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歴史好きな方に質問です。 最近 、歴史が面白いかもって感じるのですが、どういうところが好きなのかうまく 言語化ができません。 私なんぞは武田信玄があのタイミングで亡くならなければ徳川家康の時代が来なかったのではないかとか、本能寺の変 顔もし起きなければどうなっていたのかな などの if を考えることが好きです。あと 歴史上の人物の顔や声を 知りたく現代の技術で再現できないのかなや、おそらく 本能寺の変で灰になってしまっている超ミクロ 単位の信長が京都に眠っているのではないか、旅行に行けば恐れ多くも その信長の上を歩いてしまっているのではないかなど学のないことしか思いつきません。もっとまともな理由で 歴史好きを名のりたいです。 生粋の歴史好きの方々は歴史のどのあたりをどのように考えご自身を 歴史好きと認識されていますか?

補足

「本能寺の変がもし起きなければ」です。読みにくく申し訳ありません。

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回答(8件)

過去に「通説」とか「定説」と呼ばれていたものが、歴史学者諸氏の研究成果によって、私たちが高校の「日本史」で習っていた教科書の内容が、古代から幕末・明治という分類で全部で70件も書き直しされているという点です。

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歴史に触れる機会が多くなると、「歴史if」よりも「なぜそれが起きてしまったのか?」と考えることが面白くなってくると思います。 例えば、「もし今川義元が桶狭間で討たれていなかったら、その後の信長はどうなっていたか?」よりも、「なぜ今川義元は討たれてしまったのか?」を考える、ということです。 桶狭間の戦いは、古くからある信長の「迂回奇襲説」に対し、近年では「正面攻撃説」が有力視されていますが、果たしてどちらが正しいのか? また、そもそも義元はなぜ信長を攻めたのか?これも、古くは「上洛説」が主流でしたが、近年では単なる「領土拡大説」にシフトしてきています。 また、その各説にしても、それを唱えている歴史学者や歴史研究者各氏で、「どのように主張が違うのか?」「何を根拠に主張しているのか?」「この人の言っている事は本当に正しいのか?」など、どんどん深みに嵌まっていきます。 歴史は出来事や起こった事象の積み重ねです。「もし○○だったら」と想像の翼を伸ばすのも歴史の楽しみ方ではありますが、「なぜそれが起きたのか?」「それが後世にどのように影響したのか?」の方がより楽しく感じられるようになったら、「あっ、自分も歴史が好きになっているのかな」と自覚できるかもしれません。 価値観や楽しみ方は人それぞれなので、「歴史if」を否定するつもりはありませんが、「今まで○○だと思っていたものが、実は□□だった」という新しい知識が増えていく喜びを感じて頂けると、私のような歴史好きの端くれとしても嬉しいなぁ、と思います。

立派な歴史好きですね! 私は歴史好きって、「時間旅行を楽しむ人」だと思っています。 昔ここで歴史的人物が歩いていたかもしれない…そう感じたら、過去が一気に「今」とリンクします。私の家族はそういう体験が元で史学部に入りましたよ。 物語性に重きを置くのか、実証的な部分に目を向けるのか、好みはそれぞれです。学者であれば証明は大切ですが、仮定がなければ実証にも繋がらないので、何があったかの物語性の想像力も必要です。 ましてや単なる歴史好きなら、どのように楽しんでも構いません。先日某webのカルチャーセンターで「歴史作家」と称する人の講座を受けましたが、現状ではかなり眉唾な論理をさも規定事実(史実)のように語ってましたよ。 小説ではない、実証を試みてるような類の歴史本で、「空想」がかなり入っているものは多いです(古代史は特に)。もちろんそれを楽しめればそれもありです。 なので、アマチュアの「歴史好き」に定義なんて必要ありません。好きな方法で好きな道を楽しんでください。

if を考えることが好きです。 ⇒歴史物語が好きですね。歴史好きではないです。 歴史は必然を分析するだけです、その分析が好きな人が歴史好きです。でもつまらないです。 歴史物語は創作なので面白いです。 顕著に差が出るのが坂本龍馬です ・歴史物語好きには大英雄 ・歴史好きには実績不明で居ても居なくても良い人、必然に無関係だから。 自分は後者なので歴史好きです。幕末の大英雄は横井小楠と小松帯刀です。小説主人公の坂本龍馬の実績になっています。 幸い両人には多くの実史料が残っているので面白いです。福井図書館と東大に多く残っています。

そうですね、自分の場合、学校で習ったり、世の通説で当たり前と思うことでも調べると矛盾だらけなところです。 たとえば、当時多くの人の関心を集めたはずの千利休の切腹ですが、場所は京という記録と堺という記録があります。どちらが本当でしょうか。本当に3000人もの毛利兵が屋敷を取り囲んだのでしょうか。 幕末でも日単位で人の動きがわかってくると、ちょっとおかしいんじゃないの?という部分が出てきます。 そういうところに魅力を感じています。