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一橋慶喜は、自分に家臣団がいなかったから 水戸や、会津、兄の鳥取池田家から 支援を得たのか、 実家の水戸藩や兄が藩主をやってる鳥取藩や、 会津藩を京都守護職にしたのか、

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回答(1件)

当時は家単位です。 一橋の時代は数人の一橋家の家臣しかいません。水戸藩や他の藩の家臣を借りる形になります。 徳川宗家の家主の徳川慶喜になれば徳川宗家の家臣がそのママ徳川慶喜の家臣になります。昔から慶喜の家臣だった人も身分としては徳川宗家の家臣に移籍した事になります。 京都守護職などにするのは将軍職、将軍補佐職としての権限です。 慶喜が徳川宗家の家主になった時点で兄とは立場が逆転します。兄が慶喜の家来になります。 全て家・家柄が基準で上下関係・主従関係が決まるのが江戸時代の制度です、領地を介在するので封建制度と言います。 明治時代には慶喜は明治天皇の嫁さん繋がりの義兄になります。会談時にはお互いに敬語で会話したと伝わります。慶喜は天皇の臣民(家来)と義兄と言う2つの立場だったからです。

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