もしも古河公方か小弓公方の足利氏にとても優秀な人間が生まれていたら、独立した戦国大名として生き残れたでしょうか?当時関東公方がどういう立場だったのか詳しくないのですが、みなさんの予想を教えてください

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室町時代の関東には、堀越公方と古河公方が並立していた時期がありました。 室町時代において、伊豆を含む関東10カ国は、幕府を開いた足利尊氏の子基氏が鎌倉に下向して以来、その後裔が鎌倉公方として支配にあたっていました。 しかし、6代鎌倉公方の足利成氏が、8代将軍足利義政と対立しました。 義政は、庶兄の足利政知を正統な鎌倉公方として鎌倉に派遣しますが、政知は混乱した鎌倉に入ることが出来ませんでした。 そこで、伊豆の堀越に御所を構えたために「堀越公方」と呼ばれ、一方の鎌倉を追われた成氏も下総古河に本拠を置いたことから「古河公方」と呼ばれます。 そして、延徳三(1491)年、「堀越公方」の政知が病没すると、政知によって廃嫡されていた長男茶々丸が、異母弟の潤童子とその生母円満院を殺害して、事実上の2代「堀越公方」となりました。 この時、潤童子の同母兄である清晃は出家して京都の天龍寺香厳院にいたことから無事でした。 明応二(1493)年四月、京都では細川政元が10代将軍足利義材(義稙)を追放して、そして清晃を還俗させて、11代足利義澄として擁立しました。 この後、北条早雲こと伊勢宗瑞が登場して、11代足利義澄の命令で「堀越公方」という敵討ちに向かいました。 北条早雲こと伊勢宗瑞が、戦国時代に活躍した後北条家の始祖になりました。

現時点では、一次史料上では「北条早雲」は一度も「北条」とは名乗ってはいません。 そこで、高校の「日本史」の教科書では、『北条早雲は伊豆侵攻し足利茶々丸を討ったが、これは下剋上であった』から『北条早雲の伊豆侵攻は幕府による許諾を得たものだった』と書き直され、さらに『北条早雲とのみ呼称』から『北条早雲と伊勢宗瑞が併記』されました。 「早雲」は「早雲庵」から採られていて、一般的には法名の「宗瑞」が採用され、現在では「伊勢宗瑞」とされています。 永正三(1506)年九月二十一日付小笠原左衛門佐宛宗瑞書状という一次史料(手紙)が神奈川県足柄下郡箱根町の早雲寺に現存しています。 宛先の「小笠原左衛門佐」は「小笠原家基」になり、「宗瑞」今橋城の牧野古白を攻める際の援軍要請状になります。

優秀な人間は、農民・または足軽の子レベルからでも天下人になります。 優秀さと運、どれだけ長生きできるかですが、世界制覇もありえるでしょうし、早々に死んで終わりということも。