1571年、安芸の一国人から日本屈指の戦国大名にのし上がる波瀾万丈の生涯をやり通した毛利元就は病床についていた。そんな中、元就は三人の息子を枕元に呼び寄せ、所持していた矢を一本折ってみせた後、三本まとめて折ろうとするがどうにもうまく行かなかった。
その後、元就は「一本の矢は容易く折れてしまうが、3本まとまれば容易には折れない。だから兄弟よく結束して毛利家を守れ」と告げた、三人の息子たちはこの教えを護ることを固く誓った。
……というのが一番良く知られているあらましである、毛利元就という人物を説明する上で一番良く使われているといっていい話であり、我が国でも有数の知名度を誇る説話である。
――だが、実際の所、史実にこのような話があったかというと議論がある。
そもそも、毛利元就の三人の子どもといえば長兄毛利隆元、次男吉川元春、三男小早川隆景であるが、長男の隆元はとっくの昔(1563年)に亡くなっており、次男の元春は尼子の残党・山中幸盛と戦うべく出雲に出陣しておりそれどころではなかった。元就臨終は隆景が看取ったというのが通説である。
この話は元々三子教訓状などの一次資料には存在せず、元文年間(1735~1741)にかかれたとされる『前橋家旧蔵聞書』が典拠となっているのだが、これには毛利元就のたくさんの子ども(元就逝去時に子は11人、孫まで含めると20人以上と更に多くなる)を前にして、それと同じ数の矢(束矢)を用いて結束を説いたとされている。
そこから明治初期まではそのように流布していたが、明治20年頃から概要の三人の子どもとする話が増え始め、大正には子どもが誰なのかも固定されはじめ、昭和に入るとほぼ現在知られている形に固定されたという変遷をたどっている。現在の道徳に相当する「修身」にも三子教訓状のそれと合わせてこの話が教科書に掲載されている。この構図は高名な明治初期の儒学者である元田永孚が『幼学綱要』という教科書の中で一つのパターンとして定着させたと言われている(ただし先述の通り今際の際ではあっても、多くの子どもの前で説くという構図になっている)。
元就自身が著した『三子教訓状』には、厳島の戦いを終えたばかりの1557年頃にかかれたものであるため確かに、三人の子どもに結束を説いている。しかし、その中に三本の矢に比定できる話はない。ちなみにこれはうざったいくらいにくどくどと父親の愛のムチの如く説教文が書き連ねてある為、書いてあってもよさそうなものである。大正時代までこの書状は門外不出で、一般にその内容はほとんど知られていなかった。その為、内容の類似性からいつの間にかこれが元ネタであると流布されるようになったが、それは誤りなのである。
世界に目を向けてみると、イソップ物語に『棒の話』という矢を棒に変えたような類似の説話がある。また、初唐に書かれた史書『隋書』の吐谷渾伝にはその首長である阿豺が死の床で自らの20人の子どもを一本ずつの矢を持たせて呼び寄せ、元就の説話と同じく最初は代表して弟に一本の矢を折らせるのだが、次にその子から集めた19本の矢を一気に折らせようとした。当然これは折れるはずがないので、同じような流れで子孫間の結束を説いたという話がある。
毛利元就は博識であることも知られているため、これらの話を基に子らへとかなかったと言い切ることもできない。そのため、完全に架空とは言い切れないことは留意する必要があるだろう。
さすがに我が国でも有数に名が知られている説話であるため、無数に存在する。そのため記事が存在するものに絞って取り上げる。
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最終更新:2024/12/25(水) 01:00
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