才 | 88(B) | 政才 | 128(B) | 魅力 | 76 | 野望 | 64 | ||||||
将星録 | 戦闘 | 61 | 智謀 | 49 | 政治 | 64 | ||||||||||
烈風伝 | 采配 | 73 | 戦闘 | 61 | 智謀 | 44 | 政治 | 57 | ||||||||
嵐世記 | 采配 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||||||
蒼天録 | 統率 | 54 | 知略 | 48 | 政治 | 49 | ||||||||||
天下創世 | 統率 | 55 | 知略 | 45 | 政治 | 50 | 教養 | 49 | ||||||||
革新 | 統率 | 71 | 武勇 | 66 | 知略 | 53 | 政治 | 56 | ||||||||
天道 | 統率 | 81 | 武勇 | 66 | 知略 | 70 | 政治 | 63 | ||||||||
創造 | 統率 | 80 | 武勇 | 64 | 知略 | 81 | 政治 | 65 | ||||||||
大志 | 統率 | 81 | 武勇 | 82 | 知略 | 85 | 内政 | 64 | 外政 | 74 |
Ver1.2毛利家に参戦。毛利家では数少ない気合持ちの武力の高い槍足軽である。
計略の「四つ矢の闘志」は、自分が静止している時に限り徐々に武力と槍の長さが上がっていくもの。
Ver1.2までは大筒が戦場に一つだけだったので筒の上で待機することで大筒戦に有効だった。
しかしVer2.0になったら大筒が敵味方で1つずつになったのでその意義での計略有効度は下がった。効果時間は長いので相手がラインを完全に下げ切った時やリードして敵が押し寄せてくる時に先に使っておくことで牽制としての意味はある。
とはいえ毛利家は全体的に力で押す計略や武力に乏しく、今一元清の存在が噛み合っていないのが現状。
Ver2.1以降は武力上昇間隔の縮小や効果時間の延長が続き、相変わらず速攻性の無さが難点ではあるものの、上記から読み取れるような残念な計略からは脱した。
5~7cも溜めれば並みの采配くらいは単騎で蹴散らせるほどの武力になり、加えて驚異的な長さの槍足軽っぽい何かが誕生する。
その特性上超絶騎馬に対しては驚異的な牽制力を発揮し、適当に槍を振り回してるだけで迎撃が取れてしまうという騎馬殺しっぷり。
しかもその状態から10c以上も効果が続く為、相手の騎馬は近づく事すらできず、乱戦しようものなら超高武力で溶かされると、元清のライン上げをただ静観するしかやる事が無くなってしまう。
なお計略発動時の台詞の最後が「矢だー」と伸ばすので「ヤダー!」の通称がついている。
掲示板
15 ななしのよっしん
2022/11/06(日) 04:36:13 ID: LdAWH85j51
今の時代ですら、相続で「あれだけ仲の良かった兄弟が…」ってケース多いからな
領地から上がってくる収入が全てだった当時ならなおさらだ
16 ななしのよっしん
2023/11/25(土) 12:23:14 ID: SoPkLImrNJ
現に元清の息子の拝領先問題で…(白目)
長府と岩国と本家長州で内側で暗闘するようになってしまった折れた三本の矢… 血が薄まれば絆も薄くなるということか
17 ななしのよっしん
2024/01/25(木) 09:29:45 ID: LdAWH85j51
似たようなケースだと、島津四兄弟は上の3人が継室の子だけど家久だけ家格の低い側室の子だったから、家中ではオミソ扱いされてる
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最終更新:2024/12/25(水) 01:00
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